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『DOOR』デジタルリマスター版 配給・生駒隆始 《アウトサイド》 インタビュー(後編)

©︎ エイジェント21、ディレクターズ・カンパニー

鏡と並ぶ映画的装置といえる「扉」。ディレクターズ・カンパニー後期に高橋伴明がその「扉」をモチーフにつくり上げた『DOOR』(1988)デジタルリマスター版を、シリーズ第2作『DOOR2』(1991)と共に配給する生駒隆始インタビュー後編では、原版ネガ発掘以降の流れ、ディレカン末期の混沌、さらに新たな発掘と映画保存まで話が及んだ。

 

──復元の話題の前に、配給業務に関してもお聞かせください。2003年、生駒さんが最初に配給を手掛けられたのは『マルグリット・デュラスのアガタ』(1981)でしたね。

初見は20代の頃でした。プラネット映画資料図書館がまだ大阪・南森町にあった頃、手前にあった大阪日仏センターが当時の東京日仏学院から語学学習のために16ミリフィルムを借りて上映していたときに『アガタ』を見たんです。それから時を経て自分で配給・宣伝をはじめるときに「あの映画に字幕を入れて上映したい」という気持ちになったんです。デュラスは大きな影響を受けた作家だから『アガタ』を選びました。あの映画をスタートに選ぶ人はいないと思います(笑)。

──公開から今年でちょうど20年。すごい挑戦でした。

だからやってみたいと思ったんです。デュラスはずいぶん昔、ケーブルホーグとアテネ・フランセ文化センターで何本かやってからは上映の機会がなく、やはり『アガタ』を配給することが自分自身にとって正直なことでした。まさか『DOOR』の取材でデュラスの話が出てくるとは思いませんでした(笑)。
公開の1年ほど前に横浜でフランス映画祭が開催されて、主演のビュル・オジェが招かれました。そこで特別にインタビューさせてもらい、大緊張しながらサインもいただいた。インタビューはのちに『アガタ』のDVDに特典として入れました。

──来場者とDVDの特典にはカットフィルムも付けておられて感激しました(笑)。

35ミリのカットフィルムがまだ残っていたので、DVDの担当者と相談しておまけとして付けました。なぜあのようにフィルムを使えたかというと、『アガタ』は16ミリで撮って35ミリで仕上げていますが、公開にあたり宣伝用の画像が必要になった。でも旧作だから何もない。使いたい場面を35ミリのポジフィルムからデュープしてネガに起こして、それをポジに焼いて宣材素材の35ミリフィルムをつくったんです。そこからさらに選んだ画面をデザイナーさんのPCに取り込んでもらって(笑)。ものすごい手間がかかりましたが、予告編も35ミリでつくっているので、あれはいわばその端尺です。

──今とは宣材のつくり方がまったく違いますね。

昔はそれが当たり前だったんでしょうけどね。『アガタ』公開時、2000年代初頭はDCPがなく、まだDVDの時代でしたが、35ミリを素材にして映画の宣材をつくるというのは、あまりなかった気がします。ただ、一から全ての宣材をつくる作業を経験したのは自分にとっても勉強になったし、『アガタ』のビジュアルが出来たのも、フィルムをひとコマずつ見て「どれを選ぼうか」と吟味した結果でした。

──生駒さんの配給会社名《アウトサイド》の由来は、やはりデュラスでしょうか。

もちろんそうです(笑)。

──デュラスのような一般的に「アートフィルム」と呼ばれる映画から『DOOR』『DOOR2』まで配給の振り幅が広いですね。いずれも傑作という点で変わりはないですが。

今回の『DOOR』や黒沢清監督作品と、デュラスの映画とのあいだに違いがあるとすれば、ワンカットの尺が短いか長いかの差くらいだと思っています。説明のための説明の映画やテレビサイズの映画はまったく受け付けられないし、予定調和や定番もダメなんです。「自分の好きな映画を信じたい」と感性で選んでいるだけなんです。デュラスみたいな映画ばかり配給したい気持ちは今もあります(笑)。

──でもその幅が特色ですよね。さて、『DOOR』シリーズの発掘・復元に話題を戻して、岡本史雄さんが保管されていた『DOOR』のネガの状態はどうでしたか?

