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『自分革命映画闘争』 石井岳龍監督ロングインタビュー(後編)

©︎ISHII GAKURYU

2006年の着任以来、この春まで教授を務めた神戸芸術工科大学映画コースを舞台にした石井岳龍監督の新作『自分革命映画闘争』。自身が演じるMAD教授の失踪で幕を開け、視覚・音響化した心象風景、様々な映画の記憶、学生や教員たちとの制作ドキュメントなどをパッチワーク状に繋ぎ合わせた作品は、自己と映画の拡張を試みる監督が始原に立ち返り、「映画とは何か」と自問し、その問いを観客にも投げかける。インタビュー前編で語られた「映画の可能性」を更に探りたいと思い、続けてお話しいただいた。

なお、本作の公開支援クラウドファンディングは3月13日(月)23:59まで展開中だ。

 


──本作は165分と長尺で、ご著作『映画創作と自分革命』(2022/アクセス)では、こうした作品の実験性や内的対話力を『立ち去った女』(2016/ラヴ・ディアス)などを例に「スローシネマ」という言葉を使って述べておられます。構想の時点で長尺の映画をイメージされていましたか?

結果としてこの長さになりました。脚本を書いている段階で「これだと3時間近くなる、どうしよう」と迷いましたが、自分の中に「スローシネマ」という概念がありました。本来の意味合いではないかもしれないけど、一般の商業映画と違い、噛みしめたり浸るような時空間の中で観てもらえる映画が出来ないだろうかと考えました。ハリウッドのメジャー映画的なスタイルでは表現できない映画や、人生の一部のような時間を体験できる映画です。本では言及しませんでしたが、『EUREKA ユリイカ』(2000/青山真治)もそうだったと思うし、『エロス+虐殺』(1969/吉田喜重)、娯楽映画だけど『宮本武蔵』5部作(内田吐夢/1961-1965)なども私にとってはスローシネマです。
さらに、これだけ複雑多様になった社会の中で、2時間の枠ではテーマを表現し切れないという志の高い監督たちが力作映画を生んで来た。それは堪らない体験です。「これを配信で観ては駄目だ。臨場体験性が損なわれる」と諦めがついたし、しかもその作品を観るためには半日ほど空けておかないといけない。濱口竜介監督の『親密さ』(2012)や『ハッピーアワー』(2015)も覚悟を持って撮られた映画でした。

──本作と『ハッピーアワー』はロケ地が神戸、長尺、非職業俳優の起用、作品にワークを取り入れていることなどが共通しています。監督からの『ハッピーアワー』へのアンサーではないかと思いました。

それは全然考えていませんでした(笑)。そう言ってもらえるだけでありがたいです。

©︎ISHII GAKURYU

──多くの共通項があっても異なるタイプの映画に仕上がっていて、いずれも創り手の個性が如実に表れていると感じました。「神戸の映画史」が更新されたとも思います。

神戸に住んでいて映画を撮っている方たちは、見慣れた風景にあまりありがたみを感じられないかもしれません。でも撮り尽くせない魅力を持つ土地で、街の方たちの協力的な態勢や映画館の多さも含めて、とても恵まれていると思います。私はまだ全然撮れてなくて、今回もロケハンしてみて新たな発見が色々ありました。

──本作にはメタフィクションの要素がありますが、それだけに収まらない多層的な魅力を持っています。作品の全体像はどのように構成されたのでしょう。

ドラマの基本として、伏線を設けて回収するのは基本中の基本です。でも今回ははなからそれを無視しています。そうじゃないところで映画を面白くすることを意識しました。いつも、自分は計算してそこへ至るのではなく、全体が交響曲のようにパッと思い浮かびます。そのパズルが崩れると、もう一度組み立て直さないといけない。
本作もコロナ禍による撮影延長期間が1年あったので、カットせざるを得ない変更点が生じるたびに、そこから組み直しました。といっても緻密な計算が出来ないタイプなので、計算ならざる計算ですね。「こういうことはやらない」「これは必要だ」と考える基準は確実にあります。でも本作でそれがどこだったのか、今すぐには思い出せないです(笑)。

