『フィクショナル』 酒井善三監督ロングインタビュー(前編)
2022年1月に神戸映画資料館で上映された酒井善三監督の中篇『カウンセラー』。そのサイコスリラー性をより研ぎ澄ました『フィクショナル』が11月15日(金)より東京・下北沢『K2』ほかにて劇場公開される(これにあわせて『カウンセラー』も『K2』でリバイバル上映)。映像制作業者がかつて慕った先輩の依頼で、不可解なフェイク動画制作に手を貸したことからオブセッショナルな仮想世界の迷宮に入り込む様をシャープなタッチで描く新作は、『カウンセラー』から多くの要素を引き継ぎ、監督がかねてより志向する娯楽映画色を一層深めた仕上がりとなった。この新作をめぐり監督にお話を伺った。
Ⅰ
──具体的に企画が動きはじめたのはいつ頃、どのような経緯でしたか?
時期は昨年11月末ごろでした。昨年は夏以降、テレビ東京で大森時生プロデューサーと連続ドラマの企画立案をしていて「出来たらいいよね」とずっと相談していたけれど、諸条件でなかなかGOサインが出ない状態でした。それが突然、動画プラットフォーム〈BUMP〉で制作することになって、大急ぎで企画書を書きました。
一緒に企画を立てたのは、過去にも組んでいる映画美学校フィクション・コース14期の同期で、友人でもある宮﨑圭祐くん(本作共同脚本)。その時期の社会情勢にも色々とあり、何がフェイクかわからなくなってしまった事態が興味深く、自分たちが実感として持っている関心を、フェイク動画制作者を通して描けば面白いんじゃないか。ふたりでそう話しました。ほかにも幾つか企画を考えていたなかで、これ1本で進めることにして、テレ東との打ち合わせに必要な企画書を2日ほどで書いて持って行きました。そのときのタイトルは『プロパガンダ(仮)』。それがほぼ本作の元になっています。
──強いてジャンル分けするなら、本作は『カウンセラー』に続くサイコスリラー。心理描写で70分のドラマを構築されています。
みずから自分の作品を特徴づけるわけではないですが──『カウンセラー』もそうだったように──充分な予算がない場合に、心理のドラマで作品をつくる術は持っています。それなら今回も出来るだろう、と考えました。やりたいことは大きな話だけど制作規模の問題もあり、それを真正面からつくるのは難しいと考えて、いつもの手を使うことにしました(笑)。
主人公の動画制作者・神保(清水尚弥)自身の精神にディープフェイクが作用するのかしないのか、いずれにせよ彼が疑心暗鬼に陥る。その設定だと少人数で撮影できます。何ならば登場人物がひとり、部屋であたふたするだけでも成り立つのは『カウンセラー』をつくったときの発見で、それを使わない手はない。限られた予算で撮る場合に有効な作劇の効率性を考えて、スリラーをプレゼンしました。
──最初のアウトプットは〈BUMP〉で30分割して配信する形でした。1本の作品をショートドラマとして分割することに対して、何か配慮はあったでしょうか。
配慮しようにも出来ないし、あえて配慮せずにいこうという気分がありました。分割されることは一切考えない。むしろ、分割したくないと思えるものをつくろうと。
たとえば映画史初期の映写機を手回ししていた無声映画は1分くらいの筈だったでしょうし、現代は3分のショートドラマをアプリで楽しむ人もおられます。しかし今、短い尺のものがウケているのは「若い人たちが長いものに耐えられない」「タイムパフォーマンス優先」云々というふうに、若者の心理的傾向・世代間のギャップとして語られる側面があると感じます。そうした意見に以前から反抗したい気持ちがありましたね。たしかに映画が冗長になってきているのではないか、と思っているからです。でも、本来は面白いものを積み重ねていけば長くても見られて、1本で面白いものになる。アプリでショートドラマを楽しむ人も、単に長いものに耐えられないわけじゃないだろうから、常に次の展開が気になるものをつくればいいと考えました。
──冒頭からそのような展開で、神保が相手と斜めの位置に座り、カメラアングルもそれぞれ変えています。このシーンの撮影はどう構想されたでしょう。
大体はざっくりとカメラマンの川口諒太郎くんにイメージを伝えて、そこから少し相談して決めますが、あのシーンは横並びにするか、あるいは対面にするかという問題がロケ場所選びのときにまずありました。僕は対面がいいと言っていました。なんとなくイメージしていたのが、『ソーシャル・ネットワーク』(2010/デヴィッド・フィンチャー)の冒頭で、ジェシー・アイゼンバーグと恋人が対面で会話する場のシーン。
あと、これはシナリオを書く途中で宮﨑くんの案を元に組み込んだと記憶していますが、そうして居酒屋で向かい合うふたりが対立する傍らで騒ぐ人がいる。その位置関係がはっきり三角に分かれていてほしいと思って対面にしました。横並びだと、人が騒いだときにふたりとも同じ方向を見て首を同じように曲げてしまう。そうじゃない位置関係がいいと直感的に判断して、机を挟んで対面で座ってもらうことにしました。人物の配置を斜めにするほうが、川口くんとしても抜け的に良く、カメラをパンしやすい。そういう利点もありました。
──終盤でも対面に配置した人物を真正面から撮っておられます。ただ、冒頭とは少し異なる撮り方です。正面のアングルと切り返しから、どのような効果を考えましたか?
