神戸映画資料館

WEB SPECIAL ウェブスペシャル

『左手に気をつけろ』『だれかが歌ってる』 井口奈己監督・増原譲子プロデューサー ロングインタビュー(前編)

全国巡回中の井口奈己監督の最新短編作『左手に気をつけろ』(23)が関西公開を迎えた(神戸映画資料館の上映は9月20日より)。 併映作は2019年に撮られた短編『だれかが歌ってる』。ロケ地と出演者、そしてこども・音楽・偶然などのモチーフは共通するが、2作はパンデミックで大きく隔てられていることが『左手』冒頭で明示される。それでも確かに連なったひとつの世界を眼と耳に響かせるのが、井口奈己の映画の力にほかならない。その魅力を探るべく、増原譲子プロデューサーをまじえて監督にお話を伺った。

 


──まず、『左手』と『だれか』で舞台となる東京・世田谷区のカフェ〈タビラコ〉についてお聞かせください。お店との出会いはいつ頃でしょう。

井口 店主の高橋佳奈さんと知り合った頃は、まだ〈タビラコ〉も現在お店が入居している〈松陰PLAT〉も出来ていませんでした。でも、当時から佳奈さんはカフェをやりたいと考えていて、お店の隣に公園があることが第一条件だと。その縛りは難しいんじゃないかと思っていました。それでも松陰神社前にいい物件があるからと聞いて、そうしてお店が出来て、たしか最初に行ったのは開店して間もない頃だったと思います。

──監督がつくられたgroup_inouの「BLUE」のMVを見ると、お店が1階だった時期があるんですね。

井口 元は古い長屋のような建築物の1階にあって、改築された〈松陰PLAT〉になってから2階に移転しました。MVを撮った頃は建築物を壊す予定で、その前に画家の山口一郎さんが壁に絵を描きました。記憶だとMVの山口さんの絵は、『だれか』に出演して音楽も担当してくれた細海魚さんの演奏に合わせたライブペインティング企画で描かれたような……、もしくはタイミングが合わなくて、先に絵だけ描かれたのかもしれません。

──MVに写る絵は一般的な装飾として描かれたものだと思っていました。元の建物を壊すことが前提にあったんですね。

井口 撮影の時点でもう壊す予定になっていました。〈タビラコ〉の並びにはほかにラーメン屋やレコード屋などが入っていたけど、みんな先に立ち退いたんです。そこで最後まで残っていると、今の大家の方が、こういう店が世田谷から消えてゆくのはよくないんじゃないかと考えて建物を買い取って、〈松陰PLAT〉にリノベーションしました。

増原 〈タビラコ〉は今年で開店から14年で、時系列をまとめてみました。

2010年3月11日 タビラコOPEN
2013年7月 『ニシノユキヒコの恋と冒険』撮影
2014年2月8日 『ニシノユキヒコの恋と冒険』公開
2015年7月 group_inou「BLUE」のMV撮影(この時点でタビラコの入っていた建物が建て壊しになることが決まっていたので、店中の壁に山口一郎さんがイラストを描いた、のを撮影した)
2016年3月 金沢にこども映画教室の講師をしに行く
2016年4月 松陰PLATがOPENし、タビラコも2階に引っ越し(建て壊し予定が新しく松陰PLATとして建て替わることになり、タビラコが2階に引っ越し)
2018年10月 タビラコ文化祭で『犬猫(8mm)』フィルム上映

──すごい。これは井口奈己クロニクルのひとつですね。『だれか』、ドキュメンタリー『こどもが映画をつくるとき』(21)、そして『左手』誕生までの流れが見えてきました。

増原 そのあとはこうです。

2019年春 タビラコ文化祭用に映画を撮ることを提案される
2019年10月 『だれかが歌ってる』撮影開始
2019年12月26日 タビラコ文化祭『だれかが歌ってる』上映

