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『自分革命映画闘争』 石井岳龍監督ロングインタビュー(前編)

©︎ISHII GAKURYU

『パンク侍、斬られて候』(2018)から5年、コロナ禍を経て石井岳龍監督が新作『自分革命映画闘争』を完成させ、3月に神戸・東京で公開を迎える。17年に渡り教鞭を執ってきた神戸芸術工科大学を舞台に、監督をはじめ教員と学生がみずからを演じ、スタッフも兼任して映画の根源的な力を問う165分の大作は虚と実、アジテーションとメディテーションといった対立項をスパークさせて観る者を〈映画宇宙〉の旅へと誘う。
また、昨年は書き下ろしを主とする著作『映画創作と自分革命 映画創作をめぐって』(アクセス)が刊行された。映画と同様に知見と記憶、想像力と洞察力を総動員して書かれた、本作のイメージブックとも呼べる渾身の一冊のページを繰りながら監督にお話を伺った。

 


──ご著作の序章で、コロナ禍による本作の撮影延期に触れておられます。撮影が進み出した2020年初春の状況からお聞かせください。

クライマックスなどの重要なシーンの撮影はまだ残した状態で、危機が──まるで本作の黒い軍団みたいに──忍び寄ってくる気配を感じていたものの、「どうなるだろう」と思っていると、やはり3月末ごろに駄目だという決定が出ました。マスクをしてソーシャルディスタンスを取って進めていましたが「もうここまでだ」と中断することになった。それでも半年後には再開できるのではないか、と当時は見込んでいました。降って湧いたようなアクシデントでしたが、全世界共通の問題で、そのときはあきらめるしかなかったです。それに、私を含めて大学関係者は目の前の問題に迫られて「映画を創っている場合じゃない」と。そんな状況の中でも武田峻彦先生(神戸芸術工科大学助教。出演/撮影・編集・照明・VFX担当)と谷本佳菜子助手(出演/美術担当)と、細々と大学内の授業シーンなど可能なパートは撮りましたが、本格的な撮影は1年後にずれ込みました。
中断後は皆で日程を合わせて重要なシーンを撮っていきました。それに加えて単発的に、卒業生が来校した折にはカメラの前に座ってもらうこともありました。コロナ禍の困難な状況の中では当然、授業や卒業制作を進めることが優先されるので、それが落ち着くのは次の春休み、そしてその次はゴールデンウィークしかない。そのようなスケジュールでした。それでも撮り切れない場面は、学内のスタジオで撮ったり、授業として撮影させてもらったシーンもあります。繭のようなオブジェをつくるシーンなどがそうで、授業成果が作品内に形として残る、連動する形でした。

──映画制作から公開までは一筋縄でいかないのが常としても、この10年強のあいだに様々なアクシデントがありましたね。『生きてるものはいないのか』(2012)は東日本大震災の影響で公開延期になりました。

あのときはほとんど作品が出来上がっていて、VFXの仕上げだけ残っていたのかな。公開を延期せざるを得なくなり、それも当然だと受け入れて1年延びました。

──『ソレダケ/that’s it』(2015)も最初に構想されていたストーリーから変更があって…‥

『ソレダケ』も2度大きく延期になりました。時間のかからない映画ってほとんどなくて、例外といえば『蜜のあわれ』(2016)くらいですね。珍しいケースでした。

──ご著作に掲載された本作の採録シナリオを読むと、コロナ禍によって変更された点があるとわかります。ほかにも改稿された箇所はあったのでしょうか。また、インパクトの強いタイトルは当初からのものですか?

