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『箱男』 石井岳龍監督ロングインタビュー(後編)

(インタビュー前編)
 

 

〈この逸材でエンターテインメント映画が描けないわけがない。箱男の世界観に比べれば、既存する社会はチープな書き割りに過ぎない〉
これは『ユリイカ』94年8月号〈増頁特集:安部公房〉(青土社)に石井監督が寄せた小論「映画『箱男のつくりかた』」の抜粋だが、顧みると当時の構想からの一貫性と、様変わりした世界とのコントラストが見られて興味深い。現代社会はデジタル化により加速的に複雑な書き割りに化しているともいえる。ロングインタビュー後編では、本作に込めた監督の思考の現在地を探ってみたい。

※なお、先ごろ台風の影響で中止になった監督と主演:永瀬正敏の舞台挨拶が、9月15日(日)・16日(月・祝)に全国6館の劇場で開催されることが決定した。

 


──インタビュー前編で、原作の視線の問題を捉え直されたことを伺いました。言い換えれば「相対化」ですね。安部さんが『箱男』初版付録冊子のインタビューで、「すべてのものを相対化して、体験の裏づけなしには信じない(…)」と述べておられます。こうした考え方は監督に通じるように感じますが、ご自身はどう捉えておられるでしょう。

安部さんは、自分の生理的な感覚でものを捉えておられますね。先日、安部さんの写真集『安部公房写真集─PHOTOWORKS BY KOBO ABE─』(新潮社)が刊行されました。安部さんが撮った写真は──こう言うのは大変おこがましいですが──私がずっと撮ってきた写真にすごく似ている部分があります。普段、人が見ないもの、見られないけど確実に存在しているものに対する愛情を写真から感じます。
なおかつ素晴らしいのは、徹底的に極みまで論理的に捉えているところ。安部さんが原作小説を執筆されていた70年代初頭にはあまりなかった考え方だけど、量子力学的でもあると感じます。コノテーションにも似ていて、流動する粒子や波動をベースにすべてを捉えておられます。

──本作は安部さんのその視点を踏まえて、一般的に無価値とされるものを写し出すショットもあります。

ノイズとされるものまで含めたあらゆる存在の中でも、特に打ち棄てられたものや人が無きものとしている何か、あるいは棄民や棄てられたがゆえに、存在しているのに見えていないものへの安部さんの愛情はすごく深い。在るのに人が目を向けようとしない不条理なもの、社会で不可視になった存在や排除されたものに対する痛みと愛情があって、それを逆転させます。それらがいかに重要で、安部さんが発明した視点で物事を見ることによって、今まで見えてなかったものが見えてくるんだという。
そうした対象を決して見捨てず、そこにこそ関心の目を向ける。私はそれを安部さんの強靭なヒューマニズムだと捉えています。そういう存在や物事を見つめることはハードで、毒々しいことになるかもしれないし、決して口当たりがいいものではありません。だけどその眼差しの強さと確かさ、強靭な論理性に加えて、厳しいだけじゃないユーモアもあって温かみを感じます。なおかつ詩人的なものの見方と抽出の仕方で、『砂の女』(62)に顕著なように純粋に表現に結晶させていますね。

──安部さんが見つめていた大きな主題のひとつが〈都市〉でした。本作では冒頭のナレーションをフリクションの初代ギタリスト・ラピスさんが担当しています。フリクションは〈都市〉を感じさせるバンドなので都市描写によくフィットしていて、その片隅でがらくたに同化している箱男は収まりがよく見えます。しかし、原作発表から50年以上経った現在は、日本各地の都心部からそういうスペースが消えつつあります。

東京の風景からもそう感じます。空き地や廃墟、いわゆる要らないもの、今すぐ役に立たないものが急速に見えなくなっています。すぐに再整備や再利用の対象になって、居場所がなくなる。存在するのに無きものにされて、人間の意志や、大げさに言えば魂も行き場を失ってしまう。すると、すごく極端な社会になっていくんじゃないかと思う。それは非常に危ういことで、いつ何どき突然爆発してもおかしくない気がします。
安部さんの小説には、一種のガス抜きの役割もありました。作者が持つ異常な力も含めて、読むことによって救われる魂やエネルギーが多くあったと思うんです。68歳[1924-1993]と、今の私と同じくらいのお歳で亡くなられた。本当に惜しまれる才能でした。

 