──それほど変更点が多かったということですね。以前から監督は夢や無意識を創作に取り込んでこられました。著作によれば、最近はアップルのアプリ「メモ」の音声認識文字機能も活用されています。そうして集められたアイデア群がうまく結び付かないケースもあるのでしょうか。

やっぱりそれはあって、取り入れられないものはすべて捨てます。たとえば「洞窟の奥」というイメージは昔からあったものですが、かつては怖くて踏み入れられなかった。それが数年前から、その奥へ進む夢をよく見るようになって「恐くても突っ込んでゆくのは大事なことだ」と思えるようになりました。それが本作での、心の奥を探ることや映画の本質である闇の奥へ進み、その先で自分を超えることのヴィジュアライズに繋がっています。

──それに関連してドアーズの楽曲名でもある「Break on Through to The Other Side」というフレーズが劇中に使われています。ご著作の第四章の項題も「向こう側へ突き抜けろ!」。監督のルーツのひとつですね。

ドアーズは昔から大好きでした。それからボブ・ディランの「LIKE A ROLLING STONE」「見張り塔からずっと」もやはりそうです。

──興味深いのはそこに、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』のモチーフを絡めている点です。

フーコーの理論を改めて読み直して、「いま自分たちはこういう時代に生きているんだ」と実感しました。ディランの歌はそういう内容ではないかもしれませんが、監獄と見張り塔のイメージが重なるし、最も好きな曲でもあります。

──その重ね合わせをどう表現しているかは映画をご覧いただくとして、字幕を多用しておられるのも本作の特色です。昨年、ジャン=リュック・ゴダールがこの世を去って「もう新作映画で画面を読むこともないのか」と寂しく思っていると、本作が待っていました(笑)。サイレント映画の影響もあるでしょうか。

そこは臆面もなく、自分なりに取り入れさせてもらおうと思いました。字幕の一部は、実際に大学の授業で使っていたものです。「MAD教授が仕掛ける罠」や「MAD教授の戯言」という捉え方も出来るでしょうし、当然、ゴダール監督のイメージもあって、サイレント映画を意識されていたことに対するリスペクトの表明です。でも同じような使い方じゃなく、この映画に幾つかの意味を与える必然性があればいいだろうと考えました。やってみて面白かったし、これもひとつの方法だと思いました。

©︎ISHII GAKURYU

──「読む」といえば、数々の映画本も被写体になっています。

理由のひとつは、学生たちに興味を持ってもらいたかったからです。うちの学生にはシネフィルと呼ばれる人はほとんどいなくて、「この映画はこんなに面白いんだ」と言っても伝わりづらい。でも自分たちが関わった映画の中で、演じた役の参照元になった映画や、写った本に関心を抱いてほしいと思ったんです。

──これほど映画本が写る作品は珍しい気がします。

フランソワ・トリュフォー監督の映画にはそんな印象があって、『アメリカの夜』(1973)でも映画本が写ります。

──注文した映画本が届くシーンがありましたね。

特に、本作は大学で映画を学ぶ学生たちを描く作品なので、今でなくても数年後でも何十年後でも「あのときの本だ」「あの映画だ」と気づいて体験してほしいと思います。

 


──続けて音や撮影に関して教えてください。音楽にヴァリエーションがあり、冒頭の原始的なリズムを強調したライブ感のあるサウンド、アンビエント、歪んだギターサウンドなど多彩なジャンルの楽曲を聴くことが出来ます。