増原 2020年に新型コロナウィルスが拡大してからは……

2020年12月26日-29日 宮崎で『こどもが映画をつくるとき』撮影
2021年3月31日 『こどもが映画をつくるとき』YouTubeで2週間期間限定上映
2022年7月 『左手に気をつけろ』撮影決定
2022年8月 神戸映画資料館で井口奈己監督特集
2023年2月 恵比寿映像祭で井口奈己特集上映
2023年3月 『左手に気をつけろ』撮影
2023年6月 京都・恵文社で『左手に気をつけろ』お披露目上映
2023年10月 東京国際映画祭 NIPPON CINEMA NOWに『左手に気をつけろ』出品 
2024年6月 ユーロスペースで『左手に気をつけろ』&併映『だれかが歌ってる』公開

──『だれか』は、監督がこどもを撮りたいと思っておられたのも出発点だと伺いました。
*井口奈己監督・鈴木昭彦(撮影監督)トーク採録

井口 明確にこどもを撮りたいという動機があったわけじゃなく、ラングレー・スクール・ミュージック・プロジェクトのように、こどもが大人の歌を歌うのを撮りたい気持ちがずっとありました。でも、それは別に映画でなくても構わなくて。
ちょうど〈タビラコ〉の隣の革製品のお店〈cider〉の息子さんの湧くんが〈タビラコ〉によく遊びに来ていて、私たちも知り合いだったんです。『だれか』の頃は幼稚園の年長、5歳ぐらいだったかな、小さくてすごく可愛くて、その周りにもこどもたちがいたので、ラストはその子たちを撮ることにしました。湧くんは『左手』にも出演して、エンディング曲のラップもしてくれました。
タビラコ文化祭用の映画は短編で、と考えているときに、北京空港で口笛を聴いた体験を思い出しました。フランスからの帰りのトランジットで、すごく疲れた私と増原さんがベンチでぐったりしていると、口笛が聴こえてきては遠くなり、また聴こえてきては遠くなる、夢の世界みたいな現象が起きて……、幻聴かと思っていると、掃除のおじさんが仕事しながらずっと口笛を吹いていた。それが本当に綺麗な口笛だったんです。その体験が強く印象に残っていて、特定の人にだけ音楽が聴こえるモチーフに広がりました。
このあいだ、久しぶりに「BLUE」のMVを見直すと『だれか』の前にこのネタをやっていて、すごい! 本当に印象に残ってたんだと思いました(笑)。

増原 過去のメールを検索すると、その空港の体験は『人のセックスを笑うな』(07)を出品したナント三大陸映画祭からの帰り、2009年12月6日でした。

──口笛を幻聴と錯覚されたのは、不思議で興味深いです。

増原 掃除のおじさんが、掃除道具を乗せた小型清掃車で空港ロビーをぐるぐる周っていたので、音の遠近感が生まれたんだと思います。最初は気のせいだと思っていると、だんだん口笛が大きくなっては小さくなり、また大きくなって、と。
その前にフランスで飛行機に乗るのにすごくバタついて、機内で気絶して、ふたりともそのダメージを引きずっていました。トランジットの時間が長いのに、中国のお金を持ってないし、クレジットカードも使えなくて、何も買えずにベンチでひたすらぐったりするシチュエーションで、その幻聴感を感じました(笑)。

──監督は元々録音部出身で、耳がいいおかげで聴き取れたのかなとも思っていました。

井口 周りの人たちにも聴こえていたとは思います。でも誰も反応してなかったですね(笑)。

増原 耳のよさの影響はあるかもしれませんね。

 


──2作とも偶然が大きなモチーフです。『だれか』はクリスマスを舞台にした12月23日・24日・25日の3日間の物語。その次の作品『こどもが映画をつくるとき』は、〈こども映画教室〉のドキュメンタリーで12月26日からはじまります。これは流石に偶然ですよね。

井口 すべて意図しました、と言ったほうがいいのかもしれませんが、だいたいは偶然です(笑)。

増原 〈こども映画教室〉は、冬休みでこどもが集まりやすいだろうということで、宮崎の方が立ててくれたスケジュールでしたね。

井口 でもこの偶然はちょっと怖い(笑)。

──しかし、それもあって『だれか』から『左手』までの監督作に連続性を覚えます。各地で『左手』『だれか』を2本立てで上映されていると、そういう反応が多いのではないでしょうか。

井口 別々に見るのとは趣が違って、1本の映画に見えるという反応がありますね。

──普段の生活でも偶然に恵まれることはありますか?

