神戸映画資料館「桃色映画パンデミック2024夏」作品解説&フィルム発掘
鈴木義昭(ルポライター、映画史研究家)
8月30日(金曜日)、31日(土曜日)、9月1日(日曜日)の3日間、われらが神戸映画資料館で「桃色映画パンデミック2024夏」が行われました。生憎の台風10号(サンサン)襲来。本来なら3日間、上映後にそれぞれトークを行うべく予定が組まれていましたが、拡大する悪天候に阻まれて、主要交通機関がストップして神戸まで向かうことができませんでした。10年以上、神戸映画資料館へ上映やトークで通っている自分としてもこのような経験は少なく狼狽えましたが、安全を第一に行動させていただきました。実は前にも一回だけ、体調不良(発熱)で神戸で予定されていたトークを欠席した経験がありますが、その時の上映がどんな番組だったのかにわかに想い出せません。かなり昔だと思いますが、クロニクルでも眺めないと何年のどの特集だったか、記憶がよみがえりません。それくらい長く、ほぼ毎年(時には年に2回以上)、神戸映画資料館へと出かけていたことになります。熊本から、生前の香取環さんを呼んだこともありました。山際永三監督をお呼びしたり、京都から宮崎博さんに来ていただき団徳磨について語っていただいたこともあります。この時は、ピンク映画というよりチャンバラとのコラボ、わが師竹中労「日本映画縦断」にオマージュを捧げる内容の番組構成でした。本当にいろんなことがありました。一回は逆に最終上映後に台風がやって来て、最終トークもそこそこに参加者もスタッフも全員が急いで帰宅! 目の前で新幹線が止まり始めて、とうとう自分は新神戸駅前に自前でもう一泊するハメになりました。また、山形国際ドキュメンタリー映画祭の関連のグループから多くの「幻の桃色フィルム」を借りて来て上映したこともあります。実は今回も借りて来ようと思ったのですが、番組が変更になりました。あのフィルム、傑作ばかりでしたが、今はどうなったんでしょうね……。霧積高原の山中で谷底に麦わら帽子を落としてしまった『人間の証明』の松田優作の心境ですと言っても、若い人にはなんのこっちゃでしょうか……。実のところ、こんなに長く「神戸通い」が続くとは思っていませんでした。
上映作品のチケット半券で参加できるトークでは、上映作品の概略や出演した女優を始めとしたキャスト、監督を始めとしたスタッフについて語って来ました。ゲストがあれば、ゲストとの対話があります。また、今回は、6月10日に発売したばかりの拙著『桃色じかけのフィルム』(ちくま文庫)に即してお話しする予定でした。特集タイトルに「刊行記念」とありますが、ぼくの出版記念会ではありません。販売促進のサイン会でもなく、主役は本書と同じく「フィルム」です。発見された「桃色フィルム」の一挙上映が目的です。これまでも、ぼくの「桃色映画」関連の書籍が刊行する度に、関連作品などの特集上映を行ってきました。
「桃色じかけのフィルム」は、これまでのピンク映画、成人映画研究の著作「ピンク映画水滸伝」をはじめ、何冊か関連書籍の中間総括的なニュアンスで、今までの関連書籍では、やり残してあった12のテーマを都築響一さんのメルマガ「ROADSIDERS’ weekly」に連載した文章に加筆・修正をしたものです。12のテーマは、作品だったり女優だったり人物だったり現象だったりと違うのですが、それを貫くのは、映画フィルムをめぐる古今東西の話題です。映画がすべからくデジタル化され、異質なメディアに生まれ変わろうとしている現代に、誕生から今日まで世界中でフィルムが培ってきた営為を重ねることで、映画と映画史の現在を見つめ直そうという試みです。また、12のテーマの異色性もあって、ひとつのフィルムの世界の旅という風に読んで貰っても良いように書きました。書きなぐりと揶揄される方もいますが、フィルムを握りしめフィルムを透かして視る疾走感を味わっていただければという考えです。それは言うならば、ひとつの取材ノートでありフィルム紀行です。ピンク映画に限りません。映画のフィルムが、この世からどんどん消えてなくなる前に速く逸早くという思いで書きました。