場所やシーンが醸し出す多様なリズム、多様な振動──胎動、波動、鼓動とも言い換えられる──を音にしてほしいと、勝本道哲博士(神戸芸術工科大学講師/音楽・音響スーパーバイザー)に以前から伝えていました。一方、自分の中にもイメージがあって、それを編集の最終段階で当てはめていきました。現実を超えて、私たちの内に眠っているミクロなものがマクロなものへ繋がってゆくイメージ。それをもとに、勝本博士が5.1chで立体感のある音へと詰めてゆく作業でした。
勝本博士とは長いあいだ組んできて、今回は一種の集大成的な見事なサウンドになったと思います。その音は「第四世界の鼓動」というテーマにもなっているし、自分たちを形づくる根源的で大きな存在、そして各シーンにシンクロする音が自然にうねりを持つように、と考えました。おっしゃられたライブ感のある音も、そういう組み立て方で、ライブコンサートのような臨場感を伴って、一種のトリップとも言える作品世界を観客の皆さんに体感してもらいたいというのがひとつの狙いです。でも、狙いがひとつの意味だけに集約されてしまうとつまらないといつも考えていて、観る方それぞれが色んなことを感じてもらえればありがたい。これも基本的には「映画とは何だろう」という問いで、ひとりひとりが音響から異なる何か──大事な映画と思えるもの──を感じ取ってくれればいいと思っています。

──『ソレダケ/that’s it』(2015)は前方だけの3chでbloodthirsty butchersの楽曲を活かしたサウンドデザインを施していました。本作は5.1chです。その違いについてお聞かせください。

勝本博士が「今回は5.1chでいこう」と提案してくれました。自主制作でその音創りの大変さは充分承知していましたが、自分もまさにそうだと思ったし、これまで様々な試行錯誤を経てきました。『生きてるものはいないのか』(2012)も5.1chでしたが、私たちの理想の音が映画館でなかなか再現できないジレンマがあり、『ソレダケ/that’s it』は無理して5.1chでなくてもステレオの2chでいい、といってもセンタースピーカーがあるので真ん中を強くして、ラウンドを犠牲にしてロック感をしっかり出そうと3chを選びました。前作の『パンク侍、斬られて候』(2018)は予算があって音も創り込みが出来た。今回は自主制作だけど究極の5.1chを目指して、卒業生の折野正樹くん(録音/音響編集)が見守り、学生たちが自分たちでフォーリー(効果音響)や環境音を録り、ミックスを──最終的に勝本博士にまとめてもらいながら──担当して、特に学生数人はずっと粘り強く取り組んでくれました。まさかここまでの音になるとは思ってなくて、これがなければ作品の臨場感が半減するだろうから、本当に助けられました。

──試写会場で聴いたギターの音圧には驚かされました。ライブハウスで聴く音より太く大きいかもしれません。

あれは自分でも驚きました。この音を劇場でも出せれば楽しいだろうと思います。

©︎ISHII GAKURYU

──「耳は眼よりも創造的だ」というテロップもありますね。

あの言葉はロベール・ブレッソン監督の名言です。視覚よりも聴覚のほうが創造的なのだと。

──インタビュー集*でも繰り返し語られる言葉です。
*「彼自身によるロベール・ブレッソン インタビュー 1943–1983」(2019/法政大学出版局)

ものすごく痛い、突き刺さる言葉でもあって、ブレッソン監督はそれほど研ぎ澄まされた音で勝負されているので、本当に頭が下がる思いです。よく勝本博士とも話しますが、たとえば何でもない環境音を録る場合でも日本では飛行機の音などの雑音との戦いがあって、「音で勝負したい」と思っても現実はなかなか厳しい。音楽に頼っているわけではないけれど、自分はロックから音楽にのめり込んだので、作品全体をライブ的にしたい思いがあります。その一方で純粋に創造的に存在するリアルな単音だけで勝負したい思いもあって、そこはこれからの課題です。

──撮影面では360度パンを使っておられます。これは『ベルリン・アレクサンダー広場』(1980/ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー)や、監督の『狂い咲きサンダーロード』(1980)でも見られた技法です。

エネルギーや円環を象徴していて、とても好きなんです。渦巻きを描くのが、自分と映画の接点としてピタッとハマる感覚があります。マックス・オフュルス監督の『歴史は女で作られる』(1956)の曲線的なイメージも観ていてゾクゾクしますね。自分の考える映画的な動きと、あの動きが一致していて、撮っているときも観ているときも恍惚感を覚えます。円形レールはレンタル代が高くて以前はあまり借りることが出来ませんでしたが、最近は使わせてもらっています。

