『フィクショナル』 酒井善三監督ロングインタビュー(後編)
みずからがつくりだすディープフェイク動画によって次第に妄想に囚われるようになる映像制作者の姿を描く『フィクショナル』の劇場公開がはじまった。主人公の観念を突き詰めながらも、この映画はそれだけに留まらない原始的かつ体感に訴えるダイナミズムに支えられている。ロングインタビュー後編では、独創的なチームによる映画制作などを酒井善三監督にお話ししいただいた。
Ⅰ
──インタビュー前編で本作の成り立ちを伺いました。ロングショットが多く、スマホのアプリで視聴するにはかなりの集中力を要する画面設計がなされています。その後、テレビ放映を経て劇場公開に発展しました。映画館での上映をはじめから想定されていたのでしょうか。
当初、スクリーンでかけることは確定しておらず、自分のなかでは面白いものが出来ればそれで良いと思っていました。身も蓋もありませんが、本作はテレビ東京著作であって、出来上がったものは局の制作著作物となるので、その後の権利は一切ない。そのため「これがウケようがウケまいが良くも悪くも我々には関係ないのだから、アプリの視聴者に配慮して遠慮する必要はなく、撮影は好きにやりましょう」と、いつものことながらスタッフ間では気負わずに構えていました。情けない話ながら正直に言いますと、最近の僕はつくることに興味はあれども、沢山のお客さんに見てもらうこと自体には、撮影時にそこまで関心を持っていないんです。「客」として想定しているのは僕ひとりと言いますか。とはいえ、出来上がったら出来上がったで、そこからはせっかくなので見てもらいたいなと思ったりもするわけですが……。
撮影準備中だったか、クランクイン後に「これを劇場にかけられたら良いね」という会話はあったかと思いますが、お伝えした通り、作品の著作はテレ東で、劇場上映について我々には権利がありません。完成後に、プロデューサーの大森時生さんが独自に劇場に掛け合って実現したという経緯です。
──コンプライアンスが厳しい時代です。テレビ局制作のもとで大きな制約は何かありましたか?
それはほとんどありませんでした。たぶん僕らは小規模なチームで、スポンサーが付いていないなどの事情もあったと思いますが、制作に支障をきたすほどのNGはほぼなかったです。特別にグロテスクな描写も入れてなかったので。でも、幾つかあった固有名詞は「こちらから外しますね」と提案しました。一箇所だけ、テレ東から指摘を受けたのは確定申告の問題。当初はシナリオに一言だけ盛り込んでいたんです。特にシナリオを書いていた昨年3月は、確定申告という制度への憎しみだけが増幅している時期だったので(笑)。
──よくわかります(笑)。
確定申告にまつわる他愛もないギャグを最初は入れていました。インボイス制度にも腹が立っていたし(笑)。だけどテレ東から「フリーランスの人以外には伝わりにくい」と指摘があり、重要でもないものだったのでカットしました(笑)。あとは自動車が登場するくだりで、メーカーがわかってしまうのでテレビでは避けてほしいと言われました。テレビ版はそこだけ画を加工しています。
放映時間が違って、皆が見るような時間帯のドラマであれば事情は全く違っていたのかもしれませんが、ひっそりとやるような枠のためか、幸い自由にやらせてもらえました。オリジナル企画でつくれること自体が特異な立ち位置で、このような企画を実現させてもらえたのはすごくラッキーでありがたいことだと思います。
──制作から劇場公開の流れは今の日本映画にないものです。ただ何かしらネガティブな要因があると、どうしても直接的な表現は難しくなりますね。
ロケ地選びではそれによるNGもあったりします。これまでそういうロケーションを選ぶのを避けてきたというか、そこで撮れる予算がなかったこともあってやらなかったんですが、今回は無理を言って「電車のシーンはスタジオじゃなく、本物の電車で撮りたい」と変なこだわりを見せたんです。
それで多摩モノレールさんに掛け合ってもらい、撮影できることになりました。でも電車を使う撮影はネガティブがNGなんです。最初はそこで拳銃を使うつもりでした。すると制作部の北村和希さんから「拳銃が出てこようものなら電車の撮影で絶対許可が下りません」と。あとは強要して乗客を下車させる描写もネガティブだから許されない。そこで考え出したのが、「訳のわからないことを言われて自分から降りる」(笑)。そうした変更点はありましたね。
──拳銃にNGが出るのは頷けますが(笑)、モノレールのシーンには主人公・神保(清水尚弥)の部屋と先輩・及川(木村文)の事務所の距離を想像させるなど、複数の効果があります。そこでの撮影に関してもお聞かせください。
