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『コロナvs信心』 酒井善三監督ロングインタビュー

2月7日(金)より神戸映画資料館で開催される〈酒井善三監督特集〉。コロナ禍以降につくられた3作を一挙上映する世界で初の機会だ。もっぱら娯楽性を追求する監督の映画のなかでも、とりわけその色がストレートに表れた2021年制作の青春群像喜劇『コロナvs信心』から得られるものは「面白さ」以外ない。(ひとまず)そう断言したくなる、程よく脱力した〈無用の映画〉を巡りインタビューをおこなった。

 


──取材に向けて本作を試写で拝見しました。普段は素人なりに画づくりなどを追っていくのですが、途中で細かいことはどうでもよくなるほどナンセンスで清々しかったです。

僕自身も撮って仕上げることが前提だったこともあり、映画として評価される立派なものをつくろうという気持ちはまったくなく、何も思い浮かばない自分に焦り、絶望していたこともあり、もう半ば破れかぶれで書きました。とにかく何かつくらないといけない、と。自分をゼロにして自主映画を撮る感覚でしたね。

──『フィクショナル』取材前に、情報ゼロの状態で本作のアヴァンタイトルを見せてもらいました。そのときはどう捉えていいのかわからず、とりあえず何も見なかったことにしました(笑)。

何を見せられているんだ、という(笑)。撮影から上映まで時間が空いたので、途中経過として、一度あのパートを何の説明もせずノーカットでネット上にアップした時期がありました。「劇中で〈ナチュラルネットワーク〉という自己啓発団体が発信している動画」というつもりでしたが、ジョークとして受け取ってもらえないのでは、という不安から、これは危ういと思って削除しました(笑)。

Ⓒ2021 drunken Bird

──制作の過程などを、本作の製作/プロデュース/録音を担当された百々保之さん(Drunken Bird)とスペインからの配信動画*で語っておられます。補足する形で完成までの流れをお話しいただけますか?
*『コロナvs信心』の話題は35分30秒あたりから。こちらもご覧ください。

本作はAFF*の補助金で制作しました。そのため2020年度内に撮影の必要がありました。百々くんからその話を聞いたのが、『カウンセラー』をつくった直後の2020年末です。その年の補助金事業だったので、年度末の2021年3月までに撮影に入らないといけなくて、2月に撮りはじめた筈です。
ただ少し複雑なのが、撮り切れなくて撮影を2期に分けたんです。物語の後半部分を21年の2月に、秋頃に残りの前半部分を撮りました。その後、『カウンセラー』の上映がはじまり、22年1月には神戸映画資料館にも伺いました。そのときの舞台挨拶で「次は何を撮るんですか」と訊ねられて、「実は変なナンセンスコメディをつくり終えたところです」とお話ししました。そういう時系列ですね。
ただ、これは笑えないなと思ったのが、2020年末に悩みはじめたシナリオが、言い訳ばかりでなかなか進まず、やっと書き上げたのが翌年2月。クランクインの数日前くらいでした。観ていただくとわかる、アバウトで説明的なシナリオですが、そのときはまだ国内のワクチン接種開始の話も具体的には出ていない時期だったと思います。だから、コロナを巡って極端な思想や分断が進むとは思っておらず、ジョークとして書いていた。
それが最初の撮影を終えて、追加撮影まで半年ほど時間が空き、そのあいだに新宿へ行くと本作と同じような活動をしている人たちがいて、ジョークじゃなくなってしまった。撮りはじめた頃は、「これは現実にはないだろう」と思っていたのが、現実のほうがもっと過激な方向に転んでしまい、本作がナンセンスコメディではなくなった側面がありますね。その意味で、公開時の22年12月にご覧いただいた方は、笑えない時期に観てくれたことになります。
*ARTS for the future! (コロナ禍からの文化芸術活動の再興支援事業)