自分の中ではこれがいいんじゃないかと思っていましたが、クランクイン時点のタイトルは『KDUF-X』でした。「KDU」は「KOBE DESIGN UNIVERSITY」の略。「F」はフィルムで、映画コースのXプロジェクトという意味合いです。いきなり『自分革命映画闘争』とダイレクトに伝えると学生たちも戸惑うだろうと考えてのことでしたが、シナリオもその都度、変更を余儀なくされました。というのも、学生は卒業してゆく宿命があります。最初の撮影の途中に卒業式があって、4年生たちが旅立っていった。それぞれ就職しても、来られる人はゴールデンウィークに助手として参加してもらうような態勢でした。翌年も同様に皆が卒業したので、参加者の調整の問題がありました。逆に新入生も入ってきます。現在3年生の学生たちが入学してきたときには映画入門の授業風景を撮らせてもらったり、翌年のゴールデンウィークにはその学年と次の新1年生に格闘シーンに加わってもらったりと、メンバーの入れ替わりをコラージュ的に調整しながらの制作でした。
でも自分はつねに、とにかく前向きに考えるようにしています。時間が取れる限りじっくり撮影して仕上げるのは毎回同じです。今回も制約がある中で、武田先生の粘りと奮闘でかなりの素材を撮れていたので、それを活かしていかにもっと面白く出来るか? それだけを考えました。撮っているときはまったく意図してなかったけど、観た方から「フェリーニの『8 1/2』(1963)のようだ」と指摘していただいて、結果的にそういう方向性の映画になったのかもしれないとも思います。私自身は──劇場パンフレットに掲載されるインタビューで述べたように──危うい時代の中で立ち上がって来る集合無意識的なマッドネスへの警告という意味で『怪人マブゼ博士』(1933/フリッツ・ラング)や、考え過ぎて狂った「マッドサイエンティスト」のモチーフから話をはじめようと構想しました。撮影期間中にはコロナウィルスが拡がり、ロシアがウクライナに侵攻するなど「このままでは駄目だ」と思う社会的事象が浮き彫りになりました。ただ私は映画監督で映画を創ることしか出来ないので、その危機感を表現に結び付けられないだろうかと考えるうちに、コロナ禍の中でとても内省的になってしまった。その期間に書いたのが『映画創作と自分革命』なんです。以前は普段考えていることを文字で表現しようとは考えなかったけれど、大学の退官(2023)が近づいてきて、これまでのことを本にまとめようと思っていたところ、撮影中断で長い内省期間に入ったために、よりディープに踏み込んだ内容になりました。

©︎ISHII GAKURYU

──第一章「映画入門 映画と映画創作の礎」と第二章「映画創作術私論」では丹念に映画の誕生と発展の歴史、そして制作のノウハウを記しておられます。監督を「理論より感性の人」と捉えている方は意外に思われるかもしれません。

入門書的な部分は要らないと言われるかもしれません。でも自分は映画にずっと熱中してきて、撤退は絶対にありえなかった。その映画が「なぜ自分にとってかけがえがなく、面白いのだろう?」「どうやって生まれているのだろう?」という基本的な問題を書き下ろしたかったんです。それにはまず自分の生い立ちや大切に思っていることに結び付けないと、答えが見えてこないだろうと考えました。

──それがよく表れているのが第四章の「たからくるまち」。監督が故郷・博多から上京されるまでの18年間の回想録で、映画やロックとの出会いなどが綴られています。

第四章のもとは西日本新聞の連載でしたが、自分がやってきたことの総括として、この本を書くきっかけにもなりました。前作から5年かかったけれど、自分を見つめるいい時期になったし、わがままを言わせてもらって映画と本を完成させられた。色んなことが吹っ切れて、もっと思い切ったことを出来るんじゃないかとも思いました。映画も本も捨て身で創ったものです。でも──おこがましいですが──「他者の役に立ちたい」という思いもありました。

──第四章で書かれているのは監督の原風景と呼べるもので、それがのちの創作に繋がっていることが感じ取れます。

映画館が溢れた町──当時はどこもそうでしたが──に生まれ育った自分が、大切で愛おしく感じたり、時には不思議に思った事柄は、これまで創ってきた映画や今後つくる映画に自然に関わっています。それらは個人史であり同時に時代史でもある。その時代と環境で生まれ育ったことは大きな真実で、逃れようのないものです。映画に目覚めた頃に町の映画館で観た映画や時代のうねり、そして脈々と続いている、私が生まれた土地が持つ、生命を創り、育むエネルギーです。