モノレールは往復で約1時間。そのあいだに3シーンほど撮らなければいけなくて、すべてコンテを書いて準備して撮影に臨み、次はこうでその次は……という流れで撮りました。とにかく川口諒太郎くんの撮影と北村さん、助監督の伊藤希紗さんによる現場の段取り仕切りが素晴らしく的確・円滑で、撮り終わったら拍手が起きたほどでした(笑)。
──車両をひとつ借り切って撮られていますね。
多摩モノレールさんは、一車両まるまる撮影用に運転する形で対応してくれます。ただし途中で停車せず、起点から終点まで行って一応復してくるあいだに撮り切るのが、こちらの資金的な条件でした。だから事前のスタッフでの段取りも入念でした。特に後半、女性の乗客(はやしだみき)が下車して電車が走り出すシーンをワンカットで撮りたかったので、チャンスは1度しかない。それに、あそこから電車が逆方向へ走りはじめます。だからその前までのカットを撮っておいて、下車するカットを撮るときには乗客の人たち全員に「逆に座ってください」と移動してもらい、大急ぎで逆配置して撮りました。ここも伊藤さんの素晴らしい段取り力のおかげで無事に撮り終えると、皆にひと仕事終えた達成感がすごくありました(笑)。
撮影当日は強い雨が降ってやがて大嵐になり、電車が途中で止まったりもしました。川口くんの臨機応変さと、晴天ではない天候もかえって味方して、無駄な影が目立たなかった。そういうことも撮影の成功に影響した気がします。
──ロケーションでは、『カウンセラー』に続き、エレベーターのシーンが見られるのも興味深いです。
エレベーターを使うのは初稿から決めていて、でも本作で最後にします。これが卒業証書ですね(笑)。今回はマンションのオーナーの方と百々保之くん(ラインプロデューサー/DrunkenBird)が飲み友達になって、それで何とか使わせていただくことが出来ました。商業の枠組みでは到底無理なことをやっています(笑)。
エレベーターというのは本当に使用許可を取るのが難しい。そんな中、お貸しいただき大変ありがたい限りで。そして、そのような方に信頼していただけたのも百々くんのキャラクターによるものだと思います。これは彼にしか出来ません。
──エレベーター内の演出は、『カウンセラー』 以上に洗練されています。ここもかなり力を入れたのでは?
全体的に今後は自分の個性をどんどん消して、チームとしての作品になっていくだろうと思っていました。最近は「作家性」と呼ばれるものに全く興味がありません。それよりも職人的なアメリカ映画、個性よりもただ面白さだけが存在する娯楽映画を目指したい思いがあって、本作はかなり淡々と撮影を進めました。とはいえ、そう言いながら本作まで自分でシナリオを書いてきて、どこかにまだねじれた承認欲求があるのか、何らかの自分の刻印を残したい思いもあったのかもしれません。それで、毎度書いているエレベーターのシーンを今回も書いてしまいました。
──子どもの頃は監督やスタッフの名前も知らずに映画を楽しんでいました。往年の撮影所の職人的に撮っていくのも有効ではないでしょうか。
ただ、実際それはそれでやはり矛盾しているようにも思っているんです。プログラムピクチャー的な映画が産業として成り立っていた時代であれば、 職人的に撮っていくことに意味があったと思います。今は予算面でもそういった産業がもはや成り立っていない。そういう時代に職人的に撮るというのは、それはそれで自己満足に過ぎず、やはり職人ごっこ遊びに過ぎない、とも思っているところです。
いわゆる作家性から離れたいのは、自分にそもそも個性があると思っていないことが最大の理由です。それでも仮に何かあるとすれば、僕らの制作体制はかなりユニークで、小さなひとつの工場みたいになっていることです。テレ東から依頼を受けたら、自分たちでチームを組んで脚本の段階から進められて、それが映画美学校の同期生を含む、信頼できるメンバーだということ。これがいちばんの強みであり、僕個人の個性ではなく、チームの個性が重要だと思っています。
もちろん責任の所在などはあっても、チーム内に無意味な序列がなく、自主映画の制作チームみたいな形を維持しながらやっていけるのは、場合によっては弱点にもなり得ますが、今はそれ以上に僕らの強力な武器だと思っています。だから普段から話し合うし、今後参加してくれる人が増えていくに連れて、それぞれが持ってきてくれるものや個性を、その都度みんなで吟味してやっていく手段もありだと考えています。自分の内面的なものを掘り下げるだけでは、すぐに打ち止めが来るでしょうし、そういう意味でもなるべく没個性的に、柔軟にいきたいと考えています。
Ⅱ
──ここからは印象的なシーンをピックアップしてお話を伺えればと思います。神保の長い横移動ショットがあります。あの撮影はどのように?
