神戸映画資料館

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資料から辿る自主上映史② 《シネマ・ルネッサンス》の上映活動

神戸映像アーカイブ実行委員会では、2022年度より「資料から辿る自主上映史」という事業に着手している。「観たい映画を自らの手で上映する」ための自主上映の活動は、一般の商業映画館とは異なるスペースを借り、映画館では観られない多様な作品を上映する場を築いてきた、市民による草の根的な映画文化と言える。しかし、各地で勃興した自主上映の活動を伝える資料は散逸しかけている。本事業は、その発掘と整理・保存を行い、地域の豊かな映画文化の地層を明らかにしようとする試みである。

 

レポート:田中晋平(神戸映画資料館研究員)

「資料から辿る自主上映史」シリーズの第二弾として、1980年代の京都で活動した映画の自主上映グループ《シネマ・ルネッサンス》のレポートを公開する。
京都には、戦前からの長い歴史を歩んできた《京都大学映画部》の活動があり、戦後も松本俊夫の『西陣』(1960年)を自主制作した《記録映画を見る会》、あるいは《京都SEE DOCUMENTARY FILM》など、伝説的な上映グループが存在した。1970年代以降に限定しても、《名画発掘70》や《シネマ・ド・オルフェ》、日本イタリア京都会館を会場にした南光による《シネマ・リベルテ》の上映会、龍谷大学の映画研究会から生まれた《シネマ・ダール》といった上映グループが旺盛な活動を展開してきた。
1983年末に誕生した《シネマ・ルネッサンス》は、のちに京都みなみ会館の番組編成にかかわる《RCS》や、四条大宮に生まれる《スペース・ベンゲット》にも繋がる、京都の映画文化史を辿る上で重要なグループである。しかし、彼らの活動の詳細は、《RCS》の佐藤英明氏に取材した代島治彦『ミニシアター巡礼』(大月書店、2011年)などでわずかに触れられているものの、現在では振り返られる機会を失っている。

神戸映像アーカイブ実行委員会では、2022年9月に《シネマ・ルネッサンス》の元メンバーである佐藤英明氏と小林洋一氏、元《スペース・ベンゲット》のスタッフだった石原秀起氏の3名にロングインタビューを実施した。以下のレポートは、そのインタビューと当時の《シネマ・ルネッサンス》の活動を示す会報や上映会チラシなどの資料を踏まえ、聞き手の田中晋平(神戸映画資料館研究員)がまとめたものである。今回の記事はあくまで概略にすぎず、《シネマ・ルネッサンス》の活動の全貌含めて、1980年代の京都および関西の映画文化を支えた人々の存在に新たな光があたることを願う。

なお、同インタビューの成果として、《シネマ・ルネッサンス》を経て生まれた《スペース・ベンゲット》の歴史、および佐藤氏による《RCS》の活動に関しても、近日中に同ウェブサイトでレポートを掲載する予定である。

(右から)佐藤英明氏、小林洋一氏、石原秀起氏

 

《シネマ・ルネッサンス》は、明治大学を中退し、東京から京都に戻ってきたツカモトユキスケ氏が号令をかけるかたちで、卒業を控えていた京都の大学生たちが参加し、1983年に誕生したグループである。初期のメンバーの中には、のちに『ワタシタチハニンゲンダ!』(2022年)や『アイたちの学校』(2020年)などのドキュメンタリーの撮影を手がける、京都産業大学の松林展也氏、その後輩で同大学の映画研究会に所属していた佐藤英明氏や小林洋一氏、さらに同志社大学や京都大学のメンバーなど、7〜8名ほどが参加していた。ツカモト氏や松林氏ら含め、既に8mmフィルムで自主作品の制作に取り組みはじめていた人々もいた。以下で詳述するように《シネマ・ルネッサンス》の上映会では、同時代の隆盛していたインディペンデント映画の動向の紹介とともに、このメンバー自身が手がけた映画の上映も進められた。なお同じ1983年には、京都・大阪・神戸の三都市をめぐって、個人映画・実験映画の自主上映を繰り広げていく、《ヴォワイアン・シネマテーク》の活動もはじまっている。

最初の上映会から《シネマ・ルネッサンス》は、1983年の12月11日から17日までの7日間、自主管理スペースである京都大学西部講堂を借りた大規模なイベントをいきなり実施してみせた。立ち上げ人でもあり、豪快にグループを牽引していく存在だったツカモト氏が、東京の自主映画シーンに間近で接してきたことから、プログラムには、当時の東京や関西で活躍していた、メンバーとほぼ同世代である、若い自主映画作家たちの作品が選ばれた。当時は東京の若者たちが形成しはじめていたインディペンデントな映画シーンを紹介するイベントが関西では希少であり、ツカモト氏はその情報不足が関東と関西のインディペンデント映画のレベルの違いの原因になっていると感じていたと思われる。関西の自主映画シーンの底上げのため、地域を超えた映画作家の交流を促す狙いが、当初の上映企画にはあったようだ。

