映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第二十五回
現代アメリカの「田舎者」たらんとする作家とキャプラ的事態との遭遇
『プロミスト・ランド』

『プロミスト・ランド』 Promised Land
全国公開中
監督:ガス・ヴァン・サント
2012 / 106分 配給:キノフィルムズ

© 2012 Focus Features LLC. All Rights Reserved

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シェールガスの採掘権をめぐって揺れるアメリカの田舎町の映画だと聞いても、正直食指は動かない。それどころか悪い意味での「社会派」の映画が予想されて、敬遠したくなるところだ。ことに日本に暮らす者からすると、大した必然性もないのになぜか原子炉が頻出する最近のハリウッドのブロックバスターに困惑させられていることでもあり――電力に頼れず万策尽きた人類が、自然の究極的な自浄作用としての崇高なる太古のけだものに何もかも委ねてしまう『GODZILLA ゴジラ』(2014)に至っては、これを今の日本人にどう見ろというのだろうか?――、このうえアメリカ映画でエネルギー問題にかんする演説など聞かされたくないというのが本音である。しかも、主演のマット・デイモンが脚本も書いているのだという。マット・デイモンはもちろんとても好ましい役者だが、彼のようなリベラル派の俳優が、ハリウッドの世界支配の一翼を担っていることに後ろめたさを感じてかどうかは知らないけれども、反グローバリゼーションを唱える映画製作に手を出してよかった記憶がまるでない。

ところが、監督がガス・ヴァン・サントと知った時点でおやと思う。リベラルな気質の持ち主であることは間違いないにせよ、コロンバイン高校での銃乱射事件に想を得た『エレファント』(2003)や実在したゲイ解放運動の政治家を主人公とする『ミルク』(2008)でも、政治的なメッセージを芸もなく声高に訴えるだけの映画からは距離を置いたというか、自分にできることと映画にできることの限界を賢明にも理解しているタイプだといえる。ときに『サイコ』(1998)や『パラノイドパーク』(2007)のような映画も撮るので決して全面的に信用できる作家ではないが、あくまでアメリカにとどまりつつ、今なおインディペンデントとメジャーを身軽に往復しながら自分のやり方を守っている彼が、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997)と『GERRY ジェリー』(2002)以来でみたびデイモンと組むというのは、やはり心惹かれるものがある。

映画は、マット・デイモンらしき男の顔が水面の向こうにゆらめいて見えるさまを、水中から見上げたショットで始まる。デイモン演じる主人公のスティーヴが、大切な何事かを前に洗面所で顔を洗って気分を引き締めているところなのだが、あきらかに新たな誕生と覚醒のイメージであるこの画面の後に、ではどのような大事が待ち受けているのかと思うと、巨大エネルギー企業の有能なビジネスマンが昇進のかかった会社幹部との会食に臨むというのだから、拍子抜けもいいところだ。われらが主人公の第二の誕生とは、組織内での出世程度のことなのか。むろん映画はここで主人公の人生の再スタートを、故意に誤って設定しているのである。事実、ずっと後になってこれと酷似したショットが反復されるとき、スティーヴは人生における覚醒を「正しい」かたちで生きなおすことになる。問題は、スティーヴにその間の変化を惹き起こしたものが何であったかだが、そう先を急ぐわけにもいくまい。

無事に会食を終えて昇進を確実なものとしたスティーヴは、いつもの自分の仕事にとりかかる。地下に大量のシェールガスが眠る町を一軒一軒回って、住民から採掘権を買い叩こうというのである。現地に着いて彼が最初にやることが、同僚のスーに連れられて地元の雑貨店に入り、チェックのネルシャツほか服一式を買い揃えることだというのがまずおもしろい。田舎者の心に取り入るには身なりから彼ら流に合わせる必要があるというわけだが、滞在中ずっと行動を共にするスティーヴとスーが、職業上のパートナーという関係から決して逸脱せず、それでいて互いにずけずけと毒を吐きあえる親密な距離感を維持しているところも魅力的だ。こうした異性間の成熟した距離感を現代の映画で目にするのも、ずいぶん久しぶりのような気がする。家に残した息子のことを絶えず気遣いながらも、いつの間にか雑貨店の店主と仲良くなっていたりもするスー役のフランシス・マクドーマンドの絶妙な年齢の重ね方があってのことだろう。

だが、いつものように楽勝と思われた仕事は、思いがけず難航して長期戦を強いられる。きっかけは、簡単に丸めこめると考えていた無学な地元住民のなかに、引退して高校の教師をしている超の付くインテリの老人がいたことである。ガスの採掘には取り返しがつかないほど土地が荒廃するリスクがともなうという事実をこの老人が暴露したことによって、町の意見は二分され、環境保護の運動家まで乗りだしてくる騒ぎとなるのだ。この騒ぎのなかで、スティーヴの仕事への信念は大きく揺らぐことになる。

