神戸映画資料館

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『移動する記憶装置展』 たかはしそうた監督インタビュー

横浜市泉区にある上飯田町を舞台に『上飯田の話』(21)を制作した、たかはしそうた監督が東京藝大大学院映像研究科映画専攻17期修了作品としてふたたび上飯田で撮り上げた『移動する記憶装置展』(23/以下、『移動する』)。この作品が神戸映画資料館で上映される。インターネットで画像検索してみると一目でわかるように上飯田の町の姿はそのままに、独自のアプローチでドキュメンタリーとフィクションの越境を試みた野心作は元来〈移動する記憶装置〉である映画のテーゼや、本文中に登場するある監督の「映画の役割は失われる風景を記録することだ」という言葉に思いを至らせる。1991年生まれの監督にインタビューをおこなった。

 


──上飯田で映画をつくりたいと思い立ったきっかけから教えてください。

上飯田に住む祖父が亡くなり、その家が売りに出されることになりました。そうなれば、きっと建て替えられてしまう。僕にとっても思い入れの深い家だったので、映像に残せないかと思っていました。でも具体的にどうしようと考えながら祖父の家の近所を散歩していると、上飯田ショッピングセンターを見つけた。そこには「ここで映画を撮りたい」と感じる、強く惹かれるものがありました。
とはいえ、簡単に撮影させてくれるものではないだろうし、お金がかかるかもしれない。それならばと、まずはショッピングセンター内にあり、のちに『上飯田の話』『移動する』のロケ地になる居酒屋〈和らく〉に通い出して、常連客のひとりになりました。
〈和らく〉のお客さんたちのほとんどは、上飯田町に住む方です。昔からの住人も多く、会話を聴いていると「もしかするとこれは映画に出来るかもしれない」と思い、「実は自分は映画を撮っています。ここでロケをするならどなたに相談すればいいでしょうか」と切り出してみました。すると「ショッピングセンターの乾物屋の人に話してみるといいよ」と教えてもらい、そこから町と人との関係が生まれました。

──「ここで撮りたい」と思うほど、ショッピングセンターに惹かれたのはなぜでしょう。

もし美術部が施設内に入って飾り込んでも、「絶対にこうはならないだろう」と思えるレイアウトだったんです。そこで商売を営む人たちが仕事をしやすいようにつくり変えられていたり、空きテナントがそのままになっている様や、その場所を工夫して使っている点などは意図的に生まれづらい。場所が、そこで生きる人たちとの関係で最適化されていると感じました。
それから最初になかへ入ったとき、おそらく昔は文房具店だったスペースのショーウィンドウに、おばあさんたちが腰かけて井戸端会議をしていました。その様子も、決してゼロから考えて脚本に書けるものではありません。そうした目の前に開かれている世界に、映画の脚本では考えつかない魅力を覚えました。脚本に書くと、「こんなことが起きるわけがないだろう」と言われるような光景が
本当にあったんです。

──そうした場所をドキュメンタリーで撮るつくり手もいるかと思いますが、劇映画を選ばれた理由も教えてください。

ドキュメンタリーだと、町の人たちと深い関係性を築くなかで撮らないといけない。そこまでの時間をかけられないなど、幾つか要因がありましたが、率直に言えばドキュメンタリーの撮り方を知らなかった。わからないというのが最大の理由です。
それから、場所が印象に残るドキュメンタリーを思い浮かべることがあまり出来ませんでした。一方、フィクションであるにもかかわらず、「その場所が記録されている」と感じる劇映画は沢山思い浮かびます。『アカルイミライ』(03/黒沢清)の同潤会アパートや『珈琲時光』(03/侯孝賢)の御茶ノ水駅周辺。僕の映画体験で印象に残っている実在する/した建物の大半がフィクションのなかだったことも影響しています。
あと、「場所を記録すること」を主題にするとき、建築物がある存在感を持って立ち現れるためには、何か映画的な機能を持たせる必要があるんじゃないかと考えました。それをフィクションのなかで組み立てたい思いがありました。

──『移動する』をつくるうえで礎になった作品はありましたか?

