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神戸映画資料館レクチャー:映画の内/外 第11回
音・イメージ・言葉──キートン×ベケット=幽霊

 
12月15日(土)14:40(終了予定16:10)
講師:木内久美子(比較文学研究、東京工業大学)
 
「神戸映画資料館レクチャー:映画の内/外」では、1、2ヶ月に1回程度のペースで、さまざまな講師をお招きし、幅広いテーマで講座を開いています。
 
 
                                     『フィルム』撮影現場の
                                        キートンとベケット
[関連上映]キートン×ベケット──『フィルム』を中心に
Aプログラム2本立て
『フィルム』Film(アメリカ/1965/20分/DVD上映)
『キートンの空中結婚』The Balloonatic(アメリカ/1923/27分[18コマ映写]/16mm)
Bプログラム3本立てサミュエル・ベケットのテレビ作品
『幽霊トリオ』Geister Trio(ドイツ/1978/30分/DVD上映)
『……雲のように……』… nur Gewölk … (ドイツ/1978/15分/DVD上映)
『夜と夢』Nacht und Träume(ドイツ/1983/10分/DVD上映)
プログラム詳細
 
 
音・イメージ・言葉──キートン×ベケット=幽霊
                                 木内久美子

 「存在することは知覚されることである(esse est percipi)」
 サミュエル・ベケット(1906-1989)は、『ゴドーを待ちながら』を著した不条理演劇の立役者として、あるいは実験的な小説家として知られている。だが彼の創作活動は、さらに多岐にわたるものだ。初期には主に言葉を表現媒体とし、詩・評論・小説を書いていたが、次第にその表現を演劇・ラジオ・映画・テレビなどの視聴覚芸術へと発展させていった。さらに晩年には言葉・イメージ・音の関係を問うことによって、表現ジャンルの境界そのものを問題化するような、散文とも演劇ともつかぬ奇妙な作品を多く書き残した。
 『フィルム』は、こうしたベケットの創作活動の転換点を印づける作品のひとつだ。一九六四年に撮影され、翌年に公開されたこの作品は、彼の最初の映像作品であるのみならず、また唯一の映画作品でもある。舞台設定は一九二九年。白黒フィルムで撮影され、ほぼ全編がサイレント。まるで全盛期のサイレント映画だ。そのような雰囲気は、しかし不意に発せられるセリフによって破られる。『フィルム』は全盛期のサイレント映画そのものではありえない。そうした時代は過去のものだ……。こうして歴史的差異を明示することでこそ、『フィルム』は、もはや還れぬサイレント時代へのオマージュとなる。
 この映画の主人公を演じたバスター・キートンは、サイレント時代に最盛期を謳歌し、トーキーを生き残れなかった役者の代表格だといわれる。そのようなキートンの起用が、『フィルム』では素晴らしい効果を生んでいる。キートンは、カメラの追跡を逃れんと疾走する。まるで、カメラの眼に──あるいは観客の眼に──「知覚」されるのを逃れようとしているかのように。彼はどこへ疾走するのか。
 キートンは『フィルム』撮影の一年後に逝去している。奇しくも『フィルム』は、サイレント映画へのオマージュであるとともに、キートンへの葬送作品のような性格も帯びてしまった。
 『フィルム』以後、ベケットはテレビを表現媒体としたテレビ劇を執筆・制作している。これらの作品では奇しくも「幽霊的」と呼ぶべきモティーフが前景化してくる。例えば、役者の身体表現と音声表現とが意図的に切り離されることで、身体と音声とが、ともどもに虚ろな印象を与える表現手段となる。つまり「幽霊的」な表現となっているのだ。
 このレクチャーでは、ベケット作品における「幽霊的」な「知覚」の問題について、キートン映画の影響から考えてみたい。
 

木内 久美子(きうち くみこ)
専門は比較文学。現在、東京工業大学外国語研究教育センター准教授。著書に『サミュエル・ベケット!──これからの批評』(共著、水声社、2012年)、翻訳書に、ポール・ド・マン『盲目と洞察──現代批評の修辞学における試論』(共訳、月曜社、2012年)などがある。

《参加費》 1000円
*ご予約受付中 
info@kobe-eiga.net 宛に、お名前、連絡先(電話)、参加希望日を書いてお送りください。
追って予約受付確認のメールを差し上げます。

協力:Samuel Beckett Estate

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