──作品自体も円環構造になっていますね。

振り返ると、『高校大パニック』(1976)からそうでした。歳を取ったのにデビュー作と同じ造りになっていて(笑)、教師と学生が反転する。それは自分のアナザーサイドということでもあるだろうし、回りながら上昇している感覚がいつも自分の中にあります。この映画にも必然的な流れだったんでしょう。
とんでもない娯楽性と普遍的なテーマ性の両方を与えてくれる映画を浴びて育った世代なので、それらを統合できれば強い映画力になる筈です。ただ、最近は商業映画と自主制作映画を完全に切り分けて考えてもいいのかなと思う部分があって、そのときに出来ることをやっていければいいとも考えています。以前はそんなふうに考えなかったけれど、「役に立ちたい。貢献したい」と思う局面も増えてきました。一方で、個人的な作業としてしか出来ないことも両立できればと思っています。

 


──本作のモチーフとして「自己の拡張」も挙げられるかと思います。映画から少し話が逸れますが、インターネットが普及しはじめた頃に「これはすごい拡張ツールじゃないか」と思っていたのが、現在、特にコロナ禍を経てからは「むしろ分断のツールではないか」と感じることもあります。監督はこの状況をどう捉えておられるでしょうか。

ネガティブに捉えるとそうなりますね。ただ、自己を拡張するツールであることは間違いない。スティーブ・ジョブズが、本来は国家的な財産であるコンピューターを個人単位のツールに変換してくれたのは革命的に偉大なことです。でも、そこから先は個人に委ねられていて、映画でも音楽でも私たちが大事に使わないと悪い方向へ向かってしまう。どこで踏みとどまるかを考えないといけない。

©︎ISHII GAKURYU

──「映画とデジタル」に関していま思うことを教えていただけますか?

映画って本当に不思議なもので、特にデジタルになってからはなおさらですが、初めて観る人にとっては、たとえ過去の作品でもつねに「新作」です。旧作も今はデジタルリマスターによって、驚くほどの高画質で蘇っています。古典サイレント映画のリマスターを見ると「こんな映像だったんだ、新作よりすごいかもしれない」と感じるほどで、映画は「残るもの」だということがより鮮明になってきている。それを「情報」として使うのか、もしくは「体験」として活用するのかも個人に委ねられています。デジタルの発達は創り手にも影響していて、今後創られる映画たちもそういう運命にある。だからこそしっかり創り込まないと、ミスが永遠に残ってしまう可能性があります。
過去に傑作を創った人たちは、後世まで作品が観られるとは考えていなかったかもしれません。フランスなどアーカイブをしっかりしている国は別ですが、私も少年時代、町の映画館で映画を観ながら「これは二度と観られない」と思いながら繰り返し意識に刻み込むように観ていました。好きな映画は封切りが終わるまで、二番館、三番館と追いかけて「悔いが残らないよう記憶に刻もう」と、すごい気合を入れていました(笑)。本作も「もう一度観たい」と思ってもらえる映画になれば嬉しいです。

──長尺のスローシネマも観る際に気合や集中力が求められます。配信やソフトでの鑑賞はそれがどうしても途切れがちで、映画館が最も適した環境だと実感します。

足を運ぶのが難しいときもあって、映画館でしか映画を観ない生活は現実的にはあり得ません。「絶対に」と思う作品は、配信でもとにかく観るようにしています。「これを観たかった!」という作品もありますから。それでも映画にとって映画館とは、ジョン・フォード監督作品の中の「最後の砦」みたいなもので、何としても守らないといけない。でもそれはひとりで出来ることじゃないので、そう思っている人が皆で守るしかないと思っています。具体的な手立てはわかりませんが、自分はそういう場で観ていただける作品を創ることと、ひとりでも多くの観客を獲得することを目指しています。その次には「自分にも出来るんじゃないか」「こういうことをやってもいいんだ」と思う人を招き入れたいです。

──かつて、8ミリカメラを手にしたときの監督の姿が思い浮かんできそうです。……ここまでお話を伺って、これを訊ねるのは具問ですが、監督は80年代前半に「石井聰亙&バチラス・アーミー・プロジェクト」としてバンド活動*もされていました。その後の展開も充分あり得たかもしれないのに、「映画だけ」の道を選んだのはなぜでしょう。