「桃色じかけのフィルム」を書き上げた直後に、神戸映画資料館の安井館長から、例によってフィルム発見の知らせがありました。拙著本文で何度も書きましたが、新たに安井館長のアンテナとネットワークに引っ掛かり、見つかった16ミリのフィルム群がありました。いくつかの作品は、拙著でも触れていますが、ほとんどが新たに発見された桃色フィルムでした。前著作「昭和桃色映画映画館」(社会評論社)の頃より、「ピンク映画」という言葉を使用するのを少なくして来ました。「ピンク映画」は、差別用語だという説に賛同するというより、単なるマスコミ用語である「ピンク映画」を長く使い続けることに違和感がいつもあったからです。独立プロ、成人映画、あるいはエロ映画でも構わないではないかという気持ちです。「桃色」としたのは、「ピンク」より幅広い未分化のイメージがあったからです。多くの桃色フィルム、16ミリの「桃色フィルム」が見つかりました。
●第1日目
「よく見たら、あったんだ!」という安井館長の言葉をどこまで信じていいのかわかりませんが、「おいおい、こんなんフィルム見つかったら、すぐに知らせて欲しい」というフィルムばかり。上映作品以外にもまだまだありましたが、テレシネでチェックしたり作品の概略を調べたりして今回上映作品をセレクトした訳です。日本一の「ピンク映画ポスターコレクター」で、『桃色仕掛けのフィルム』にも資料協力いただいた東舎利樹さん(奈良県在住)に、わからないことを問い合わせたこともありました。彼の調査力、資金力は無限で(!)、ぼくが喉から手が出るほど欲しい資料をお持ちで、いつのまにかある時代や会社においてはぼくより詳しいし、頼もしい援軍であり続けています。大好きな映画『ロード・オブ・ザ・リング』ふうに言えば「旅の仲間」ですね。フロドが危なくなると、いつも助けてくれるような。ともあれ、今回の16ミリ大量発見は、安井館長よりは歳の若い(!?)自分にとっては、とにもかくにも見たくても見たくても見れなかったフィルムが発見されたと言うべきでしょう。どこに隠してあったんじゃい! と突っ込みたくなりました。
個々の作品については当館ホームページに上映作品データと簡単解説を書きましたので、そちらないしは上映チラシを参照ください。「映画秘宝」2024年10月号に、上映告知として2ページ書きました。今回上映作品のほとんどに触れながら、特集告知をさせていただいています。「映画秘宝」が元気だったころ、毎回やらせてもらったスタイルですが、今回はやや長めです。新編集長の寺岡さんがその前の号で拙著の著者インタビューをしてくれて、その勢いで決めてくれたことです。まだ未読の方がおられればバックナンバーでお読みいただければと思います。
さて、まず『情炎の渦』です。『新東宝秘話・泉田洋志の世界』(青心社)という本を書いた筆者としても、待ちに待った発見でした。東宝争議最中の東宝撮影所から新撮影所・新東宝撮影所へ移籍して、映画会社旧新東宝が解散、消滅するまで在籍した今清水英一こと泉田洋志の俳優生活を聞き書きしたのが、この本なのですが、後半「ピンク映画」のことも出てきます。旧新東宝撮影所の残党たちが、出来立てほやほやのピンク映画界に飛び込んで、初期の主力メンバーとなる様子を書いています。その要ともいえる扇町京子の未発見主演作であり、それも大蔵新東宝時代のドル箱だった「海女映画」の独立プロ版ということで、興味は尽きません。前田通子にはロングインタビューをしましたたし、三原葉子や万里昌代の出演作品についても何度も書いてきました。しかし、倒産寸前の新東宝で突然というかグングンというか出て来た扇町京子については、不明な点が多いです。村井実先輩が「ピンク映画第1号」としている『肉体の市場』に香取環とともに出演しながら、早くに女優を引退してしまったからでしょうか。彼女の主演作品はかなりあるはずで、どれもヒットし話題になっているはずなのにフィルムが遺っていなかったからです。当館には、かつて扇町京子の監督、主演作品『やくざ芸者』が収集されていましたが、もう何年も前にとろけてしまって上映不能になってしまいました。(以前の上映でご覧になった方、幸運です!)また、『肉体の市場』については、断片フィルムしか残存せず(国立アーカイブ所蔵)観れなくなっていることなどは『ピンク映画水滸伝』他に書いたので省略します。扇町京子は、後年、週刊誌に大蔵貢の「愛人」となり業界を引退したことを告白して話題になりました。ある意味でドライな女性で女優という職業に、もうひとつ執着がなかったのかもしれません。『情炎の渦』は、作品的には大蔵新東宝調のエロチシズムを、サスペンスタッチで見せる快作でしたが、どこか物足りなさの残る作品です。あそこにここにと旧新東宝勢の出演場面を見つけ、楽しむこともできます。ですが、二転三転するストーリーがややもすると御都合主義で、88分と長尺であるにもかかわらずとっちらかったままだったのがやや残念です。