明確にあったのは、川部良太監督の『ここにいることの記憶』(07)です。東京造形大学在学中に見て強い衝撃を受けました。その衝撃に、自分なりの形で近づけないだろうか。そう考えました。
『ここにいることの記憶』は舞台となる団地の住人が、ある人物の思い出を語ります。でも、住人たちはその人物を知らないという仕掛けを設けている。川部さんから直接こう聞きました。

映画をつくるという行為をどこかに持ち込んで、そこで初めて出会った人たちと共につくることはできないか。その場所に関わったり、そこに生きる人に出会ったり知ったり、その現実世界との関係を繋ぎ直すものとして映画をつくることができないか

こういう狙いを持ってつくられた映画で、当時の僕はフィクションを語ることに対する悩みを抱えていました。自分の頭で考えたことを再現することに何の意味があるんだろうか、多くの人の協力を仰いで、ときに迷惑をかけてまで映画をつくる意味はあるのか、と。
仮に他の人に意味があっても、自分はどうなのかと悩んでいた時期に『ここにいることの記憶』を見て、フィクションを介することによって誰かと出会い、関係がはじまる映画が存在することを知り、自分の悩みへのひとつの正解を得た思いがしました。
それは目から鱗が落ちる体験でもありましたが、川部さんとは別の方法で上飯田と関われないかと考えて、『移動する』後半の「声を聴きながら語る」表現に発展しました。

 

──こうしてお話を伺うと、『移動する』で映像作品をつくる谷繁のキャラクターには監督自身が投影されているように思えます。

誰かと出会うことで、自分が思ってもいなかった作品が生まれる部分は谷繫に繋がっていますね。

──谷繁はアーティスト・イン・レジテンス、通称「AIR」で上飯田にやって来ます。この設定に関してもお聞かせください。

そもそも谷繫のキャラクターをつくったのは、彼を演じる佐々木想さん(以下、「想さん」)に出演してほしい思いもありました。想さんの人柄が好きで、そして上飯田で撮りたいと思っていた。そのように人と場所は決まっていたけど、肝心の物語が定まっていない。
三話から成る『上飯田の話』は、部外者が上飯田にやって来ることで各話がはじまります。上飯田町内だけでは物語が完結しないので、何がしかの形で〈外〉の人間が町に足を踏み入れることが必要でした。
色々アイデアを練りましたが、『移動する』を撮るにあたって他に何があるかなと考えたとき、造形大時代の知人たちがいろんな場所で、AIRで滞在生活を送っていたのを思い出して「これがいいんじゃないかな」と。AIRで上飯田に人を招き込むことから物語を組み立てていきました。

──廣田朋菜さんが演じるスミレも創作活動をしているけれど、スランプに陥っている。それが谷繁と出会うことで変化していきますね。『移動する』は町の映画であり、ものづくりの映画でもあります。

谷繁がAIRで作品をつくる過程で、ゆるやかに登場人物たちの気持ちの変化も描ければおもしろいんじゃないかと考えました。

──映像で表現活動をしている谷繫は、中盤あたりまで町の人たちにカメラではなく、マイクを向けてインビューを続けます。監督もそのようにリサーチされたのでしょうか。

ショッピングセンター内の乾物屋の方に、施設の歴史を伺ったことがあります。そのときはビデオを回しました。音だけを収録する作業はやっていないんです。

──『移動する』のおもしろさのひとつが、谷繫がなかなか映像を撮らず、カメラさえ映らないところで……(笑)。

なぜこの男はカメラを回さないんだという(笑)。僕自身がラジオなど〈音〉のメディアが好きなことに影響しているかもしれないですね。
あと、カメラよりマイクのほうが向けられる側はそれほど緊張しません。相手がリラックスせずに話してくれる。だから谷繫はそういう方法を採っています。でも(劇中、谷繫の撮っている作品ではなく)本作の撮影のときは彼と、彼のインタビューを受ける人々を撮っているので、結局はカメラを向けていることになりますが。