井口 特別にはないけど、映画をつくっているときの天気は、私がそうなってほしいと思っていなくても丁度よくなることが多いですね。『ニシノ』(14)にからくり時計が出てくるシーンがあるんですが、撮影した日はすごいピーカンでした。
でも、からくり時計がその時点でまだ出来ていなかったから、寄りの画を撮れなくて。撮影の最終日に撮影所へ行くと、美術の人が準備してくれていました。それを動かしてもらって寄りを撮るつもりが、天気予報は曇りだったんです。カメラマンの鈴木昭彦さんは、それだと画が繋がらないなとずっと気にしていました。
だけど、もうその日しか撮影する日がなくて、晴れの日を待つことも出来ないしとなって、「撮影はじめるぞ」って言った途端に雲がパーっと割れて日が射したんです。
それまでもそんなふうに、天気がこちらのスケジュールに合わせてくれることがありました。撮影部の助手の人は天気をすごく細かく見ています。あまりにも調子がよくて、たとえば撮影初日に梅雨が明けたこともありました。7月初めだったのに、その年は梅雨が明けちゃって、「監督は悪魔に魂を売ったんじゃないか」と言われて(笑)。
たとえば外で撮影しているときは晴れていたのが、室内に入ると豪雨になったり。そういうことが重なったせいでずっとそう言われて、最後の最後に雲がパーっと開けたときに、振り返って「本当にこの人は悪魔に魂を売っているんじゃないか」という表情で私を見ていた(笑)。映画を撮るときの天気に関しては、そういう偶然が多いですね。

──でもいい喩えですね。ブルースギタリストのロバート・ジョンソンがテクニックを手に入れるのに悪魔に魂を売ったと言われた逸話を思い出します(笑)。『だれか』の本編部分の脚本はスムーズに書けたでしょうか。

井口 あれはどうだったっけ?

増原 大まかなプロットはあったけど、脚本の形になるのがギリギリで、準備が超バタバタになった覚えがあります(笑)。

──『左手』も『だれか』も、すごろく的に偶然を積み重ねているようで、緻密に脚本を書かれているのが画面からうかがえます。

井口 いまENBUゼミナールで講師をつとめていて、生徒たちのやりたいことを色々と聞きます。主にテーマやストーリーに関することが多いですが、私はそれよりも映画の構成に興味があって、脚本を書くときはそれに当てはめていきます。そこで納得がいかないと先に進められないですね。

──『ニシノ』の脚本を『月刊シナリオ』(2014年3月号)で読めます。原作を映画的に翻案されていることを感じますが、井口作品の脚本を読まれてきた増原さんはどのように感じておられるでしょう。

増原 『ニシノ』を境に変化があって、今は脚本がほぼそのまま映画になっていますね。それまでは編集の段階で時系列を入れ替えるなどの試行錯誤があったのが、『ニシノ』以降は構成が決まっているので、脚本を読んでもそのままだなという印象を受けます。当時は編集助手をつとめていて完成台本をつくっていましたが、脚本通りなのでその作業が楽になりました。

井口 『ニシノ』より前は、脚本で構成を詰め切れていない部分がありました。でも、そこをしっかりやれば、その後の現場がうまく進行して撮り忘れなどもなくなるので、最近はなるべく脚本の段階で構成を固めるようにしています。それで前後のテレコ(入れ替え)も少なくなりました。

──『犬猫(8mm)』(01)は撮りながら脚本を書かれていたため、編集時に配列組み合わせの問題が起きました。

井口 構成を組み立てる作業をどの段階でおこなうか、要はそれだけの問題ですが、『犬猫(8mm)』の頃はそのことを知らずに撮影しながらやってしまい、みんなを疲弊させる事態を招きました。時間もかかるので、脚本を書くときにやればいいんだと段々わかってきた。最近は自分が考える以上にしっかり書いています(笑)。