それに比べたら同年(1964)公開の『覗かれた個室』のほうが上手にまとまっていますし、見どころが満載で監督の達者ぶりがうかがえます。それもそのはず、監督の加戸野五郎は、旧新東宝では時代劇作品などを中心に大いに活躍した監督です。かつて泉田洋志さんの聞き書きを繰り返していた折にも、度々エピソードを聞いた記憶がある監督さんです。ズーズー弁まる出しの暖かいキャラと時代劇、チャンバラ映画の名手ぶりが、新東宝の時代劇に数多く出演して擬闘師、殺陣師としても活躍された泉田さんにも思い出深い監督さんだったようでした。本作は、その加戸野五郎監督の最期の劇場映画と記録にはあります。女優としては扇町京子がメインだが出番は多くない。当時の「トルコ風呂」を扱っているのだが、果たしてこれを「ピンク映画」と呼んでいいかどうかも疑問が残る。スラプスティック喜劇にエロを盛り込んで、独立系の配給に流そうと企画したのか。あるいは、もっとエロを撮るはずだったが、加戸野監督が尻込みしたのか……。映倫で「成人指定」されていないというのも、その証でしょうか。
「ある日、友人から〝お前、お××コ映画って知ってるか〟ときかれたんですよ。そっちのほうはまるでウブでキマジメだったからまるっきり知らなかった。それでなんかおもしろそうだからと紹介してもらったんです。それが昭和39年で、ピンク映画のハシリで、若松孝二、関孝二、小林悟といった監督がやっていたんです。そして助監督一本目には感激しましたね。なにしろ主演の内田高子というピンク界の大スターが入浴シーンで前バリなしで温泉につかるんですから。ピンク色に染まった体がなまめかしく、ヘアからお湯がポトリ……。ああ、オレはなんとスバラシイ世界に入ったんだろうと嬉しくて大感激でした」
(「ZOOM-UP」1977年11月創刊号「特集山本晋也の世界」より)
第1日目のハイライトは、山本晋也監督の『狂った女神』です。拙著『桃色じかけのフィルム』では、第5章に「まぼろしの名作『大色魔』と山本晋也の喜劇」と題して山本晋也監督の初期名作群について書きました。山本晋也というと、日活配給の代表作『未亡人下宿』シリーズなどを思い浮かべ、公開時に笑い転げた記憶を語る人が多いでしょうか。でも、山本晋也監督には膨大なフィルモグラフィーがあり、その多くが現在は失われたといわれているのです。しかし、本作『狂った女神』(16ミリ版だが)が忽然と姿を現したように、フィルムは求める心、観たいと願う気持ちの人がいると、どこからともなく現れるものです。ご覧になった方にはご理解いただけたと思うが、まるで昔流行った「ショートショート」のエロ版のような題材を、「狂気」というキーワードでギリギリと深堀して映像的に見せるテクニックは、並外れている監督と言えるでしょう。凡庸なSEXシーンとありがちな物語で、サラリーマンやブルーカラーの息抜き、学生たちの気分転換(?)に奉仕するべく作られた作品が少なくないこのピンク映画業界では、山本晋也が初期から「天才」扱いされたのがわかろうというものです。今回も、本作フィルムが見つかったという話を安井館長から聞いた時、非常に驚いたが、そうそうまだまだどこかに山本晋也フィルムはあるはずなんだ、眠っているんだという気がしました。
若い頃、そう十代の終わり頃に「山本晋也の上映会」を体験しました。小田克也さんが来て解説してくれました。あの頃、山本晋也の初期作品の16ミリは少なからず手の届く範囲にあったはずなのだ。それが、全てこの世から駆け足で無くなったとは思いにくい。日活で次々に山本監督が撮り始める以前のことである。亡くなった「ピンクの巨匠」のひとり渡辺護さんとは毎夜の如くに新宿ゴールデン街で飲んでいた時期があるのですが、しきりに「チョク(山本監督の愛称)は初期作品で良いのがいっぱいあるんだよ」と言っていました。あの頃、フィルムを確保していればと思うこともあるが、当時はそんなこと考えもしませんでした。
