映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

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第三十三回
「近くだとやりにくそう」という呟きとともに発見される世界の秘密
『THE COCKPIT』

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『THE COCKPIT』
全国順次公開中
監督:三宅唱
2014 / 64分 配給:PIGDOM

一昔前の雰囲気を漂わせた狭いアパートの一室に、ベランダから続く硝子戸を開けて男たちが数人わらわらと入ってくる。そのうち、アフリカ系の血を引いているらしい一人が手前に置かれた機材の前に着席し、作業を始めるまでを『THE COCKPIT』の監督である三宅唱は、機材の上あたりに置きっぱなしにされた小さな固定キャメラ一台で、巧みに合間を摘まんだ編集でテンポよく見せてくれるのだが、考えてみればおかしな話なのである。アパートの出入り口がキャメラよりずっと手前にあることはあきらかなのだから、いったい彼らは揃いも揃ってベランダで何をしていたのか。その後も磨り硝子の向こうにはときどき人影がよぎったりするのだけれど、ともかくもこの導入部によって、『THE COCKPIT』における空間の基本構造が早くも確立される。このキューブ型の小さな室内では、横方向への動きは左右の壁によって阻まれ、動きは縦方向に限定されるということだ。しかも前景には、ただでさえ体格のいい青年が、述べたように機材を前に鎮座しているのだから、実際に人物に許されている動きは、背伸びでもして彼の背後から顔をのぞかせるか、キャメラより手前のオフスクリーン空間に姿を消す――ないしはそこから現れ出る――以外にない。

『THE COCKPIT』は、こうしてヒップホップのミュージシャンたちがアパートの一室にこもり、何もないところから一つの曲を完成させるまでの2日間を追っていく。機材を操るのがOMSB、背後から時折、しかしここぞという瞬間に口を出す青年がBimという、その世界でよく知られた人物であるという事実は、この映画を愉しむうえで知っていても知らなくてもどちらでもいいことである。だが、彼らが普段から一緒に音楽をやっている仲間というわけではなく、互いに一定の敬意と距離感をもって接する間柄であることは、予備知識などなくとも、敬語でやりとりする彼らのコミュニケーションをしばらく観察していれば、誰にでもわかるはずのことだろう。こうした関係性ゆえに、どれほど遊び半分のようにリラックスして見えたとしても、彼らのあいだには常に密かなプロフェッショナリズムの緊張が張りつめ、室内に閉じこもっての作業をお泊まり会的な馴れあいから絶対的に隔てることになるのである。

この限定的な空間で展開される作業のあり方は、まさに〈労働〉と呼ぶに相応しい。雑魚寝のための布団くらいはかろうじてあるようなものの、室内に家財道具のたぐいはほとんど見あたらず、ここが家族的な団欒のための場ではなく、〈労働〉のために雑多な人間が一時的に寄り集う作業所のようなものであることはあきらかである(『NOBODY』による三宅唱と松井宏プロデューサーへのインタビューによれば、この部屋は出演者のVaVaとHeiyuuが引っ越してきたばかりのアパートで、そこに撮影用にOMSBの機材を運びこんだとのことだ。「カメラがかれらのところにお邪魔したともいえるけれど実はちょっと違っていて、ある場所に集合して、それからはじめる、という映画づくりでした」)。空間的な限定は、〈労働〉を視界に浮上させるための戦略の第一なのだ。

そうして捉えられる彼らの〈労働〉の具体的なありようは、ヒップホップにまつわる紋切り型をことごとく裏切るものである。すなわち、ストリートでの即興ではなく、室内での気の遠くなるような試行錯誤と細部にわたる練り上げ。映画はそれら一連のプロセスを、万遍なく要約して見せるというよりも、サンプリングをし、詞を書き、録音するという限られた、しかし創造の分岐点となる決定的な段階への粘り強い注視を通じて描きだす。ちょうどミハイル・ロンムの『一年の九日』(1961)が、選びとられたばらばらな9日間を通じてある3人の男女が生きた1年間を描ききってみせたように。この時間的な限定が、〈労働〉を浮上させるために『THE COCKPIT』がとる戦略の第二であるといってよい。

THECOCKPIT02もちろん、いつでもどこからでも手ぶらで始められるというヒップホップの美点どおりに、この映画でもほとんど気まぐれに選ばれたようなレコード盤が、あるいは戯れに持ち出されたスーパーボールや靴箱が、たちまちのうちにものづくりの出発点となる。だが、出発点はふとした思いつきであっても、それを練り上げて一つの作品へと仕上げていく作業は、極度の集中を強いられる真剣な〈労働〉そのものだ。とりわけ最初のOMSBによるビート作りの工程は、時折窓を開けて外気を入れるかのように手持ちの画が短く挿入されるほかは、述べたように真正面からの固定ショットで延々と捉えられ、圧巻のおもしろさである。初めのうちは何をしているのかもよくわからなかったヒップホップに不案内な観客にも、だんだんと彼の求めているものが理解できる気がしはじめるのは、やはりこれだけの時間をかけて見つづけたからだろう。だからこそ、不意に90度キャメラ位置を転じて、真横からOMSBを捉えたショットへの転換がショッキングなのだ。全身でリズムをとるOMSBの動きは、正面から見ればほぼ上下の往復でしかないが、横から見ればそれは前後への往復をもともなった、はるかに複雑な運動なのである。

OMSBのこの作業のあいだ、他の面々は彼の後ろで寝そべったり歩きまわったりしながら、だらだらと駄弁っているだけのように見える。しかし、みんなでOMSBのことを背後から取り囲んで手元を覗きこんでいたとき、Bimだったと思うが「近くだとやりにくそう」という小さな呟きとともに、全員がまた一斉に後景へと退く瞬間にハッとさせられる。今はOMSBの孤独な〈労働〉を尊重することを第一に考えなければならない局面なのであり、その妨げとならない距離を維持することが、他の面々が従事すべき〈労働〉なのだ。そう理解された瞬間、OMSBの体の向こうに距離をおいて見え隠れするBimたちの見え方は一変してしまうだろう。奥行きのためにあえて左右を閉ざしたこの映画の空間処理の聡明さに、あらためて感嘆せざるをえない。

そう、ここでの〈労働〉には、むろんこの映画そのものを撮りつつある、三宅唱をはじめとするクルーのそれも含まれている。音楽を〈労働〉として撮りえた偉大な先達、ストローブ=ユイレの『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(1967)の各ショットがこれしかないという圧倒的な説得力をおびているのは、つまるところ、キャメラがいつでも演奏する音楽家たちの絶対に邪魔にならない位置に置かれているからだ。対象への敬意とは、いささかも思弁的な問題ではなく、あくまでも具体的な距離と位置の計測の問題にほかならない。『THE COCKPIT』は、そのような距離が具体的に生きられたドキュメントとして何より感動的である。創造の秘密などというものがもし本当に存在するとすれば、それはこのような意味での距離をそのつど生きることを措いてほかにないだろうし、ものをつくることが一つの世界の創造である限りにおいて、それは世界の秘密にも通ずることだろう。

64分という簡潔な上映時間を持つ『THE COCKPIT』は、優れた映画がみなそうであるように、このままもっと見ていたい、まだ終わらないでほしいという観客の勝手な感傷をよそに、さらりと一点の曇りもなく閉じられる。〈労働〉は終わり、その成果は作者の手を離れて世界に放たれるのだ。ストリートへのテイクオフ。『THE COCKPIT』と題されていた映画は、初めからこの瞬間をこそ夢見ていたに違いないのである。


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