──本作を含めた監督の映画の持ち味のひとつである「混沌」の要素は、生まれ育った土地の力も背景になっているように思います。その「東宝来町」をGoogle検索してみても表示されなくて、もしかすると監督の創作ではないかと妄想を抱きました。

今は町の名前が単なる記号のようなものに変わっています。でもそういう非現実的な要素があるのかもしれませんね。もう記憶が混然としているので。

──監督の映画には人間の内奥に迫る要素もあり、それがよく伝わるのが第三章「映画創作と自分革命」。ここではロラン・バルトのいう「プンクトゥム」に撃ち抜かれた浪人時代の興味深い体験が綴られています。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の一場面のようでもあります。

あの体験は「一瞬の永遠」、もしくは「永遠の一瞬」とでも言うべきものでした。時代を超越するイメージや瞬間の表現は、私が絶えず映画で心がけていることです。完全に没入する瞬間がある映画は忘れることが出来ないし、理屈を超えて自分と一体化する魔術を持っていると思うんです。そして、そのような瞬間に感じ取れるものは個や狭い自我を超えて、今、ここに特別なことではなく、ごく普通に漂っています。
私の体験は文学やアートや哲学、宗教的超越などとはまったく無縁な、昼下がりのぼぅっとしているときに、時間が止まって目に写るすべて──素晴らしいとか価値があるとは思えない、取るに足らないもの──がすべて完全に調和して動いているように感じました。そのときに「この感覚は自分がやろうとしている映画だ」とも思いました。当時は「映画監督になりたい」と公言しては周りから馬鹿にされていた。高校の担任の先生にも(笑)。でもそのときに「これは自分と映画を繋いでくれる大事なものだ」と直感しました。「自分が映画で表現したいのはこういうことだ、映画でしか表現できない」と。自分の場合はプルーストのように文字ではなく、映像や音響、環境体験の意識の流れとしての表現ですが。
幼い頃から映画世代で、小学校高学年からは音楽にも夢中になりました。博多では若者の音楽文化が発達していて、それに感化された。当時のロックはまだ不良のもので、私はバカ真面目だったので最初はフォークを聴いていたのが、中学生になるとすぐにそっちへ行きました。以来、ボブ・ディランは今でも一番大事な、指針とする存在です。

©︎ISHII GAKURYU

──私的な話になりますが、公開時に電車に乗って観に行った『爆裂都市』(1982)での映画とロックの融合には大きな衝撃を受けて、昨年は監督のファンになって40周年のアニバーサリーイヤーでした(笑)。

ご覧になったときはおいくつでしたか?

──中学2年生になる直前の春休み、13歳でした。

それは素晴らしいですね。というのも、撮っているときに私は中高生の世代に向けて「俺たちはこういうことをやっている」「邦画の劇場でこんな映画が観られるんだ」と伝えることを本気で目指していました。『エンジェル・ダスト』(1994)など、私の映画音楽を担当してくれた長嶌寛幸さん(Dowser)にも「十代半ばで観て人生を狂わされた」と言ってもらえたのは嬉しかったです。当時は訳のわからない状態でただ自分に出来ることをやるしかなかったし、まとめ上げるつもりなんてさらさらなかった。玉砕覚悟で突き進んだら本当に玉砕してしまったけれど(笑)、「可能性」を見せたいんだという映画が観客に何かを与えられた。40年経って、今回は66歳になった自分が出来ることをやっていますが、基本精神は変わっていないです。