──本作を観たあとに原作を読み返すと、葉子(白本彩奈)の人物像はやはり本作独特のものだと感じました。彼女だけは唯一、箱に囚われない人物ですね。

人間として最も主体性をしっかり持っているのは、やっぱり葉子だと思うんです。根無し草みたいにふわっとして、男性の言いなりになっているようで、実はまったく異なる強い主体性を持っている。それは彼女の視線の強さにも関係しています。でも、その視線で一方的に覗くのではなく、見る/見られる関係性を自然体で、しっかり自分のものにしています。
そういう強さを身につけている人はとても魅力的に感じます。劇中、服を脱ぐ部分は象徴的に原作通りに描きましたが、たとえ着ていたとしても同じことだと思う。自我の殻、主観の殻のようなものが硬いとそれに囚われてしまうし、どうしても自分を守りがちです。真の意味で自然体の人って──演技が自然体という意味ではなく──とても魅力的だと思うし、やっぱり本物の強さを持っていると思います。私の理想かもしれないけど(笑)。

──序盤で「わたし」(永瀬正敏)と葉子が初めて会話するシーンで、「わたし」の左隣にいた彼女が右側へ移動します。カメラワークも相まって曲線のイメージを感じさせるこの演出も、そうした人物像から着想されたのでしょうか。

言われているように、あそこは円運動しています。葉子はあの段階ではまだ微妙な立場で、被害者の「わたし」の声に耳を傾けてあげている部分もある。純粋な自分の思考だけで行動しているわけじゃないと思いますが、包み込むような彼女が持つオーラを表現したくて、自分なりに計算して演出しました。ジャン・ルノワール監督やマックス・オフュルス監督たちの、カメラワークも含めた女性に対するアプローチがすごく好きです。渦巻く感情関係のエネルギーをどのように捉え表現するか、その部分でも影響を受けています。

──そして、ずっと組まれている勝本道哲さん(音楽)のサウンドも監督の映画に欠かせない要素です。音づくりで何か変化はありましたか?

作業の過程自体は以前からほぼ変わっていませんが、作品を重ねるごとにお互いの相互理解が深まっているのを感じます。『自分革命映画闘争』(22)はコロナ禍の制作だったので、時間だけはたっぷりとあり、神戸芸術工科大学の卒業生や学生たちの力を借りて充実した音づくりをしてもらいました。本作には、その経験が確実に反映されています。
俳優陣やメインスタッフは、共通認識として同じところを目指して、皆そこは外さないですね。大変だけど、音楽・音響関係はやっぱりギリギリまでとにかく粘りに粘っています。音の仕上げはどうしても最後になるので。今回は徹夜して仕上げました。

──幾つかのシーンでは途中で唐突にサウンドを切っています。これも映画に独特のリズムを与えていますが、どのようにデザインされたでしょう。

音と映像の関係については、ゴダール監督や武満徹さんの手法が大きな刺激になっているし、『自分革命映画闘争』あたりから勝本さんも「音楽が鳴らないところこそ大事だ」と意識されています。過度にならないように気をつけていますが、逆転の発想から生まれる音のアプローチは、やっぱりとても好きですね。

──ご著作『映画創作と自分革命』(22/アクセス)第三章では安部さんの考察に多くのページを割いておられて、「逆転の発想は安部さんの専売特許」と書かれています。ちょうどその前の節がゴダールの考察で、ここからも監督が両者から多大な影響を受けていることが窺えます。それからもう一点、音に関して教えてください。原作の最後に記されている救急車のサイレンを、本作に採り入れていません。これは意外でした。

サイレンは、安部さんの『箱男』ののちの作品『密会』(77)の予言的な部分もあったと思うんです。脚本には最終稿までサイレンと書かれていましたが、助監督の方があのアイデアを提案してくれて、確かにその通りだと思って共同脚本家のいながききよたかさんにも確認を取りました。やっぱりデフォルメされた本作の世界が観る人と地続きで、「わたし」と「あなた」たちの物語でもあることを実感してほしかった。
海外の観客は、エンドロールが始まった途端に席を立ってしまいますが、日本の観客は最後まで聞いてくれると思うので、その点からも採用しました。サイレンよりも現代の観客が、より実感できるあの音のほうがいいだろうと考えました。

 


