『箱男』 石井岳龍監督ロングインタビュー(前編)
改名前、「石井聰亙」だった時代の1997年、ドイツ撮影のクランクイン前日に映画化企画が唐突に断ち切られた安部公房の代表作『箱男』。この小説を「石井岳龍」監督が再構築してふたたび映画化に挑み、安部公房生誕100周年を迎えた今年、遂に公開の運びとなった。段ボール箱を被り、そこに穿った横長の窓から世界に視線を向ける箱男が数々の事件に巻き込まれる本作は、監督が長年追及してきたテーマとイメージの結晶である。その映画が持つ眼差しとは──
Ⅰ
──本作の脚本はいながききよたかさんと監督の共同執筆です。原作に忠実でありつつ、丹念にシェイプして現代的にアレンジされた部分が見られます。どのように全体を構成されたでしょう。
約10年前に今回の制作が動き出して、いながきさんと脚本を共作することになりました。それまでには様々な経緯があり、ドイツで撮ろうとしていたときの脚本は私ひとりで書いたものでした。それを完全に捨てて、ふたたび一からつくるところから始めました。まず永瀬正敏さんが演じる「わたし」がいかなる経緯で箱男になり、その後どうなっていくかという大筋があります。そして、いながきさんに徹底的に原作を分析してもらい、三本の構造を抜き出しました。
ひとつは箱男殺人事件──箱男を安楽死に利用する完全犯罪を軍医(佐藤浩市)が仕込んだのか、ニセ医者(浅野忠信)がそう書いているのか──を物語の中心に据えています。それから、私が大きな関心を抱いていた「わたし」と葉子(白本彩子)のラブストーリー。これは原作のラストのくだりを踏襲しました。それらに加えて映画的アクションを成立させるものとして、箱男と偽箱男の戦いを取り入れました。原作にもその描写はありますが、スピンオフ的な『箱男 予告編』『箱男 予告編2』という短編*は、箱男AとBがいて、どちらが本物なのかと争う話です。このアクション性を強調することで映画がより面白くなるだろうと考えて、三本柱を構造化して全体を組み立てました。
*『安部公房全集〈23〉』(新潮社)所収
──原作にある、ほかの要素や描写も細やかに拾い上げておられます。
可能な限り、原作のメタフィクション的な要素やソリッドな詩的要素も入れようとして、最初はかなり長い脚本でした。改稿を重ねて完成に近づくに連れて、それらを省略していきました。私がすごく好きで、どうしても入れたかったショパンのくだりも外しました。あと、冒頭も元はもう少し長かった。「わたし」が箱男になるまでの顛末が丁寧で結構長めでした。最終的には縮めて、三本柱で物語を進める形になりました。
──安部さんの小説は『箱男』に加えて『他人の顔』(64)や『密会』(77)も視線、すなわち見ること/見られることが重要なモチーフで、これは監督が長編前作『自分革命映画闘争』(22)でも主題化されていました。本作はその強度が一段と増したと感じます。
私はやっぱり観客も映画づくりに参加していると思っているので、そこを強調したかったこともあるし、原作刊行の1973年から時が経って、見る側と見られる側に依存的な関係があるのではないか。ずっとそう思っていました。もちろん見る行為はとても暴力的なことだけど、単純に一方的かつ暴力的に対象を見ているわけじゃなく、見る側も見られる側に依存しているのではないだろうかと。その認識を反転させる立場として、映画における葉子の立場を構築していきました。
──『自分革命映画闘争』は、見る行為が秘める暴力性を問い直す作品でもありました。その部分も深めておられます。
見ることの暴力性はやはり非常に現代的なテーマだと思う一方で、そう思うこと自体がむしろそのことに囚われ過ぎているのではないか、そのことを一回ひっくり返せないだろうか。映画化に向けて、その問題も長いあいだ考えていたことですね。『自分革命映画闘争』を創り、長年『箱男』の構想を練る中で、見る/見られる関係性はつねに考えるテーマでした。原作に対して、一方的に見る男性にとって都合のいい対象としてしか女性を描いていないかという批判があります。現代の映画として自分の監督作で何がしかの答えを差し出せるだろうか、それもずっと考えていたことです。本作が提示するものは充分ではないかもしれないけれど、視線の問題をいま一度見直す契機になってほしいと思いました。そのためにはやはり観客の視線の問題も抜きにして考えられない。それはひとつの持論としてあります。
──主観ショットが象徴する本作の正面性は、監督の思考を反映した、原作の構造にも踏み込むものだと思えます。視線の問題を捉え直された理由をさらに詳しくお話し願えますか?