ハル・ホルブルックが滋味深く演じる老人の登場が、無知な田舎者と彼らを一方的に搾取する狡猾な都会人という、当初前提されていた映画の対立図式を攪乱するものであることはあきらかだろう。しかし、攪乱の元はすでに導入部から時限爆弾のようにこの映画に仕掛けられていたはずなのである。上司との対話で初めから明かされていたとおり、スティーヴは農業以外にろくに産業のなかった田舎の出身で、その故郷もすでに失われているというのだから。つまるところ一連の騒動は、スティーヴに田舎者としての自分自身を見つめなおす機会をあたえるのであり、先述した再生のイメージの「正しい」反復は、田舎者としてのスティーヴの自己肯定を祝福するものなのだ。

マット・デイモンと環境運動家役で出演もしているジョン・クラシンスキーとが共同で脚本を書き、もともとはデイモンの監督作となるはずだったこの映画をなぜガス・ヴァン・サントが監督する気になったか、なんとなく理解できはじめるのはこのときである。ケンタッキー生まれでオレゴンに長く暮らし、決してニューヨークやビヴァリーヒルズに住もうとしないヴァン・サントもまた、現代アメリカの「田舎者」であることに特別の執着を示している作家だからだ。しかも彼は、洗練された趣味を持つゲイのリベラルとして、そんな自分をたやすく受け容れるはずのない田舎の側にとどまろうとしているのである。もとはコッポラからの引用だが今ではヴァン・サント印といっていい空を流れる雲の微速度撮影に加え、ここでは空撮で捉えられた土地の拡がりが印象的だが、田舎の生活が根ざしている大地そのものが映画の真の主題と考えるなら当然だろう。ここで「約束の地」は、遠い彼方ではなく、われわれのすぐ足元に見いだされるのである。

町の将来を決する住民投票の場でなされるスティーヴの演説は、多くの観客にフランク・キャプラの映画を思い出させるに違いない。たとえば石原陽一郎は、『キネマ旬報』8月下旬号掲載の批評で、ここでの力ない演説に「キャプラの映画を貫いていたニューディール的な楽天主義はない」としている(59頁)。しかし、キャプラを真剣に見たとも思えないこの書きぶりはどうしたことだろうか。いうまでもなく、キャプラにかんするこうした誤謬が、この記事に限らず蔓延していると思われるからこそ書くのだが、まず、ニューディール期における政府権力のとめどない拡大に対し、個人主義と隣人愛を基調とする伝統的なポピュリズム――大衆迎合の意味とは異なるので注意されたい――への回帰を訴えるキャプラの映画は、明確にニューディールと対立するものだった。しかも、実際に代表作を何本か見ればすぐわかるように、キャプラの映画を貫いていたものは、「楽天主義」どころか深いペシミズムだといえる。詳述する余裕はとてもないが、『スミス都へ行く』(1939)でも『群衆』(1941)でも、キャプラ的なヒーローは自分が大衆を代表していると固く信じているそのときに、当の大衆から見棄てられて絶望の底に沈む。代表=表象の危機こそがすぐれてキャプラ的な事態なのだ。

『プロミスト・ランド』に話を戻そう。ここでの演説シーンでスティーヴは、大衆を説得するために信じるところを懸命に訴えるのではなく、自らの迷いを率直に吐露するばかりである。したがって、これをキャプラ映画の演説とは異なるとした石原氏は、その限りにおいて正しい。だがスティーヴは、未来が閉ざされた田舎者に濡れ手で粟の大金をつかませてやろうと救済者を気どっていたところを、その田舎者によって拒まれるのだから、ここで彼が直面させられるのは、紛れもなくキャプラ的な事態なのである。では、『プロミスト・ランド』はこの現代的な代表=表象の危機に、どのような解決をあたえたのだろうか。

実際のところ、映画はこの難問にそれ以上深入りせず、解決については映画を見終えた観客一人ひとりの手に委ねている。この映画が残す上品な印象はもっぱらそこからきているが、しかしこれは逃げたとばかりもいえないところである。なぜなら、キャプラがこの危機的事態をもっとも掘り下げて描いた『群衆』においても、撮影当日まで5種類の結末が用意され、どれを採るか決まっていなかったという逸話が示すとおり、代表=表象の危機を解消することは、映画がいまだ答えたことのない問いだからだ。『群衆』は、結局「最初のジョン・ドウ」としてのキリストを持ち出すことで、信仰という共通平面においてこの危機にかりそめのハッピー・エンディングをもたらすしかなかった。『プロミスト・ランド』では、足元に拡がる大地という文字どおりの共通平面がハッピー・エンディングをかたちづくる。『プロミスト・ランド』とガス・ヴァン・サントとは、どこまでもキャプラ的事態に忠実なのである。

最後に、些末なようでことによるとアメリカ映画の魂に関わるかもしれない不満を一つ。スティーヴとスーが町を回りながら車窓の景色を見て交わす、あの馬小さくないかという会話の反復が私はとても好きなのだが、この反復を完璧なものとするためには、雨で失敗に終わる縁日の場面で普通サイズの馬を出さないほうがよかったと思う。

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