Ⓒ2021 drunken Bird

──コロナウィルスを題材にしたシナリオの執筆期は、コロナ禍のムードが影響したのか、スランプに近い状態だったそうですね。コロナをネタにすることで、それを脱しようとされた。

僕の映画は毎回、モチーフであれ描写であれ、倫理的にいかがなものかと思われることをやっていて、それが必然的に作品に入ってしまいます。というのも、自分は根本的に何事に対してもジャッジできない。その出来ないことの面白さを、『おもちゃを解放する』(2011)からずっと映画で描いてきました。いつも「これをやるべきか、やめるべきか」と少し悩むというか、倫理的にどうだろうと思ってシナリオを書きつつ、「でも思い付いてしまったのでやるか」と開き直ってつくっているところがありますね。本作もまさにそうでした。

──タイトルは初めから『コロナvs信心』でしたか? 怪獣映画を思わせる響きです。

お伝えしたとおり、焦りのなかを勢いで書いたシナリオなので、タイトルもいい加減に『コロナvs信心』と付けました。すると、「それは流石にちょっと」という思いもあり、一度ただの『信心』にしました。でも、一言でナンセンスとわかるほうがいいだろうということで、このタイトルに戻しました。
舞台挨拶の際にもタイトルの話題になって、観客の方からの質問に対してだったかな、僕としては『ゴジラvsコング』(2021/アダム・ウィンガード)みたいに戦っていくイメージです、と話しました。中編なので劣勢になった信心を取り戻す。それくらいの短い話ですが。

──作品のメインビジュアルは、ロシア・アヴァンギャルドのポスター風です。観るまではその理由がわかりませんでしたが、そういうことかと思わされました。

これをつくった頃はまだロシアがウクライナに攻め入っていない状況でもあり、その意味では政治的な意図はありません。ただ皮肉なことに、ロシア・アヴァンギャルドには──それほど深くは知りませんが──プロパガンダもひとつの芸術だという価値観があったと思うんです。そうすると、案外この映画の世界に遠く繋がってくる気もして、ユニークな縁だなと思っています。

──観たあとに新興宗教やスピリチュアル関連のサイトを見ると、大体どこも本作のセリフと同じような言葉が書かれていました。シナリオを書く際に、そういうものをリサーチされたでしょうか。

そうですね。以前から新興宗教に興味があって、特にオウム真理教は資料が豊富に残っています。調べていくと、信者とは属性も生まれた時代も違うのに結構シンパシーを覚える部分があって、まったくの他人事とは思えない。あそこまで滑稽なのにもかかわらず、なぜか妙に理解できる部分があります。そこに関心があって、本作は話題になった当時の記憶と、元・信者の宗形真紀子さんの著作『二十歳からの20年間―“オウムの青春”という魔境を超えて』(2010/三五館)を参考にしました。特にオウムで言うところの「マハームドラー(与えられた試練を超える修行)」という教義によって陥ったであろう葛藤が興味深いなと。
それも含め要素自体は、どの宗教にも何かしら当てはまる部分があり、オウム特有のものではなく、さっきおっしゃったスピリチュアル系全般に言えることだと思えます。色々な宗教が「不殺生」や反物質主義を唱えているし。そのあたりを映画にも、あくまで即席に利用したので、自然と現代のスピリチュアリズム全般に似通ってくるんでしょうね。

──オウムの地下鉄サリン事件が起きたのが30年前、1995年の3月。1985年生まれの監督は当時小学生でしたね。

あれは本当に強烈でした。僕は東京の多摩のほうの学校に通っていて、先生が授業を途中で止めて松本智津夫元死刑囚が逮捕されたニュースをリアルタイムで生徒に見せるほどの事件でした。同時に、森達也さんを含めて、これを異物として扱い、単に邪悪な人間がこんな事件を引き起こしたと済ませていいのだろうかという考えも出てきました。少年期に触れたせいもあり、強烈なイメージが未だにあって、大きな興味の対象ですね。