安部さんの原作に、「見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある」という一節があります。つまり見られているものが見返せば、見ていたものが見られるものになる相対的な交換性がある。原作はその交換性をもとに書かれていますが、現代における見る/見られる関係性は、その図式を超えて多様化・複雑化しています。そして、私が分断ではなく、共生──単に暴力的ではない視線の在り方──を願っているということがあります。
原作が書かれた当時の覗きもそうでしたが、今もはっきりと犯罪だと見なされる、窃視行為に対する厳しい状況があります。並行して、ネット社会の拡大に伴い、匿名性に基づく一方的な視線の攻撃性がますます拡大して、それが肉体性を伴わないものになってしまっている。でも本来、実際に窃視行為には相当の勇気が必要で、その関係性も変化していると思うし、隣人に対する視線というか、見る/見られる行為が決して──もちろん覗き見などは犯罪ですが──暴力性のみに規定されず、視線の眼差しの在り方によって何らかの関係性の変容が生まれるのではないだろうかとも考えていました。
著名な人物、たとえばアイドルなどに顕著なように、好きな人や関心を抱く対象に向けて、やはり人は自然と視線を向けたくなります。それは見る側が、見られる人に依存しているとも捉えられると思うんです。見られる側は、視線を一方的な憎悪じゃなく、それをポジティヴなエネルギーとして捉えて共感のレベルに持っていけるのかもしれない。
もちろんお互いの態度の在りようが前提だけど、私は多くの俳優の方々と仕事をしてきました。そこで俳優は、自我を捨てて別の人間になりきります。共演者やスタッフ、観客に見られることが前提で、人に見てもらわなければ仕事が成り立たない。そのときに視線を暴力と感じずに受け入れて、見られる痛みということではなく、それをナチュラルに照らし返して包み込む慈愛とも言い得る共生的な反応を感じます。そうした視線を照らし返す女性として葉子像を考えていたように思います。
彼女は過去にヌードモデルだった設定ですが、それがただ見られるだけ、搾取されるだけの存在かというと、逆に私は強さも感じます。ヌードモデルだった方の手記をいろいろ読んでみて、エロスの奥深さと同時に、人間的な強さや愛の強度を感じた人がいたんですね。内省的に自分を自然体で透明にして、視線を受け入れて、暴力的視点を漂白し無効にして、包み込むような意識の発生が感じられた。
たとえば安部さんの原作の、男性が一方的に女性を覗き、その痛みを逆転する《Dの場合》の章には、お互いの主従関係を巡ってのマッチョイズムともいえる昭和的な側面があるかもしれない。そこでは覗かれる女性が逆襲するけど、そういう関係性だけじゃない、見る/見られる視線の在り方の変容や意識をもっと高く持っていける方法があるのではないか。明確な犯罪の場合は問題外ですが、単に見られる側ということではなく、それを超えた存在として被写体を──勿論こちらの都合のいい解釈ではなく、しっかりと主体性と肉体性と精神性を持ったものとして──描けないだろうか。その可能性も含めてずっと答えを探しました。
原作の葉子にもそういう面が潜在していると私は思っていて、安部さんは主人公「ぼく」と葉子の関係を「絶望的な愛」として書いたけれど、そこを超えた温かみやユーモアや神話性も感じます。それを具体化するものとして、箱男の「わたし」に対する葉子からの視点を問い直して映画に取り入れたかったんです。
Ⅱ
──監督は作品ごとに人間存在も問い直してこられて、『シャニダールの花』(13)では女性描写の変化が見られました。本作はその延長線上にあるとも思えます。
まさにそうで、ずっと女性に教わっている、救われていると感じていて、それは一体どういうことだろうと自問し続けています。まだまだ未熟だけど、『箱男』を監督するにあたり、自分の中で一歩先に進めなければ映画を撮る意味がない、撮ってはいけないとも思っていました。安部さんがこの小説に託して書かれた、見る/見られる関係性を自分の映画で現代的に捉え直して、なおかつ次の時代の人たちへバトンタッチするには、そこは外せないと考えました。
──そして観客の視点の作用も、原作を現代的に更新したポイントではないでしょうか。
まず、観客の「あなた」は一方的に見ているということが前提としてあります。それに、今は観客の参加を抜きに映画を考えられないと私は思っています。特にゴダール監督の登場以降、それは無きものに出来なくなっています。
──観客参加型の映画というとアトラクション的なものを連想する方もおられるでしょうが、監督の映画はそうではないですね。