──映画の構造などは異なりますが、本作の強烈な視聴覚体験からは『爆裂都市』を観たときのことを思い出したし、映画の持つ「可能性」にも思いを巡らせました。

とっつきにくい映画であることは間違いないし、いま一般的に映画館で観られている映画とは違うかもしれません。それでも──いつも言っていますが──映画には無限の可能性があると思っています。配信システムが発達して多様な映画を観られるようになったことに対しては、私も恩恵を受けています。アート系の映画でも「こんな作品が今、観られるとは?!」と嬉しく観ていますが、やっぱり映画館で観て、そこで得も言われぬものに出会う身心全体的な体験はとても大事だと思い続けているし、それによって私は救われてきました。そうやって育ってきた者としてこの「体験」は死守したい。「じゃあ自分はなぜそう思うんだ?」という問いを、いま一度突き詰めてみたかった。

 


──武田さんの洞窟探検パートもものがたりの軸ですが、この暗闇の空間は映画館のメタファーに見えます。ご著作の第一章も古代の洞窟壁画の考察からはじまります。

まさにそうですね。私自身は実際に洞窟探検をしませんが、暗闇の中に潜って何かを発見しに行く行為は、自分が考える洞窟壁画と映画館との関わりやシェルター、そして心の深い部分に降りてゆくことに繋がっています。壁画に向けられる光と、映写機が発する光がイコールにも思える。それに闇の奥への探検とは、映画だけに限らず人間の表現の大きな課題でもあります。大好きな『2001年宇宙の旅』(1968/スタンリー・キューブリック)、『地獄の黙示録』(1979/フランシス・フォード・コッポラ)でも「闇の奥へ」が重要なモチーフとして使われていました。それは世界的なアートスペクタクル大作でなくとも──完成度や映画の出来は別として──自主制作映画でも表現し得ると思います。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『ブレードランナー2049』(2017)、『DUNE/デューン 砂の惑星」(2021)も大好きで、とてもじゃないけど私には無理だとしても、そこまで行かずとも表現できるものがあるのではないか、そう考えています。
たとえばSF、戦争、宇宙空間といった大きな仕掛けがなくても、重力に従って空中を飛翔して着水し、また水面に浮かび上がって蘇生する、高飛び込みの美しさを映画的に撮れば、自分だけでなく、観る人たちにも何か大切な体験をもたらす筈だと信じます。

──『水の中の八月』(1995)のワンシーンですね。ダイナミックな運動しか撮っていないのに、静謐な魅力も感じます。

私たちの心の奥を映画で見つめる。そこにずっと強い関心があります。理屈で考えると理解できないということになるでしょうが、何かを感受したり、あるいは何かが発動してくれればいい。人間とはわからないもので、大学生の頃に観たこともある、私に最も大切な映画たちって、当時は「最低!」と思ったものばかりですからね(笑)。いまだに大好きな作品となると数は絞られますが、やっぱり人間は変わるので数十年後に心の奥に蒔かれたその種が発芽するかもしれない。映画はそういう力を持っているし、周りに左右されずに自分もそんな映画を創りたいです。
もちろん娯楽映画も撮りたいし、「聰亙」を「岳龍」に改名してからは新しい娯楽映画を目指したいと思ったんですが、私の技術や意識が未熟だったせいで「変な映画」と受け取られてしまったようです(笑)。でも今の日本映画の主流の多くに対して、自分はそういうものは撮れないと思うし、大事だと思えるものを大事に創るしかない。「キラキラ系」映画も自分なりに撮ってみたいと思うけど、「ギラギラ」になったり、キラキラが凝縮して爆発する方向へ向かう気がします(笑)。

©︎ISHII GAKURYU

──その過剰さも監督の映画の魅力ではないでしょうか(笑)。

面白くしようとし過ぎて、つい悪い癖が出ちゃうんでしょう。本作も『自分革命映画闘争』と大げさなタイトルにしてしまったのは、もう自分の性(さが)ですね。これは昔からで、『高校大パニック』(1976)とか『爆裂都市』とか(笑)。爆裂なことを本当にやろうとする。でもそうした衝動も映画の持つ、何かを発動させてくれるワクワク感に繋がっているでしょうし、観てくださる人の足を映画館に運ばせるのだと思います。