──配信動画でもお話しされていますが、入信する前までは聡明な人もいました。人間の心理はわからないですね。

「信じることを試されている」という一個のアイテムが入ると、すべてがうまく嚙み合って傾倒してしまうんでしょうね。逆に言えば、それこそが信仰の一番のよい効果、生きるためのモチベーションになる可能性も持つのかもしれない。しかし、そうであるがゆえに、ややもすれば人の命が自分の命よりも重い命題になってしまう。それが皮肉にも時折あのような事件を起こすんだろうなと思います。

 


──自己啓発団体の会員たちが共同生活している建物は和洋折衷の造りです。民家でしょうか。

あの建物は、東京のあきる野市にある〈ゲストハウス Omotenashi〉です。オーナーさんがすごくいい方で、お父様が学者だったらしく、心理学や宗教に関する多くの蔵書がバーッと本棚に並んでいるんです。それはまったくの偶然でしたが、とてもよくしてくださって、撮影ロケ兼宿泊、そして食事まですべてオーナーさんにお世話になりました。あの場所が無ければこの作品は完成していません。

──蔵書は美術部が運び込んだとしても、どう手配したんだろうと思っていました。

美術で家に装飾したのは梵字の紙や手の写真くらいで、あとはすべて〈Omotenashi〉さんの備え付けです。

──梯子もそうですか?

あれも〈Omotenashi〉さんのものです。そういうところも「ここで撮影しよう」と決め手になった要因ですね。本当に面白くて素敵なお家で、屋上で瞑想していた支部長(西山真来)が階下に降りてくるカットは、場所を使った遊び心です。〈Omotenashi〉さんはデザイナーズハウスで、個性と気品がある。せっかくだから、この建築を活かして撮りたいと思いました。

──普通ならセットでつくるような階段や柱も活かしておられますね。そして、瞑想中の西山さんをフォトジェニックに撮っておられます。コメディ映画と思えないくらいに(笑)。

あの撮影は時間帯にもこだわりました。スカイラインがあれくらいになる時間を狙って。僕の作品では珍しいフォトジェニックなカットです(笑)。

Ⓒ2021 drunken Bird

──ほかにもロケハンで建物をご覧になって生まれたアイデアはあるでしょうか。

〈闇の行〉のシーンですね。「ここは収納スペースです」と教えてもらって開けたら面白い空間で、「ここで撮ろう」と決まりました(笑)。

──あそこを使わない手はないですね(笑)。今回の特集にプログラムされた3作のうち、最も構造がシンプルなのが本作で、直線状に物語を進めています。

ひらたく言えば、ほかにアイデアが思い浮かばなかったのも理由のひとつです。ただ本作は群像劇。ひとりの人物のうねりを描いていくと訳がわからなくなるだろうし、共同生活者たちが絡めばちゃんと一個の物語になる気がしました。それで直線的になったのかもしれません。

──『フィクショナル』公開時の取材で、主人公・神保(清水尚弥)の一人芝居は特別なリハーサルをしなかったと伺いました。本作の場合はどうでしたか?

リハーサルはしました。ロケ地の〈Omotenashi〉さんでもおこないましたが、リハーサルでいちばん面白いのは、ひとつのシーン内に複数の心情の揺れ動きがあるケース。でも逆にシーンが短いとあまりやることがなくて、人物の最初の立ち位置の正解を探す程度で終わってしまいます。そういう部分では『カウンセラー』みたいに、ひとつひとつのセリフの発し方を考えるようなリハーサルは本作ではしませんでした。これもいい加減というか(笑)、その点は『フィクショナル』に近かったですね。

──芝居のテンションに関する細かい演出はされたでしょうか。高めのテンションが必要なシーンが多くあります。

実はまったく何も言っていません。これまではオーバーアクションだと感じたら、「ちょっと変えましょうか」と提案していましたが、本作では──よい表現ではないかもしれませんが──「これもまあいいか」くらいの軽い気持ちでポンポンOKを出していったところがあります。結果、変にアート映画的な、ニュートラルでそれっぽい抑制に拘泥せず、ゼロの気持ちでやれました。

──コメディの度合いに関しても特に共有することはなかったですか?