比較的よい状態で、リマスターの作業は『地獄の警備員』と同様にクープ (旧「キュー・テック」) でおこないました。もともと東京現像所にいたスタッフがやっていて、技術のクオリティが高く人柄もよく、営業も出来る。『地獄の警備員』は東京現像所にネガを出してもらったのでリマスター化も東現で、とするのが筋ですが、見積りを出してもらうとお高い。ところがクープだとずいぶんお安い。頼む側としては「リマスターする機材や設備があまり変わらないのであれば、この差は何だろう」という疑問に突き当たるわけです。クープには酒見さんという技術系にしては珍しく器が大きな男がいて、安心して預けられるところだったのでネガを送りました。ところが『DOOR』に関しては問題を抱えていて、音ネガがなかったんです。

──まさかそんな落とし穴が待っていたとは。

岡本さんのお宅にあったリストには「音ネガもある」と記載されていたけど、何度探してもらっても見つからない。そこで、まず画ネガだけクープに入れました。ただ、その状況でも僕はあわてなかった。というのも、その前に一度〈学習〉していたからです。『地獄の警備員』を東京現像所から返してもらったときは画ネガと音ネガがありましたが、音ネガの状態がものすごく悪くて「使えない」という判断に至った。実は『地獄の警備員』デジタルリマスター版には原版の音ネガを使ってないんです。

──音ネガを使えないとなると、どう対処されたのでしょう。

クープから「VHSを貸してください」と連絡がありました。「それで充分対応できるから」と。「DVDだと駄目なのか」と訊くと、VHSのほうがいい音だそうです。

──それは初耳です。神戸映画資料館で『地獄の警備員』デジタルリマスター版を見て「いい音だ」と感じました。

アナログの音なので、やはりDVDよりVHSのほうがいいようですね。だから『地獄の警備員』デジタルリマスター版は、画ネガとVHSの音で完成させたんです。その経験があったので、音ネガがなくてもVHSさえあればつくれることはわかっていた。でも『DOOR』のDVDは持っていたけどVHSを持ってなくて、急いでネットで調べて3千円くらいで手に入れたんです(笑)。そうして購入したVHSの音から完成させた。黙っていれば誰にも気づかれない。本当は人に言えない話ですけど(笑)。
チェック試写の段階で音がいいのはわかっていましたが、昨年の東京国際映画祭でもやはりそういう反応でした。「画もいいけど音もいい」と言ってもらえて嬉しかったですね。デジタルの技術はすごいと思いました。

©︎ エイジェント21、ディレクターズ・カンパニー

──大胆な音響を施した印象を受けますが、それには音質も影響していると思います。

音ネガとVHSの音、それぞれでつくった音を聴き比べてみないと実際に細かいところはわかりません。比較が不可能だったのでそのような形を採りましたが、『地獄の警備員』『DOOR』の音はVHSから録ったものなんです。

──約30年の時間が過ぎて、こうした形でディレカン作品に関わられているのは偶然も作用したでしょうが、会社への思いが反映されていますか?