映画は観客と一緒に創るものだと私は確信しています。本作だけじゃなく、次に生まれる映画の可能性も一緒に創っていると。そこでどういうことが起きるのか。私にも起こるだろうし、観客の心の中にも次なる映画や、発動していなかったものが発動する。それこそが映画体験だと思っています。今まで映画を観てきて、それによって救われたり、インスピレーションが湧いたり、知らなかったことが閃く瞬間が何度もあった。それらの体験を踏まえて、その都度、自分に出来ることを試しているのだと思います。
配信で映画を観られるようになり間口が広がったのはいいことだけど、自分たちが一緒に創っていく可能性や映画の総体を本当に感じられているだろうかとも思う。もしそうじゃなければ、もったいないと感じるんです。
──それがよく表れているのが画面の暗さです。映画館の映写環境でないと、この陰影に富んだ画面設計は味わい尽くせない。それほどの暗さではないでしょうか。監督が暗闇の力を信じていることも窺えます。
浦田秀穂さん(撮影監督)と常谷良男さん(照明)は映画を突き詰めている方たちで、徹底した画面づくりをしてくれました。現代の映画とはこうだという感覚もあったでしょうし、私自身も映画の原初の力、たとえばサイレント映画や光と影のドイツ表現主義、そしてフィルムノワールの黒から何が見えるのかということから逆に考えて、では何に光を当てて照らすのか、それを突き詰めたかった。とりわけフィルムノワールから発想した部分は圧倒的にあります。それが映画だし、『箱男』の本質もやっぱりそこに関わってくると思うんです。みずから段ボールの暗闇を被る、でもどうしても外の光を覗きたい。それは彼にとっても何なのか、ということですね。
絵画や写真、人類が初めて創造したアートである洞窟壁画もそうですが、基本にあるのはやっぱり暗闇だと思います。星などは顕著ですが、昼間でも明るいと見えないもの、他の情報に埋もれている貴重なものは確実にたくさんあるし、今はいろんなものが見えすぎるのが当たり前になっています。一度、暗闇に入って本当に大事なものを探す。画面の暗さは、そこから始めたいということでもありますね。だから映画館は本当に貴重な場所で、暗闇と無音が基本の空間で様々な音と光によってイメージが形づくられる。自分にとって基本中の基本の創作の場といえます。
Ⅲ
──『ソレダケ/that’s it』(15)の主人公の設定は、戸籍を奪われた男でした。原作の初版の付録冊子インタビューで安部さんが「帰属というものを本当に問い詰めていったら、人間は自分に帰属する以外に場所がなくなるだろう」と述べておられます。アイデンティティの問題も監督が描き続けるテーマです。
常にそうですね。『ソレダケ/that’s it』の要素も本作に少し入っているかもしれません。安部さんの国や社会や制度を問う世界の見方には、すごく共感できます。その見方はちょっとひねっているようで、実は非常に強靭な思想です。『箱男』もとんでもない発明であるうえに、具体的に納得させられる。机上の空論じゃなく実践的で、現代社会で現実化しています。
それはもう安部さんの毎回の小説ごとの発明で、発明しないと書けなかったのか、あるいはそういうテーマを書くために発明されたのか。いずれにせよ、そこが安部さんのものの見方の醍醐味ですね。絶対に思いつかないような、とんでもないことを発想される。それによって暴かれること、可視化されることがいっぱいあります。
最果て、最底辺とも言える視点から世界や人間を見つめるところが古びないし、安部作品が持つ先見性ですよね。ノイズも破綻もすべてひっくるめて入念に検証したうえで、立ち上がってくる新たな真実がある。私たちが普段疑うことなく信じていた制度や決まりごとなどの倫理を、一度チャラにする発明が毎回仕掛けられています。『箱男』は、その中でも私にとって最大の映画的な作品。この小説は凄いと感じました。
──原作からヒューマニティを抽出して葉子を造形されています。片やニセ医者は物質である段ボールの箱に傾倒していきます。このふたりは両極にある存在ではないでしょうか。
浅野さんが演じるニセ医者は、おそらく最も原作に近い人物と言えますね。逆に永瀬さんが演じる「わたし」は迷っている人間。観客にいちばん近い立場にいる言わば道案内役で、感情移入しやすいと思います。ニセ医者は安部公房的な、硬質で突き進んでいく人物として構想していました。それに輪をかけて、演じる浅野さんがノリに乗って、撮影時はもう最初から全開でした。いきなりそのテンションだとお客さんが置いていかれると思ったので、「徐々に上げていきましょう」と提案するほどでした(笑)。それでも、ノリに乗って演じてもらえました。素晴らしい存在感で役を納得させてくれました。自分なりにリハーサルを重ねて現場に臨んでくれたようです。