シナリオを書き上げてから数日で撮影という状態で、それだけの余裕がなかったですね。もう勢いで撮っていたので。「今回はコメディですから」程度のことは伝えた気がします。皆さんがそれを意識して演じてくれたかどうかはわかりませんが、真剣に取り組んでくださりました。

──『カウンセラー』『フィクショナル』と同様に水のモチーフがあります。最も過剰なのが本作です(笑)。

何かしらきついことを行う。価値観の基盤となるほど強く影響するために、宗教にはそれが必要で、特に共同生活を営むような人たちにとってはそうした儀式が重要でもあると思うんです。自分たちのモチベーションを高めるため、あるいは罰則の意味でも。あのシーンは自分の汚れを取るためにやっています。ただ水を飲んで吐くだけのアクションを、一発目に見た目は派手なことをしようと思って撮りました(笑)。

Ⓒ2021 drunken Bird

──東京で上映した際、あのシーンへの反応はどうだったでしょう。

観客の方たちと一緒に劇場内にいなかったのでわかりませんが、あまりウケていなかったと伝え聞きました(笑)。

──笑っていいのかどうか迷うのかもしれません(笑)。

「コメディ」と聞くと観る側はもっと気楽なものを期待するのでしょうが、普通に厭な話なので困惑するんだと思います(笑)。

──西山さん演じる支部長の眼鏡がキーアイテムで、メインビジュアルにもあしらっています。このアイデアは?

シナリオ上に「眼鏡の汚れ」云々のセリフがずっとありました。支部長はそれについて団体の先生(結城和子)にあれこれ言われる。だけど眼鏡をかけるかどうか、僕は全然気にしていませんでした。すると西山さんが、「私、ありますけど持ってきましょうか?」とおっしゃってくれたんです。「じゃあかけましょう」と言って眼鏡ありきにしました。
本作は2期に分けて撮影して、順としては物語の後半部分を先に撮って前半は後に回していますが、そのあいだにスタッフ編成など色々変わりました。そのときに「眼鏡をどんどん活かしていこう」と、前半にギミックを足したり、活かす方向に変えていきました。

──ごく普通の眼鏡ですが、あるのとないのとでは大きく変わりますね。

そうですね。これがやっぱり重要なモチーフだったのかなと、西山さんが持って来てくださったおかげで気づきました。それでメインビジュアルにも足しました。

──『カウンセラー』では西山さんが演じるアケミの話を聞くカウンセラー・倉田(鈴木睦海)がリアクションを取る側でした。本作は逆で、西山さんのリアクションを多く撮っています。

確かに、『カウンセラー』ではあくまでずっと話していく側でした。考えてみると僕の手癖というか、主人公にリアクションを取らせがちかもしれません。それは『おもちゃを解放する』から通底していて、周りの人に動かされる人が主人公になる。なぜかシナリオを書くときに癖でそうなってしまいますね。

 


──今回の特集の見どころのひとつに、見える/見えない描写の違いが挙げられるかと思います。『カウンセラー』はいる筈のものが見えない。本作はいないものが見える。『フィクショナル』はそれが入り混じる形です。こうした描写は古今東西の映画のつくり手が様々なアイデアを練ってきました。監督は使い分けをどう考えられたでしょう。

