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『遺愛』 酒井善三監督ロングインタビュー(後編)

(インタビュー前編)

『遺愛』は「呪い」の映画である。しかし呪いは必ずしも超自然現象ではない。本作では愛情の記憶と残響、重力や偶然といった人間には抗えない力そのものが、呪いとして立ち現れる。それも以下のインタビューで監督が語るように、観る者の理解があとから追いつく形で。この後編では「介護ホラー」というラベルでは捉えきれない現代の「B級娯楽映画」である本作の射程をお話しいただいた。
*作品の細部に触れる記述を含みます。

 


──本作では「感応精神病」もモチーフにしています。これについては、かなりリサーチされたのではないでしょうか。

共同脚本作『SHARING』(2014/篠崎誠)のシナリオはほとんど篠崎さんが書かれましたが、プロット段階までは僕もかなり関わっていました。その中で「虛偽記憶」などの症例を見つけたんです。当時はそこから心理学関連で色々調べては、面白いと思ったものをメモしていました。本作の肝の「感応精神病」も興味深く、それで取り入れてみました。
ただ、これはいろんなところで擦っていて、新興宗教にも繋がるから、『コロナvs信心』(2021)もなんとなくその辺りからシナリオを書いたし、その意味では10年以上前から興味のあるモチーフでした。
心理系のお仕事をされている松浦祐子さんは、よく自作にエキストラ的に出てもらっている方です。前作『フィクショナル』(2024)でもワンシーンに出ていただきました。その際に「『感応精神病』で参考になる事例や資料があれば教えてください」とお願いしました。それを教えていただき、シナリオに書き足していきました。

──物語が進み、そのモチーフが視覚化されていきます。効果として風を使っておられますが、使うポイントはどう決めたのでしょう。実家のシーンのように、スローモーションを組み合わせたパターンもあります。

あそこには明確な意図がありました。風なのか何か別の現象なのか、自然か超自然かわからないものが入ってきたことを曖昧にするために風が必要でした。
それから、いつの間にか戸が開いていることの説明としても重要だったんです。閉じ切っていた空間が、遂に〈何か〉に見つかってしまったという意味合いで戸を開けておく必要がある。あそこに関しては、そういう記号としての風ですね。

──食事のシーンの風はどうでしょうか。

あれも意味づけとしては同じです。〈何か〉に見つかってしまうという。だから、やはり記号的ではあるけど、あそこで窓が開いている画はあとで見せる必要がありました。佳奈(山下リオ)の見えない視線の先に、どうやら窓が開いていたらしい、と少しあとになって気づかせたかったので、風の音を強めに入れてから、実際に窓のある方向を写しました。
あの空間内にはカーテンなど揺れる物が無いため、視覚的に表現できないこともあり、佳奈の側に人工的な風を送っています。外との繋がりというか、外に何が居るかわからない。風をそういうものとして扱いました。

 


──実家が途中で大きく様変わりします。美術部とどのように具現化していきましたか?

シナリオ段階から、ホラー映画的な空間というのは、現代の観客が興醒めするだろうと思っていました。たとえば、いかにも超常現象が起きそうな、「多くの人形が吊るされた不気味な部屋」なんかを見せても、敢えて美術スタッフが頑張ってそうしていることを、もうみんな内心知っていて、それを思い出させてしまいます。今ではこうした怖がらせ方は、物語没入ではなく、「この人ホラーをよくわかっているよね」という作者が透けたメタ、愛好家向けの愛嬌のようになってしまうと思うんです。お化け屋敷的な楽しさはあっても、切迫した心理的恐怖にはならないのではないか、と。
一方、リアルな日常世界において、外から見ればホラー映画的で異様な空間を、何かしらの信念で、本気で手づくりしている人には少し怖さを感じます。そして、それなら低予算との相性も良い。そこから、佳奈がDIYで出来る範囲で光を入れないようにして〈何か〉からの視界を遮りつつ、熱に弱い母親(藤井京子)の中からそれを炙り出そうとする空間を着想しました。
今回の装飾を担当してくださった美術装飾の松井今日子さんには、そういう大雑把なイメージだけ伝えていました。僕が思い付いた小道具は新聞紙くらいで、「あとは何か良いアイデアがあればぜひ」と丸投げしていたんです。
その後、ロケハンに行く最中などに松井さんと話していると、「ここは熱源をいっぱい置いて炙ってみたらどうですか?」と提案してくださり、僕もそれは面白い、そうしましょうと賛成しました。ストーブなどを置いているのは松井さんのアイデアです。
それから「水も使ったほうがいい」と、棚の上に水盆を大量に並べてくれたのも松井さんです。現場では松井さんと宮﨑圭祐くん(共同脚本/編集/VFX)が、壁に蒸気によって湿った跡をつけていていました。それを見たほかのスタッフも、ノッて手形をつけたりして(笑)。そういうエスカレートも面白かったですね。