──ある程度は現場の偶然性に委ねているようでも、そうではないんですね。

井口 逆にきっちり構成して、あとは偶然という。脚本をしっかり書いておけば、そのあと現場で何が起きてもいいじゃんと思っています。

──『左手』は「春の天気は変わりやすい」という章がある通り、シーンごとに天候の変化があります。いかに対応されたでしょう。先ほど伺った天気運のお話に関わるかもしれません。

井口 絶対に晴れじゃなきゃいけないシーンを撮るときは、晴れたんですよ。それまでずっと雨だったのが、撮影が近づくに連れて雨が曇りになり、曇りが晴れになるというふうに。ライブ演奏で出演してくれたマダムロスのメンバーの住まいは東京じゃなく、撮影だけのために何度も来てもらえないので予定日に撮るしかない。最初はもう雨でも撮る! くらいの勢いでした(笑)。でも晴れて、やっぱりこうなるんだなと思いましたね。
雨が降るとスタッフは大変でしたが、たとえば名古屋愛さんが演じる神戸りんが傘をさしている印象的なシーンが撮れたり、画に変化が出て、結果的に映画にいい方向に働きました。

──傘の色も映画のアクセントになっています。どのように選ばれたのでしょう。

井口 あの傘は名古屋さんの私物です。もし柄が入っていたら雰囲気が変わるので、別のものにしようかなと思っていましたが、とても似合っているので採り入れました。

増原 一応、小道具として透明のビニール傘を用意していましたが、名古屋さんが「これを使いたいんですけど」と、あの傘を提案してくれました。

──『左手』も『だれか』も美術や衣装、スタイリストのクレジットがありません。衣装はどう決めましたか?

井口 私服を幾つか見せてもらったなかから、これでいこうと決めました。髪型もそのままで。

──具体的なイメージがあって、それに沿ったものを準備されたのかなと思っていました。

井口 いやいや、自前でお願いしますと。衣装はこどもたちの法被を揃えるぐらいでした。まず名古屋さんに決まる前に、りんのキャラクターのイメージがあって、名古屋さんは今23、24歳かな、りんの年齢設定もそれくらいで20代前半です。
キャスティングのために多くの方を紹介してもらい、とにかくその人たちのインスタグラムを見てみました。そこで、カメラから少し目線を外して憂いのある表情を浮かべていたり、自撮りで世界観を醸し出しているタイプの人は違うと思って(笑)。

──役者など人前に出る仕事を志望する人は、そうしないといけないのでしょうが、アーチスト写真、いわゆるアー写ふうに撮っている人が少なくないですね。

井口 探していたのは、世間の流行りとは無縁で、少しオタク的な気質を持っている、そして情熱の在りようが他人には見えないけどアクセルを踏めば飛び出していく、そんなタイプの女の子でした。
名古屋さんは、もらった写真でも笑顔のものがなく、無表情に表情があるタイプでした。笑ってなくてもいいなと思えて、それが嫌な感じじゃなかった。そこでインスタを見てみると、直近でアップしていたのが『エイゼンシュテイン全集』などの映画本を並べた画像で、「読み終わりました」と書いてありました。面白いぞ、この人はと思って。そのときはまだ動いている姿も見てなかったけど、もうこの人しかいないと思いました。

──たしかにそれだけで惹かれるものがありますが、増原さんはスタッフの立場から心配はなかったでしょうか。

井口 むしろ写真をもらった時点で、「この人がいい!」と言ったのは増原さんなんです。

増原 撮影が差し迫っていたこともありました。クランクインまで1ヶ月を切っていて、もう周りに聞くしかない状況で。演劇に詳しいENBUゼミナールの演劇・俳優部コース担当の事務局の方に事情を打ち明けると、次々と候補を挙げてくれました。でも、「演劇界に若い女の子はいない」と(笑)。
演技のうまい人は、やっぱりキャリアを重ねてある程度の年齢になっているようです。そこで名古屋さんの写真を見せてもらうと「もうこの人しかいない! 決めよう!」と思い、押し切るように推したのを覚えています。