たとえば『透明人間』は昔からずっと好きな映画キャラクターで、リブート版(2020/リー・ワネル)も大好きですが、アメリカ映画はサービスでちゃんと見せていきますよね。雨に濡れたり足跡などを残したり、と。モンスターはやっぱりいるんだと観客に思わせるための工夫を凝らしている。
僕の場合、見せ方に関しては予算的な都合も関係しますが、もうひとつ──これは僕らの変化球でもあると思っています──あくまで見せないことを選択することが多い。見えないものは見えない。それでいいじゃないかと。おっしゃったように、『フィクショナル』は見える/見えないがわからなくなっていて、本作は時折見えない筈のものが見える。それは主観をアリとするかどうかということなのかなって気がするんですよね。
『フィクショナル』は完全に主観を排して、見えている人を客観で見ていくスタイル。『カウンセラー』ではアケミが「あそこに見えるんです」と言う。そこでカメラがパンしても何も見えない。とはいえ、彼女の回想自体はおそらく主観的なイメージです。
本作の場合、主観ショットとして幻はちゃんと見えている。だから主観ショットって、結局見えるにしても見えないにしても、一個の説明になるところがあります。その意味で、本作は最もわかりやすく「こう見えているんですよ」と主観を示す感じでしょうか。馬鹿正直にやりました。

──ある幻を見るシーンでは塩ビ板を使われたとか。スクリーンの代わりに映像を投影されたのでしょうか。

カメラの死角になる位置からプロジェクターで当てました。でも、これがなかなか難しかったですね。あのカットは撮影終盤に撮ったものです。撮影前半は物語後半のワチャワチャしたやり取りや、外部の人間が登場する芝居パートをとにかく勢いに任せて撮る形だったため、撮影後半は態勢を一度立て直しました。物語はそのまま置いといて、ギミックで何か試そうと、そういうカットを後半に持っていったんです。そのなかで時間があったので、あの塩ビ板を使ったカットを撮りました。スクリーンプロセスの変形というか、透明なものに何か浮かび上がらせることなら出来るかなと思って。

Ⓒ2021 drunken Bird

──実験映画のようでもあります(笑)。

馬鹿々々しい画になりました(笑)。

──『フィクショナル』後半のグリーンバックに投影するシーンに近い馬鹿々々しさを感じます(笑)。先ほどお話しいただいた、団体の外部の人間が登場するシーンはワンシーン・ワンカットです。

本作には度々言っている「いい加減さ」が随所にあります。そこからの発見もひとつあって、それがワンカットでのシーンかもしれません。「ここはもうワンカットでいい」という。ワンカットでいける動線をつくれる位置を最初にかなり探る作業が必要ですが、それは結果、単にシーンを成立させるためであれば、直線距離がいちばん近いことになります。その意味では『フィクショナル』のエレベーターのシーンなどもそうで、本作なくしてはああいう撮り方をしなかったでしょうね。
だから僕の場合は、頑張ってギミック込みのワンカットで撮るというよりも、単にいい加減に「このシーンはワンカットでいいや」とやりがちです(笑)。それから、真面目に芝居を撮るときにワンカットでいっちゃえということが、一種の照れ隠しになっているのかもしれません。本作をつくったから、ようやくそういうことを出来るようになりました。

──外部の人間のセリフはどう書かれたのでしょう。映画をいったたん現実のほうへ引き戻す効果もあります。

あのシーンはダラダラと同じことを言っているだけですが、結構シナリオに思い入れがあるんです。2020年の年末からシナリオを書かなきゃいけなくなって、その時期は『カウンセラー』を撮ったあとでした。「コロナ禍にこういう映画はどうなんだ」みたいなことを言われる時期でもあった。自分でもそう思うところがあるわけですが(笑)、そういうふうに反省する自分もどうなのかという気がして。
カルト信者を狂信的な人たちと言っているけれど、本作や『カウンセラー』をつくっている自分たちも狂信的と言えなくはない。メタファーという訳ではないですが、自主映画も案外そうだよね、と、重ね合わせて自虐的に書きました。

Ⓒ2021 drunken Bird

──かなりキツいことも言っています(笑)。部外者のシーンはシナリオでもあの流れにありましたか?

