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2008年1月14日(月・祝)
山根貞男氏は映画批評家としての経歴を「加藤泰論」から出発させた。この講座では、毎回講義に入る前に関連する加藤泰監督作品を参考上映(フィルム上映)し、その後、作家論を展開していただきます。
 
 
・山根貞男さんが「40年目の加藤泰」を寄稿くださいました。
映画研究者が寄稿くださった連続講座の報告も併せてご覧ください

山根貞男(映画評論家)
1939年大阪生まれ。映画批評誌「シネマ69」(1969-71)を編集・発行。蓮實重彦とともに海外の映画祭で加藤泰、鈴木清順、成瀬巳喜男の特集に関わる。1986年より始めた「キネマ旬報」での日本映画時評は現在も連載中である。東海大学文学部教授。主な著書に『映画狩り』、『映画の貌』、『現代映画の旅1994-2000』などがあり、『映画渡世』(山田宏一との共編)、『加藤泰、映画を語る』(安井喜雄との共編)、『成瀬巳喜男の世界へ』(蓮實重彦との共著編)などのインタビューや編著が多数ある。

《寄稿》40年目の加藤泰

山根貞男

 新春早々から加藤泰についての連続講座を神戸映画資料館で始めることになり、このところ気持が落ち着かない。新しいことに向かう昂ぶりも混じっているが、やはり加藤泰だからである。
 この「やはり」の中身は単純ではない。わたしは、著書に明らかなように、加藤泰作品の熱烈ファンであるが、ときおり、こんな感慨にふける。あの頃、あれほど加藤泰の映画に夢中にならなければよかったのになあ、と。むろん後悔などではないが、アンビヴァレンツな想いがあるのは間違いない。
 あの頃、1960年代の後半、それほど加藤泰の映画に入れあげていた。親友とふたり、まるで熱に浮かされたように、加藤泰作品の魅力を語りつづけて飽きなかった。1965年の『明治侠客伝 三代目襲名』が始まりだった。それ以前の作品も見て、この監督はスゴイと思っていたが、語る相手がいなかった。ところが1965年、小さな新聞の編集部に入ったら、同好の士がいて、『明治侠客伝 三代目襲名』を封切の映画館で見るや、たちまち加藤泰熱が炸裂したのである。以後、翌年の『沓掛時次郎 遊侠一匹』『骨までしゃぶる』『男の顔は履歴書』『阿片台地 地獄部隊突撃せよ』、1967年の『懲役十八年』と、フィーバーはつづく。
 これほど面白い映画なのに、なぜ本格的な批評がないに等しいのか。任侠映画やチャンバラ映画や活劇だからといって、まともな批評の対象にならないのは、おかしいではないか。むしろズブズブの大衆娯楽映画で、これほど映画表現としてスゴイ次元に達している点をこそ、きちんと評価すべきではないか。
 加藤泰作品の魅力を語るうち、わたしたちは映画評論のあり方に対する不満を募らせていった。やがて当然の成り行きになった。ならば、自分たちで書くしかないか、と。その結果が1970年の幻燈社刊『遊侠一匹 加藤泰の世界』である。
 あの頃から、もう40年にもなる。
 歳月の流れの速さに愕然とせずにいられないが、あのとき、映画批評の書き手になるつもりなど少しもないまま、よくもまあ長文の加藤泰論を執筆したものだわいと呆れ、あのアンビヴァレンツな想いがあらためて胸裡をこみあげてくるのを感じる。
 もうこうなったら、覚悟を決めるしかない。
 加藤泰はわが映画批評の出発点である。あの頃から何ほどの歩みを遂げたかは判らないが、ここで、加藤泰作品を1本1本丹念に見直し、つぶさに論じてゆくのは面白いではないか。いま、自分が映画に関する文章を書きつづけ、目下「新潮」にマキノ雅弘論を連載しているのは、あのとき、無謀にも鈴木清順論を書き、加藤泰論に取り組んだことの続きではないか。
 加藤泰は神戸で生まれた。その地で40年目の加藤泰とどう向き合うかを考えると、やはり気分は昂ぶってくる。

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