バンドでの音楽活動も結局、自分にとっては「映画」だったと思うし、やっぱり切り離しては考えられなかった。逆にいえば、今は映画とロックの重要性を切り離せません。それは名づけようのないものだけれど、自分が大切だと感じる表現です。映画の持つ幻影のマジックによって「永遠の一瞬、一瞬の永遠」のようなヴィジョンを観る人と自分が体験する。それも作品ごとに変化して、自分とスタッフ、及び支えてくれる人たち、そして観客の皆さんと共にその都度、創り上げるものだと思っています。
*1983年に『アジアの逆襲』サウンドトラック・アルバムを発表。

 


──それから本作を観ながら思い出したのは、むかしラジオを聴くときに、ダイヤルを細かく回して周波数にチューニングした感覚です。今はそのタイプのラジオが減っていて、読んでくださる方に伝わらないかもしれません(笑)。

そういう観方をしてもらえれば嬉しいです。観る人と、その共有を図りたい思いがあります。情報として与えられたものをその通りに受け取るのではなく、新しい領域を探ってほしい。ゴダール監督作品を観ているときに、自分が使ったことのない回路をくすぐられて、それまで途切れていた部分が繋がる醍醐味をよく感じます。私はゴダール監督みたいに先鋭かつ固い意志で、禅の公案のようにして映画を完成させることが出来ず、自分なりの娯楽にしてしまう性(さが)があります。そこがちょっとゆるいのかもしれないけど、普段は使ってない神経を刺激したり、回路が繋がってゆくダイナミズムを望んでいます。
自分の可能性や、忘れていたり眠っている感覚を働かせないと追いつけない表現は、人によっては放棄してしまうかもしれない。どこに観る人の感性が反応するのか? それは私には決められません。でも映画のそうした力を試すために、この映画を創ったことは確かです。

──実際、不意に忘れていた記憶を突かれたり、思いもせぬイメージが繋がりました。その意味で「開かれた映画」だと思います。

よく出来た「閉ざされた映画」とは真逆のものを目指しました。本作ではいろんな可能性の種を発芽させたかったし、実際にやってみないとわからないことも多くありました。自分たちの可能性を最大限に発揮して、その時々に参加してくれた人たちの──生々しさというのか──隠された部分もたくさん表れています。一般的に考えられている「キャラクター」や「演技」を超えたところで面白さを見せられないだろうか。それも大きな課題で、学生たちのなかには「映画一辺倒」ではない人もいます。でも不思議なことに、カメラの前に立って真剣に演技していると、映画的な存在になっていくんです。段々と映画的な「顔」に見えてくるのは想定以上でした。

©︎ISHII GAKURYU

──カメラがもたらすその変化も、映画的なアクション=動きや流動性のひとつではないでしょうか。

何か回路が生まれるんでしょうね。カメラアイというとても冷酷な視点を前にすると嘘をつけないし、そこから逃れられない。取り繕っても自明の理なので、自然体で思い切りやるしかない。そのときに発動する輝きは見ていて面白い筈です。そういう魅力は誰しもが持っていて、人の数だけあると思っています。それを冷静に、輝かしく撮れる装置の素晴らしさを改めて感じました。
その分、取り扱いには注意が必要だし、繊細なものだとも思います。カメラアイは私たちが考える善や悪、美や醜を超えたところまで写し出します。私にとっては量子的な秩序次元、仏教でいう「空」と等しい関係にあります。それを組み立てないと表現になりませんが、組み立て方のひとつを自分流の乱暴な方法で探った映画と言えるのかもしれません。

──丹念に組み上げられたことが窺える一方で、ところどころに乱暴さや無謀さがあって、監督らしさを感じました(笑)。

決めつけられてたまるか、という意思表示でもあります(笑)。でも『高校大パニック』などの作品と違うのはカメラの発明、リュミエール兄弟や彼らが捉えた光と闇、そして長い年月をかけてここまで映画を発展させた先人たちなど、すべてに対して尊敬や畏怖があることです。デジタルの進化がなければ、こんなことは出来なかった訳で、当然そこへ対する尊敬の念も抱いているし、同時に「映画とはこういうものだ」と決めつけないでくれ、という思いがあります。