『DOOR』の件で高橋監督と初めてお会いした際に、ネガ発見の経緯と、僕自身の気持ちをお伝えしました。ディレカンでは全くといっていい程、お金を貰えませんでした。むしろ会社のために、宮坂さんがお金をつくる錬金術のお手伝いさえやらされました(笑)。被害を受けた側だけど、様々なことを学ばせてくれた大切な会社です。同時に時間が経って思うのは、『地獄の警備員』だけの関わりだったはずが、岡本さんとの再会、市山尚三さんにディレカン特集の企画を出したりと、時を経てディレカンと関わりを持つとは意外であり、言い方を変えれば「心外」でもあったんです(笑)。「なぜ自分がディレカンの今を引き受けないといけないんだ」という気持ちがあって。宮坂さんと最後まで会っていた僕がこの役割を引き受けなければいけないという気持ちと、畏れ多いし嫌だという複雑な思いです。実は(中心メンバーだった)長谷川和彦監督とは面識ないんですよ。
あと高橋監督にお伝えしたのは、岡本さんに頼まれた9本のネガの寄贈はするけれど、それ以外のことはディレカンを弔う気持ちでやっていて、早く解放されたいんです、と。だってこんな面倒なことはない(笑)。お金にならないし、次々と宿題が増えてゆきます。ただ、ディレカンの生き残りとして、この役割を務めて納得している部分はあるし、弔いだとすれば早く成仏して、自分を解放してほしい(笑)。
あまり報じられてないようですが、今年3月5日に岡本さんが亡くなられました。後年の岡本さんは、実相寺昭雄監督や篠田正浩監督作品など多くの作品を手掛けた美術監督の池谷仙克さんが亡くなられたあとに池谷事務所の代表を務められていて、昨年10月は池谷さんの七回忌でした。岡本さんの発案で進められた池谷さんの追悼上映会もお手伝いさせて頂きました。10月下旬からの東京国際映画祭ではディレカン特集も実現して、とても喜んでもらえてレッドカーペットにも来てくださった。亡くなられるまで本当に親切にして頂いたし、『DOOR』リマスター化の費用も出されています。30年以上が過ぎて、岡本さんとそのようなお付き合いが出来たことはよかったと思っています。
岡本さんが担当した井筒和幸監督の『東方見聞録』は数々のトラブルに見舞われて、ディレカン社内では毎日何かが起こる異常な状態でした。朝から3時までが戦争状態で手形が落ちるか落ちないか! まるで丁半博打の土場でした(笑)。僕は『地獄の警備員』の仕上げが終わるとすぐに会社からの命令で、再び関西テレビ番組「ドラマドス」をやることになり、藤田敏八さんと大和屋竺さんをキャスティングして『ぬるぬる燗燗』、黒沢清監督で『よろこびの渦巻』、ディレカン最後の作品になるBLドラマ『パスカルの群』を連続でつくっています。その頃に多くの問題を残したままディレカンは倒れることになる。それでも当時のディレカンはいくつもの映画を進めていました。黒沢監督の『水虎 Kappa』がキャスティングまで、瀬々敬久監督の『チン・ドン・ジャン』がクランク・イン直前まで、神代辰巳脚本で矢野広成監督の『ア・ルース・ボーイ』が準備まで、『東方見聞録』は合成などの仕上げのためスタジオに入っていました。実は会社からの命令でそれまで面識がなかった井筒監督と顔合わせをさせられています。そんな状況で石井隆監督の『死んでもいい』がクランク・インしました。撮影が始まって一週間くらいでしょうか、2度目の不渡りが遂に出てしまい、ディレカンの終了となりました。直接的な原因は『東方見聞録』で滝のセットの造成工事を請け負った業者からの手形が落とせなかったためと聞いています。それで石井組はリセットすることになり、現場のスタッフとキャストを残して、ディレカン関係者は退場、岡本さんはプロデューサーから外されて、最終的にクレジットは「協力」程度になっている。その恨みでしょうか(笑)、『死んでもいい』のリマスター化を最後まで望まれていましたね。でも無茶をおっしゃることもあって、「プロデューサーとしてクレジットに俺の名前を入れたいんだけどな」と話すので「それはダメです」と答えました(笑)。

──『死んでもいい』への思い入れが想像できます。岡本さんの「形見分け」といえる貴重なネガ9本はどうなっているのでしょう。

©︎ エイジェント21、ディレクターズ・カンパニー

預かったネガ9本の現在をお話しすると、『DOOR』はお話しした通りで、もう国立映画アーカイブに送りたいと思っています。7月には韓国・富川国際ファンタスティック映画祭での上映が決まっています。つい先ほど、アダム・トレルから「監督と高橋恵子さんの宿泊・交通費は出る」と連絡が来て、僕はどうなるんだと(笑)。『DOOR』が30年以上も経って海外で紹介されることに不思議な感慨を覚えます。アダムは『地獄の警備員』のイギリスでの配信とソフト化の権利を買っているので、世界初になるBlu-ray化を進めてくれています。
『死霊の罠』は権利元とデジタル化を改めて話し合いたいと思っています。『死んでもいい』は昨年亡くなられた石井隆監督初の一般劇場映画で評価も高い。平田さんを通して、あるところが「配給したい」という要望があるようで、僕もそれでいいと考えています。公開と二次利用のあとは寄贈してもらうことを約束したうえでネガをお渡しするつもりです。『台風クラブ』は先月4Kデジタルリマスター版が完成したばかりで、今年の夏か秋に全国公開されると思います。

──配給はアウトサイドですか?

重要な作品は僕に回ってこないんです(笑)。でも「日本映画の国宝」と呼んでいい作品だから話題になるでしょうね。そして『ドレミファ娘の血は騒ぐ』は、前編でお伝えしたように35ミリニュープリントを国立映画アーカイブが購入して、ネガはいまダブル・フィールドの倉庫にあると思います。これは少し時間が必要で、デジタル化されたあと、タイミングを見て寄贈されるのではないでしょうか。
『ノイバウテン 半分人間』は先日、石井岳龍監督にお会いしてお任せしました。リマスター化されたい意向をお持ちのようです。『光る女』はリマスター版が昨年の東京国際映画祭で上映されました。権利元は電通です。