──観念性が原作の魅力のひとつです。映画化にあたり、そこに俳優の肉体性を与えておられて、本作にはアクション映画の楽しみもありますが、段ボール箱の立ち回りを観るのは初めてです(笑)。
たしかに今までないですよね(笑)。素晴らしい原作がまずあり、それを映画にするからには、目に見えない動きも含めたアクションが重要な鍵でした。私はやっぱり映画の要は動き、アクションだと思うので。箱男がどう歩いたり、あるいは寝転んだり、箱の中でどう過ごすのか。箱の内側の動きに対しても、映画全体のリズムや流れの中で特に気を配りました。歩き方や走る速さ、立ち上がるタイミングも大事にしました。
──葉子と箱男の切り返しを、イマジナリーラインを超えずにきっちりと撮られたシーンがあります。映画の文法を守っているのに、得も言われぬ感覚に囚われました。
箱男と偽箱男の対決シーンも撮っていて、自分でもすごく不思議でした。撮り方を考えるのも難しかったですね。箱しか映っていないから(笑)。
──現場はハードだったと思いますが、座談会の様子からは俳優陣の充実度が感じ取れます。
確かにハードではありました。メインキャストが少なく、アクションもあるうえに、ガッシリとした重い芝居を求められるシーンが多い。でも、そこで私はやり甲斐を感じました。スタッフ全員が考えに考えて、俳優陣もそれに応えてくれる撮影現場だったので、演出・演技も含めてきつかったけど、楽しんでもらえたんじゃないかと思います。
特に芝居が非常にヘビーでしたね。ロック映画で跳ねる場合だと、芝居よりもやはり肉体のアクションが先走ります。
『蜜のあわれ』(16)も、実は結構濃い芝居の作品でした。ヒロインの設定は人間じゃなく金魚ですが、人間同士の芝居には本作と少し似た重さがありました。今回はほとんど人間同士の重厚な絡みで、撮っているこちらも──毎回そうですが──力を抜けませんでした。
白本さんは過去にドラマや舞台公演に出ておられるので新人ではないけれど、本格的なドラマ映画主演は初めてです。オーディションで抜擢させてもらったこともあって、比較的しっかりとリハーサルをおこなえました。男性3人はよく知っている方たちだし、よい仕事を沢山こなされて、その経験が芝居の引き出しとなり積み重なっていた。それを開かせてもらうのはとても楽しい作業でした。
──座談会で監督と俳優陣がお話しされているムードは、バンドのようにも見えます。
そういう喩えが出来るかもしれないですね。基本的に少人数で創るヌーヴェルヴァーグだと、その人間関係がスタッフにまで及びます。大規模な映画創作はオーケストラだと思っていて、今回も撮影・照明・録音・美術など、大人数のスタッフが揃った構えでした。だけど結局、チームが一体となるときは、そういうバンド的なグルーヴが生まれてこないと面白くならないんですよね。今回は、映画づくりの中心だった関友彦プロデューサー率いる制作集団コギトワークスの求心力が大きいと思います。
私もそれを発生させるために常に気を配るし、3人の男優さんとゆかりがあった相米慎二監督も、常にグルーヴということだけを考えていたんじゃないかと思います。いかに全体のグルーヴを出し切るか。なかなか彼の時代や、彼が撮っていた規模の映画のようにはいきませんが、それはいつも心がけたいことです。
──さて、犬童一心監督が6月に神戸映画資料館でトークをおこないました。そこで1970年代末から80年頃の自主映画界を振り返って「石井さんは少し世代が上だし、映画と人生が繋がっている人だから別格だった」という主旨のお話をされるのを聞いて、すごく腑に落ちたんです。それは今までも感じてきたことですが、ライフワークと呼べる本作を観て、改めて痛感しました。
そうだと思います(笑)。自分でも馬鹿なのかなと思うけれど、映画と人生を分けては考えられないですね。もう宿命的なものだと感じているし、仕方がないですね。そうやってここまで来て、この映画を完成させられたわけだから。
大学仲間と学生たちとで撮った『自分革命映画闘争』にしても、創らざるを得なかった映画です。必然的に生まれた作品だと思っているし、宿命に逆らっていません。どんなに他者に価値がないと思われても、毎回自分にとってすごく大事なものを創ってきたと思っていて、これはもう変えようがない。今まで変わった映画を撮ってきた自覚はありませんでした。本作もクレイジーだ、相当ヘンだと言われるけど、自分では普通のつもりです(笑)。より大きな予算で、より多くの観客に届けたい想いはもちろん変わらず強くあります。でも、自分だけでは、どう具現化したらいいかはわからない。共闘してくれるプロデューサーや仲間が常に必要です。私自身は、ますます感覚が研ぎ澄まされています。おかげさまで(笑)。
(2024年8月)
取材・文/吉野大地
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