井口 増原さんはインスタを見る前から、名古屋さんがいいと言っていましたね。演技もすごくうまい。私が今まで組んだなかでも相当うまい人だと一発目でわかりました。

増原 エモーションやニュアンスをすごく含ませて、あとは余韻もつけてくれる。そういう演技をする人です。撮影初日に姉のアパートを訪ねてくるシーンを撮ったら、撮影の鈴木さんもニコニコして、皆で「よかったー!」と安心しました。

 


──『だれか』にも出演している北口美愛さんが演じる三田ゆりかのキャラクターも個性的です。どのように構想されたでしょう。

井口 美人だけど情の厚い人になぜか私は縁があります。だけど美人だと、たいていの映画でそうじゃない人物として描かれると感じていました。

増原 ミステリアスな美女ですね。

井口 そうそう。そうじゃないキャラクターにしたかった。

増原 「情の厚いギャルを探せ」という指令がずっとあって、いろんな人にそういう人を知らないかと当たっても全然見つからず。それで、昨年2月に恵比寿映像祭で上映された『だれか』を見たら「いた!」と(笑)。

──灯台下暗しでしたね(笑)。ゆりかが〈タビラコ〉でりんと初めて会うシーンも面白くて、高橋さんが明らかに『だれか』よりリラックスされています。ここは見比べてほしいポイントです。

井口 佳奈さんが滅茶苦茶うまくて、「どうしていきなり演技が上達したの?」と訊くと、本番だと知らなかった(笑)。まさか本番だとは思っていなかったらしいです。

増原 自分はそんなに映ってないと思われていたようです。だから普段の雰囲気で話しています。

──たしかにあそこは引きで撮っているので……

井口 韓国に行く話をしていて、あれは佳奈さんの実体験です。自分が映ってないと思っているから普通に喋っています。

増原 『だれか』では物語を進める役で、自分の言葉じゃないセリフを言わないといけないので緊張感が漲っていますね。

井口 それは難しかったらしいです(笑)。『左手』では日常会話をしてくださいとお願いしました。

──あのシーンはどうやって演出したんだろうと思っていて、謎が解けました。演出しない演出ですね(笑)。スリーショットの人物の配置でつくられた縦構図の空間も素晴らしいです。

井口 あそこは店内の広さから、あの並びにするしかなかったですね。カメラもあれ以上は引けなくて。

──それでも見事です。店内にBGMとして流れる音楽も最高で、と言っているとキリがないため(笑)、もうひとつ、好きなシーンに関して教えてください。りんとゆりかのおにぎりを巡るやり取りのアイデアは一体どこから?

井口 今のコンビニおにぎりの包装フィルムは、規格が統一されて開けやすくなっていますよね。でも昔は会社ごとに違いがあって、「あああー!」と混乱している人をよく見かけました(笑)。鈴木さんの友人で、山から下りてきた木こりのような佇まいの人と撮影現場で一緒になったときにおにぎりを食べていると、その人もやっぱりそうでした。その姿がユニークで、いつか映画に使おうと思っていました。今は簡単になって、ゆりかのようにうまく包めない人を見なくなりましたね。

──何気ない描写のようで、おにぎりだけでこんなに映画が面白くなるのかと見るたびに感じます。ルノワールの作品世界も思い出しました。世界はシンプルなようで複雑にできている、複雑なようでシンプルである、と。一種の妄想ですが(笑)。

井口 そんなふうに見てくれる人は初めてです(笑)。それから、パリではおにぎりのブームが起こっていると知って。

増原 じゃあフランスにも『左手』が届くかも(笑)。

 


──姉のアパートも美術スタッフがいないにもかかわらず、「アパルトマン」と呼びたくなる雰囲気があります。

井口 あのアパートは友だちの家です。

──監督の映画ではおなじみになった芳野さんの絵などが飾られています。

井口 そこは芳野ちゃんにお願いして。姉の画材類や、芳野ちゃんが壁に飾ってもいいよっていう絵などを準備しておきました。そういう装飾は少し施しましたね。

──姉のスケッチブックも素敵ですね。

井口 芳野ちゃんがスケッチ旅行に行って、そのときに描いたスケッチブックがあるのを知っていたんです。それを見せてもらって借りることにしました。

──スケッチブックのページをめくるカットで、名古屋さんがリズミカルに手を動かします。あれは『だれか』冒頭のピアノのカットを踏まえた演出だと想像しているのですが……

