映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第二十一回 〈必要〉が生んだ無自覚な変幻自在ぶりの好ましさ
 『ダラス・バイヤーズクラブ』

『ダラス・バイヤーズクラブ』 Dallas Buyers Club
全国ロードショー中
監督:ジャン=マルク・バレ
2013 / 117分 配給:ファインフィルムズ

© 2013 Dallas Buyers Club, LLC. All Right

 マシュー・マコノヒーがノリにノっている。かつての『アミスタッド』(1997)は確かに悪くなかった気がするし、傑作でもなんでもないのにアメリカ映画好きの心を大いにくすぐったビル・パクストンの監督作『フレイルティー 妄執』(2002)のことを忘れたわけでもない。とはいえ、際立った個性を欠き、若手白人男優として唯一無二とはとてもいかなかった彼が、四十の坂を越えてから何がきっかけなのかもよくわからない復活を遂げ、あれよあれよという間に引っ張りだこの活躍を見せるようになるとは誰が予想しただろう。出演本数の多さもさることながら、その中身に目をみはる。この欄でも短く言及したことがある『ペーパーボーイ 真夏の引力』(2012)以降は、引退を宣言してからすっかり不快さが消えたソダーバーグによる『マジック・マイク』(2012)といい、何かが吹っ切れたとしか思えないスコセッシによる『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013)といい、注目作ばかりに重要な役で出演して、作品の質を上げることに貢献しつづけているのである(『MUD ―マッド―』[2012]のジェフ・ニコルズだけは、固定ショットの決まらなさゆえにどうも信用できないのだが、マコノヒーの貢献は変わらない)。こうなると、もともとはスピルバーグの企画だったノーランの待機中の最新作『インターステラー』(2014)にさえ、間違って期待してしまいそうになるというものだ。


 一連の仕事を振り返るに、マコノヒーがひときわ精彩を放つのは、出番は少なくとも映画全体のトーンを決定してしまうような、主人公の人生に後戻りのきかない感化をあたえるだけのインパクトを持った役どころであるらしい。一見キリンかガゼルを連想させる首の長い草食動物風でありながら、肌を覆っていてもなぜかポルノ男優めく妙な卑猥さを、臆することなくひけらかすようになってから彼の快進撃が始まったと思うのだが、そのマコノヒーがとうとうオスカーまで獲得してしまった『ダラス・バイヤーズクラブ』は、苛酷な減量をともなったという役づくり以上に、彼としてはむしろめずらしい、出突っ張りの主演作であることで注目されるべきだろう。


 冒頭、ロデオが行なわれているステージ裏の暗がりで、光に包まれた表の様子を板の隙間からうかがいながら、二人の女を相手に事に及んでいるマコノヒーは、その痛々しい痩躯というよりも、何かに急きたてられているような、異様に眼光の鋭い、確実に死に取り憑かれた形相の不吉さで見る者の目を惹きつける。痩せたり太ったり抜いたり植えたりといつ見ても忙しそうなクリスチャン・ベールが、すこぶるおもしろいことは確かなデヴィッド・O・ラッセルの『アメリカン・ハッスル』(2013)で、薄くなった頭髪やらだらしなく出た腹やらをことさら見せつけるのには少なからず興醒めだったが、マコノヒーの骨と皮ばかりになった裸身を必要以上には強調しないジャン=マルク・ヴァレのここでの抑えた演出は、ひとまず好ましいものだといってよい。


 時代は、ロック・ハドソンのAIDSによる死を新聞が一面で報じている1985年。デタントとゲイ解放の70年代からレーガンの80年代への移行を、一組のゲイ・カップルの出逢いから別れまでに託して描いたソダーバーグの『恋するリベラーチェ』(2013)は、ハドソンの訃報を象徴的に映し出して閉じられていたのだから、同じように史実にもとづくこの映画を、その後日譚として見ることもできるだろう。だが今、主人公のマコノヒーが置かれているのは、ゲイであることを公言してAIDSで死んだ最初の国民的スターであるハドソンを、『北北西に進路を取れ』(1959)の主演俳優と平気で取り違えるような、テキサスのカウボーイたちが織りなす野蛮で保守的な風土である(『北北西』のスターもまた、ゲイの噂が絶えなかったところがこのジョークのミソなのだが)。そのような風土にあってマコノヒーは、ある日、ハドソンと同じHIVに自分も感染しており、余命いくばくもないということを医者に告げられて愕然とする。