──続けて本作のジャンル性に関してお聞かせください。娯楽作であることを前提にあえてジャンル分けするとしたら、サスペンス/ミステリーになるのかなと思います。

「わたし」が箱男としてどんな出来事に出会っていくか。本作は『闇の奥』への冒険譚でもあると思っています。「わたし」は観客を導くメインの存在だけど、映画の中心になるサスペンスは、軍医(佐藤浩市)とニセ医者(浅野忠信)が関わってくる箱男殺人事件ですね。

──ただ、その部分も含めて監督の映画のサスペンス/ミステリーは、一般的なそのジャンルに見られる謎解きとは別のところにありますね。

いわゆる読みもの的なミステリーやサスペンスには興味がなくて、その関連で言えば、ノワールな探偵ものは謎を解決するけれど、結局大事なことは霧の中に隠れているというビターエンドですよね。自分では、それを作品に応用しているつもりです。
いつも言っていますが、私の監督する映画は明確な答えや結論をお見せするのではなく、こちらからの提示を受け取ってくれた観客の方がそれぞれの結論を出す共同作業だと思っています。もちろん模範回答的なものはあるでしょうが、それだけではつまらないと思うし、あくまで最終的な結論は観た人の心の中で導き出してもらえれば、と願っています。
今、日本のわかりやすい娯楽映画では、きちんと結論を出すことを必ず求められる。それはそれで理解できます。でも予定調和は好きじゃないし、観ていても物足りない。映画は創作物であり表現物だから、情報として明確な答えを用意することだけで閉じてしまうことに疑問を覚えてしまいます。
もちろんドラマやキャラクター、出来事など色んな面白い要素が詰まっていることは必要でしょうが、2時間の体験を通して何がしか感応するものがあれば、自分なりに感じて,想像して、大切なものを持ち帰って貰いたい。私はそこに賭けています。

──原作にある「不都合なのは、筋が通らないことよりも、むしろなめらかに通りすぎている点だろう」という一節は、本作に当てはまる気がします。監督の映画は情報やクイズではないですね。

これまで映画を観てきた中で言葉に出来ない面白さを感じたり、自分にとって大事な映画を観終えて映画館を出ると、世界が少し違って見える。今まで経験したことのない感覚を覚えて、ヒントや気づきを得られるから映画は素晴らしいと思うし、この大変な時代に高いお金を払ってわざわざ映画館へ行って自分の身体で体験する。本来、映画はそのために創られているはずです。
本作も、論理的に組み立てられた中になぜこんな描写があるんだろうとか、一体なぜこの小説がこのような結末になるんだろうと思われるかもしれません。でも、それこそがこの映画の最大の謎でミステリーかもしれない。「わたし」も一体なんなのかわからない、ある種の嵐に巻き込まれている(笑)。その感じが面白いんじゃないかなと思っています。
安部さんを語るときに、トポロジーという位相幾何学の概念がよく用いられます。実際、安部さんの小説は理系的で緻密で幾何学的ですが、でもトポロジーとは、融通の効かない一般平面の幾何学と違って球体やゴムなどの変形する空間を想定しての幾何学なので、伸び縮みするし、メビウスの輪やエッシャーのだまし絵的な世界を思わせます。そうしたマジカルな意外性とユーモア性が厳格性と同居する不思議な部分があって、そこにも人間愛ともいうべき非常に強靭なヒューマニズムを感じます。ものすごく厳格で厳密に突き進められる作品の中に、ユーモラスで奇妙に突き抜けている部分がある。そのとぼけたところも得も言われぬ安部さんの魅力です。それは、安部さんが根本的に持っていた厳しく醒めた眼で見通す世界観と表裏一体のユーモア性なのかもしれません。だから、映画も閉じてしまってはつまらないと思うんです。

──特に《供述書》のくだりなどは原作を巧みに視覚化されていて、フィクションが開かれてゆく印象を覚えます。

欲張っているかもしれませんが、大事なのは与えられた条件の中で最大限、映画を閉じてしまわず、かといって意図的に破るのでもなく、観客も含めた全員が自然体で2時間という映画の時間をリアルに、しかもスリリングに生きて紡げるかということだと思います。あとはお客さんに、どれだけこの映画を伝染させられるか。何かを感受して持ち帰っていただきたい。それこそブルース・リーじゃないけど、「考えるな、感じろ」ですよね(笑)。情報や授業じゃなく映画ですから。
本はじっくり自分のペースで読めます。それにどこから読んでも構わなくて、頭から読んで、またもう一回読み返すことも出来るけど、映画の場合は客席に座ってから終わるまでが勝負です。そのあいだの時間をどれだけ充実したものとして楽しんでもらえるかに賭けているし、映画が完成したあとは、それがうまくいくことだけを願っています。