©︎2026「遺愛」製作委員会

──そこで佳奈が突然、奇抜なアクションを見せます。あれは何でしょう。

あのポーズ自体は実際にあるものです。江戸時代の頃からある「狐の窓」と呼ばれる、指で組んだフレームを覗いて相手が魔物どうかを見極める仕草らしいです。でも、それも後付けで、実際にはこの長いシーンで姉妹のコミュニケーションが断絶していることを、何らかの形で示そうと考えていました。
カサヴェテスの『こわれゆく女』(74)に、医師が家にやって来るシーンがあります。そこで、ジーナ・ローランズが両手の人差し指で十字を組みますよね。あのシーンを観たとき、同じ言葉で話していた者同士が今は通じ合えないんだと思った記憶があります。単純なジェスチャーですが、決定的な印象をもたらします。本作でも、姉妹がもう同じ世界にいないことを示さないといけないと考えました。
そんなことが頭にあったときに、ゲーム『ゴーストワイヤー・トーキョー』をプレイしていました。そこではキャラクターが両手の指で印(いん)を結んで戦う。呪術ならではの仕草で、こういうものを使って、『こわれゆく女』みたいな表現が出来ないかと調べて「狐の窓」でやってみようと決めました。

──呪術・民俗学とカサヴェテス、そして現代のゲームカルチャーが融合した最高のアクションだと思います。

撮影前、僕も「ここは絶対にインパクトのあるシーンになるぞ」と思い、帰って「宣伝ポイントとして使えると思います」と製作側に生意気にも伝えたんです。スチールを撮ったほうがいいんじゃないか、宣伝材料にも使えるのではないか、と。それが出来上がったら、あまり取材などで誰もあそこに触れてなくて……(笑)。インパクトがなかったみたいで残念です。

──身体ジェスチャーでフレームが二重化されるうえに、本作の異質さや「娯楽性」を圧縮した名アクションですが……(笑)。そして佳奈のノートを見ても、杏里(小川あん)と別世界にいることがわかりますね。

リアルでもそうなのでしょうが、やっぱり人間同士が通じ合わなくなったとき、特に書いたものには、その人の思考の痕跡が残ります。あのノートは説明のための道具ですが、宮﨑くん、松井さんと協力してつくりました。

──筆圧にもリアリティがあります。そして、この展開以降は「これは誰が見ているイメージなのか」という感覚が次第に前景化してきます。

そうですね。誰にもわからないと思います。観客は混乱しながらも、たぶん後追いで理解していくと思いますが。特に後半は「えっ?」という展開になったと思うし、そこは狙ってリアリティゾーンがさらに一段階崩れる設定にしました。それ自体は、前編でタイトルを挙げた『デッドゾーン』の変化球です、といえば「なるほど」と納得してもらえるかもしれません(笑)。
ただ、ああいうことをやると呪いの設定の説明などが複雑になり、文字で情報も出さないといけないので、あまりよくないなと思った部分もあります。「B級映画だからいいじゃないか」という、言い訳込みで割り切りました。

──「B級」というフレーズにマイナスイメージを持っている人がいるかもしれません。監督にとっての〈B級映画〉をお話しいただけますか?

B級映画と言うときに、「マニア受けするエキセントリックな作品」というニュアンスも現代ではあるわけですが、そうではなく、単純に低予算の娯楽映画のことを指したつもりです。
とはいっても、2本立てのプログラムピクチャー時代の低予算と、現代の我々では、予算の桁も人的資源も違い、スタジオも無いわけですから、比べるべくもありません。しかしながら、低予算であるからには、労働コストを最小に、短期間で撮るという状況は変わらない筈です。
僕は映画づくりの楽しさは、「実写でもってストーリーをつくる」などという矛盾を無理やり実践したときの失敗や、思いもよらない飛躍にあると思っています。特に低予算・早撮り体制では、それゆえに大胆な妥協や投げやりさを含めた工夫を迫られますが、結果、その影響が露骨に作品に反映されることも多い。
そのようないびつさが、映画を貧しくも、また豊かにする側面もあると思っているので、僕なりの一種のプライドを持って「B級」と名乗っています。かつてのB級映画がやってきたカッコいいことを僕らもやりたいよね、という。「B級」と言うのに自嘲的な気持ちがないわけではないけれど、自分なりの誇りでもあるんです。