 AIDSはゲイの病気であるという偏見がいまだ根深かったこの時期、マッチョな異性愛者であるというまさに同じ理由によって、主人公が多数派から少数派へと瞬時に逆転するというのがまず興味深い。しかも、自分が差別されて初めて差別される側の気持ちがわかるといった教訓劇では終わらないところがさらによい。猛勉強を始めた彼は、やがて自分が生きぬくために国内で未承認の薬を「密輸」し、法の網をかいくぐったクラブを創設して同じ病気の患者たちに分けあたえるようになるのである。


 主人公にとって、すべては自己の生存という〈必要〉を母とした発明にすぎず、慈善だの改悛だの政府への反抗だのが動機となっているわけではいささかもない。にもかかわらず、そのことは彼を自分でも意識しないうちに変容させずにはおかないだろう。たとえば彼は、クラブを作り、販路を拡大するためにジャレッド・レト演じる女装者とのパートナーシップを必要とする。悠々と歩道を往くレトを、主人公が車で追いかけながらなんとかして口説き落とそうとする長い横移動のシーンは、その様子だけをとれば、男娼を買おうとしているようにしか見えない。それより前、病院で働くヒスパニック系の清掃人をクラブで偶然目に留め、廃棄品のなかから新薬を横流ししてもらうことを思いつくシーンも、画面としては限りなくゲイがセックスの相手を探しているようだ。このように、自分から遠い者の身ぶりの意図せざる模倣を通じて、主人公は大きく変容していくことになるのである。だから買い出しに出かけたスーパーで、主人公が無礼な態度をとった昔の同僚からレトを庇うシーンも、主人公がゲイフレンドリーな男に変わったことを告げているからではなく、意思とは無関係に愛の身ぶりを模倣してしまっているからこそ印象深いのだ。


 誰もが頑固なほどバラバラの個人のままで、その意味では何も変わらぬふうでありながら、にもかかわらず、自分でも知らないうちにいつしか友愛の身ぶりを模倣してしまい、そのことを通じて意図しなかった変容を生きることになるという点が、この映画が持つ好ましさの最大の要因だろう。それは端的に、いつ見ても雑多な客が大勢列をなしている、出入り自由のクラブの空間にあらわれている。クラブの壁に貼られた女のヌード写真を順に見ながら自慰に耽っていた主人公が、勝手にレトが貼ったマーク・ボランの写真で絶頂に達してしまうというケッサクなギャグは、無意識に彼が同性を欲望しているという精神分析的解釈も喚起しようが、重要なのは、ぶつくさいいながらも、彼が結局、ボランの写真をクラブの空間から排除しないことだと思う(彼はボランとボーイ・ジョージの区別もつかないのだが)。医者から一方的にあたえられた、健康な細胞まで一緒に殺してしまうような薬を退け、点滴を引きずりながら、自己流のやり方でウィルスと共生する途を選ぶ主人公の生きざまは、そうした映画ならではの手法を通じて描きだされていくのである。


 ただ〈必要〉に迫られて行動するうち、主人公は自分でも知らないままにいくぶんか「ゲイ」となり、「密輸業者」となり、そして「革命家」ともなる。すがすがしいのはその無自覚な変幻自在ぶりであり、彼が反権力の闘争を意志するからではないだろう。そしてその変幻自在ぶりが、周囲の自堕落なジャンキーやら組織に従順な女医やらをも変容させていくことになるのだ。


 いくらでも下品になりそうな題材を、このようにすがすがしくまとめてみせるというのはたやすいことではなく、低予算で、照明も使わず早撮りしたという製作のあり方もあわせて誠に好ましい。

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