少し話が戻りますが、低予算で効率的に撮らないといけない場合、回想形式ならナレーションをナレーションと言わずして使えます。特に説明が複雑な作品を撮るときに力になるのを『カウンセラー』でよくよく理解できた。だから本作もその形式でやろうと最初のプロット段階から決めていました。
それで回想形式ではあるけど、ファーストカットで誰に向けてなぜ神保が話しかけているのかはぼやかしたかった。これはもしかしたら供述なのか、それとも……というふうに。そこでカメラが真正面から入ることは決めていました。
居酒屋のシーンなどは、ある時期のジョナサン・デミがやるような、カメラ目線ではないけれどPOVに近い感じの切り返しを考えていました。今回に限らず、僕が「こう撮ろうか」と提案するときは、真正面のアングルが多い。川口くんは撮影するときに、それがすごく嫌らしくて「カメラ目線は居心地が悪い」とたびたび言われます(笑)。僕もその意見には納得できて、たしかに居心地は悪い。ただ、「切り返しって安直だよね」という発想が、映画のつくり手のあいだにもどこかある気がしていました。「ここは切り返せばいいだろう」と撮るのは思考停止に見えてしまうから、ある時期からこの技法を使わない人が増えた。それがまたある時期から再開されては止めるサイクルがあったように思います。
澤井信一郎監督が著作、もしくはシンポジウムでのご発言だったかもしれませんが、「切り返さずにいかに撮るか」とおっしゃっていたのが記憶に残っています。僕は澤井監督のようなプロフェッショナルな監督ではないですが、撮ってみると確かにその問題意識が多少わかります。だけど、90年代以降にワンカットで撮るインスタントな作家性みたいなものが流行って、そう撮る人が増えました。僕自身はそれがあまり好ましくなく、反対したい風潮です。
だからそのふたつから逃げることにしました(笑)。単なる切り返しも、切り返さないことも避けて、居心地は悪いけど真正面から入る。川口くんにも撮る際に「目線の正面にしようか」と伝えたように思います。あとは、やはり冒頭のシーンは真正面からだと騒ぐ人にパンしやすい。説明と同時にPOVにもなって、ここも撮影の効率性が高いと考えました。
──及川(木村文)の事務所で動画を撮影するシーンでは、モニターを巧く使ってワンカットで切り返しと同じ効果を生んでいますね。
あれは確か川口くんが「モニターを及川側にも出せば切り返さなくてもいいですよ」と提案してくれたのを取り入れました。僕と川口くん、宮﨑くん、そしてラインプロデューサーの百々保之くんは全員美学校の同期生で、度々会う機会があったので撮影前からそういう意見交換は結構していました。
──そうした語りのスピードを考えると、及川の登場も早く感じられます。
自分としては、むしろもたついてしまい、脚本でうまくいってなかったと思う部分もあります。本来はもっと早い展開が理想的で、最初からもう話が始まっているのがいいと思っています。物語を語るうえで無駄を省いたソリッドな作品をつくりたい。でもどうしても説明を入れたくなって、そう出来ないことがしばしばあります。何かハプニングが起こるドラマと人物描写が同時並行で進む、良きアメリカ映画のスタイルがいいことは理解しています。
最近のアメリカ映画は、最初の10分間を主人公の不要な説明に使いがちだと感じますが、よく出来た、たとえば『アンストッパブル』(2010/トニー・スコット)だと冒頭で列車のアクシデントが起きて、そこからもう物語が始まる。そういう形が理想ですね。
ただ今回はそういかず、言い訳をさせてもらうと、尺が60分を切るのはNGでした。芝居が速いと60分は危ういなと正直思っていて、それで少しはモタつかせてもいいかなと判断しました。先ほど話題に上った冒頭のシーンは僕にとって実は意味があるけど、ある種の説明だから本来カットした方がソリッドになります。それでも及川の登場を早いと捉えていただけたら嬉しいですが、本来はもっと最初から全速力で行きたい。それが正直なところです。
──神保を演じる清水さんは一人芝居が多い。特別なリハーサルなどはおこなわれたでしょうか。また清水さんから演技に関して質問を受けることはありましたか?