──偶然や飛躍、いびつさも映画の魅力として引き受ける。本作の随所に監督が考える〈B級映画〉の楽しみが表れています。役者陣からいびつな構造について質問を受けることはあったでしょうか。

少しはあったと思います。 ただ、役者の方々もその辺りを理解してくださっていたのか、「結局どうなっているんですか」という問いはなかったですね。そこが肝だろうと思って訊かないようにされていたのかもしれないし、僕からも基本的には言いませんでした。
しかし、「この人物から見ればこうです」といった説明はしました。妹からすると、姉の話は信じ難い。「それは精神的なものの影響でしょう」というように。
佳奈については山下さんにお任せでしたが、1日だけあったリハの際に、母親を前にした姉妹の長いシーンの動きを少しやってみました。あそこは事前に決めておかないと、現場が少し難しくなるので。そこで山下さんに、「この映画のジャンルはホラーだけど、後半はスーパーヒーロー映画のエピソードゼロなんです。佳奈は自分の信念に忠実に行動しなければならない。マーベル映画の主人公みたいなスーパーヒーローです」とお伝えしました。 山下さんは「えっ?」と思われたかもしれませんが……。

 


──細部についてさらにお聞かせください。電車が走るカットでは音が移動します。どう処理されたのでしょう。

仕上げから時間が経っているため記憶が曖昧ですが、あそこは右のスピーカーから走行音が聞こえます。右から聞こえ始めて、サーッと左に音が移動します。

──ステレオ仕様でしょうか。

一応全編が5.1chなので、もしかするとあそこはリアスピーカーからも聞こるように仕上げたかもしれません。この音はカメラの位置に忠実にするかどうするか、随分迷ったところです。途中でカットを割っているため、そこで混乱しないよう、走行音が聞こえ始めるのは右後ろに設定した可能性もあります。
編集の時点で5.1chと決まっていたので、せっかくならいろいろ試して音も楽しんでみよう、今までステレオでやってきたことを5.1chで広げたらどうなるだろう。そういう関心からかなり実験しましたね。
モノローグも効果的に聞かせる手段を考えました。普通、セリフはセンタースピーカーから聞こえる。何か特別な理由がない限りはそれが鉄則です。でも本作のモノローグはセンターからでなく、サラウンドだけで出していたりする。だから、映画館だと不思議な聞こえ方がする筈です。センターが抜けて、後方などから声が響くので、不思議な定位感──声の位置と空間のずれ──が生まれると思います。

──監督の作品は、音だけでなく毎回「家」も面白い。熊谷(マキタスポーツ)の家の屋内は、人が住んでおられる空間でしょうか。映画にうってつけの階段があります。

実際に人が住まわれている、すごく良い邸宅です。とにかく広くて、お洒落なお家で撮影させてもらいました。あの階段も元から備わっていたし、いろんな空間があって面白かった。逆に家に見えなくなるといけないから、そのための工夫が必要でした。それでもやっぱりあの階段は良かったですね。

──本作には佳奈の正面カットがふたつあります。ここでの正面カットは、もうひとつとは別の意図を持っていないでしょうか。

川口諒太郎くんは色々とアイデアを出してくれるタイプのカメラマンです。あそこでは「変なことをやってみたい」と。その後の展開で佳奈の眼に変化が起きる。彼はそこと、この正面のカットを照応させたいと思ったようで、その2カットだけはカメラのレンズの前に虫眼鏡みたいなルーペを取り付けて、過剰な広角レンズのように歪ませて撮っています。

──いびつな構造に歪んだ画が加わり、それがシネスコで映えています。ともすると「やり過ぎ」になりかねないアイデアを採用する基準はありましたか?