──それが出来たのは、撮影の時点で被写体となる町の人と信頼関係が築けていたからではないでしょうか。

インタビューを受けている人たちに関してはそうですね。ただ、劇中登場する方たちのなかで一組だけ、その場でお願いして出演していただいた人がいます。それは、最近町へ引っ越してきた子連れの若いお母さん。あの方だけは撮影までまったく面識がありませんでした。
スケジュールで「この日はインタビューの姿だけを撮る」と決めていた日に上飯田公園に行くと、たまたまあの女性がお子さんを連れて遊んでいました。そこで事情を説明してお願いすると、引き受けてくださったんです。

──実はあの方が出演交渉にいちばん時間がかかったのではないかと想像していました。初対面の人がカメラの前であんなふうに話しているのには驚きます。

インタビュアーとしての想さんの力によるものかもしれません。あのような屋外シーンの撮影時には、風が木々を揺らしたり、フレームの奥を人や車が横切る偶然を画面に取り入れたいと思っていました。僕が思い描いて書いた脚本以上の画面になってほしかった。
子連れのお母さんのシーンは、お子さんたちがサッカーボールを持っていたので、フレームの外にいる助監督たちと身振り手振りで「こっちにパスを」と示すイタズラもしてみました。

──そのように前半で谷繫が町の人にインタビューした言葉を、後半でスミレがヘッドフォンで再生しながら話します。どのように構成されたのでしょう。

インタビューシーンの、特におばあさんたちが昔話をするくだりはおひとりあたり10分ほどカメラを回しました。スミレを演じる廣田さんにはその10分を丸々聴きながら話をなぞってもらい、話す姿を撮影しました。

──それも少し意外で、廣田さんはインタビューからある程度選ばれた言葉を再現しているのかなと思っていました。

選ぶ作業はまったくしていなくて、それにも時間の問題が関係しています。『移動する』の撮影期間は2週間と決まっていました。だからインタビューの撮影から再現の撮影までの間隔がさほどなく、言葉を選ぶ時間もなかったんです。

──廣田さんは実際にインタビューを聴きながら、その言葉をリアルタイムで語り直しているんですね。

そうです。まず自分でやってみたら出来たので、廣田さんにも試してもらうと同じように出来たので、その姿を丸ごと撮ることにしました。
夜にスミレがショッピングセンターのなかを歩きながら話すシーンは、元々あったセリフを廣田さんが頭に入れて準備してくれていた。でも、実際に撮るときにはリアルタイムで麻子(影山祐子)のインタビューを聴きながら話してくれました。

──そうしてスミレがインタビューを再生しながら話すショットを、谷繫の撮った映像作品と捉えるかどうかで本作の見え方が変わって来ると思います。

僕の言葉が正解と受け取られると、必ずしもそうではないという思いがあるうえでお話しすると、あれは谷繫が撮った映像と捉えてもいいし、谷繫とは関係なくスミレが自発的に話し出した、と捉えても構わない。そのどちらでもいいと思っています。僕個人としては自発的に撮ったイメージが強いけど、それは映画が完成してみたらそうなっていた、という。

──あの夜のショッピングセンターのシーンあたりから、スミレの創作への態度の変化が見えてきます。

そうですね。あのシーンの少し前、スミレと話しているときに谷繁のこんなセリフがあります。
「誰かの記憶がスミレさんの身体をフィルターみたいに通して出ていくときに、スミレさんの身体にも何か残るものがあるかもしれない」。
それを聞いたスミレ自身はまだどこか腑に落ちない部分がある。自分のなかで納得させるために、もう一度自発的に動いてみる。僕はそんなイメージを持っていました。