増原 いま気づきました(笑)。

井口 ここも「そうです」と言ったほうがいいんでしょうけど(笑)、名古屋さんが入れてくれた動きです。演技と演技のあいだに独特な動きがあって。なんて言うか、止まっていない。たとえば何か持っているときも細かな身振りがあって、「それです、それです。それを演技に入れてください」とリクエストして、そうしてもらいました。だからあれも演出じゃないんです。

──意図されたものではないと伺い、悪魔に魂を売った説に信憑性が増しました(笑)。さらに2作に共通する要素が幾つもあります。細海魚さんが作曲された、旋律が印象に残る『窓辺』について教えてください。

井口 『だれか』は佳奈さんだけじゃなく、魚さんからも「文化祭に参加するなら映画を撮ってみれば?」と提案されました。つまりふたりが言い出したから、全面協力してくれるはずだと思って(笑)、魚さんに「音楽を使いたいんです」と頼んで作曲してもらいました。

──映画のための書き下ろしなんですね。アヴァンタイトルで作曲風景と絵を描くカットを繋いでおられて、ものづくりのプロセスを見せていると感じました。

井口 タビラコ文化祭は、佳奈さんと魚さんと山口さんを中心としたイベントなので、そこから始めるイメージでした。『だれか』は撮る前に、たしかボリス・バルネットの『帽子箱を持った少女』(27)を見て、こんな感じで撮りたいと思っていました。

──『だれか』をタビラコ文化祭で初上映されたときは、メタフィクションのように感じた方もおられたのではないでしょうか。

井口 映画内で電車が何度も通って、実際に外──お店のすぐ横──を通っているから、その度に建物がちょっと揺れるんです。だから、いつ通っているのか、それが映画なのか現実なのかわからなくなると言われましたね。

──文化祭に向けたリハーサル演奏をワンカットで撮っています。ここも見どころです。

井口 あそこはiPhoneのカメラで、ふたりが演奏する姿をそのまま押さえようと考えました。

増原 最初、カットを割ろうとはしていたんです。

井口 あのシーンは長いとか、丸ごと一曲にしないほうがいいんじゃないかいう意見もありました。でも以前、木村威夫さん(『人のセックスを笑うな』美術担当)に、「歴史的価値があるものは、映画のつくり手が変な欲を出さずに、ただ真正面からちゃんと撮れ」と言われたんです。新居昭乃さんと魚さんのセッションは歴史的なものだと思ったので、真正面から撮って丸々入れました。

──それは至言ですし、まったく長いと感じません。あのシーンのライティングはどのように?

井口 魚さんの舞台装置で、タビラコ文化祭でいつも回しているミラーボールを使わせてもらいました。

──どこから光を当てているのか、何度見てもわからなかったんです。

増原 タビラコの天井にライトを動かせるレールがあって、コンセントもさせるようになっています。そこにミラーボールを吊るして自動で回っているところに、元々あるライトを当てました。お祭り感がすごい(笑)。

──音もとてもよいですが、ライン録音でしょうか。

井口 たしかラインでも録音しました。

増原 それに、マイクで録った音を混ぜたんじゃないかな。

井口 今回の上映のために5.1chサラウンドにして、すごくいい音になっています。

──2作とも音楽をはじめ、色んな音で構成されています。監督の映画を見るたびに、世界はこんなに様々な音が鳴っているのかと感じます。撮影後に環境音を付け足すことはありますか?