──ディレカン制作・東宝配給作品ですが、電通が権利元なんですね。

東京国際映画祭を発端に何社も出資している問題作なので、経緯はわかりませんが、最終的に電通になったようです。KADOKAWAの担当者が『光る女』を高く評価されていて、元は大映作品でもあったので、電通と話し合い、ニューマスター修復版のDVDとBlu-rayを出す流れをつくられたと聞いています。撮影された長沼六男さんに来ていただき、僕も立ち会いをお願いしてリマスター作業を見守りました。ネガはすでに国立映画アーカイブに入っていると聞いているので、無事にゴールインした映画といえます。
2話のオムニバス作品『ポップコーンLove』の森安建雄監督と矢野広成監督は、それぞれ相米監督の助監督でした。森安監督は早くに亡くなられましたが、ユニークな方で、『魚影の群れ』(1983/相米慎二)にはたしか漁業組合の職員役で出演もされています。レオナルド熊の部下役だったかな。矢野監督は大阪芸大で講師を務めておられました。作品はバブル期の空気を反映したものです。そして『喪の仕事』(1991)はディレカン制作のアルゴ・プロジェクト作品。君塚匠監督のデビュー作で、撮影は丸池納さん。この2作品は宿題として残っていますね。
さらに、9本のネガに加えて大きな発見がありました。岡本さん宅でネガのチェックをしているとき、ディレカン末期に相米慎二監督がある企業のVPを撮っていたことを思い出した。岡本さんに「たしかそんな作品がありましたよね」と訊ねたら、「俺がつくったんだ」と。「いま見られるんですか?」と訊くと「VHSがあるから見てみろ」とおっしゃって、それがいま手元にあります。見てみると、最後に「監督:相米慎二」とクレジットが出る23分ほどの短編が入っていて、これには驚きました。撮影も、のちに『リリイ・シュシュのすべて』(2001/岩井俊二)などを手掛けた篠田昇さん。相米監督のフィルモグラフィにも載ってない貴重な短編で、タイトルは『眩しすぎて何も見えない』。
ただ、30年前の作品でクライアントの当時の担当者はもういないし、ビデオ原版の完パケがあるかもわからない。昨年の東京国際映画祭の前に「リマスター化して上映しようか」と考えて、先方に交渉してみたんです。すると色々難しくて、ひとまず難問として置いておくことにしました。その後、岡本さんが亡くなられる一週間ほど前に奥様から「ネガがたくさん段ボール箱に入って重くて持てない、邪魔だから取りに来て」と連絡がありました。そして僕もぎっくり腰寸前になった(笑)。
岡本宅へ受け取りに行くと、何とそのVPの完パケがあったんです。VHSテープだけで心配だったのが、完パケが出てきたので一安心です。さらに『ラブホテル』(1985/相米慎二)主演の速水典子さんのイメージビデオの完パケまでありました。ほかには当時のアイドルのVPも。でも、それらはインチ(1inch VTR)なんです。誰が監督をしたのか知りたくなりました(笑)。もしかして相米監督が撮っていたら、またまた大発見ですよね。

──期待を込めて相米作品だと思いたいです(笑)。その短編作品の公開及びソフト化の可能性はありそうでしょうか。

それには今後、ほぐしていくための処方箋が必要になるでしょうね。せっかく岡本さんから預かった貴重なものだけど、なかなか厄介な難問を抱えてしまいました(笑)。やったらやったでいいこともあるけど、進めるたびに心配事も増える。ほかに誰か適任者がいればお任せしたい気持ちもあります。長年、助監督を務めた相米組の榎戸耕史監督には、完パケ発見のことを伝えました。榎戸監督は「相米の語り部」的な役割なので、情報を共有しておこうと思って。

──こうしてお話を伺うと、探す行為を前提にしても、フィルムを含む「モノ」のロマンを感じます。同時に保存と管理の問題が発生しますが……。

形のあるモノは残る。だから探してみるものですね。逆にデジタルの時代になって、会社のPCに作品のデータを取り込んで保存したとしても、PCが変わればそのデータを読み込めなかったり、誤って削除する可能性もあるので、デジタル化が進むに連れ、作品の保存と管理はそのうち大きな問題になるのではないでしょうか。ハードディスクにデータとして残しても、その再生機器が古くなっていくと開けない。インチはもう開けない可能性がある。だからやっぱりフィルムって──大きくて重いけど──賢いと思います。むしろ今はフィルム復権の時期に入っていますね。
デジタル作品の管理・保存の問題は、『映画秘宝』のインタビューでもお話ししたように、「国立映画デジタルアーカイブ」のような施設をつくらないと最終的に映画を残していけなくなると思います。国立映画アーカイブにはビデオやVHS、レーザーディスク、DVDやBlu-ray、そしてDCPを蒐集・保存するセクションがありません。過去の映画より、もっと手前にあるデジタル作品が──個人がつくったものも含めて──すでに喪失してゆく段階に入っています。原版はDVDしかないという作品がもう出て来ているでしょうし。