特別なリハーサルはしなかったです。そこも難しかった部分で、掛け合いのリハーサルは意義があって、3人くらいになるとより面白くなります。でも一人芝居の場合だと、アクション/リアクションの問題じゃなくベクトルが向かう方向、つまり矢印の問題になってしまうので、リハーサルしようがないとも言える。それで今回はしませんでした。現場で「こうしようか、ああしようか」と相談しながら撮っていく形でした。
清水さんからの質問も、おそらくほぼなかったですね。ご自身でキャラクターをお考えになっていましたし、演技の話なんかしても僕の対応はぼやっとしていて明確な考えはありませんので、「この人に聞いてもまともな答えが返ってこないんじゃないか」と不安に感じさせていたかもしれませんが……(笑)。清水さんから、はっきりと「ここはどうしたらいいですか」と訊ねられることはほとんどなく、非常に円滑な撮影現場でした。
──『カウンセラー』では倉田役の鈴木睦海さん用にバックストーリーを書いたと伺いました。今回はどうだったでしょう。
まったくつくりませんでした。本作にはこれまでと異なるアプローチもあって、役者陣とさほどコミュニケーションを取らず、「よーいドン!」の形で撮っています。だから撮影時の楽しみの見出し方が『カウンセラー』とは違いましたね。「こうしてほしい」というリクエストもほぼ出さず、僕自身の個性はなくていいと思っていました。もちろん人によってはそれを求めたりするのかもしれませんが、今回の僕の役割は「ここはこうしてください」と能動的なコミュニケーションを図らず、調整役に近いものでした。たとえば現場にあるものとスタッフ・キャストでやっていくことの障害を少しずつ取り除いたり、「現場で出来ることはこの辺りまでだろう」という時間や費用との兼ね合いで切り上げるポイントを明確にしていくスタンスでした。ほとんどごっこ遊びに近い、「職人ごっこ」をしているつもりでしたね。
とにかく淡々と撮っていけば、結果としてそこに何かあるかもしれないという実験精神で臨みました。皆が考えたものを持ってきてもらって、ほぼほぼワンテイクでOKだったので、傍から見るとかなり淡々とした現場だったかもしれません。
Ⅱ
──及川の事務所はがらんとしているようで、あちこちに意匠を凝らしています。どのようなイメージからあの空間を構築されたのでしょう。
元々は二階建てのコテージのような建物をイメージしていました。上が居住空間で、下の広めのリビングを作業スペースにしようと考えていて、及川が逃げるのも1階へ降りず、2階から脱出したと見せるつもりでした。そのために、洗濯用みたいな布を結んだロープが2階の窓からぶら下がっているとか、何気なく不吉でないアイテムを使って不吉なイメージを醸すプランもありましたね。当初は上下の感覚がほしかったんです。ちなみにこの布の脱出は、映画美学校先輩である古澤健さんによる、美学校学生時代のビデオ課題のアイデアを参考にしていました。
及川が女優を連れてくるくだりも、完成した映画では隣の部屋がぐらぐら揺れているけど、当初は上が揺れてパラパラと何か降ってきたり、照明が揺れるイメージを持っていました。
──事務所のベッド脇に木が打ち付けられています。これはどなたの発想でしたか?