本書で書いたように、傑作『大色魔』を教えてくれたのは小田克也さんでした。その後、日活ポルノ裁判で上映され、斎藤正治や竹中労が絶賛しました。徐々に山本晋也作品がブームのようになって行く頃でした。そして、やがて大陸書房「成人映画傑作全集」で『大色魔』を出すことになった経緯なども詳しく書いています。それが横やりでストップしてしまった経緯も。連載時とは、ちょっぴり表現を穏やかにしてありますけど。『大色魔』を大陸書房からビデオソフトにしようとした頃は、渡辺監督とも若松監督とも等距離に付き合っていて、(互いが悪口を言っていたけど)思えば自分としても懐かしい時代だった気がします。その気分の延長線上に、VHS「成人映画傑作全集」があった訳です。
『大色魔』は、本書ではあまり触れていないけど、あちこちの学園祭で上映されているようです。山本カントク本人にお聞きするまで忘れていたことですが、確かに『未亡人下宿』以前の、いやテレビタレントになる以前にも「山本晋也の時代」があったのです。今は、もう、そんな頃を知る昔の学生(即ちジイサン)も少なくなりました。だいぶあの世へ旅立ちました。ですが、神戸にはその昔の山本晋也を知る人がいます。以前『女湯女湯女湯』を上映した時のことです。突然、来館された神戸の大手予備校の先生をされている方です。「懐かしい」と言いながら想い出を語ってくれました。お話では自分が学生だった頃に山本晋也作品のシナリオを多数書いていたということでした。しかし、卒業して、とてもピンク映画では食べていけないからと映画の仕事を諦めて、塾の先生になったと語られていました。もし、今回、再び山本作品を神戸で上映したら、また観に来てくれるのではないかと期待もしていましたが、どうだろう。案外、映写作業で忙しい安井館長に挨拶もせずに、こっそり観て帰られたかもしれないですね。
どうやら「あとがき」で書いた「山本晋也の新作」が頓挫しているらしいという情報が入って来ました。自分としては信じたくないが、そのうち山本監督に会いに行き直接確かめたいと思っています。われらが(!)山本晋也が「コロナを撮る」なんてスリリングな企画、頓挫や中止があってはならない。ぼくは、心底そう思っているのです。『大色魔』を国立アーカイブの試写室で上映する時、山本監督に電話をしました。上映にお呼びしたかったし、フィルムが見つかったことを知らせたかったのです。(いや、手紙を書いたら電話が来たのですが)。「もう一本、映画を撮りたいんだよ!」そう繰り返し言って、長い話をされました。「コロナ」は、その時のお話とは違う企画。この際、なんでも良い。山本晋也に「有終の美」(?)を飾らせる度量は、今の日本映画界にはないのだろうか。あれだけどん底の日本映画を底上げしてくれた人に一本くらい撮らせてやっても罰は当たらないと思うのだが。
僕が「ピンク映画水滸伝」初版本で烈しく山本監督を批判しているのを憶えている人が、そこだけ記憶しているみたいな人がいて、イチャモンを付けてくることがある。でもね、すぐに山本監督とは仲良くなって、交流を続けて来たんですよね。山本監督は、そんなに度量の狭い人じゃないんだ。ぼくのインタビュー集『風の中の男たち』(青心社)には、竹中労やパンタ、ウッチャンナンチャンと並んで「山本晋也」が登場しているのを知らないらしい。批判だけをしていたら、大陸書房「成人映画傑作全集」で『痴漢365』『女湯女湯女湯』など、山本作品のビデオを連発する訳ないでしょ。若松孝二と山本晋也が、「成人映画傑作全集」の柱だったんだ。『「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎』(山川出版社)でも、素晴らしいコメントをいただいているのです。斎藤寅次郎と本木荘二郎と山本晋也が一本の線で繋がることを書いたのは、今のところぼくだけなのかもしれない。
「喜劇王」斎藤寅次郎監督は、後期のオール喜劇人協会映画みたいな作品に辿り着くずっと以前、サイレントからトーキー初期の時代に喜劇映画の傑作を連発している。山本晋也監督も、久保新二や野上正義、たこ八郎らが跋扈する『未亡人下宿』大ヒットに辿り着くまでに、幾多の傑作、名作、チン作を撮りまくっているというのが、ぼくの意見であります。「フィルムの女神」に祈って欲しい! きっと山本晋也の傑作群が見つかりますように。ちょっとだけよ! でもいいから、少しづつでも山本晋也の映画世界が復活、復刻されますようにと。願いは、きっと通じると思うのダ。(と、最後は赤塚不二夫調?)