車で並走して撮りました。あれは川口くんの案でしたね。シナリオでは「居ても立ってもいられず、外に出て歩く」程度に軽く書いていたのを、どう撮ろうかと考えました。ロケ地は許可を取りやすい場所で「じゃあここで」と決めてロケハンに行って、車椅子か車で併走しよう、そうするんだったら追っかけや引っ張りじゃなく横向きで、と決まりました。そのときに川口くんが、「一度人物がカメラを引き離して、また追いつかれて展開する流れにしませんか?」と提案してくれました。でも、このシーンはタイミングが難しかったですね。
──カメラと人物のあいだに遮蔽物もあるので、スピードを掴みづらいですよね。
ふたたび撮影の効率性の話題になりますが、これは僕たちには重要な問題で、今回も百々くんが『カウンセラー』と同様に、最初から「1日8時間労働ルール」を設けていました。本作の尺は70分で撮影が9日間。画面内の映像などは僕が撮りましたが、それを抜いて計算すると撮影は実質69時間だったらしいです。つまり1時間で1分の割合でOKテイクを出さないといけない。映画撮影としてはかなりのハイスピードで、ほぼNGも出さない状態で撮っていたなかで、あの併走は3テイクほど重ねました。1 度NGを出すと出発点に戻るのに時間がかかります。「これは早く撮り切らないと」と時間に追われ焦りました。
──同じロケ地だと思いますが、奥行きのある空間を活かした画も撮っています。
あのロングショットは川口くんが撮りたいと言った画です。僕自身はフォトジェニックな画にあまり興味を持っていませんが、川口くんが「これは象徴的なカットだから撮ったほうがいい」と言って撮ってくれた結果、フックになる画になりました。
──この辺りからのフィクションのラインはどう調整されたでしょう。匙加減によって映画への没入度が変わると思います。
たとえば『カウンセラー』では、配達員が登場する回想の辺りでかなり大胆な音の実験をしているので、観客が「この映画はこういう深みのフィクションだ」と、それ以降のリアリズムを無視してもある程度OKな世界になるように工夫したつもりです。
しかし本作はトピックも現代的だし、一種のリアリズムと捉えられる範囲の出来事が起きていきます。ただ、リアリズムが大きくなればなるほど、かえって嘘が露わになってしまう。特に低予算でつくるときは、その嘘の範囲をあまり大きく出来ない難しさがあります。ところが、「これは主人公の妄想なのかもしれない」という言い訳をひとつ用意しておくと、リアリズムから離れても、ある程度成立するかな、と。本作では特に後半にかけての展開ですね。
──神保の幻視のようなシーンがあり、そこでも本作のフィクションの度合いを測れるのではないかと思います。
あれは精神世界の描写で、彼の罪悪感のような心理を画で表しました。「これは非現実です」というものを示しておくことで、その前後をリアリズムとして見てもらえる。ところどころでそういう言い訳を重ねることで、物語のラインはギリギリ維持しているんじゃないかなと思いながら構成しました。
──それから不思議なのが時間トリックのシーン。ダブルキャストで撮られたのでしょうか。どう撮影したのか、一度見では全く見抜けませんでした。
あれも結構大変で、ダブルキャストじゃなく編集で処理しました。実際は神保を演じる清水さんひとりでやっていて、ほぼ同時間軸にふたり存在しているように見せています。
まず陸橋の上から階段を降りてくる神保を、カメラをティルトダウンせずに撮ります。当然そのまま画面下手にフレームアウトしてもらう。そのあと、清水さんには陸橋の下で待機していてもらいます。そこで掛け声を出して陸橋上、画面右から日傘を差したエキストラに歩いてきてもらい──あれはスタッフの内トラでヘアメイクの渋谷紗矢香さんですが──途中でカメラをティルトダウンする。そのタイミングで「歩いてください!」と待機している清水さんに入ってきてもらうという撮影内容です。少し複雑なことをしました。
──理由は「面白さを目指した」に尽きると思いますが、ここで複雑な手法を使われたのはなぜでしょう。