──谷繫が撮影をはじめるシーンがあります。ここも不思議で、ショッピングセンター内に三脚を据えた谷繁のカメラが置かれていて、その前を話す彼と後ろのおばあさんが歩く様子をパンで捉えています。でも、置かれたカメラはそのままなので普通に考えれば、谷繁のカメラには途中から彼らが写っていないことになりますが……

あそこは、谷繫があのように映像を撮っていることを伝えたかった。谷繁はひとりで映像作品をつくっているので、挙げていただいたシーンでは、彼が据えたカメラは自分がいなくなった空間を撮り続けている。谷繁はそれでいいと思っていて、途中で自分がフレームアウトして、声が空(から)の空間に響く映像を通して、ある亡霊的な、そこに何かが写っているのではないかと問う。そのような映像作品をつくっている人というイメージでした。

──谷繫の実験的な映像センスがわかりました(笑)。

それがいいのか悪いのか(笑)。名誉のためにお話しすると、映画監督でもでもある佐々木想さん本人が撮っている映画*はまったく違います(笑)。
*監督作に『鈴木さん』(20)など。

 

──序盤で、谷繁が麻子とスミレの住む部屋に居候することになり、そこにあるぶら下がり健康器を使う描写があります。あの器具は元から団地の部屋にあったものでしょうか。

あれは美術部が入れたものです。撮影のために借りたあの部屋は元々空っぽで、テーブルなどをすべて美術部が本作のために入れてくれたんです。

──『上飯田の話』にテクノポップ調の音楽を使っています。テクノポップを象徴するYMOの結成が1978年。ぶら下がり健康器のブームが起きたのも同じ年です。作品を跨いだ繋がりなのではないかと思いましたが、時代性を考えて選ばれたアイテムですか?

種明かしをすると──身も蓋もない話ですが──想さんが日常的にぶら下がり健康器を使っているんです。想さんに出演をお願いしたときに、その魅力をどうやって引き出そうかと考えました。そこでクランク・インの前に、一緒に上飯田を散歩しながら「普段おこなっているルーティンはありますか」と訊ねると、ぶら下がり健康器の話が出て来て「今、この時代にまだあれが売っていて使っている人がいるのか」と驚き、これはおもしろい、映画に使おうと決めました。
時代性や、映画における運動性とは質が異なるけれど、想さんがいつもやっている運動をどこかに入れることで、この映画にヘンな現実感を与えてくれるだろうと思いました。
僕は美術部に部屋を飾り込むより、逆にあまり手を加えないでほしいとリクエストしました。でも、ぶら下がり健康器だけははっきりと脚本に書きました。美術部のメインスタッフの張雅君さんは中国からの留学生なので、ぶら下がり健康法を知らないと思い、日本での流行背景を説明して買ってもらいました。ブームが去ったあとはハンガーとして使われていることも伝えて(笑)。

──佐々木さんの日常を取り込むのも一種のドキュメントですね。

谷繁のセリフは、想さんで当て書いた部分がかなりあります。そう書いても、その場で想さんがニュアンスでセリフを加えていくと、思いがけず変ちくりんになって、おもしろさが倍増しました。