──本作は『爆裂学園都市』*ではないか、とも思いました(笑)。
*「学園都市」は神戸芸術工科大学がある神戸市西区のニュータウン。

(笑)。『高校大パニック』を引き合いに出してくださる方もいますね。あの作品は生徒がショットガンで数学教師を撃ち殺すというものがたりでしたが、本作は逆で、まるであの高校生が大学教授になり、学生たちに発砲するようにも見えるでしょうし、自分自身にも銃を向けます。

──その冒頭のシークエンスでは「足」を捉えた長回しも見られます。

あれは最初から考えていました。本作は普通のドラマ形式を採っていませんが、映画的な映画にしたいと思って、オープニングはワンカットがいいだろうと考えました。それに加えて「匿名性」のイメージがあったのと、足にも人の個性が表れる筈だと思っていて、以前から足だけを撮りたかったんです。私はずっとロベール・ブレッソン監督の末端ダメ信者で、ブレッソン監督といえば「手」です。手を撮ることで映画を動かしてゆく。自分は走ること、足や靴の運動で、そのような表現が出来ないだろうかと思っていました。

──あそこはステディカムを使われたのでしょうか。

今回は武田先生のアイデアで、スピード感のある移動撮影のために車椅子とジンバルを組み合わせて貰いました。標準のフィックス撮影と、ジンバルのがっちりした揺れないレンズでの移動撮影をメインにしたいと伝えていたので、試行錯誤してくれた結構、かなり多用しました。

──それに続くトラックバックも特殊な機材を使われましたか?

あのシーンは手持ちのジンバルカメラですね。武田先生が写っているということは、撮っているのは助手さんです。

──手持ちであのような画が撮れるんですね。

今は撮ろうと思えば、スマホでもキューブリック監督のような画が撮れるようになっています。今回使ったカメラは少し大きめで慣れるまでが大変だったと思ますが、見事に撮り切ってくれました。

──躍動感のあるミュージカルシーンの移動撮影もジンバルと車椅子の組み合わせによるものでしょうか。

そうですね。場合によって組み合わせて貰っています。

©︎ISHII GAKURYU

──あのシーンはカメラが複数あるように思ったのですが、現場はどのような撮影態勢でしたか?

ミュージカルシーンは予備で1台回しましたが、本作は基本1台での撮影です。メインカメラがとてもしっかりしていて、サブカメラはその画質や画の力に及ばない事情もあり、「どうしても」というところ──モブシーンの引きの返しなど──以外はなるべく使わない方針でした。それに少ないスタッフがほとんど出演しているので、複数使いたくても使えなかったんです。

 


──カメラといえば、本作で強調されるのが「カメラアイ」です。ご著作の第一章で言及されているジガ・ヴェルドフが提唱した「映画眼」の機能だけでなく、「鏡」の作用も示唆されます。

カメラアイは特に後半──映画の世界が崩れてから──観客に意識して貰うようにしていますが、学生が自分のワークをおこなうシーンなどもそうですね。カメラアイは自分を冷静に見つめるためにとても大事なものです。主観を排して見る。その視点を自分も獲得したいと思っていたのは確かで、これに敵うものはない、善悪やヒューマニズムを超越した神の視点とも言えます。どんなショットでもカメラを通して撮っていれば、神の視点だという考えが自分の中にあるかもしれません。アルフレッド・ヒッチコック監督のように明らかに神の視点から、という撮り方をせずとも、たとえ身近なものを撮ってもカメラアイである限りはそうだと思うし、マイクにも同様の力を感じます。