●第2日目
2日目の最初は、沢賢介監督『漁色』。これまた扇町京子も出てくるが、主演は桂奈美。「月刊成人映画」などでみごとな脚線美とボディを観た記憶があるが、主演作品に巡り合うのは初めてだった。僕より年上で、成人映画館で映写技師の仕事もしたことがあると聞く安井館長なら、上映経験があるかもしれない桂奈美作品。それよりも、本作はぼくがピンク映画巡礼真っ最中に「ああ、沢作品は観るだけ時間のムダ」と感じていたのが、間違いだったことを証明してくれる作品だ。沢監督も、旧新東宝撮影所の出身で、ピンク映画に流れ着き、別の港へ出て行くことなくこの世界に停泊し続けた監督の一人だ。名立たる巨匠や俊英に助監督で付いたはずなのに、やはり「桃色の罠」にはまってしまった監督というほかない。当時のピンク映画の水準として鑑賞いただくと感慨深い。
さて、佐々木元については、『桃色じかけのフィルム』に詳しく書いた。第7章「北鎌倉に眠る無頼派アルチザン伝説 佐々木元」である。拙著をまだお読みでない人には、せつにお読みいただくことをお願いしたいが、佐々木元については相当入れ込んでいる。こんな監督がいたことを忘却しようとする「日本映画界」に憎悪すら感じる。ピンク映画界ではない、日本映画界である。どだいピンク映画を一般映画と区別するのは反対だ。ピンク映画よりよっぽどエロい、描写もドギツイ一般映画も昔から山ほどある。牧歌的でぜんぜん勃起しないピンク映画も山ほどある。
本作『京娘の初夜』は、本書ではポスターのみを紹介した。ポスターからして異色だからだ。作品を観て驚いた。佐々木監督は、真っ向から竹割。低予算のピンク映画にして赤字覚悟(たぶん!)で京都ロケを敢行。舞妓さんの生態を描いた脚本だけでなく、衣装から方言指導まで本格的に準備して「成人映画」を撮っている。「昼メロを量産した気分だ」と言い残し、業界を去った佐々木元が遺した作品は、どれもが興味深い。葵映画のボスだった西原儀一が遺してくれたフィルムの中から見つかった佐々木元作品『肌のもつれ』は、白川和子と野上正義の白熱のからみが最高だった。津崎公平主演、金井勝撮影の『悶え狂い』は、東舎利樹さんがポスターコレクションの勢い余って買い集めたフィルム「東舎コレクション」の中に見つかっている。 だが、フィルムの状態がかなり悪く、今回上映は不可能だった。どうやらリクエストがあるようなので、以前に館長が作ってくれたテレシネから上映データをブルーレイ等で起こし、いつか上映したいものである。
「新高恵子君は現代の若いバイタリティをもっている。根性もあるし、演技のとり組み方も真剣にやっているのはいい。ボクの「歪んだ関係」ではかなりたたいたが、心配なのはあまり、いろんな作品に出ることだ。いまが一番大切な時だし、もっと作品を選んで、自分にプラスになる仕事をしてほしい。彼女のハダカは美しいし、魅力もある。が、衣服をまとうとそれが半減してしまうのだ。もっと女優らしい魅力を発散させてほしい」(「月刊成人映画」1965年10月号=第3号「女優」より)
2日目のハイライトは、新高恵子主演の『愛欲の果て』である。上記は、若松孝二の発言だ。言いえて妙と思うので引いた。ラピュタ阿佐ヶ谷で若松作品『歪んだ関係』を上映する時に、まだお会いしていないにも関わらず、新高さんはコメントをくださいました。あの時は、本当に感激しました。本書にも書いたことですが、新高恵子は少年の頃から、ぼくの「運命の女神」でした。香取環は、出会うべくして出会った人かもしれませんが、後年のライター人生から生まれたことです。映画少年であるより前にというか、それ以上にアングラ少年であったぼくにとって「新高恵子」は、「ファムファタル」でした。