「試してみていいですか?」と訊かれたら、「どうぞどうぞ」と答えていましたね(笑)。それこそやり過ぎ、意味づけし過ぎたカットになりそう場合、以前なら「やらない」と言っていたかもしれないことも、今回は意味づけや記号的な要素を多く取り入れているので、よほどの場合を除いて、思い付いたらやっておこうという姿勢で進めました。

──ほかにスタッフの提案を受けて取り入れたアイデアを教えてください。

『滑稽』(2023)『フィクショナル』に続いて、ヘアメイクは渋谷紗矢香さんですが、『フィクショナル』のときには頬の傷メイク、そして今回は手が爛れるメイクまで施していただいています。通常ヘアメイクさんがやってくださる範囲を超えて、頼りきりです。
今回の手の爛れも、撮影前から「こんな感じでしょうか?」などとトライとやり取りを重ねてくださって、山下さんのお芝居込みで滅茶苦茶痛そうに見える。ジャンル映画として、一段階ギアを入れるシーンとして成立した気がしています。

──あの爛れは観る側の身体感覚に直接響いて、映画のモードを変えます。照明に目を向けると、前半の階段のシーンなどのライティングは丹念につくり込まれています。

あの階段は、照明の西山竜弘さんがすごく苦労した筈です。というのもスペースがすごく狭い。どういう照明にするか、かなり考えて、枝で影を巧みにつくってくれました。本人も「大変だった」と言っていましたね。上からの灯りが意外に回って、のっぺりしていることもあり、それで苦労されたのだと思います。

──佳奈が杏里の家を訪ねるくだりで、彼女の顔にかかる影も西山さんのアイデアでしょうか。

あそこでも樹々の影をいい感じにつくってくれました。僕からそういう細かい注文をすることは無いので、川口・西山コンビで自発的に打ち合わせたか、もしくは西山さん自身がお考えになったアイデアでやってくれたのですが、時間が無いなかで、影をつくって不穏な雰囲気を出してくれました。
もともと序盤は何も起こらないシーンが続くと思っていました。シナリオ上、何も起きないところは、そのように技術部が工夫を凝らして補ってくれました。彼らの凄いところは、あくまでその場で芝居を見たうえで、即興的にそういうものを考えて実行するところで、その辺が先ほど言った、僕らの大事にしたいB級映画精神だと思っています。

──『フィクショナル』の劇場公開時インタビューで、「自分の個性を出すよりも、周りの意見を取り込んだ」とおっしゃっていました。その制作スタイルが継続・発展しているのを感じます。

岡安恵理子(瀬戸さおり)の服装をどうするか、一度衣装合わせをしたあとも、ずっと悩んでいました。僕のシナリオの問題ですが、あまり個性が見えないキャラクターばかりになってしまう気がして。彼女は建設業設定で、のちに解体業者になるキャラクターです。
僕の兄は、昔から解体の仕事をしています。すると、普段着もなんとなく雰囲気が作業着に近くなっていく印象がありました。職人の、日常の服装も作業着に近くなるというか、そういうことがあり得ると思っていて、それをヒントにスタイリストの栁和佳奈さんにお願いして。
そこで、改めてホン読みのときに、岡安の新衣装候補を持ってきてもらい決定しました。栁さんの用意してくれた衣裳姿を見て岡安のキャラクターがようやく掴めた気がして、僕にとってはとても思い入れのあるキャラクターになりました。

──嗜好品もわかるので、キャラクターが立っていますよね。彼女が不意にカメラのほうを見つめるカットがあり、妙な生々しさを覚えます。

あそこはゴミを捨てようとする描写で、「あのあたりにゴミ袋を見つけることにしましょう」と言ったポイントが、ちょうどカメラの向かい側だったからかもしれません。その直後に、主観ショットが待っている流れでカット割りをデザインしていたこともあります。それで川口くんが、その主観ショットに繋がるように逆算して正面気味にカメラを置いた。そういうカット構成になっています。

──それから監督の映画に重要な装置がエレベーターです。『フィクショナル』で封印された筈が、復活していて驚きました(笑)。

公開の際にインタビューしていただいた2024年11月は、ちょうど本作のシナリオを直している時期でした。宮﨑くんから受け取った初稿を元に書き進めている最中で、「もうエレベーターは卒業だ」と思って、そうお伝えしました。
「岡安が降りてこないエレベーターに焦れて、やむなく階段で上っていく」という展開はプロット時点から元々あって、故障していることにしようか、それとも……と考えているうちに「敢えてエレベーターを上階で止めている設定が一番よい!」と思い付き、ついついまた書いてしまい、制作部を困らせました。

──まだこの手があったのか、と思わされました。

エレベーターの活用はこれですべてやり尽くした気がしています(笑)。

 


