映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第十九回 新しさを標榜する「直接民主主義的」な実験は古い想像力へと帰着する
 『ポール・ヴァーホーヴェン/トリック』

©2012 FCCE All rights reserved.

『ポール・ヴァーホーヴェン/トリック』 Tricked
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
2012 / 89分 
配給:アット エンタテインメント
  シネ・リーブル梅田にて
3月29日(土)より公開

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 有能な仕事ぶりを評価されたヨーロッパの映画作家が、やがてさまざまな事情からハリウッドに渡り、一定の業績を残しながらも、商業主義に染まった彼の地での映画産業のあり方に深い幻滅をおぼえ、ヨーロッパに戻ってより小さな規模での個人的な映画づくりに再び向かう――。フリッツ・ラングにジャン・ルノワール、さらにはヴィム・ヴェンダースやイエジー・スコリモフスキに至るまで、映画史はそのような事例で満たされている。このとき、相対的に弱い立場にある作家の側につき、個を抑圧するものとしてアメリカ映画の法外な商業主義を批判するか、それとも作家個人の見解に逆らってでも、個をはるかに超えうるアメリカ映画の可能性を肯定する側につくかは、たんなる趣味嗜好を超えた政治と倫理の問題なのだが、ここでこの点に深入りすることは差し控える。ともかくも今、またしても、ハリウッドで華々しい成功をおさめながら、あそこでは馬鹿げた題材しか撮らせてもらえなかったと嘆く一人の映画作家が、老境を迎えて故郷のオランダに舞い戻り、野心的でそのうえ安上がりでもある新たな実験に挑む。

 作家の名はポール・ヴァーホーヴェン。『ロボコップ』(1987)に『トータル・リコール』(1990)、はたまた『氷の微笑』(1992)に『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997)といったハリウッドでの彼の仕事を、最終的にどう評価するかについては、いまだ意見の分かれるところだろう。ただ、異郷にあって押しつけられた理想や美徳を自分では少しも信じていないシニシズムが、オランダ時代にも見られなかった独特の屈折した魅力をもたらしていたことは確かである。それゆえ、ハリウッドにも負けない巨額の製作費を注ぎこんだ帰国後第1作『ブラックブック』(2006)で彼がようやく手にした創造的自由が、映画にとって本当に望ましい結果を生んでいたかどうか疑わしく思ってもいたのだが、その意味で、6年ぶりとなる新作『ポール・ヴァーホーヴェン/トリック』の打って変わった「小ささ」は、真にヴァーホーヴェンの〈ハリウッド以後〉を見る者に期待させるものだといってよい。

 事実、『トリック』は小さな映画である。製作費は見るからに抑えられており、国際的なスターは出演しておらず、正味の上映時間は60分にも満たない。そのため、本篇の前にメイキングを追加した2部構成で劇場にかけられるのだが(それでも89分)、この映画を《未体験ゾーンの映画たち2014》という上映企画に滑りこませ、本作を劇場公開した数少ない国々の列に日本を加えた関係者の努力は、外国映画の上映環境が昨今急激に貧しくなっていることを思うとき、大いに評価されてしかるべきである。

 とはいえ、それじたいとしてはスクリーンで見るようなものではないメイキング・ドキュメンタリーを前もって延々と見せられ、ヴァーホーヴェン本人の顔と弁明とを嫌というほど刷りこまれたうえでやっと本篇が始まるという形態は、普通とはいえまい。この映画が標榜する新しさがあらわれているのは、何よりもここなのである。つまり、『トリック』で新しいとされているのは、内容というよりも、映画が製作されたプロセスそのものなのだ。それは次のようなものだったとされている。まず、プロの脚本家が書いた5分足らずの導入部だけを公開する。この時点で話の続きはまったく決められておらず、その後の展開は一般から募集した脚本に委ねられる。この手続きを何度か繰り返し、作り手も誰一人先が読めない状態で数分ずつ撮り足していった結果が『トリック』本篇なのだ。プレス資料が誇らしげに謳っているとおり、「このソーシャル・メディア時代」に相応しい「初のユーザー生成映画」、「クラウドソーシングによるユニークな映画製作」というわけである。さらに進んで、今日的なメディアを活用しての「直接民主主義的」な参加を観客に促す、新しい映画づくりの実験と呼ぶこともできるだろう。