──尊敬の念の反映でしょうか、作品のラスト、いわば「出口」が過去作に比べてポジティブになった印象を受けます。

自分でも第二のはじまりの映画だという気がしています。ようやくここまで来られたのだから、ここからまたしっかりはじめよう、と。前作からの5年のあいだにサイレント映画の素晴らしさを改めて感じたし、本作においてリスペクトしている方たちの映画もそうです。逆に言えば、ただただ純粋に文句なしの娯楽映画を監督することを渇望するほどでした(笑)。

──様々な映画とその歴史が響き合う作品になりましたね。さて、劇場パンフレットに掲載される武田峻彦さん(神戸芸術工科大学助教/撮影、編集、出演、照明、VFX)のプロダクションノートにはDCPをつくり直した逸話と、「237,600フレーム+α」というワードがあります。是非とも読んでいただきたい寄稿ですが、最後に「+α」のことを伺えればと思います。

今までそういう言葉を作品に使ったことはなかったけど、『生きてるものはいないのか』以降の私の映画に出演してくれて、創り手でもあった津田翔志朗くんに捧げる言葉を入れました。津田くんは撮っていても、映画の真面目な話をしても本当に楽しかったし、濱口竜介監督の魅力を教えてくれたのも彼で、私にとっては先生でもありました。
私の映画に出てもらえたのは本作まで、他には出演していないと聞いているので、これが俳優としての最後の姿になります。でも映画の中でずっと生き続ける。いわば一種の生命体で、実体はないけど命を持っていることも映画の力で、それが見えてくるのも映画館だと思うんです。配信で映画を観ても感動はしますが、「情報」に留まってしまう側面もなくはない。空間を完全に暗闇にしたり意識をそういう集中状態にすれば映画館に近い環境にはなるけど、それが難しいときもある。上映のあいだ、ずっとそこに座って観るしかない状態に身を置いて、大きな映像と途轍もない音響空間を──個的ではあっても──他の観客と共に体験する。その中に津田くんの姿を残せたことをありがたく感じます。
自分にとっては終わりとははじまりで、永遠に円環するもの。だからこそ映画には可能性があって、はじまって終わるだけじゃなく、それを超えて、映画は観た人の中で生き続けます。人生もそうで、あるとき突然、はじまったり創り上げられたり、終わったりするものではなく、日々の目の前の瞬間の積み上げでしかない。なおかつ、その積み重ねには特別な人に限らない、ごく普通の人にとっても大切なものが含まれているだろうし、「貴重」と「平凡」の差もないと思っています。たとえ他の人にはつまらない映画だとしても、観た人に大事なものを与えてくれたなら、それは貴重な映画です。
しかし、面白い映画は踏ん張らないと出来ないし、本作のような映画は圧倒的に創りづらい。観ていただく機会もなかなかないので、重要だと信じるならばそれを創っていくしかない。こういう形の作品になったけれど、もしかして観てもらった人の心の中の何か大切なものに──体験として──触れてくれるならば、と願っています。

©︎ISHII GAKURYU

(インタビュー前編)

(2023年2月13日・神戸にて)
取材・文/吉野大地

『自分革命映画闘争』
2023年/日本/165分/1.85:1/カラー/5.1ch
©︎ISHII GAKURYU
製作:石井岳龍 KDUF 監督・脚本:石井岳龍
撮影・照明・編集・VFX:武田峻彦
音楽・音響スーパーバイザー:勝本道哲
美術:谷本佳菜子 録音・音響編集:折野正樹
助監督・劇中デザイン:向田優
出演:神戸芸術工科大学・映画コース関係者有志

配給・宣伝:ブライトホース・フィルム 配給協力:杉原永純
宣伝ヴィジュアル・デザイン:加藤秀幸、柴田リオ(グラインドハウス)

『自分革命映画闘争』公式ホームページ
石井岳龍監督Twitter

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