寺山修司の世界に影響を受けたぼくは、書を捨てて街へ出ることばかり考えていた。ピンク映画は、街で掛かっていたいかがわしいシネマのひとつにすぎません。寺山の芝居を、15歳で観ました。「疫病流行記」だったと思いますが、そのどこかに新高さんも出ていたはずです。演劇趣味的には、若松孝二と連動もしていた唐十郎の紅テントのほうに、一気に傾斜していきますが。映画『書を捨てよ、街へ出よ』『田園に死す』などは、新宿文化や蠍座で震えながら観ました……。 考えてみると、あの頃からぼくは何も変わっていません。いまだに「ピンク映画」のことを書いているし。変わってしまったことは、アングラを教えてくれた若松孝二も斎藤正治も亡くなりました……。(閑話休題)。
『愛欲の果て』は、葵映画の作品です。葵映画のフィルムは、西原儀一監督が亡くなられた時に大量に受け継ぎ、国立アーカイブと神戸映画資料館へ託しました。ですが、『愛欲の果て』の上映用プリントは存在しませんでした。国立アーカイブには原版ネガをお預けしたと思いますが。神戸のフィルムの中には、『愛欲の果て』はありませんでした。ですから、大発見です。拙著では、早とちりして「失われた」として1ページで『愛欲の果て』の場面写真を何枚か紹介したばかりでした。西原さんから譲られた資料やファイルの中には『愛欲の果て』のスチール写真は、数えきれないほど膨大にあったのです。監督が気に入った作品だったのは確かでしょう。気に入っていないなら、こんなに写真を遺すことはないでしょう。チラシほかにも書きましたが、本作は中原朗とありますが、これは青春映画の名手として知られる脚本家・石森史郎さんのペンネームです。拙著『ピンク映画水滸伝 その誕生と興亡』(人間社文庫)には石森さんのインタビューを収録していますから、石森さんのピンク映画と新高恵子への思い入れはお読みいただけばわかるかと思います。取材した頃、石森さんは新高恵子さんとの再会と作品の上映、そしてその後のトークをお望みでした。その頃は本作『愛欲の果て』の上映用フィルムは行方不明でした。今回16ミリですがフィルムが出て来たことで、それが実現できるかもしれないです……。関東上映が実現できればですが。『愛欲の果て』は、実はぼくが想像していた物語とは少し内容が違っていました。特に椙山拳一郎さんのキャラクターが違っていました。それでも、西原儀一監督らしい力強い語り口の作品です。感想はそれぞれとして、大事にフィルム保存して上映していきたいものだと考えています。ただ、少々劣化が始まっているのか、画面が暗いのが気がかりですけれど。貴重な新高恵子フィルムには違いありません。
●第3日目
最終3日目は、今回発掘作品ではなく、既に発掘済みで神戸映画資料館ほかで上映されたこともある作品の特集、三本立てとなります。今回発掘作品がなければ、拙著『桃色じかけのフィルム』の構成内容に即して関連作品から番組を組もうと考えていました。本当は、本書登場人物で亡くなった人も多いので、その追悼ふうにとも。しかし、16ミリ大量発見(!)で番組変更。山形から香取環フィルムを引っ張り出して来るのも止めにしました。まずは、フィルム発見の狼煙を上げなくてはいけません。おたおたしていたら、フィルムがとろけたりワカメになったりして上映できなくなるかもしれないからです。今年も猛暑が長く長く襲いかかりました。いやまだまだ暑いです。わしらの「桃色フィルム」の運命や如何にです。また各地各所で何本ものフィルムが溶解しているかもしれません。本当は、湿度管理のしっかりした国立アーカイブに多くのフィルムを受け取ってもらい保存をお願いしたい! とぼくは心底思っているのですが。なにしろ簡単には行きません。コレクターの保存にも限度があります。あるいは神戸映画資料館にも湿度管理も万全な地下倉庫が欲しい(!)なんてことを妄想しているうち、『桃色じかけのフィルム』で触れた『欲情の河』と『狂った牝猫』のフィルム状態が悪くなってしまいました。2010年にはちゃんとフィルム上映できた2本ですが、14年間の間に劣化が進み今回は上映不能でした。