──後半に杏里が電話を取るカットがあります。実はどう見ればいいのか少し迷いましたが、画面が伝える情報自体はシンプルですね。

あれは「知らせが届いた」カットですね。嬉しいことなのか、それとも悲しいことなのか、アクションだけではよくわからない。表現として成立させるには、もう少し別のアプローチがあるんじゃないかと思いましたが、そのあとわかるからいいか、ということにしました。

──先ほど伺ったとおり、ストーリーがここに進んだ頃にはリアリティゾーンが崩れ始めています。穿った見方をすると、このカットはそのあと起こることを先取りした画にも思えたのですが……。

それは思ってもみませんでした。単純に安否を確認したことを示すだけのイメージでしたが、その受け取り方もアリかもしれないですね。

──そして本作では物を落とすアクションが、物語のトリガーになっているように思います。前半の階段のシーンとクライマックスが対になっていると感じました。いかがでしょう。

そのふたつのシーンは明確に関連づけておらず、そこまで厳密にする意図はなかったですが、橋から物を落とすことにはかなりこだわりました。制作部の北村和希さんも必死になって探してくれましたが、「その撮影が可能なロケ地を見つけるのは難しい。道端で投げるようにしてくれないか」という提案もありました。
でも僕には、「ここは上下の動きがないと駄目だ」という最も強い思い入れがありました。投げるだけでは意味がない。上から落とすことに意味があるんだ、と。ああいうことが起きるとき、人間だけで運命的な出来事になるのはおかしい気がするんです。重力など、何らかの自然の力がそこに作用しないと運命が運命にならず、単なる人間のパズルで留まってしまう部分がある。
物を投げつけても、あの描写のようにはならなくて、実際に上から落とすからそうなる。そこに重力が加わっているという意味で。言い換えると、本人の作為や悪意があるのかどうかは曖昧だ、ということです。
それで考えると、母親がつくった人形が壊れるのも、そこに悪意が介在しているかどうかを曖昧にするために投げつけず、ただストンと落としています。でも、お話を聞くと確かに同じことをしていて、ぼんやり繋がるなと思いました。

©︎2026「遺愛」製作委員会

──「重力」という言葉は印象的です。このシーンでは象徴的な意味よりも「物が落ちる」「出来事が起きてしまう」感覚を大事にされたのでしょうか。

人間の意志そのものさえも、その作用の中で起きていると言えるような外部の力。空間、重力、時間、そういったこの世界を統べる物理的な前提というか、人間にはどうしようもない力。それと、一見独立しているかのように見える人間の意志が、歯車のように噛み合って起こる偶然を「運命」としてみたつもりです。

──冒頭の葬儀のシーンから「落下」の運動が反復します。しかし、シーンごとにその主体や意味合いが異なる。特にここでは、絶対的な主体を確定できないところが面白いと思います。それも含めてスケールが大きいですね。

あそこは唯一の盛り上がりどころというか、これまで出来なかったことを商業映画で絶対に実現させたいと思い、かなり無理と我儘を言って撮らせてもらいました。撮り切れたのは完全に制作部のおかげですね。あのロケーションで撮れるようにしてくれたのは、相当な困難だったと思います。

──ただ派手なだけでなく、エキストラの動きや編集のカッティングポイントまで、見どころが詰まっています。

スクリーンプロセスも久々に、なおかつかなり凝ったことをやりました。車を借りるのが難しく、劇用の車も無いため、協力してくださる方に貸していただきました。それに当然ながら傷をつけたり汚すわけにはいかないので、割れるガラスはCGで、リアガラス越しの風景と、全面の映り込みの風景は、事前に撮影した画をそれぞれプロジェクターで投射しています。
でも、今の車ってリアガラスにスモークフィルムを貼っていたり、着色ガラスが一般的なんですよね。スクリーンプロセスの背景も全部つくりましたが、リアルだと外の画はそれほど鮮明に見えない。撮影直前にそこに初めて気づいて、それはもう仕方ないという感じでした。
このあいだ、『ドールハウス』(25/矢口史靖)を観たら車の追いかけっこのシーンで、おそらくグリーンバックを使って、窓の外が抜けるように撮られていました。この場合はリアリズムよりも映画的なものを重視しています。僕たちは、リアリズムを追ったといえば聞こえは良いかもしれませんが……(笑)。しかし、もう少し考慮すべき部分でした。

──リアリズムを追うことで、逆に映画的な見え方との折り合いが難しくなるわけですね。さて、後半では同じカットがループしているように感じます。同一素材なのでしょうか。

