映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第二十三回 ディズニーの「修正主義」よりも根本的な映画の質的変容
 『ミッキーのミニー救出大作戦』

『ミッキーのミニー救出大作戦』
原題:Get A Horse!
(『アナと雪の女王』の同時上映作品)
全国公開中
監督:ローレン・マクミュラン
2013 / 6分 配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン

© 2014 Disney

© 2014 Disney

巷では、酩酊したサラリーマンまでもが「レット・イット・ゴー」というか、おそらくは「レディ・ゴー」と混同しているのであろう怪しげな英語で主題歌を口ずさんでいるくらいだから、すでに興行収入が231億円を突破して日本歴代3位を記録しているという『アナと雪の女王』のヒットは、やはり本物なのだろう(6月16日、興行通信社発表の数字による)。アメリカ本国と異なり、ミュージカルであることを前面に打ち出した日本独自の宣伝戦略が図に当たったというのは、状況論としても興味ぶかいし、一部の上映館では映画にあわせて観客が一緒に歌える回まで用意されたと聞けば、さてはサイレント時代初期の慣習が復活したかと膝を乗りだす映画史研究者もいるに違いない。そうかと思うと、実際には声を出して唄う人はほとんどいないようですよと教えてくれる人もあるので、よくわからなくなるのだが。

『アナと雪の女王』が、社会現象となるに相応しい優れた映画かといえば、はたしてそれほどのものかと首を傾げたくなるのは確かである。囚われの女を真の幸福へと解き放つものは、いつか来てくれるであろう白馬にまたがった王子の口づけよりほかにないというディズニー映画が構築、強化してきた幻想は、近年、ディズニー映画自身によって書き換えられつつあるが、そうしたディズニーの「修正主義」が、いよいよ顕著になっている点は注目に値しよう。しかしながら、度重なるミュージカル・ナンバーの挿入が、想像力に弾みをつけるというよりも、むしろ活き活きとした運動感を寸断させてしまっているというのは(たとえば、姉エルサの戴冠式の朝にアナが晴れやかに唄うシークェンスよりも、歌が終わった直後、突堤から突き出した状態で危うくバランスを保つ舟のなかでアナがハンスと初めて出会うシーンのほうがずっと印象深い、といった具合に)、あまり褒められたことではないはずだ。

とはいえ、『アナと雪の女王』の興行に水を差すことは、この文章の本意ではまったくない。それどころか、『アナと雪の女王』はぜひとも映画館で、それも必ず3Dで見られるべきだと訴えたいのである。正確には、『アナと雪の女王』そのものではなく、その前座として上映されるわずか6分ほどの短篇『ミッキーのミニー救出大作戦』を、なんとしても見逃さないでいただきたい。

ジョン・ラセターの製作総指揮による『ミッキーのミニー救出大作戦』は、あのミッキーマウスが18年ぶりに登場する新作というだけでも重要だ。しかも3Dなのである。といっても、映画はミッキーマウスが誕生して間もない、トーキー初期に製作された白黒スタンダードによるカートゥーンのパスティーシュとして始まるので、見る者は意表を衝かれることになる。その模倣ぶりは、当時の画調やキャラクター設定を忠実に再現しているのみならず、故意に画面に雨を降らせるなど、実に手のこんだもので、知らなければ本当に当時の旧作かと思ってしまうほどだ。初登場作『蒸気船ウィリー』(1928)でのように口笛を吹きながら現れたミッキーは、にぎやかな楽隊の荷馬車にミニーらと一緒に乗りこみ、のんびり愉しく道を行く。やがて後ろから自動車に乗ったピートが進歩の風を吹かせながらやってきて、一目惚れしたミニーを力ずくで自分のものにしようとする。驚くべきは次の瞬間だ。ピートが邪魔なミッキーの尻尾を掴んで振りまわすと、ミッキーは画面を突き破り、フレームをこちらに向かって飛び出してくるのである。その鮮烈な効果は、やはり3Dでなければ充分に味わえないと思うのだが、飛び出してきたミッキーは色付きの現代的なデザインで、立体感もあるCGアニメのキャラクターになっている。さらにミッキーは、自分が追い出された元のフレームの左右をカーテンを開いて拡げ、スタンダード・サイズだったフレームをスコープ・サイズに変えてしまう。つまり、白黒のパートは映画館でスクリーン上に映写されている映画だったという趣向で、ミッキーはスクリーンを突き破って劇場のステージ上に落っこちたというわけだ。こうしてミッキーは、同じようにスクリーンから追い出された他のキャラクターと力を合わせ、ピートに捕らわれたスクリーン内のミニーをあの手この手で救出しようと試みる。