僕らは皆でロケハンに行くので、これも明確に誰かの案というより、連鎖的に出来た部分が大きいですね。木の板に関しては、あそこにそもそも窓がありました。ただ撮影・照明面で、はっきり当たりすぎると光が回りすぎるから窓を半分塞ぎたかった。演出面でも及川が逃げられないように塞いでいるわけだから、窓が剥き出しだと困る。そこを木で塞ぐことで撮影・照明の利点も生まれました。
そして今回協力してくださった地元の方たちのなかに大工さんがいらして、「木を打ち付けられるよ」と。建物を貸しくださった方にも「自由にやってください」と言ってもらえて、「じゃあせっかくなので」と話が盛り上がって、あのような形になりました。
──もう一方の窓も有刺鉄線で塞がれています。
ここから出られないという状況が、2階建てであれば玄関の監視カメラを避けてロープを伝って降りたことが表現として成り立ちますが、平屋だとそれが難しい。そこで有刺鉄線のアイデアを出したのも確か宮﨑くんとだったかな、ロケハンの車中でそんな話をしたのが発端でした。
そもそも、今回はあえて古典的・図式的な映画ならではの描き方をしたい気持ちがありました。クロード・シャブロルの『甘い罠』(2000)の記憶が漠然とあって、途中に「その家に囚われているふたり」の意味合いでカメラがゆっくり下がると、登場人物ふたりが鳥籠に囚われているように見える、というカットがあります。今、リアルなものがいっぱい溢れているなかで、そういう図式的・記号的な映像だけの表現をやってみたい。皆ともそういう話をしていました。
序盤で神保が及川の事務所に到着して、2カット目あたりで有刺鉄線越しに撮れば「囚われている」という隠喩めいた表現も可能になって、ここも一石二鳥です。その状態から無理やり逃げ出すことも示せる。実現するのにそんなに予算がかからず、我々の規模でも可能だということもあり、そのアイデアで進めました。
──随所で効率的にドラマを進める画を撮っておられますね。打ち付けられた木のあいだから入ってくる光も目を引きます。
ライティングと撮影に関しては、僕はほぼタッチせずに川口くんに一任しています。照明は川口くんと常にペアを組んでいる西山竜弘さんに、『カウンセラー』以降ずっとやってもらっています。西山さんは差し込む光をよくつくってくださって、あそこも川口・西山コンビの意図によるものです。『近江商人、走る!』(2021/三野龍一)など、彼らふたりが手がけた他監督の作品でも、大胆な差し込みの照明と撮影のコンビネーションが見られます。
──最初に神保が事務所にやって来るカットでは、人物にフォーカスを合わせないことで、あの場所の状態を暗示していますね。
あそこは川口くんと「ここは人物より奥、玄関に据え付けたカメラがテーマだよね」と明確に意見が一致したカットです。
──動画制作のクライアント・柴田のキャラクターづくりについても教えてください。妙にフェミニンな人物です。
そこが最も悩んで工夫を凝らしたところかもしれません。僕の「あるある」で、シナリオに年齢も性別も一切書かないパターンが過去にもかなりありました その意味では柴田を演じる人は誰でもいいけれど、本作をつくるにあたり、コーエン兄弟の初期作から見てみたんです。以前に比べると映画から遠ざかっているなかでも、コーエン兄弟を見直してみると面白かった。
本作はコーエン兄弟の作品から少なからぬ影響を受けていて、デビュー作『ブラッド・シンプル』(84)などを見ても、意外とセリフにキャラクターを載せていないパターンが多い。それは彼らの特異な部分です。キャラクターが濃くて悪ふざけしているように思われがちだけど、よく見ると見た目が特徴的なだけであって、実はセリフにまったくキャラクターの個性を載せていない。もしかしてシナリオ上ではプレーンな人物しか並んでないんじゃないかと思う瞬間がありました。
──言われてみればそうかもしれないですね。初めて気づきました。
そのことを本作のシナリオを書いたあと、川口くんや宮崎くんに話して、特に宮崎君とはとても密に「今回はコーエン兄弟みたいな方法でやりたい」と話しました。
シナリオ上では柴田には全然キャラクターがなく、最初は役割でしかない。でも映画はそういうものでいいだろうという割り切りもあって、今回はシナリオやセリフでキャラクターやドラマをつくることを敢えてせずにおこうと。そういうテクニカルなことは出来ないし、見た目のキャラクターでいこうと考えました。たとえば『ブラッド・シンプル』のテンガロンハットを被った探偵は見た目だけで面白い。アメリカ映画をよく見ていくと、そういう例が多々ある気がしました。『ノーカントリー』(2007)も割とそういうふうにつくられたんじゃないかと思っています。あのおかっぱ頭みたいな髪型だから面白いんだと。