今回、『欲情の河』はどうにかブルーレイ上映ができましたが、現在、『狂った牝猫』は上映が出来ません。拙著で触れたように、この二作品には「怪優」団徳磨が出演しています。『狂った牝猫』では、水城リカの相手役として主演もしています。ベッドシーンさえあったと記憶しています。『欲情の河』は、関西発の桃色独立プロ・プロ鷹初期の作品で、神戸をはじめ当時の観光地がローケーションされています。ダントクは回想シーンなどにしか出てきませんが、貴重です。和泉聖治の父の木俣堯喬監督らが立ち上げたプロダクション鷹で、団徳磨がピンク映画であるのを知りながら出演したのでしょう。京都という映画の都をめぐる奇縁、映画伝説のひとつとして木俣と団徳磨の交流は、より調査・研究がなされておかしくないと思っています。在関西の大学などオフィシャルな映画研究者の重要なテーマとなると信じて疑いません。
神戸映画資料館が保存するプロ鷹フィルムも、今回と同じようにほとんどが16ミリです。短縮版も多いことや発見過程から、ストリップ劇場などで上映されていた可能性が高いと考えられます。フィルムレンタル系とは別のルートで出て来たと安井館長からは伺っています。プロ鷹が、東映京都撮影所の栄光と挫折を如実に、それも底辺から浮き彫りにするものだということ検証して欲しいです。関西には、京阪神に映画研究者も多いので、ぼくのように関東から出かけて行くのではなく、さまざまな資料や人脈発掘に至るのではないでしょうか。
二本目の『好色坊主・四十八手斬り』は、東舎利樹さんがお持ちのファイルムで神戸映画資料館に寄託されているものです。東舎フィルムは、短縮版や断片的なものが多いようで、本作も「55分」しかないということは、カットされている部分のあるフィルムではないでしょうか。本作は、ルートは定かではないが、神戸映画資料館とは違うネットオークションのようなもので、東舎さんが入手されたと聞いています。数年前から、東舎フィルムの点検・保存を強く要望しているのですが、これまた簡単には行かないようです。
今回、上映作品に入れたのは、梅沢薫監督にも注目して欲しいと思ったからでもあります。梅沢薫監督ほど、その死後まで評価が分かれてしまったピンク映画監督というのもいないのではないでしょうか。梅沢監督に生前取材をしたことのある人間としては、残念でなりません。作品の散逸もあるけれど、やはり彼の不遇な映画人生があるとも考えられます。ハードボイルド調で評価される『濡れ牡丹・五悪人暴行篇』などは、『荒野のダッチワイフ』など太和屋竺作品とともに高い評価を受けるのに、晩年の作品はマンネリを言われてきました。しかし、初期には国映の『ピンク映画十年史・性のあけぼの』など、梅沢監督の名作は眠っていると思うのです。『ピンク映画十年史』は、小田克也氏が「佳作」と書いており、ピンク映画の「十周年」記念作を任されるほど、期待される新人監督でした。それが、評価が分かれるきっかけは「日活ポルノ裁判」でしょう。梅沢は、作品を摘発され取り調べを受けたことから仕事が亡くなり家庭も崩壊したと教えてくれたのは、代々木忠監督でした。若松監督や向井監督からも、梅沢薫の優秀な助監督ぶり、人間性について聞いたことがあります。それが、裁判以後各映画会社から干され徐々に作風が荒れたというのです。明らかに、それまではエース級の監督だった梅沢薫は、先に触れた佐々木元とともに70年前後のピンク映画の可能性を一身に背負った人だった考えています。「座頭市」=『好色坊主・四十八手斬り』も、そんな作品のひとつだったのではないでしょうか。