シナリオどおりです。あそこはヨーコ(星谷実可子)のターンで、彼女の物語が続いて次のシーンで欲求みたいなものが現れて、また次の展開へ、という群像劇の流れがあったのでここしかないと考えていました。

──それを挟んだ3シーンで続けて同じセリフが語られます。今のお話を受けて考えると、意識的に書かれたものでしょうか。

僕のシナリオは、とてもセリフが平易です。大体「大丈夫?」とか「平気?」とか、そんなセリフを書く癖があります。これも、1つ目のセリフはそういった流れで手癖で書いたんだと思います。しかし、2つ目はそのセリフを揶揄される、そして3つ目は揶揄されたことで変化した彼女の心情を反応で表現するために使っています。

──あのシーンはそうしたセリフの効果もあってか、訴求力があるんですよね。

ちょっとした自虐を、開き直りとしてセリフに持ってくる癖もあるかもしれないですね。いま考えると、「学芸会みたいな格好しやがって」というセリフもどこか自主映画をイメージして書いています。『フィクショナル』冒頭のやり取りなども、割と開き直っていますよね。自虐によって開き直るという、質(たち)の悪い自分セラピーみたいなことをしているかもしれません(笑)。どの作品も、どこかで自分自身が「痛い」とか、ドキッとするセリフは必ず意識して入れるようにしています。

──そこからラストまではまさしく怒涛の展開です。スムーズに書けたでしょうか。群像劇を49分の尺で巧く束ねておられます。

当時の記憶がぼんやりしていますが、そこまできっちり決めずに、とりあえず書き進めて見えてきたものを繋げたのかもしれません。迷っている支部長が、最後はその迷いを取り払うような話を漠然と構想していたので、ぼんやりと輪郭は見えていたと思います。なんとなくああいうふうになりましたね。

──本作の魅力は言葉の説明が多いのに面白いところです。カオリ(工藤采佳)のモノローグのシーンも然り。何か面白味を与える秘訣はあるでしょうか。

それが一番悩ましくて、いまだに悩んでいるところですね。自分の作品は結構複雑な物語が多いですが、そうするとどうしても説明を必要とする局面が出てきます。ここ最近のアメリカ映画は冒頭10分くらいで柱を分けて、色々と主人公を説明することが多い。
でも僕たちの場合、そもそも柱を分けたくないから工夫しているのに、説明で柱を分けるのはもっと馬鹿らしい。だから説明部分はギミックでごまかして、観客を別の興味に引いておいて説明するという、騙すマジシャンみたいなアイデアをよく考えます。ただ、本作はもう半ば投げやりに、なんのギミックも用意せず、冒頭5分くらいのアヴァンタイトルはテロップを使った教義のCMで一度説明をダラダラと済ませることにしました。
少し発言が矛盾するかもしれませんが、シナリオを書くときは物語や流れの面白さなどを考えます。しかしそれを書き上げてワンシーンごとに撮っていく段階になると、そうした文面的な面白さもストーリーの説明・記号にしかすぎず、撮るのはつまらなくなるんです。そのため、アヴァンタイトルはもう全部単なる説明だと割り切って画面内でやってしまおう。それどころか内容についても、徹底的に説明している人を映すというのは、逆にちょっと面白いかもしれない、と。いい加減な方向に向かっていきました。思いっきり説明するという(笑)。

──説明に徹しているのに、教義に縁のない観客にはシュールな話にしか聞こえないという(笑)。それから本作には詩的なセリフがほぼ皆無ですね。

そうですね。論理しかないかもしれない(笑)。前半で会員たちが机を囲んで会議するシーンでは、論理的なやり取り──しかも僕たちが理解できない論理の話──を続けます。あそこは現場で役者陣も大笑いしてしまって、珍しくNGが出ました。