──続けて撮影についても伺いたいと思います。切り返しを使っていないのはなぜでしょう。『上飯田の話』には一度あるものの、『移動する』では一切見られません。

大きな理由がふたつあって、ひとつは自分自身が切り返しショットに対して畏敬の念を抱いているからですね。切り返しは映画が発明した偉大な技法で、僕の映画体験のなかで印象的な切り返しショットは、ある時期のハリウッド映画のロマンティックコメディで見られるものです。そのあと恋に落ちるであろう男女が視線を交わらせるときに切り返しショットが使われる。ロマンティックコメディで恋に落ちるふたりは、物語の中心的存在です。そこで使うのは、物語を語る効果が抜群に高いということだと思います。
それを踏まえると、『上飯田の話』も『移動する』も、観客が物語に共感してハラハラドキドキするタイプの映画ではない気がします。二作に共通するのは、他ならぬ場所である上飯田で撮られていること。それが何よりも重要です。切り返しショットには物語の純度を高める効果があるように思うため、それを用いることに僕が弱腰だったのがひとつの理由ですね。
もうひとつの理由は経済面と時間の問題です。切り返すと単純にカットの数が増える。カットが増えると、自然光のロケーションのなかで撮っている場合は死活問題になってきます(笑)。そういう経済的側面が大きくありました。
経済的側面のひとつとして、繰り返し撮れるものでもないショットが結構あります。「もう一度お願いします」と言って簡単に撮れるものではないショットが映画全編にあって、やりたくても出来ませんでした。

──二作ともに、切り返しを使わないことで生まれる効果があるかと思います。

切り返しショットは、本来どこか嘘っぽいものですよね。撮るたびにカメラや照明の位置を変えます。物語の展開を伝えるために重要な技法だけれど、その空間に一緒にいる感覚がどこか薄れていってしまう気がします。それをなるべく減らして、観客にさも自分がその場──上飯田町──にいるような気持ちになってほしい。それで切り返しショットを避けたともいえます。

──切り返しを使わない場合、リアクションをどう写すのかという問題が派生します。本作でそれを巧みに撮れていると感じるのが、谷繁の映像作品に写ったスミレを見る麻子のバストショットです。

あそこで、モニターの映像でベンチに座っているスミレと、それを見つめる麻子の視点が微妙に交わるように見えれば素敵だなと思いました。この切り返しは僕のなかで許せる気がしました。
麻子のあのショットは本来撮る予定がなかった画で、別のショットを撮っていたときに、たまたま撮れたものです。カメラマンが、「影山さんが何かいい表情をしている」と。編集でどこに入れるのかはわからないけど、今この表情を撮っておいたほうがいい気がすると思って、直感的に撮影しました。

──編集でいい位置に置かれていますね。それから『上飯田の話』に比べて、『移動する』は人物の顔が見えないシーンが幾つかあります。顔を見せないカメラワークを選択されたのはなぜでしょう。

クローズアップも映画の偉大な発明のひとつで、やはり「おいそれと使ってはいけない」という畏れがあります。それがどんな場合に使われるかというと、被写体の感情を観客に伝えるためです。切り返しショットと同様に、キャラクターの感情を理解させるためのクローズアップよりも、その場にいる感覚を得られるほうが映画にとって遥かに重要だと思っています。
感情伝達のために、単なる顔に何かしら意味を付与してしまうクローズアップには危険な部分もあって、ある意味で倫理が問われるショットだと思います。『上飯田の話』と『移動する』では、意味を与えかねない危険なショットをどのタイミングで入れられるのかを試していて、「この人が何を考えているかわからない瞬間」にクローズアップを入れました。
『移動する』でいちばん寄ったのは、スミレが倒れるショット。あそこなら入れられるんじゃないかと判断しました。

 

──『移動する』は東京藝大大学院の修了作品です。黒沢清監督や諏訪敦彦監督が先生にあたりますが、どのような影響を受けたでしょうか。

黒沢さんは東京藝大に入る前から私淑していた監督で、受けた影響は沢山あります。たとえば黒沢さんの映画には建物に限らず小物なども、それ本来の目的を持たずに写っているものが数多く存在します。僕はそういう小物を見つけるのが大好きなんです。他にも『CURE』(97)で、だだっ広い空間にベッドとちょっとした医療器具を置くだけで大胆に病院に見せてしまう。そのような場所の存在感を、自分のフィクションでも活かしたいと思っていました。
『移動する』は藝大の「1日8時間以内で撮影する」ルールに則りましたが、黒沢さんもきっちりと撮影時間を守っています。その話を聞いて自分もそうしなければと思い、『上飯田の話』も8時間以内で撮るようにしました。
それから黒沢さんは俳優とのホン読みをまったくせずに、俳優に「何か質問はありますか」と訊ねて、なければ「じゃあ次は現場で」と伝えると聞いて僕も真似てみました。『上飯田の話』は、脚本が完成してからの本格的なホン読みを一切しなかったりと──そう見えないかもしれませんが──色々と黒沢さん的なことを画面に写らない部分で試みました。
切り返しショットの使い方にも黒沢さんの影響があるかもしれないですね。黒沢さんも『スパイの妻』(20)などの「ここだ」というタイミングで使われているので。