ひとつは、あの辺りに遊び心が欲しかった。後半は一人芝居が多いため、単純な撮り方をするとやっぱり単調になるし、撮る側もワクワクしません。特にこの物語は、スマホのなかにほぼすべての説明情報を集約させているところがあって、それは現代のリアルな自分たちの実感でもあります。スマホの画面とそれを見る人物のカットバックを繰り返していくと、単に文字テロップを出すのと同じで、意味の説明にしかならず、映画づくりの面白みも失われます。それなら何か工夫をしないといけないと思って、あそこは苦し紛れにパンダウンで同時間軸にふたりいるように見せることにしました。トリッキーな手法だけど、過度にそう見えないぐらいがいい。なぜならそのあと続く後半はギミックショットが増えていくので、ここは派手過ぎてもいけない。そういう曖昧さも狙いました。
──逃亡した筈の及川が再来する描写があります。あの大技についても教えてください。
シナリオにはわかりやすく「フラッシュバックを見る」と書いていましたが、「ただそれだけだと面白くないなあ。どう思う?」と事務所で皆と話しました。これがないとさすがにドラマとしてわからないからどうしようかと相談していて、そこで宮﨑圭祐くん(共同脚本)から、グリーンバックに回想を映すアイデアが出て。それは意味としては成り立っていなくて、そのよくわからなさがまた面白いなと盛り上がりまして(笑)。そのうえで、そう撮るなら直前にそこに照明が「バン!」と当たった方がいい、という具合に、話し合いながらアイデアをさらに皆で重ねていきました。
──あの描写の意味を求めてはいけないですよね。ズームアップも使った過剰さがいい(笑)。
ズームアップは編集時の川口君のアイデアで。撮っている最中も感じましたが、いま見てもすごく馬鹿々々しい(笑)。でもあそこまで行くと、逆に全然恥ずかしくないんですよね。『春にして君を想う』(1991/フリドリック・トール・フリドリクソン)にも車が突然消える描写があって、ああいう映画ならではの、違和感の残るごくシンプルな嘘っぽさは好きです。本作のあのシーンは、手の込んだギミックを丁寧に重ねるような、それっぽくうまい感じではないのが気に入っていて、もっと馬鹿々々しくてもよかったかなと見返して思います。
──その流れから神保がモニターと向かい合うカットがあります。モニター内映像は合成でしょうか。
合成ではなく、直前に撮っておいた映像をモニターに映して撮っています。清水さんがそれに合わせてうまく演じてくださいました。
Ⅲ
──先ほど上った「作家性」の話題から連想したのは、今年は新作が3作公開された黒沢清監督の名前を例年以上に目にして、作家論が語られる機会も多くありました。一方、こうしてお話を伺うと、本作はやはり作家性を志向した映画ではないと思えてきます。
不思議なことに、これまでは作品をつくるたびに黒沢清さんの真似だとずっと言われてきました。もちろん黒沢さんからの影響や憧れは、アルフレッド・ヒッチコックなどと同様にものすごく強く、自分のなかに原初的な体験として存在しています。それは僕らの世代──1980年代生まれ──の多くのつくり手に言えることかもしれません。確実に影響があるからこそ、今回は黒沢さんに似ていると言われないように、自分の個性を出すのを避けてみました。それよりも周りからのアイデアを取り込んでやってみよう、と。
たとえば最後の展開も、宮﨑くんと僕が話すなかで生まれたものです。ロケ地なども、なるべく黒沢さんの作品に現れるような場所を避けて、なおかつ色々な部分でスタッフが意見を出し合い決めていったつもりでしたが、別のインタビューでは「黒沢清的だ」「ラストまで含めて黒沢さんに似ているけど、あれはなぜですか」となぜか黒沢さんについて訊かれまして……「これでもそこまで似せているように見えるのか、じゃあどうすればいいんだ」と悩みました。
──本作と黒沢監督作品は語りのスタイルなども含めて似ていないと感じます。『Cloud クラウド』をご覧になられましたか?