Ⓒ2021 drunken Bird

──本作でいいなと感じるのは、「ここで笑ってください」というコント的で露骨なウケ狙いがないところです。それでも何度も笑うのですが(笑)。

それは確かにないです。お金も払って観に来てくださる人には申し訳ないですが、「これが面白いかどうかわからないけど、まあいいだろう」とノリで書いた部分が結構あります。自分はプロのコメディアンにはなりきれません。
ただ、『カウンセラー』もそうでしたが、現場では「これは面白い」「笑えるぞ」とか思うんです。でも、出来上がってみると誰も笑ってくれない(笑)。やっぱり大衆を相手にできる作風ではない。僕自身は常にそう思っていて、何人かが楽しんでくれればいい。そういう気持ちでいますね。

 


──本作の自虐とナンセンスな面白さから連想したのが、中原昌也さんの小説です。中原さんもクリエイター然とした態度と無縁で、明らかにいい加減に書いている部分があるのに作品は素晴らしい。酒井監督にも似たものを感じます。

皆ある程度、自虐と屈折したプライド、自分なりのやり甲斐や誇りみたいなものの裏返しの感情があると思いますが、ちゃんと王道を進む人は、そこから最終的につくり手や観客をチアアップして「でもやっぱり何かをつくるのって素敵だよね」というふうに肯定的に創作に向かう。
だけど僕も含めた皮肉屋というか、そのタイプの人間の場合はそうもいかず、「こんなことをやっていたら駄目だけど許してくれ」と匙を投げる感じですよね(笑)。おそらくベースは同じなのでしょうが、そういうアウトプットのパターンもあって、僕はそのようなタイプかと思います。
それがさらに屈折すると、ラース・フォン・トリアーみたいになるのかなと。昔は彼の映画が苦手だったのが、最近は自分との近しさ──王道に行けない皮肉屋の屈折した感情──が見える気がして、ああいうアート志向はないけれど、ちょっとした親近感を覚えます。

──先ほど監督が「自分セラピー」という言葉を使っておられました。僕もトリアーは苦手でしたが、映画づくりを通してセルフケアをしていると思うと許容できるようになりました(笑)。

本当にその通りだと思います(笑)。愛らしさも感じますね。

──さて、『おもちゃを解放する』と今回の特集の3作では映画のスタイルがだいぶ変わっています。時間が経った影響もあるでしょうが、スタイルを変える契機はありましたか?

思い当たるところがふたつあって、ひとつは僕自身。もうひとつは環境ですね。環境の話からすると、本作はAFFの補助金、『カウンセラー』はクラウドファンディング、『フィクショナル』はちゃんと製作費が出て、と異なる予算の枠組みですが、このあたりの時期から嫌な撮影にするのをやめようという、ある種のプロフェッショナリズム……、というとちょっと大げさですね。アマチュアなりにきちんとしようと思うところがあって、それが一個の言い訳としても機能しています。個性や自分のやりたいことを画面に付けるという意味合いではなく、「限られた時間内だとここまでしかできないよね」と自分のなかの言い訳にすることによって、スムーズに撮影を進められていると感じます。
実際にはもうそこまで考えられない部分もある。でも考えずに済んでいるところもあって、それが『カウンセラー』以降『フィクショナル』にかけてどんどん加速しました。だから、今は監督の仕事はスタッフや俳優陣とのコミュニケーションにあると捉えています。『おもちゃ』の頃は、本当に自分の手でこねて映画をつくっているイメージがありましたが、今は人に委ねられることは委ねるつもりでざっくりと伝えていますね。
それで、もうひとつの僕自身の問題。これは環境の話にも関連しますが、配信動画でも少しお話ししたとおり、積極的に映画を観なくなった。『カウンセラー』の制作前から少しその傾向があったのが、つくり終えた直後あたりからガクッとペースが落ちました。最早ほぼ観ていなくて、お勧めがあればたまに、という程度です。それで、もう大抵の映画を面白いと思えない感じです。