同じカットをそのまま使っています。カット数を減らして使っているので、同じことが繰り返される。たとえば母親が起き上がるのも、後半序盤と最後で同じカットを使っています。「このシーンは3カットしか撮りません。そのうちの2カットを先に使って、残りの1カットはあとで使います」と、使い回すことを明確にシナリオに書いていました。

──その2カットは、前のシークエンスの最後のカットと「風つなぎ」といえる編集になっていないでしょうか。

どちらかといえば、佳奈と母を、外、つまり風によって結び付けているイメージがシナリオ上では強かったです。
これに関しては、病室のほうのカットは、当初は壁からパンするとは考えていませんでした。あれは実際の病院の病室で撮影しているのですが、そこでの西山さんたちがつくったライティング、その壁に落ちるカーテンの影が素晴らしく、「この影からパンしたい」と川口くんにお願いしました。
先ほど「技術部が、現場での芝居から即興的にアイデアを盛り込んでくれる」と言いました。僕のほうでも技術部のそうした工夫を見て、演出にダイレクトな影響を受けているところも多いんです。このカメラワークによって、風によって繋がっている印象が強まったと思います。

──カメラワークを元にして、あの効果が生まれていたんですね。熊谷の家のシーンはまとめて撮りましたか?

続けて撮っています。まず説得するシーンを撮って、じゃあ次は……と。撮影日は1日だけだから、一度に撮るしかない形でした。

──同一シチュエーションで、セリフを変えています。

反応自体を変えました。普段は取り繕った余裕を見せている人間も、本当に追い詰められたときは、それどころではなくなる。あのような危機に晒されたら、最初から取り乱すと思うんですよね。安全だから、ああいうふうに振舞っていられる。その対比を見せようと考えました。

──このシーンの最後でも、前編で伺った「嘘」の波の音が聞こえますね。

佳奈が手を握られた瞬間に鳴らしています。これはなかなか伝わらないでしょうけど……モノローグで語られる、むかし海で手を取って佳奈を助けた母のイメージとアクションを重ね合わせました。それで後半の手を握るシーンでも鳴らしているんです。

──音とイメージの絶妙な遠隔モンタージュです。佳奈と杏里が最後に言葉を交わすシーンでも波音を使って、家族劇の要素を引き締めています。

過去の家族像が象徴されるひとコマのところに、本来聞こえない波の音を入れました。あそこもメロドラマ調にしたつもりです。

──あの空間で使われる撮影技法のほとんどが切り返しですが、映り込みを使っています。

あそこは現場で直前までどうしようかと相談した結果、「映り込みで杏里が少し見えるから、観る側にも伝わるだろう」と判断しました。切り返しは撮らずに、これだけでいこう、と。机などは松井さんがつくってくれました。あとは照明で手前を明るく、奥を暗くすることで、あのように杏里が映るようにしてもらいました。

──切り返すと空間が分割されて、姉妹の関係性が少し異なって見えると思います。切り返さないことで、それまでに無いツーショットにもなっている。この画づくりについて教えていただけますか?

何か、その画面構図から気の利いたことを言えればいいのですが、僕はそういったコンテが先立っているような頭脳派作家などではなく、直感的で、おまけにセッカチな人間です。だからここも「これこれこういった意味があって」「この暗喩で」などの明確な意図や狙いからではなく、シンプルに「これで充分伝わるだろう」という現場での直感、と言えばそれまでではあります。
しかし、僕の意図などはどうでもよく、観た方がそこにいろんな意味を見出していただけるのであれば、それは嬉しいことであり、それこそがB級映画の精神、映画の美徳そのものだと思っています。前編でお話ししたように、僕の中では佳奈が主人公の話であると同時に、杏里もまた、バックストーリーのある主人公として思い入れがあります。
その意味で、佳奈とのやり取り、佳奈のリアクションが、結果として杏里のキャラクターをうっすらと感じさせるものであれば良い。撮影前からそう思っていました。撮影してみると、中盤あたりの杏里の家で彼女が佳奈を責めるシーンも、シナリオに「佳奈が涙を流す」などの感情の説明は一切書いておらず、小川さん演じる杏里の感情に、山下さん演じる佳奈がリアクションして、ああなりました。同様に最後のシーンも、シナリオに書いていたり、僕が感情を指示したわけでもありません。
小川さんが、押しとどめた感情が溢れる演技をしたことで、山下さんも反応し、影響し合っていました。ともかくおふたりが演じられるのを、僕は「え、こんなふうになるんだ!」と、楽しみながらただ眺めていただけなんです。結果、おふたりには、姉妹を単純な物語文脈を超えたキャラクターにしていただいたと深く感謝しています。
そのように、どう転ぶかわからないおふたりのやり取りをカットを割って撮ると、どうしても記号的に物語文脈をナゾッていってしまい、割り切れないキャラクターとしてのノイズが減ってしまう気がして抵抗があり、切り返したくなかった。そういった意味でもワンカットで撮る必要があったんです。