具体的な上映作品のラインナップは画像①を参照していただきたい。既にぴあフィルムフェスティバルなどでも注目を集め、活躍していた手塚眞の『MOMENT』(1981年)や今関あきよしによる作品集、植岡喜晴の『ワンダー・ウォール』(1980年)、《Film春夢》の二見薫の映画などが並ぶ。単にPFFに入選した作品を集めてみせる一面的なプログラムではなく、より自由で、多様な表現の作家たちをセレクトしていたことがうかがえる。

画像①

映画上映のみではなく、手塚眞の講演、トークゲストとして大森一樹、高林陽一、長谷川和彦らの名前の記載も認められる。旗揚げしたばかりのグループの呼びかけにもかかわらず、東京からこれだけ著名なゲストを招聘できたのも、やはりツカモト氏のコネクションが大きかったものと思われる。相当な意気込みで《シネマ・ルネッサンス》が始動したことが読み取れるが、会期中はトラブル続きだった。真冬の京大西部講堂は凍てつく寒さであり(この時期だからこそ演劇や音楽ライブでも使用されていないので、会場を借りられたのだが)、最終の17日には既に疲労困憊していたメンバーが、オールナイト上映にもかかわらず眠り込み、映画が終わった後に来場者に起こされるというハプニングも起きたらしい。映画上映に携わった経験のないスタッフばかりだったからこその無茶苦茶な企画だった、とインタビューで佐藤氏と小林氏は笑って回顧されていた。また、雪で覆われた西部講堂の前で、会場に来た犬童一心監督と雪合戦をした思い出なども、語っていただいた。

勢い込んで開催した旗揚げ上映会は大赤字だったが、その後も《シネマ・ルネッサンス》の上映会は、3〜4ヶ月に一回程度のペースで開催されていく。1984年4月2日に京都ビブレホールで開催された第2回の上映会で取り上げられたのが、スタジオ・デルタ主宰の高岡茂監督、立原啓介主演による自主映画『こわされた夏の幻』(1984年)だった。1984年5月25、26、27日に京大西部講堂で行われた第3回の上映会では、既に東京で大きな話題を呼んでいた山本政志監督の『闇のカーニバル』(1981年)を「京阪神独占ロードショウ」と銘打って上映している。さらに、1984年11月23日には、一乗寺にあった名画座・京一会館を会場に、第6回「黒沢清&パロディアス・ユニティ作品 特別オールナイト」を開催。黒沢による『SCHOOL DAYS』(1978年)や『しがらみ学園』(1980年)といった8mm作品から35mmの『神田川淫乱戦争』(1983年)まで、全7作品を上映し、会場は満席で熱気に包まれた。インディペンデントから商業映画の世界に進出しはじめていた当時の山本や黒沢たちの映画が巻き起したムーブメントに触発され、《シネマ・ルネッサンス》としても、さらに関西で自主映画を支えるための動きを活発化させたようである。

東京のシーンを牽引する映像作家らの紹介を進める一方、上記のように《シネマ・ルネッサンス》のメンバーたちの映画制作も並行して実施され、完成した作品を見せる催しも行われた。1984年8月5日から12日まで、河原町三条のジャズ喫茶・ZABOで開催された第4回の上映会では、ツカモトユキスケ氏の監督した『カンカンランラン』(1984年)が上映された。第5回は、松林氏による8mm作品の『踊り空かそう』(1984年)が取り上げられるが、上映形式がユニークで、音楽バンドなどによるライブツアーの形式を踏襲、関西各地のライブハウスなどで上映会が実施される。まず、1984年9月30日に和歌山のぼらBORAで、続いて10月7日に京都の北白川銀閣寺道にあったCBGB、10月14日には滋賀の瀬田駅前のENYA、10月27日は神戸三宮のKAMI倶楽部、11月10日には大阪千里の北大阪ビデオセンターが会場となり、関西五地区を周った。このツアー形式は、「FILM & LIVE」と呼ばれるようになり、《シネマ・ルネッサンス》が当時のパンク・ムーブメント、そのGIGのライブ性などにも惹かれていたことが表れている(ギターの代わりにフィルムと映写機などの機材を車に積み、各都市をめぐる)。1985年3月の第8回の上映会は、「西日本シネジャックツアー」(岡山、福山、広島、福岡の4都市で開催)と題して実施され、さらに第9回の京都の老舗ライブハウス・磔磔で行われた、石井聰亙『シャッフル』(1981年)の上映は、パンクバンドのコンチネンタル・キッズのライブと組み合わされた。そして、第10回の上映会では、名古屋のライブハウスのE.L.L.、京都の磔磔、大阪のエッグプラントを周り、三都市で『裸の24時間』を上映する。バンド、アナーキーのギターリストだった藤沼伸一、BOØWYのヴォーカルの氷室京介、女優でのちに音楽活動もはじめる日野繭子が登場する映画だが、こちらも藤沼のバンドのライブと映画を組み合わて実施された。