「映画を撮ってみたいと思わないか――という質問をしばしば受けることがある。もちろん、撮ってみたい。能からテレビまで、あらゆる形式の時間芸術を手がけて来た私が、たった一つ手をそめていないのは、映画である。
だから、創ってみたい気持ちは強いが、こわくて手が出せない。映画の表現力を、根本的に改造するための、私なりの方法論も、頭のなかにはできあがっている。機会があればためらうことはないのだが、やはりこわさが先に立つ。
それは、映画があまりに商業主義のなかに足を突っ込みすぎているので、あたらしい試みが、おそらく不可能なのではないかと思えるからだ。」(「映画芸術」1960年3月号/武智鉄二「せめてヌードで」より)
最後に控えたフィナーレ作品は、武智鉄二監督の『幻日』である。『幻日』についての長い旅は、本書第11章「謎の未公開フィルム『幻日』を追いかけて」に書きました。もし、まだでしたら、まだ神戸映画資料館でも拙著が売っているはずですから、お買い求めいただきお読みいただくのをお願いいたします。実は、本章が本書の核の中の核であり、『ピンク映画水滸伝』以来の言わば辿り着いた地平、旅の果てだと自分では考えています。昔、ピンク映画を調べ始める何年も前に、武智鉄二の講演を何度か聞きました。白石加代子がお岩を演じた芝居『東海道四谷怪談』も観ました(岩波ホール)。本作の完全版は、岩波ホールから見つかったそうです。今回上映の「不完全版」は、神戸の独自ルートで発掘されたものですが、なぜか欠落(意図的に切り取られたに違いないが)があるのです。謎は深まるばかりでした。自分なりの推理や回答は、本書に書きました。NHK「プロジェクトX」ふうに(中島みゆきの歌を思い浮かべて)書けば、「旅は、終わらない…」武智鉄二というアバンギャルドが、ピンク映画に及ぼした影響、いやいや武智がピンク映画を生み出した過程こそが、60年代の日本映画史の核心、大いなる謎と冒険ではないでしょうか。これらについては、実はまだまだ「佐藤慶」「大島渚」などの切り口から、何度でも切り裂いて、切り結んでみたいと思っています。その方が一般にはわかりやすいかもしれません。上記の武智の短い文章は、武智の「映画への思い」を、端的に言い表していると思うので引きました。
3日間の上映を終えて、ぼくはトークをこうまとめようと考えていました。「桃色フィルム」の旅、研究はまだまだ長い、終着点など見えるはずもないです。ですが、ぼくは今日、旅のひとつのピリオドを打つ。新しい「旅」が待っているからです。だから『桃色じかけのフィルム』は、新しい旅へ向かう自分の、これまでの「中間総括」、ある意味では「遺書」だと感じています。自分なりに、どうしても言い遺しておきたいことは、ほぼほぼ書いたと思います(いや、もう少しあるか)。ですから、あとは、本書読者がそれぞれ旅に出てもらいたい。「旅」の始まりにして欲しい。必要により、横に繋がらなければならない時は、繋がろう。それまでは、どうか自由闊達な映画の旅を続けてもらいたい。神戸映画資料館は、いつまでも、その拠点であり続けることでしょう。少なくとも、安井館長が生きているうちは。今、そんなふうに思っています。
「桃色映画パンデミック」は、願うべくは「夏」に続き「春」「秋」「冬」と何年も続けて、溶解始まる(!?)「東舎フィルム」を始めとした桃色フィルムの研究、保全、復刻などへと進んで行って欲しいと思っています。また、お会いしましょう!!
2024年9月22日記