──物語に回収できない余剰を生かす判断ですね。その後のシーンのカメラワークは、どのように組み立てられたのでしょうか。

高い位置にドリーを乗せて、後退しながら少しティルトアップしました。ホラーだから安直に解決しない終わり方が必要だろう、と。

──観客はここで宙づり状態に置かれる。それに同期したカメラワークのようにも思いますが、続く展開はどう構想されたでしょう。

日本の低予算映画によくある〈日常系〉的なものを利用しようと考えました。何も無い平凡な、穏やかな日常の風景から始まって同じトーンで終わるけど、「そこに何かが見えそうだ」というふうに思ってもらえたらいいな、と。そういうサンドイッチ構造にしようと考えていました。
ラストカットの窓外の風景も、シナリオ上は「樹がグッとしなる」と書いてあります。でも、そういう表現が出来なかったので、一応1本の枝が最初から何かが乗っているように曲がっていて、最後にそれが飛び降りたように枝が戻るというふうにしましたが、あまりに綺麗にいかなかったため、ここも観客に気づいてもらえるかどうか(笑)。

──本作は認知モデルについての映画でもあります。枝の変化は、認知と集中力が試される(笑)。全体がシナリオで構造化されていたことがわかりましたが、こうしてお話を伺うと、映像と音によって面白さが大きく跳ね上がっていることも窺えます。

プロットまでは流れで、そこからシナリオに起こして、さらにそれをさらに映像・音響化する過程で、全体より細部に自分の重心がずれていいきます。全体のためにプロットは書くけれど、それ以降は「このシーンで飽きないようにするにはどうしたらいいだろう、このシーンに情報が足りていない気がするから何かやっておこう」と、付け足してはまた上乗せする形でつくっています。その結果、映画ならではの面白さが生まれている可能性があるかもしれないですね。

──撮影はいつ頃で、何日で撮られたのでしょうか。

去年の3月で、日数は12日です。だから『フィクショナル』プラス3日ほどですね。タイトなスケジュール感はあまり変わっていません。

──やはり早撮りですね。今回の撮影も『カウンセラー』以降の「1日8時間以内」ルールでしたか?

今回もそれに沿って撮りました。ただ、1日平均なので、厳密にいえば10時間くらいの日もあった筈です。百々保之くん(制作プロデューサー/整音)が記録していたところでは、全体では12日間で88時間だったようです。だから枠內には収まりました。

──早撮りでもクオリティが上がっている実感はあるでしょうか。

早撮りを言い訳にして、諦めどころを設けていると言うほうが正しいかもしれません。迷わないでいい理由になっている気がします。「早い割には面白い」と言ってもらえるように頑張ろうという気持ちでいます。

©︎2026「遺愛」製作委員会

──ポストプロダクションの時間はどれくらいあったのでしょう。

実質1ヶ月半くらいでした。今回は労働を分散させる意味で宮﨑くんに編集も担当してもらい、なおかつVFXやCGもすべて彼にお願いしました。だから大変だったかもしれないですね。
音も難しかったと思います。2週間くらいで仕上げないといけない状況もあり、いろいろ苦労した筈です。ただ、僕らの唯一の強みみたいなものがあるとすれば、同じチームでつくってきたことです。
ここ数年は毎回、音響効果は佐藤恵太さん、音楽担当は友人の吉川彰彦くんです。お互いの積み重ねてきた前提を元に話せるので、「大体こうだよね」「前回やっていない手法で実験してみようか」という程度のやり取りで済むため、この形が一番やりやすいかもしれません。
そういう意味で、僕らはもう低予算特化型のチームともいえる(笑)。それゆえに、新しいものが入って来づらい面もあるかもしれません。ただ、限られた予算ではこういうふうにつくるしかなくて。その中では、技術部と制作部がいちばん割を食っているというか、苦労しているとも思います。なんとか予算内でものにしようと取り組んでくれています。