 


──本作のスクリーンサイズは、監督作では珍しいシネマスコープです。

シネスコは、『パンク侍、斬られて候』(18)に続いて2度目ですね。

──そして立ち上がっていない状態の箱男の視点の高さは、映画館の椅子に座る観客のそれに近いのではないでしょうか。

箱男が普通のポジションのときは──各劇場の座席にもよりますが──大体そうなっているんじゃないかな。それも考えて映画全体の中の箱男の動きを演出しました。その部分でも観客が映画に参加できるように。

──原作の構造にも関わってくる映画的なアイデアです。

『箱男』はとても面白く、そのうえに貴重な題材だから、本音を言えば何本も映画を創って多角的に検証してみたいです。今回は原作のラストから逆算して最低限のシーンで構成しました。でも今度は別の側面から、その次はまた別の視点から映画にしてみたい。これは欲張りな自分の素直な願望ですが(笑)。

──映像化された《Dの場合》の章も見てみたいです(笑)。それから、監督も段ボールの箱に入られたんですね。

たとえば、箱を自作して入ってみて、ぜひ体験してもらうといいと思いました。撮影で使用した箱は意外と重いんです。それに箱の中にいると、日常生活でトンネルや個室トイレに入ると落ち着くのに似た感覚と同時に、外に出ると当然、恐怖感も覚える。何より音が普段と違って聞こえますね。視界も狭まるので、すごく不思議な体験でした。

劇場に展示している箱

──不思議な体験といえば、終盤の迷路のシーンは位置感覚を失う撮り方をされています。あの空間はセット撮影ではないですよね。

あれはロケです。東京のど真ん中と群馬県高崎市の路地を組み合わせました。あのシーンは自分なりの結論ではあるけれど、それを押し付けるのは違うと思っていて、捉え方は観客自身で考えてもらおうと余白にしてあります。原作よりはわかりやすいんじゃないでしょうか。観た方の数だけ解釈が生まれるでしょうし、自分たちが出来ることを精一杯やり遂げたら、あとは観る方それぞれの『箱男』を妄想していただくのがいいと思っています。

──観たあとは、箱という概念や物質に対するイメージが変わりました。監督がお好きな『2001年宇宙の旅』(68/スタンリー・キューブリック)のモノリスも連想します。

『2001年』は意識しました。『2001年』は外宇宙への、『箱男』は内宇宙への『闇の奥』への旅です。今はスマホがモノリス化した時代です。コロナ禍でまさか世界こういうことになるとは、という時期に、スマホが人を孤立させたり繋げたりするツールになった。共生が求められるべきときに社会生活で分断を強いられたのは、とても大きな試練でした。その状況を見つめ直して、ここでどうやって変化できるのかという機会でもあったと思います。
その頃は、2024年の安部さんの生誕100周年へ向けた非常に重要な時期でもありました。そこで『自分革命映画闘争』に挑んでよかったし、オムニバス『almost people』(23)で監督した第2話『長女のはなし』と本作で三部作だと自分は捉えていて、その流れで弾みがついた。あの時期を一緒に耐えてくれた神戸芸工大の武田峻彦先生をはじめ、助手さんや卒業生や学生たち、コギトワークスの仲間たちにすごく感謝していますね。
そして本作を撮ってみて、自分は見えない箱を被っているんだなと感じました。ここまでこの映画にこだわったのは、「これは本当に自画像だからだ」と思える瞬間があった。しかも見えない箱を何重にも被っているから、脱ぎにくいのだと気づきました。見える箱を被っていれば、それは逆に脱ぎやすいんじゃないかと。
確信を得てその奥へと突き進んだニセ医者箱男(浅野忠信)の行方も気になるでしょうし、その辺りは観てくださった方が、自分の心の中で続編を創って楽しんでもらえれば、と思います。

──最初の話題に戻すと、やはり監督はみずからの体験を最重視されていると思えますし、映画が閉じずに観客の数だけ次の箱男が生まれるのは安部さんの原作的ですね。ありがとうございました。

(2024年8月)
取材・文/吉野大地

映画『箱男』オフィシャルサイト
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