──第三章ではカメラアイ理論を、「直覚力」という言葉を使って展開されています。

カメラは嘘をつかないし、つけない。こちらがどんなに嘘をつこうとしても、もしくはその逆でもすべてを冷静に記録します。自分はその原理に背けないし、惚れているのかもしれませんね。こちらのこざかしい考えを問答無用、一刀両断にぶった切ってくれる。そうしたカメラの働きへの憧れがあって、今回は特に意識していました。こざかしく頭で組み立てて考えるよりも、ぶった切った視点で映像を紡いでゆけば何が見えてくるだろうか? そういう撮影・編集・構成を武田先生と切磋琢磨して試してみたい思いが強かったです。
シーンによっては小津安二郎監督風に撮ったりと、色んな実験をしています。実際に映画を創りながら「創作」を学生たちに伝えたい意図があって敢えてそうしたんですが、自分のために新たな映画の可能性も獲得できるだろうと思っていました。私のちっぽけな思惑を超越する、コントロールできないカメラの強さをすごく感じました。

──序盤の会議のカットバックは小津監督風のアングルとサイズで撮られていますね。会話シーンで、オーソドックスなカットバックをほぼ使っておられないのでは?

いや、ある筈です。そこを壊そうとあまり考えなかったですね。ただ、そういうシチュエーションが劇中にあまりなかった(笑)。

──シナリオについて相談するシーンはワンカットで撮っておられます。

律儀な撮り方はあまりしていないかもしれませんね。実際の大学の授業で私は「最初から手持ちを使うな」「ドラマの基本はこうだ」とずっと言ってきたし、本にも書きましたが、この映画ではそれを全部破ろうとしているかもしれない(笑)。そこは私がひねくれているというか、本に書き残せたからこそ「いや、そうじゃない。逆にもまた正しい可能性があるよ」と実験してみたということでしょうね。そういう面ではシナリオのセオリーなども完全に無視しているので、自分の天邪鬼な性格が嫌になります(笑)。
もちろんドラマ原理は重要で、商業映画や娯楽映画を撮るときには基本中の基本です。本作も自分なりに構成を考え抜きましたが、「そうじゃない可能性」も大事です。セオリーは作品のテーマごとに、またその時代における作品の在り方が要求してくるもので、本作のような映画の可能性を追求する作品で、創作セオリーをがんじがらめにしてもしようがないと思いました。むしろ「そうじゃない可能性がどこにあるか」を追求してゆく映画ではありますね。

 


──そして「見ることと見られること」もテーマになっています。これは監督が長年映画化を構想しておられる安部公房の『箱男』のテーマでもありますね。

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今回、自分が被写体──見られる存在──になることは具体的に決めていました。そのことがおのずと映画『箱男』の進化に繋がってゆけばいいと思っています。映画館で映画を観る行為は、「箱」の中の安全な場所からすべてを一方的に観ている暴力的視点と捉えることも出来ます。だけど、そこに留まってはいけないんじゃないか。基本的な考えとして、映画は全員で創るもの。そこには作者、スタッフ、出演者、宣伝に関わってくれた人、それを上映する劇場が含まれていて、プラス、最後に観客が参加して全体像が完成すると思っています。参加することによって、観る人たちの心の中で初めて何かが形づくられる。そのダイナミズムが面白い。
尊敬する心理学者・河合隼雄さんが人間の心の様相について善と悪、AとBというようなはっきりしたものでなく、それはぼんやりしたもの、コノテーション(星座=付置)という概念を使って述べておられます。星座は明確な図像ではなくイメージから名づけられていて、観る人の心の中で星の集合体がそのように見えてきて、付随するものがたりもそれぞれに立ち現れる。絶対的なものではないから、楽しいのだと。映画を観る行為や、その作品が何かと考えることは、それに似ていると思います。ある人が決めた一定の形ではなく、自分の心の中に生まれる作品の全体像や楽しさや意味を大切にしてほしい。時代を超えて感動を喚起する映画の強い力はそういうところにあると感じます。
私自身は、自分にとても大切なこの考え方を、固定された言葉で語ることが出来ません。プルーストのような優れた文学作品や評論は言語化されているけど、私はそれらに親しんでなくて、映画と音楽、絵画などの感覚的感性の中で様々なことを妄想したり感じたりしてきました。言葉に繋ぎ留める作業はなかなか難しいです。