 


──本作の劇場パンフレットに、監督と黒沢清さんとの対談が掲載されています。監督と黒沢さんの映画との違いは以前も話題に上りました。改めてその作品や著作に触れると、おふたりは似ていないという結論に至ります。

僕としては、近づきたくても大分違うだろうとは思います。〈黒沢清的〉と呼ばれているものは何だろうという問題は、これまでのインタビューでも少しお話ししましたが、今回は黒沢さん本人にお訊きました。
僕の映画は、〈黒沢清的〉だと繰り返し言われてきました。僕自身、黒沢さんの大ファンだし、最も影響を受けているから意識的・無意識的に真似ている、被っている要素があるのは当然だと思いつつも、〈黒沢清的〉と呼ばれるものが何なのかわからない。そこでご自身はどう思われますか、とお訊きしました。黒沢さんも「よくわからない」とおっしゃっていました。
そう呼ぶ人たちも、実は深く考えていないのではないでしょうか。不穏なものを〈黒沢清的〉だと言ったりしますよね。でも、それならジャック・ターナーや、古典の作家たちはどうなんだという気もします。〈鶴田法男的〉もあるべきじゃないのか、とか。
だから、それほど意味がある呼称ではないと思います。いわゆる〈Jホラー〉と呼ばれた名称と同様に、なんとなくそう呼ぶけど実は定義できない。あっさり人を殺さないホラーを、そういう括りにしている気がします。実際の黒沢清さんのフィルモグラフィーは、そのように単純ではなくずっと広く多様で職人的です。
僕は、これまで黒沢さんたちが取り組んでこられたことを裏切るくらい、ホラーに対して──これは意識的にですが──不誠実に向き合っています。「怖いものをいかに見せるか」「『見せない』という省略からどう逃げないか」という問題を先駆者たちは考えてきた。
でも僕は全力で逃げる。逃げ切った先に何があるのか知りたいという意味でも、僕の作品は王道に比べてずっとインスタントであり、そこは決定的に違います。

──さらに大きな違いはカメラと世界の在り方だと思います。

黒沢さんは、やっぱり〈外〉にカメラがあることを意識されているような印象を持っています。人物の外側にカメラがあって、それが映す決定的な客観的事実が連なっていく。「カメラの前で起こっていることは実際に起きたことだ」という考えのもとで、カメラという機械が客観的なものとして機能していると思うんです。
でも僕の場合は、そういう美学すらなくて、節操なく「もうここは主観ショットでいい」とか「誰の視線かわからない」で済ませてしまう。ましてや、「本当に起きたことかどうか定かではない。それでもやってしまおう」という発想からしても違うのかもしれません。

──特に本作からは黒沢さんとは逆に、あとから世界が生起するイメージを覚えます。〈黒沢清的〉とは90年代に現れた潮流を指していて、当時の感触と監督の作品群が与える印象が似ているだけのことかもしれませんね。ひとことでいえば、日本映画に新しい異物が置かれた。

「オルタナティヴ」という意味であれば光栄です。それから僕の場合は、百々くんなど商業映画の現場で活躍している映画美学校の同期生たちの中にいて、諦めかけたところからキャリアがスタートしました。『カウンセラー』も、「大きなことは出来ないから、可能な範囲で短編をつくります」とクラウドファンディングのページで宣言して撮って、それを起点に、ここまではひとつのものをゆっくりつくってきたような感覚です。
段々と仲間が増え、テレビ東京の大森時生さん(企画プロデューサー)との仕事も続いたことで、安っぽい和気あいあいとした団結ではなく、お互いの個性への敬意と程よい遠慮、そしてB級映画的な妥協を持って相互に影響し合う、面白いバランスのチームになってきたように個人的には思います。だからこそ、変に職業人的なプライドには逃げず、最初にあったヤケッぱちのマインドを──たとえ作風が変わっても──今後も捨ててはいけないと思っています。

(2026年5月)
取材・文/吉野大地

●6月19日(金)公開
映画『遺愛』公式サイト

●関連インタビュー
『カウンセラー』酒井善三監督・百々保之プロデューサーインタビュー
『カウンセラー』酒井善三監督インタビューPart2
『フィクショナル』酒井善三監督ロングインタビュー(前編)
『フィクショナル』酒井善三監督ロングインタビュー(後編)
『コロナvs信心』酒井善三監督ロングインタビュー

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