当然僕自身はスタッフではないので、『Cloud クラウド』がどういう作品なのかをよく知らず、封切前にそういう指摘があったので劇場へ恐る恐る見に行くと「よかった、全然違う。そしてなんと痛快な作品なんだ! 最高だ!」と(笑)。自分は全然似ていないと捉えましたが、何か同じものを感じる人も多いみたいですね。ご迷惑になっていなければいいなと思っています。僕らは到底あんなレベルの面白さに達していませんので、類似点を見出してもらうこと自体は畏れ多くもありがたく光栄なことです。
ちなみに本作のラストシーンに関しては、宮﨑くんとセリフのやり取りを相談した際に、「『わらの犬』(1971/サム・ペキンパー)のラストが車のシーンで『どこに向かっているの?』『わからない……』といったやり取りがあって、それに近いからこの流れは良いかもしれないね」と話していたんです。『Cloud クラウド』も『わらの犬』からの影響が強いように思うので、ラストの類似は、案外ヒントにした元ネタ被りなのではないか、とも思っています。
──本作の下敷きにされたという『カンバセーション…盗聴…』(1971/フランシス・フォード・コッポラ)の編集者であるウォルター・マーチは、「私がではなく、ショットがショットを呼び込んで自然に出来上がったような仕上がりになるのが理想的だ」と著作『映画の瞬き』(フィルムアート社)で述べています。本作からもそうした感触を覚えますが、監督はどう捉えられるでしょう。
そうなると理想的ですね。しかし、「自然に」とは「違和感なく」や「滑らかに」という意味ではないだろうか、と考えています。僕としては、むしろカットとカットがつながることで、ギャップというか、ハッとすることを目指しているんです。自分では、黒沢さんのような力のあるワンショットを撮るタイプというよりは、つないだカットに面白さを見出すタイプかなと思っています。それだけではなんでもないドアや椅子などのカットが繋ぎによる文脈や、音との組み合わせによって「単なるドア」を超える。映像、音、文脈、リズムの調和で知性的ではない何かもっと直感的な、感情や感覚を呼び起こしたいというか。全く追いつける存在ではないけれど、志しているのはロベール・ブレッソンのような面白さの要素かもしれません。そのうえで、テキストとして批評や感想で拾いやすい、言葉によって分析される記号やストーリーより、体験であったり感覚としての面白さを実験していくのが作品づくりの楽しみです。たとえ幾らかの利益になろうが、『カウンセラー』を配信する気持ちがないのもそれが理由です。感覚的に見てもらうためには不自由さが必要だと思っているので。
力のあるワンショットをつくれる監督・スタッフには、本当に労力とセンスが必要とされます。僕は、というか僕らは飛び抜けた才気ではなく、チームとしての遊び心によって感覚としての映画、娯楽を目指したいと思っています。もちろん撮り続けられる機会と、生活できる収入があるのなら、ですが。
(2024年11月)
取材・文/吉野大地
●『フィクショナル』『カウンセラー』X (旧Twitter)
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●『カウンセラー』酒井善三監督インタビューPart2