柴田は本作の重要なキーパーソン。キャスティング担当の𠮷川春菜さんとずっと話して「誰がいいだろう」とふたりで悩んで、「いっそ意外に見えるシニアの方もありかもしれない。男性でも女性でも構いません」と提案しました。それで資料をいただいたのが、出演してくださったにしだまちこさん。最初は「え! どうかな」と思って、これで成立するのか、奇をてらい過ぎに見えないかとかなりドキドキしました。ただ考えてみると、今回参考にした映画のひとつがスピルバーグの『ミュンヘン』(2005)。あれは僕のなかでコッポラの『カンバセーション…盗聴…』(1974)を 焼き直した作品だと思っています。『カンバセーション…盗聴…』は本作の最大の元ネタだから、二作が連想で繋がりました。
『ミュンヘン』が描く中東問題の歴史が続いていることはよくわかっているし、それが本作を構想するきっかけにもなっています。『ミュンヘン』のイスラエルの女性首相ゴルダ・メイアは、一方から見ればテロリスト、もう一方から見ればヒーローです。そして男性ばかりのなかで、彼女は母性を自覚して人を操作するのにそれを利用する。映画のなかではそういう人物だと僕は捉えていて、この手が使えるなと。そこで衣装を決める際にも、あの首相の写真を送って「こういうワンピースでお願いします」とお願いしたんです。衣装の栁和佳那さんは素晴らしい服とスカーフも用意してくれて、にしださんご本人の指輪も素晴らしく、本作のなかで一番うまくいったことのひとつだと思っています(笑)。
──そのように人物造形されていたんですね。もうひとり、曲者の女性人物がいますが……
はやしだみきさん演じるあの女性には「買い物袋を持ってください」と頼んで、一応そうしてもらっているんですが、いま唯一後悔しているのが、袋からネギなどの葉物の野菜を出すべきだったと(笑)。生活感の一部がそこから見えることで、より観客からはニュートラルに見えたのではないか。その点は見るたびに後悔しますね。
──あの女性はニュートラルに映るほうがいいのかもしれませんね。さて、ちょうど50年前の映画『カンバセーション…盗聴…』は盗聴の名手が主人公でした。本作はそれを現代の動画制作に置き換えた形でしょうか。
まったく同じだと思います。やっている側が疑心暗鬼になる大元から、コンセントのくだりまであの映画のイメージでした。
Ⅲ
──『カウンセラー』は音に凝った作品でした。本作にも大胆な音響演出があります。音づくりについてお聞かせください。
音響のアイデアは比較的自分で出すほうだと思っていて、特に女性ジャーナリストのシーンは、ストーリー上では本来必要がない。でもやりたかった理由は、ノイズキャンセリングのイヤホンを使ったサスペンス描写ってまだほとんどおこなわれていないだろうから、 それを試してみたかったんです。最初からそう考えていました。音響とカット割りで成立する、こういうシーンを撮るのはとても楽しかったですね。ポスプロでも録音・整音の三門優介さん、音響効果の佐藤恵太さんと一緒に、工夫して楽しんだシーンです。
──知りうる限りではそのような描写を見た記憶がなく、たぶん初めての例だと思います。
そう思いたいところです。ただ、そこはたぶん誰も評価してくれないと思います(笑)。
──のちに先駆的な作品だったと評価されるかもしれません(笑)。事務所のシーンで不意にシャッターが閉まる音がするのも、監督が娯楽映画で目指す「びっくり」ではないでしょうか。
あれは本当に偶然でした。今回は新しく北村和希さんが制作部に加わってくれました。彼はそのままのリアリティより、それを少しずらしたアイデアを出してくれます。事務所になったロケ場所に、たまたまシャッターがありました。「これをどう使えばいいか」と話して、僕としてはカメラを避けて及川が窓から逃げるわけで、シャッターがあると作劇として困ります。でも見た目は面白い。北村さんが最初にロケ地へ行ったときに、「監督、シャッターを開けて出入りできますよ、見ていてください」と言って実演してくれた。これは面白いから是非そう使おうと。その結果、なぜかひとりだけがそこから出入りします。ここは遊び心で演出しました。
──謎演出ですよね(笑)。柴田のあるシーンでは右左のチャンネルの音のバランスを変えていないでしょうか。
