神戸映画資料館

WEB SPECIAL ウェブスペシャル

所蔵図書紹介「ブルーフィルムの哲学 「見てはいけない映画」を見る」


著者 吉川 孝

出版社 NHK出版
発行年月 2023年11月25日

「映画は映画館で」とはよく言われるが、この世には映画館では上映できない映画が存在する。本書が取り上げる「ブルーフィルム」と呼ばれる作品群は、男女の性行為や性器を無修正で撮影した映像を含むため、それらを公の場で上映することは日本の刑法に抵触することになる。端的に言って違法なのである。それでも、温泉宿の一室で密かに上映されるなどして、かつてブルーフィルムは人目を避けながら独自の文化圏を築き上げていたらしい。しかし、それは時代の流れとともに消え去って、今では完全に過去のものとなってしまった。

それにもかかわらず、なぜ今ブルーフィルムなのか。その答えは単純である。著者がブルーフィルムに出会ってしまったからだ。著者は、知人の伝手でブルーフィルムの実物を入手し、かつてブルーフィルムの二大名作と呼ばれた『柚子ッ娘』に巡り会った。「見ることができないはずの映画を見てしまった」という著者自身のパーソナルな経験、そしてその出会いによってもたらされた問いの数々。これらと向き合い、思考することで、著者はブルーフィルムが今の時代に再び「現れるに値する」ことを証明しようとする。

とりわけ、「ブルーフィルムを鑑賞する」という行為そのものを考察の対象とする第二章と第三章が圧巻だ。「例示」、「実践的可能性」、「運動感覚」などの哲学の概念、「ホラー」、「窃視芸術」などのジャンルの構造、若松孝二や三島由紀夫のテキストなどを動員して、「反発を感じながら魅了される」というブルーフィルムの鑑賞経験が精緻に分析される。トム・ガニングの映画理論が参照され、ブルーフィルムがリュミエールの最初期の映画と比較されている点も見逃せない。物事が目の前に「ありありと現前する」という観点から捉えれば、ブルーフィルムもまた正統に映画の系譜に連なっているのだろう。

続く第四章では、ポルノ映画に対する規制をめぐる議論が、私たちが性行為を行う上での、「正/不正」では単純に割り切れない人間関係や文脈の話へと発展していく。そこで言及されるような、ポルノを鑑賞することを通じて私たちが私たち自身のことを性的に深く知るようになるという過程には、人間が生きていくうえでのポジティブな変化の可能性が示唆されている。その時ブルーフィルムは、人間が無意識のうちに縛られている世界の見方や自己認識、本書が言うところの「ヴィジョン」に揺さぶりをかける何かとして、今を生きる私たちの視界に浮上してくるのである。

しかし、こうした刺激に満ちた考察の傍らで、本書にはブルーフィルムが違法のポルノ映画であったがゆえの厄介さが付き纏っている。もともと法の目をかいくぐって流通していたものであったため、今ではフィルムのほとんどが散逸・消失してしまっており、関係者の証言や記録もほとんど残されていないのだ。また、ブルーフィルムが直接に性を扱う文化である以上、ジェンダーやセクシュアリティに関する問題も避けては通れない。ブルーフィルムは「異性愛の男性」の欲望を充たすために存在した文化であり、今の時代にこれを取り上げることには相応の配慮が必要となるだろう。本書の指摘でハッとしたのは、この「異性愛の男性」という視点はブルーフィルムの作品だけに限られないという点だ。ブルーフィルムに関して残された証言もまた、そんな男性の眼差しから発せられた言葉ばかりであるらしい。違法でアンダーグラウンドな文化であったのだから当然とはいえ、それについて語る言葉も圧倒的に足りていないのだ。だからこそ今必要なのは、ブルーフィルムが多様な視線や価値観のもとに晒されて批判・検討されることであるはずなのだが、刑法の縛りがある以上、それらを上映することさえも簡単ではない。

このようなブルーフィルムをめぐる状況は、決して明るいものとは言えないだろう。それが良い方向へ向かうきっかけがあるとすれば、人々の関心を惹くような決定的な作品が発見されることではないだろうか。本書の中で何度もその存在が強調され、あの川島雄三をはじめ何人もの表現者たちが魅了されたと言い伝えられる『風立ちぬ』という作品は、未だその所在が分かっていない。本書にはその発見を願って書かれた側面もあるはずだ。ブルーフィルムのほとんどは8ミリフィルムで流通していたそうなので、時間が経つほどにその発見は難しくなる。しかし著者は、ここ神戸映画資料館で幻のブルーフィルムを発見したことを文中で報告していたりもする。

希望を捨ててはならない。

 

坂庄 基(神戸映画資料館スタッフ)

ARCHIVE旧サイトアーカイブ

PageTop