──配信動画でも、本作について「何が面白いかわからないからシナリオを書けなかった」と語っておられます。

以前観ていた〈作家映画〉的な作品を観られなくなりましたね。それでも趣味でブレッソンなど、数人の映画は今も観ることができます。単に精神面、コロナ禍の影響か更年期障害か何か原因はわかりませんが、とにかくそういう感じです。
かつてはシネフィルであったり、作家的な方向に憧れがあったのが今は本当になくて。だから『おもちゃ』のような密度でつくることはもうできない気がしています。野心や情熱も含め、そこにあったものはある程度失われたけれど別のもの、スムーズにやり取りできる仲間との作業を基に映画をつくっていこうと思っています。

──解放された感覚でしょうか。

そうでしょうね。以前は本物的なものに対する憧れがありました。それが今は偽物の自分に諦めがついているというか、それでいいと思っています。映画の趣味も、面白いというよりは「つまらなくないもの」への興味がすごくあります。「つまらなくないもの」にするためにどういう工夫が成されているか。そこに関心が向かって、強烈に面白いものをつくってやるという野心がまったくありません。

──先ほども伺った部外者とヨーコのワンシーン・ワンカットは演技・演出やフレーミングもしっかりしています。それでも無駄な気負いを感じさせないというか……

「やってやるぞ」感がないですね(笑)。

──そこがいいですよね(笑)。「つまらなくないもの」とは「飽きさせない」と同義かもしれません。そのための工夫のひとつがカッティング。必要なところは間を残しつつ、カット尻をシャープに切って次のカットに繋いでいます。編集についても教えてください。

「感覚的な好み」といえばそれまでなのかもしれませんが、やはり人の興味を惹く、つまり「つまらなくない」ことの条件は、情報の「程よい足らなさ」だと思っているんです。十二分に説明されてから次のシーンにいくような映画は、とても退屈です。「ん?」と思っているあいだに次のシーンになり、「ああそういうことか」とようやくわかったあたりでまた次のシーンに行く。丁寧に説明するよりも、むしろ観客にちょっと追いかけてもらうことが重要だと思っていて、それをいつも目指しています。

──鋭くカットを刻むことで、場合によってはいきなり次のシーンの時間と場所へ跳んでいる。ラストカットも説明的になる前で切っておられます。こういう語りの速さも「つまらなくない」映画を生み出す要素だと思います。

つまらなかったら嫌だなと思いますが、数年前までそういう気持ちは特になかったんです。それも含めて自分の心理的な部分が変わって、同様に社会も変化してきたのを感じます。

──配信動画で、観客を啓蒙したり社会に警鐘を鳴らす有用な映画は撮りたくなかったとおっしゃっていますね。

「不要不急」という言葉がコロナ禍で広まり、余計にそこへ関心が向くようになりましたね。映画はそもそも無用な筈じゃないかという気がします。有用性こそが良しとされるならば嫌だなと。資本主義経済は当然そうでしょうが、 経済以外の部分にもその価値観が定着するのはキツいと感じますね。そういう意味で僕の映画は無用でいいと思っています。

──映画に意味や答えや知識、すなわち有用性を求める人もおられるでしょうが、自分が本作から得たものは「面白さ」のみでした。無用・無意味なジョークで大笑いして、免疫力が上がったかもしれません(笑)。

本作が描く〈気の力〉ですね(笑)。

──それです(笑)。『カウンセラー』『フィクショナル』、そして本作を一挙上映するのは今回が初めて。最後にこの特集に向けて一言お願いします。

単純に楽しんでもらえたら嬉しいですが……、どうなんでしょう(笑)。どれもいくらか毒気はあると思うので、「こういうの出てくる映画嫌だ」みたいな不安があったり、精神的余裕のない方にはお勧めはしません。
楽しめない作品があるかもしれないし、「こう観てほしい」という気持ちは正直なく、かといって「受け止め方は自由です」という優等生的な発想もなくて。3作の尺を合計しても161分。もし、そのなかで1本でも面白かったら許してください。たかが映画ですから。そういう気持ちです(笑)。

(2025年1月)
取材・文/吉野大地

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