変えました。ああいうところは『カウンセラー』を引き継いで、音の配置を考えて「ここはこっちが心地いいね」とか言って細かく処理した部分です。音も結構いじってもらいました。
──ほかに事務所のシーンで少し意外だったのが、焚火です。酒井監督がこういうシーンも撮るのかと。
あれは問題のシーンで(笑)、自分でも首をかしけながら撮影していて大変でした。とにかく気恥ずかくて(笑)。なんちゃって文明批評みたいなセリフもあって、自分でも浅いなと感じてはいるのですが、本作はある種の青春ものだからいいのかなと自分を無理やり納得させています……(笑)。
──本作が「BL作品」でもあるとしたら、あそこにエモーションを感じる方もいるのではないかと思います。
あのシーンについて好意的な感想をくれる人もいて、今風に言うとエモい要素があるのかもしれませんが、いかんせん僕はそういう素養がまったくないため、撮っているときは「どうしよう、ここは退屈になるかもしれない」と結構頭を抱えていました(笑)。セリフもある程度カットして、そうしてもいいように芝居動線を考えました。
「BL」はつくったあとに付けて打ち出された売り文句なので、僕らの制作過程に関係はないのですが、あのシーンがあることで「ふたりの関係性のためにこれを入れました」というフリをしていられるというか……とにかくそういった言い訳なくしては、自分では小っ恥ずかしいシーンです(笑)。
──片や、現代的なトピックを多く盛り込んでいます。監督はメッセージがあってもそれを映画の前面に出さない印象がありますが、今回はどう考えられたでしょう。社会的な映画という見方も出来ると思うのですが。
自分の言いたいことを映画に入れて主張することに対して、これまでも今もずっと否定的な視点を持っているというか、映画のなかにそういう要素があってもいいけれど、娯楽がまず一番に来なければいけない。そういう意識があります。
とはいえ、おそらく何かしら思っていることが紛れ込むことはよくあると思うんですよね。特に本作のデモのシーンなどは、自分がデモに行きながら書いていたシナリオだったので、それもひとつのネタになっているとは思います。でもトピックを、事件の当事者たちを尊重してつくる気持ちはあえて一切持たず、娯楽のために必要だから、とはっきり割り切って入れていくイメージでしたね。やるからには遠慮なく不謹慎にやらなければいけない。デモのシーンもきちんと娯楽映画にするために入れたつもりです。
──トータルでは娯楽映画に仕上げておられて、最もそれを感じさせるのがラストの展開です。この構想はシナリオを書くなかで生まれたのか、あるいはラストから逆算する形でシナリオを書かれたのでしょうか。ここで「大きな話」に飛躍します。
企画書では、その部分は未定でした。書いていたのは「ぶっとんだ展開」とだけ。それを宮崎くんと一緒にテレ東にプレゼンしに行って、OKを取れた帰り道に「あれはどうしようか」と電車で話し合って、ぶっとんだ展開といえば何だろうと相談するなかで、お互いに「やっぱ銃撃戦だよね」と意見が一致しました。『マトリックス』(1999/ウォシャウスキー姉妹)や『TENET』(2020/クリストファー・ノーラン)みたいな感じかなとか話して、最後の決めのセリフはそのときに宮崎くんが発案しました。神保がある選択を迫られる。企画書の段階の仮タイトルは『プロパガンダ』で政治色もあるし、抽象的で面白いセリフだなと思って決めました。だったらその直前に映像のエラーが起きるとか、より一層現実かどうかわからないものを組み込んでいこうという話で盛り上がって、あのシーンを書きました。最後が抽象的なシーンになることがそこでわかったので、さらにダブルミーニングというか、単に抽象的なセリフに留まらない多層性を持たせたくて、冒頭の居酒屋のシーンなどを足しました。
神保という人物のプロットラインからしてもそうで、本作は何も主体的に決めてこなかった人間が決断を強いられる話です。自分は映像の技術屋だと割り切っている人間が──ある種の監督的立場なのかはわからないけれど──責任を背負うことになり、最終的には人に乗せられて指示を出さなればならなくなる。ちょっと自分自身のことのような皮肉を、遊び心で逆算して冒頭に持っていきました。
(2024年11月)
取材・文/吉野大地
●『フィクショナル』『カウンセラー』X (旧Twitter)
●Filmarks
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