──現在は様々な視点から映画に対する考察・研究がなされて成果を上げています。しかし本作を観て、監督は撮ることでその答えを見出そうとされているのではないかと感じました。

観る人が流動的、多面的な形を発見してくださると嬉しいです。洞窟や映画館の暗闇の中で、人間はものがたりを求めてきた。連絡網のない時代に世界で同時多発的に洞窟絵画が描かれたのは、人間が本能的にそれを欲したからでしょうし、私にとって映画館の暗闇は間違いなく救いの場であり、心のシェルターです。配信で映画を観るようになってからは、なおさらそれを強く感じます。配信でも積極的に面白い映画を観たい。でも映画館で観ることの特別性や、根源的な何かを自分にもたらしてくれる重要性は強く訴えたいです。すると「じゃあそういう映画を撮れ」という話になるので、「はい、そういたします」という心構えでいます(笑)。
前作からの5年のあいだ何もしなかったわけではなく、これほど内省的に物事を考えたのも久々でしたし、もがいて、皆を巻き込んで、こういう映画を創れたのはとても幸せなことでした。だからこそ、きちんと上映したいと思っています。

──そのために現在、クラウドファンディングを展開されています。新作公開のためのこうした試みは監督にとって初めてです。昨年3月にポストプロダクションをおこなっていた時期に既に考えておられましたか?

その頃はまだ考えてなかったです。どのように配給・上映すればいいかと考え出した頃に、普通に配給しても観てもらうのは難しいだろう、では何とかしないと、盛り上げなければ、という思いがありました。まずは神戸と東京での上映を決めて、そこから先は積極的に動かないと上映を拡げられないのであれば、自分でその可能性を探りたいと思ったんです。初めて自分ですべてやっているので想像以上に大変ですが、絶対に可能性はあると感じました。何かをはじめたいときに、その「もの」──自分の場合は映画──が社会にとって必要かどうかを探る指針になります。プラス、どんな方がどのように支援してくださるかということにも関心があるし、そこでこちらがどれくらいのことが出来るのか? 今後の自分のためにきちんとやっておきたいし、支援してくださる方をがっかりさせたくないので、凝り過ぎているくらい凝って特典を創っています。これは映画館で映画を観てもらう可能性存続へのチャレンジでもあります。この映画だからこそ、こういうやり方もありだろうと思っています。

──この取材スペースに伺ったとき、パソコンでクラウドファンディングのページをご覧になっていました。支援者からのメッセージにも目を通しておられますか?

すべて読んでいます。あと驚くほど明確な傾向があって「いまTシャツはXLサイズが流行りだ」と聞いていたのでXLを一番多く発注するつもりでいると、Mサイズを希望される方が圧倒的に多いのは意外でした。目下調整しているところです(笑)。

(インタビュー後編に続く)

(2023年2月13日・神戸にて)
取材・文/吉野大地

『自分革命映画闘争』
2023年/日本/165分/1.85:1/カラー/5.1ch
©︎ISHII GAKURYU
製作:石井岳龍 KDUF 監督・脚本:石井岳龍
撮影・照明・編集・VFX:武田峻彦
音楽・音響スーパーバイザー:勝本道哲
美術:谷本佳菜子 録音・音響編集:折野正樹
助監督・劇中デザイン:向田優
出演:神戸芸術工科大学・映画コース関係者有志

配給・宣伝:ブライトホース・フィルム 配給協力:杉原永純
宣伝ヴィジュアル・デザイン:加藤秀幸、柴田リオ(グラインドハウス)

『自分革命映画闘争』公式ホームページ

関連インタビュー
『ソレダケ/that’s it』石井岳龍インタビュー(前編)
『ソレダケ/that’s it』石井岳龍インタビュー(後編)

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