──DCPが普及する前につくられた、上映素材はVHS及びDVDかBlu-rayしかない自主制作映画もかなり多いと思われます。

多くあるでしょうね。商業映画でもディレカン作品のように時間が経って個人所有になっていたなどの様々なケースを考えれば、やはりデジタルの作品を集めておかないと危険なレベルに入っている気がします。YouTubeにアップして、無料でどんどん見せて残してゆくという方法も有効かもしれません。ある程度時間が過ぎれば誰でも見られる環境をつくっておいたほうが、保存・管理の点では安心かもしれないし、もうその領域に入っているとも言えます。
映画の著作権が曖昧になって、それに歯止めをかけようという動きもあるけど、僕は無理だと思っています。だから自主制作作品を含めて、時間が経てば誰でも無料でアクセスできるようにしておくのがいい。「見せない」という判断ももちろんありでしょう。でもそういう形で作品を出していかないと、デジタルだとのちにまで残らないよ、ということです。あくまで僕個人の意見ですが、ここまではっきり言う人間もあまりいないので(笑)。
この10年ほどで森田芳光監督、崔洋一監督、ディレカンに参加された大森一樹監督たちが亡くなられて、名画座などで追悼上映や特集を組もうとしても「これはなかなか上映できない」という作品が多くなりました。メジャーの作品なら日本映画の原版ネガはほとんど国立映画アーカイブに入っているのでいいのですが、インディペンデント作品などの映画の保存は危ういと思っています。

©︎ エイジェント21、ディレクターズ・カンパニー

──今後も映画の数は増え続けるし、並行して旧作の発掘が進むと保存・管理の問題は拡大していきます。

保存・管理の問題に直面している国立映画アーカイブに、半官半民で権利と利益を取らない形で日本映画を発掘する機関が必要だと提案させてもらったこともありますし、やはり90年代以降の日本映画保存を考えれば「国立映画デジタルアーカイブ」的な施設が必要になってくると思います。実際そうした現状下、今年11月には東京現像所が事業を終了します。東現は数年前から東宝傘下に入っていて、自社のネガは国立映画アーカイブに渡されています。しかしそれ以外の独立系映画などは多くがそのままなのでは、と思っています。フィルム──映画だけでなくCMなどの映像作品──もどうするのかという大きな問題があるでしょう。聞いた話では様々な原版ネガが相当あって、その処分に悩んでいるそうです。でもこれは悩むレベルではなく、もし棄てるとなれば大変なことになる。
手続きなしで国立映画アーカイブにネガなりポジが渡る場合は「権利者行方不明」の形になっています。ラボは発注元を知っていても現行の権利者まではわからない。なので、東現に残っている原版ネガがどうなるのか危惧しています。「権利者行方不明」の原版ネガとして全てが問題なく国立映画アーカイブの相模原の倉庫に収納されるとよいのですが、すでに倉庫には過去の日本映画のネガが大量に集まっていて、蒐集し切れなくなる可能性もあり得る。ネガはとてもデリケートなため、冷凍保存します。そのための巨大な冷蔵設備が必要になるけど、今後どれほどのネガが来るかわからないと対応策も取れないですよね。『地獄の警備員』を含めて何度かフィルムを寄贈していますが、今は一般的に申し込みから受諾までに3年から4年かかる。それほどフィルムが集まっています。

──フィルム以外に「ノンフィルム」と呼ばれるポスターやシナリオなどの紙資料も蒐集・保存・カタログ化されているので、設備の広さとマンパワーが増々求められるでしょうね。

寄贈されたフィルムは凍らせて、2週間くらいかけて解凍して、そこから状態を調べるそうで、とても手間とコストのかかる作業です。知り合いの方が『ひとりっ子』(1969/家城巳代治)を寄贈する際に、東京現像所からネガとポジフィルムを出すところからサポートした記憶では、そのときも3年くらいかかって、忘れていた頃に受け取りの書類が届きました(笑)。
そういう状況なので、東現に残っているネガがどうなるかは大きな問題ですよね。神戸映画資料館に、という考えもあるでしょうが、フィルムを受け入れる側も大変です。ただ、国立映画アーカイブとも連携している神戸映画資料館の役割は、今後一層強くなると思っています。

(インタビュー前編)

(2023年4月12日)
取材・文/吉野大地

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