井口 あとで音楽を乗せることはあるけど、基本的に環境音を足すことはなくて、おおむね同録です。

──先ほど伺った『左手』のおにぎりのシーンでは、鳥の鳴き声が聴こえます。

井口 あれも同録で、たまたま録れた音なんです。

──『だれか』のあるシーンでも、「ここで?」と思う絶妙なタイミングでカラスの鳴き声が聴こえてきて……

井口 あの声もその場で鳴っていました。鈴木さんの助手の子に、ある画について、「なぜこのカット使うのか」と訊ねられたことがあります。たぶん私は、ちょっと余計な音が入っているところを使っていると思うんですよね。
たとえば通行人のおじさんとおばさんの自転車が通り過ぎるカットだと、別のテイクがあっても、そっちを入れます。あえてうまくいっていないほうを(笑)。

 


──監督の映画は粗野かつフレッシュな一方、ひとことで言うとお洒落だと感じます。スタイリッシュなのに気負っていない。先ほど伺った『左手』冒頭のアパートも然りです。

井口 おしゃれなのかな(笑)。一応、撮影用に色々見せてもらって、イメージと大きくかけ離れていれば変更することはあります。

増原 〈タビラコ〉がおしゃれなのが大きいですね。『だれか』の雑貨店〈stock〉も、〈タビラコ〉の高橋さんが「撮影させてくれるよ」と紹介してくれました。だから、見て「ここがいい」と閃くのではなく、間違いないセンスの人に紹介されて行くと、本当にそうだったという。

井口 あとは『左手』のアテネ・フランセ文化センターの壁などは、インスタ映えするおしゃれスポットだとよく知られているから、それを撮っています。

──アテネの壁の前で写真を撮っているカップルの服もおそらく私物ですよね。プロのスタイリストが付いても、あの着こなしは難しいと思います。

井口 そうです。あのふたりは別々にパンクバンドをやっています。その繋がりで、最近はマダムロスも積極的にライブ活動していて、今月は〈METEO NIGHT 2024〉という大きなイベントにも出演しました。

──大活躍ですね。音楽のお話も詳しく伺いたいのですが、『左手』のマダムロスの演奏シーンの選曲はどうされたのでしょう。

井口 マダムロスは元々友だちだった中野画美ちゃん(Key.)が始めたバンドで、彼女とタマちゃん(松本珠季/Dr.&Vo.)がパーマネントなメンバーです。中野ちゃんはイラストレーターでZINEをつくったりしているフェミニストで、〈Girls Rock Tokyo〉というワークショップの主催者だけど、長らくバンド活動をしていなくて。タマちゃんは以前からハードコアパンクのバンドのドラマーをしていたそうです。
その中野ちゃんとタマちゃんがマダムロスを始めました。だけど撮影当時はまだライブ経験がなく、演奏できる持ち曲も3曲ほど。『左手』の撮影が初ライブで、それを練習してきてくれました。

──初めてゆえの勢いを感じます。

井口 昨年3月の撮影でライブを始めて、今月は〈METEO NIGHT 2024〉に出るほどになりました。

──このシーンは初ライブの貴重なドキュメンタリーでもあります。『だれか』も『左手』も生演奏を丸ごと撮っている点は同じです。でも長さが対照的ですよね。

井口 マダムロスの曲は速くて短い(笑)。

──少し前に、監督がXでアンダートーンズとG.B.Hの動画をリポストされていて無性に感動しました(笑)、70年代に登場したイギリスのパンクやパンキッシュな音はお好きでしょうか。

井口 やっぱりああいう初期衝動のある音楽は好きで、ロンドンパンクのシンプルな楽曲に惹かれましたね。当時はこどもだったからクイーンやエルトン・ジョンは──いま聴くといいと思うけど──まどろっこしくて聴いていられなかった(笑)。簡単なコードでつくられたパンクのほうがいいなと思っていました。

──同世代の僕もそれらの音楽は遠ざけていました(笑)。

井口 音楽遍歴は小学生の頃のモンキーズに始まり、ビートルズを経て中学生でパンク、特にPIL(Public Image Limited)のジョン・ライドンに夢中になりましたね。

──それは是非とも掘り下げたい、監督の作品世界に結びつく重要な話題ですので、改めてお聞かせください。

(インタビュー後編に続く)

(2024年8月)
取材・文/吉野大地

映画『左手に気をつけろ』公式サイト
X

関連インタビュー
『こどもが映画をつくるとき』井口奈己監督・増原譲子プロデューサーインタビュー

ARCHIVE旧サイトアーカイブ

PageTop