──そして諏訪監督には藝大入学前、東京造形大学時代から学ばれています。

諏訪さんの最大の教えは「そう簡単に人にカメラを向けてはいけない」。映画は撮影することによって初めて成り立つので、映画監督として逆説的な意見であるともいえます。でも、だからこそ撮影の前に一歩踏み止まらないといけない。このことを明言はされませんでしたが、僕が諏訪さんから受け取った最も大きいメッセージでした。
特に映画撮影の場合だと、カメラの周りにいる人間の数も増えます。すると被写体とのあいだの「私とあなた」という関係性も変わる。「私」側の人間がどんどん増えても、「あなた」の側はそのままです。使い方を間違えるとカメラは暴力的な機械になることを諏訪さんは教えようとしていた。今になってそう思いますね。

──もうおひとり、諏訪監督と長い交流がある筒井武文監督は本作の担当教官です。『ライオンは今夜死ぬ』(17)公開前に、諏訪監督の映画づくりについてお話を訊きました。そこで順撮りの話題が出ましたが、『上飯田の話』『移動する』の撮影はどうだったでしょう。

どちらも順撮りではないです。大学時代に安易に即興で撮ったら、やっぱり失敗しました(笑)。だから即興だけは絶対にするまいと固く決めました。『上飯田の話』はほぼすべてのセリフ、動きを明確に決めていました。生命保険の営業のセリフも、実際に営業経験を持つ竹澤希里さんから聞いた言葉を一字一句文字起こししてセリフにしています。
『移動する』のインタビューシーンは即興のようでそうではなく、かといって何か演出したわけでもなく、ただ撮っている状態でした。諏訪さんの方法は簡単には真似できないですね。

──筒井監督から学ばれたこともお話し願えますか?

筒井さんを初めて知ったのは、造形大の入学式のあと、専攻ごとに分かれてオリエンテーションをしたときのことです。筒井武文という伝説的な人物がいることを諏訪さんから最初に聞きました。1年で1000本映画を見ていた友人がいると。そこまでなれとは言わないが、映画をたくさん見た方がいいという話だったと思います。そのときから筒井さんの存在はずっと意識していました。
そして確か在学中だと思いますが、『ゆめこの大冒険』(86)が映画館で上映される機会があり、友人と「あの筒井さんの映画が見られるぞ」と見に行きました。これがもう衝撃的で。てっきり映画に詳しくなっていくと難しい映画やシリアスな題材を撮るものだろうと思っていたので、その映画の軽やかさに本当に驚いてしまいました。驚くと同時に、すごく励まされた気がしたんです。映画のおもしろさはやはりこれなんだと。
藝大入学後に筒井さんともより話すようになるのですが、誰かの評価ではなく自分の目で見るその姿勢や、評していく語り口は本当にすごいことだと思っています。

 