 ところが、威勢よく幕を開けた実験は、前半のメイキングが始まって間もない段階で、早くも雲行きが怪しくなる。想像していたよりもこれははるかに骨の折れる仕事だと監督が愚痴をこぼしはじめるように、公募で寄せられた脚本はいずれも経験豊かな監督の眼鏡にかなうものではない。仕方がないのでそれらから使えそうな箇所を抜き出して、継ぎ接ぎしながら自分たちで続きを書くことにするものの、厖大な量の応募作に目を通す作業は、それだけで監督を疲弊させるに充分である。当初の企画意図としては、出演者も一般から募集し、あわよくばそのなかから新しいスターを発掘するつもりでいたようだが、そんな余裕が現場にあるはずもなく、結局キャストはプロの俳優で固められる。万事がそんな調子なのだから、残念ながら実験は看板倒れに終わったと断じざるをえない。

 

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 もちろん、重要なのは完成した映画がおもしろいかどうかである。企画の性格上、物語の詳細をここで明かしてしまうことは慎みたいのだが、結論からいって、どうにか完成に漕ぎつけた『トリック』の本篇は、めっぽうおもしろい。現場の余裕のなさゆえに、とにもかくにも映画を無事にエンドマークまでたどりつかせることだけに作家の全技量が傾けられており、結果として純然たるストーリーテリングの快楽が一瞬の緩みもなく画面を活気づけつづける。皮肉にも、新しい「直接民主主義的」な観客参加の実験は、強権的な作家の手に簒奪されたうえで、幅広い層の観客に開かれた、最良の意味で「普通におもしろい」映画を産み落としたことになる。実際、ヴァーホーヴェンの映画がこれほどの良質な大衆性を持ちえるとは、誰も予想できなかっただろう。

 それにしても、巨大企業の経営者一族をめぐって家庭と会社の両方でさまざまな欲望が入り乱れ、大袈裟な権謀術数が巡らされるこの映画の物語は、まさにソープオペラ的な通俗性に満ちており、そこに新しさはいささかも認められない。それどころか、これはわれわれがメロドラマと呼びならわしてきたものと寸分も違わないというべきである。新しさを標榜する現代の「直接民主主義的」な実験が、かくも古い想像力に帰着するとはどうしたことだろうか。

 おそらく、そうではないのだ。メロドラマがブルジョア革命とともに生まれた歴史的な発明品であったことを思うなら、現代的な「民主主義」の試みであるからこそ、それはメロドラマ的なものに帰着するのである。超越的な価値と規範が瓦解し、いっさいが気まぐれな偶然の戯れのなかに投げこまれるとともに、社会においてメロドラマ的なものが支配的となる。そもそも『トリック』の実験は、製作者たちが主張するほど新しいものだっただろうか。それこそテレビのソープオペラなどは、先の展開も定かではないうちに放映が開始され、視聴者の反応を取りこみながら製作が続けられていく。そのなかで当初の設定がいつの間にか変更されたり、人物の性格が一変したりすることもざらである。ときには視聴者の轟々たる非難の声を受けて、作り手の側が大幅な妥協を強いられることもあるだろう。映画においても、程度の差はあれ、本質的なところで事情が異なるわけではない。近代の民主主義にあって、あらゆる政治家が選挙という有権者の審判に絶えずさらされているように(同じ論理によって、選挙で選ばれたのだから多少の横暴は許されるはずだ、嫌なら次の選挙で落とせばよいとする「委任独裁」にも根拠があたえられる)、近代的な大衆性に支えられたすべての創造行為は、もともと「ユーザー生成」的で、「クラウドソーシング」的である。それは、われわれにとってそこから抜け出すことなどいまだ思いもよらないような、古くて新しい、あまりにも馴染みぶかい自然な眺めにすぎない。

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