第10回以降の《シネマ・ルネッサンス》の主催企画は、順番は明確でないものの、1980年代末まで、上映にとどまらず自主映画の制作や配給も手がけた活動の痕跡が、残されたチラシなどから確認できる。CBGBで行われた、原将人による『JACKS 早川義夫 自己表現史』(1969年)の上映会(ビデオによる併映作品として『天国注射の昼』(1983年)やイギー・ポップ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのライブ映像などが日替わりで上映された)。1986年11月から、四条木屋町に現在もあるJAZZ IN ろくでなしで開始された、「RETURN OF THE WAKAMATSU PRO」と題された若松プロ作品と別監督の作品を組み合わせて上映していくシリーズ。京大西部講堂で実施された河原木宏尚監督で中村達也らが出演している『CRAZY DOLLS-黒い羊の神話-』(1986年)と、伊藤高志『GRIM』(1985年)、山崎幹夫『泥の中で生まれたら』(1986年)、飯田譲治『デッドフラワーズ』(1982年)、平野勝之『狂った触覚』(1985年)などを組み合わせた上映会。同じく西部講堂での『ノイバウテン・半分人間』(1986年)をはじめとした、「石井聰亙フィルムライブスペシャル」や山田勇男監督の全作上映。流山児祥が監督した『血風ロック』(1985年)の上映会。どん底ハウスというスペースを借りた、高野文子原作、斎藤久志監督『うしろあたま』(1984年)の上映会。1987年夏の京都で麿赤兒の大駱駝艦が主催した一大イベント「亜細亜の巷・鬼市場」内での松井良彦監督『追悼のざわめき』(1988年)の上映など。こうした上映イベントのチラシの一部、また『シネマルネッサンス通信』というグループの発行物には、ツカモトユキスケ氏の署名入りの檄文(?)が掲載されており、当時の活動の企図をうかがわせる。ただし、今回インタビューした佐藤・小林両氏の証言によると、1980年代末までこうした旺盛な上映活動を続けるなかで、グループの中心人物だったツカモト氏と、大学を卒業、就職して働きはじめた他のメンバーたちとの間の温度差も徐々に顕在化していったとのことだ。

小林氏は、《シネマ・ルネッサンス》の活動を通じて、園子温などが当時手掛けていた映画に接し、よりパーソナルなかたちで制作される映画に惹かれはじめていた。そのなかで1988年に、四条大宮の北海道料理店「石狩」3階にオープンした「自然堂」という自主管理されたスペースが、末期《シネマ・ルネッサンス》の上映活動の拠点になる(《京大映画部》や《ヴォワイアン・シネマテーク》などのグループや個人の表現者らも、自然堂の創設メンバーとして関わっていた)。そのうちにツカモト氏が日本を離れることになり、さらに1990年に自然堂の元の管理者がいなくなったのを契機に、会場を「スペース・ベンゲット」に名称変更、法人化して上映スペースとして再出発することが決まる。その時点で、《シネマ・ルネッサンス》とツカモト氏の名前を外したことで、グループとしての《シネマ・ルネッサンス》の活動の歴史は幕を閉じたと言えるだろう。一方で佐藤氏も《シネマ・ルネッサンス》とは、また別の道に進む。1986年にトーキング・ヘッズの『ストップ・メイキング・センス』(1984年)の上映を京都駅前のルネサンスホールで成功させて、翌年には勤めていた会社を辞めて《RCS》を立ち上げ、やがて京都や関西各地の映画館との連携を広げた活動に至ることになる。

《シネマ・ルネッサンス》から発芽したこの二つの新たな活動、《スペース・ベンゲット》と《RCS》が、それぞれ京都の地で、どのような上映スペースを運営し、映画興行に携わっていくことになるか、次回以降の記事で紹介したい。

 

資料から辿る自主上映史①
資料から辿る自主上映史③ 《スペース・ベンゲット》の上映活動
資料から辿る自主上映史④ 《RCS》の上映活動

事業主体:神戸映像アーカイブ実行委員会
助成:神戸市「まちの再生・活性化に寄与する文化芸術創造支援助成対象事業」
共催:科学研究費補助金「日本における1980年代の非商業上映と文化政策の研究」(代表:田中晋平)

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