多少とも映画を知る人間であれば、こう書いただけで、キートンがスクリーンの中に入っていってしまう『キートンの探偵学入門』(1924)や、逆にスクリーン内の人物が現実世界に出てくる『カイロの紫のバラ』(1985)といったメタ映画――自己言及的な「映画についての映画」――の現代版だと気がつくに違いない。また、ミッキーの声にすべて録音で残されているウォルト・ディズニーの声を使用するなど、自身の来歴を非常に強く意識したつくりは、映画が大きく変容しつつある現代において、伝統をふまえての革新というディズニーの姿勢をあらためて表明しているようにも思われる。しかし、『ミッキーのミニー救出大作戦』で起きていることは、おそらくはたんに以前からあったものの現代化とか伝統への敬意といったものにとどまらない、もっと根本的な転換なのだ。

まず、ミッキーがスクリーンから飛び出してくる瞬間だが、このときスクリーンにはぽっかりと穴が開く。それまで閉じられた世界だとばかり思っていた映像にいきなり穴が穿たれるというのは、『断絶』(1971)のような映画のラストでフィルムが焼き切れてしまうのにも似た、相当にショッキングな事態だといっていいだろう。少ししてショックが収まると、今度は穴の向こうがどうなっているのかが気になりはじめるが、ほかにも次々と穴が開けられることではっきりするように、実は穴の奥にはスクリーン上の映像と同じものが、ただしカラーで見えているのである。もちろん、これは理屈が通っていない。スクリーン上に映画が映写されているという設定を貫こうとすれば、スクリーンに開いた穴の上にも、穴が開く前とまったく同じ映像が投影されつづけなければならないはずだからである(ゴダールの『カラビニエ』[1963]で、主人公ミケランジェロが映画館のスクリーンを引きずり下ろした後を思い出せ)。要するに、ここでは投影という映画の存立条件の一つであったものがもはや重要視されておらず、スクリーンは、その向こうにある世界から厚みを奪い、白黒の2色に還元するフィルターのようなものとして表象されていることになる。

それだけではない。たとえば『カイロの紫のバラ』では、辛い現実を忘れるために映画を見つづけるヒロインのもとに映画の主人公がやってきたものだが、『ミッキーのミニー救出大作戦』では、スクリーンを出たキャラクターがはたらきかけることができるような外界の現実が、そもそも描かれていないのである。反対に、ここではスクリーンに映る映像の側が、上下を繰り返し逆さまにされたり回転されたりと、スクリーン外のキャラクターの手で激しい操作を加えられ、翻弄される。いうまでもなく、映画では本来ありえないことである。

すでにあきらかなように、『ミッキーのミニー救出大作戦』に登場する映画内映画は、われわれが長く映画と呼びならわしてきたものにほとんど似ていない。それは、もはや投影のプロセスを必須の構成要素としておらず、思いのままに操作し、加工することができるものと化しているのである。たかがアニメのなかの話ではないかと素通りして済ませることもできよう。それでもここに露呈しているものは、しょせんは地球規模で市場を最大化するためのディズニーの世界戦略の一環でしかない『アナと雪の女王』の「修正主義」などよりも、はるかに根本的で質的な変化だと思われてならない。

 

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『アナと雪の女王MovieNEX』
2014年7月16日(水)発売(4,000円+税)
ブルーレイ/DVD/デジタルコピー(クラウド対応)
MovieNEXワールドがセット!!
ブルーレイ/DVD 同時レンタル開始
2014年7月9日(水)オンデマンド先行配信開始
発売元:ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン

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