──さて、『上飯田の話』にはカメラの360度の運動があります。『移動する』では人物の360度の運動が三つあって、併せて見ると興味深いポイントです。

僕自身が大きな意味を把握していたわけではないけど、何かが動いていてほしい思いがありました。『移動する』の冒頭は、麻子とスミレが若干気まずい話をしているので、その気まずさゆえにぐるぐる回らせてみようと考えました。
谷繁が回転椅子で回っているのは、元々は創作に悩む谷繁の姿を撮ろうと思って「どうすればそう見えるだろうか」と考えていると、美術部が用意してくれたのが回転椅子でした。これはチャンスだと思って(笑)、想さんに「椅子で回ってみてもらえますか」とお願いしました。でも、回り過ぎて少し気分が悪くなってしまって(笑)。
神輿のシーンの回転は、走り出す前に停滞する時間がほしかった。それでぐるぐる回っています。想さんが回ると盆踊りみたいな不思議な魅力が醸し出されます。子どもたちを連れて行くハーメルンの笛吹きのようにも見える。それに、闇雲に走り出せばカメラをどこに置けばいいのかわからなくなります。それをひとつにまとめるために、あのように回っています。

──続く子ども神輿のシーンは本作のハイライトです。そこで谷繁ひとりがフレーム内に留まる姿に、ポジティブな孤独めいたものを感じました。子どもたちと彼のあいだに距離を設けた意図を教えてください。

谷繁自身はそもそも子供たちを見送る存在ではなく、フラッと上飯田にやって来て、また去っていく〈ストレンジャー〉的な存在です。本来、誰かを見送る立場にはいない。そんな彼が子どもたちを見送るのは、自分がこの町で成し得ることは全部やったなと感じている。上飯田に来た自分の役割に終わりを告げられた。そういう意味合いを込めました。

──ラストの長い横移動でも、谷繁とスミレのあいだにそれに似た距離が生まれて、そのモチーフがラストショットへ続きます。それを描くタッチも本作の個性のひとつだと思います。

別れを特別に悲しいこととして描きたくない気持ちがありました。別れや離れることは悲しく捉えられがちな主題ですが、谷繁たちの人生においては何らネガティブなことではない。言ってみればいずれ起こることがここで起きたというだけで、むしろそうあってほしかった。最後にスミレが麻子に告げる言葉もポジティブなものとして書きました。

──ラストの手前、谷繁が人の輪から離れるシーンとほぼ同じ描写が、『上飯田の話』の終盤にあります。

どちらのシーンにも言えるのが、フレーム内に残るのは上飯田の〈外〉からやって来た人物です。バナナの木のそばにあるベンチに座って、遠くから誰かを見る。あくまで彼らは〈外〉から上飯田を見る存在であることを象徴する位置にいます。本当なら彼らの目線のショットも必要なのかもしれませんが。
二作とも、人物があのポジションにいるシーンは、楽しかった時間とそうじゃない時間、内部にいるときと外部にいるときの住み分けを上飯田町の空間のなかにつくる、そういう意図で撮りました。ただ、自分が「こういう画を撮りたい」と考えたというより、上飯田という場所が撮らせてくれた要素が大きいですね。
『移動する』であのシーンを撮ったときに、『上飯田の話』の同じ空間のことはほとんど意識していませんでした。ロケ地として町を使わせもらい、その〈外〉にいる人間を撮ろうとした結果、場所が偏ってしまいました。

──二作とも音をモノラルで仕上げておられるのも個性的です。最後にその理由を教えてください。

ひとことで言えば反発心です。藝大だと5.1chでつくることも出来ます。しかし、それでなんとなくリッチな雰囲気になったとしても、それがいい映画であることとは無関係……、とまでは言いませんが、それほど大切なことではない。
それよりも、モノラルでフレーム外の音を表現したり、空間的に拡がりのある音をつくるほうが遥かにサウンドデザインとしてレベルが高いと思っています。
画角にしても同様で、やたらと横長にしていくことが画の価値を決めることではない。そう思っています。小津(安二郎)もワイド・スクリーンについて「あんな郵便箱の受け口から外をのぞくみたいなことはしたくない」と書いています。
『上飯田の話』も『移動する』も、なるべくカッコ悪いと思われている方法でつくりたかった。だからモノラルだし、画角もスタンダートと16:9にしました。これでおもしろい映画をつくってやるという小さな反抗です。

(2024年7月10日)
取材・文/吉野大地

映画『上飯田の話』公式サイト
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