『竜宮の誘い』 山田純監督ロングインタビュー(後編)
インタビュー前編では監督の、映画というメディアの技法に信を寄せる姿勢が窺えた。それを積み重ねた結果として、本作独特の手触りが生まれている。後半ではさらにその思考と演出──フレーミング、語り過ぎないこと、扉のモチーフなどに焦点を合わせてみた。それらによって導き出された観客の想像を開くラストショットを、ぜひ神戸映画資料館のスクリーンでご覧いただきたい。監督が仕掛けたサスペンスは、物語を閉じても〈映画の外〉に続いてゆく。
Ⅰ
──サトウが夜の公園を歩くシーンがあります。スローモーションの効果で、画面からは水中にいるような重さを感じます。監督はどのようなイメージを持っておられたでしょう。
あのシーンで一番大事にしたかったのが非現実感でした。それこそおっしゃっていただいたように、水の中を潜っていくかのような重たい独特の空気感で、サトウの目を際立たせるように撮りたかった。他のシーンと比べても、あそこまでぶっ飛んだおかしなシーンはないと思います。それでもひときわ目を引くシーンにしないといけないと考えていました。
もちろんリアリスティックに描くこともできましたが、あえてそうではないファンタジックな方向性で、サトウがこれから墜ちていく深淵、やってはいけない倫理の向こう側をああいう形で描くことで、何か寓意的な要素を持たせられるのではないか。そこを狙いました。あとは色使いですね。鮮やかな黄色が持つ危うさという、色彩による表現も挑戦したいところでした。
──言われてみれば、あの黄色は象徴的な色になっていますね。ここは人物の配置や移動撮影など、細かい準備の多いシーンです。前編で伺った36テイクまでは行かずとも、相当な時間をかけられたのではないでしょうか。
それほどテイクを重ねませんでした。というのも、ロケ地が僻地とまではいかないけれど、簡単にフラッと行って帰れる場所ではなかったんです。それに多くの方に出演していただいたので、皆さんの終電時間の制限もあったりして。とにかく巻きで撮らないといけない状況で、テキパキと動いて撮り終えることが最優先事項でした。
そうした状況下で、リテイクを重ねることによって映画が完成しなくなるのがいちばん怖いので、もうバシバシと取捨選択しながら進めていきましたね。
──非現実感を増しているスワールボケは、ペッツヴァールなどのレンズを使用されましたか?
あの背景の婉曲は、ポストプロダクションで処理したんです。

──レンズであの効果を作り出そうとすると、撮影時間が伸びるでしょうから適切な判断ですね。サトウのファッションは、いつも無地の白いTシャツに黒系のボトムと非常にシンプルです。しかし、あのシーンを含む一日だけは柄物のシャツを着ています。何か理由があるでしょうか。
サトウにとってのお洒落ですね。彼なりに頑張った服です。
──いわば勝負着ですね(笑)。でもどこかずれていて、彼のキャラクターが服装からもわかる気がします。
やっぱり浮いていますよね(笑)。そういう塩梅で、サトウの人物像を演出したかった部分でもあります。
──公園のトンネルのフォルムとライティングもいいですね。
あれは昼間のシーンでも一度出てくるトンネルです。そのトンネルをくぐっていった先に、もうひとつ寓意的な空間がある。そこを越えた先で、黃色い服を着た人物を見つける。そうした深く入り込んでいくイメージを抱いていました。
──あのロケーションは実在する公園でしょうか。
そうです。撮影の裏話になりますが、あそこは一つの公園として繋がっているように見せています。ただ、トンネルと公園の実際の距離は少し離れている。それをトンネルで繋げて、一つの場所として構成しました。
──映画のマジックは、異なる空間を編集でそのように見せられることだと思っています。プラントのような施設のシーンがありますが、あそこも外と中は別々の空間ですか?
外観は相模原方面で撮影しました。ただ、あの施設は撮影で中に入るのが難しくて交渉が難航したところでした。「外からだけなら」とOKをいただいたので、外観はそこで撮影して、中のシーンは長野県の安曇野市まで行きました。そちらでは中で撮影しても大丈夫というところがあったので、長野まで日帰りで行って撮影してきました。
──あの施設も同じ場所にしか見えなくて、お話を聞くと無暗に感動します(笑)。さて、画面からもお話からも、ショットの機能をとても大事にされていることが伝わります。ショットを撮って繋ぐことで「見せる」のと同時に、「何を見せないか」という問題も発生するかと思います。その点はどう判断されたでしょう。
そこは自分でも悩みながら作っていたところです。やっぱりいちばん大きかったのは、「物語の起伏」ですね。緩急があって「急」が来たときに、次にどうやってそれをリフレッシュさせるか。そこにどんなシーンを当て込めばいいか。ここからヒートアップしていくぞという場合には、不要でも丹念にショットを重ねて、テンションを上げていくようにしました。
起伏の構成には二通りの考え方があって、ひとつは音楽的な組み立てです。もうひとつは、サトウの心情をなるべく説明しないために、削いだ部分がかなりありました。彼がいろいろ買ってきて部屋を掃除する一連のシーンは、時間をだいぶ跳ばして繋げています。あそこはショット単位でも、そこに含まれる情報を少なくして、何をやっているのかは見えても、具体的にそれらが何に繋がるのかまでは見せきらない。そのようにフレーミングのレベルでも情報量を減らして、観客の興味を搔き立てる工夫をしました。空間的なフレーミングと時間的な省略で「見せない」ようにする。その二つの技法で観客に与える情報を、シーンによっては少なくすることを心がけました。そういう局面で無駄にショットの数を割く必要はないという判断ですね。
──情報を切り詰めたショットで印象的なのが、現金を受け渡す手、そしてグラスを受け渡す手の画です。この二つのショットは反復を意図して撮られたのでしょうか。
直接的な関係はあまり持たせてなくて、単純にいえば手の描写の掛け合わせですが、そうなったのは、人と人が関わるときの物理的な部分の動きが好きだからでしょうね。水の入ったグラスを渡すショットは、自分でもすごく気に入っています。
ほぼ完全に無音に近い環境で、グラスの受け渡しだけがある。あれはすごく映画的ですよね。そのあとには、引き気味のツーショットが入って、そこにインパクトがガツンと来る構成です。だから、あの画は映画的なショットであるのと同時に、前後のショットとのメリハリを大事にして撮りました。メリハリと緊張感のある演出の中に、クロップしたショットを挟む形です。
現金の受け渡しのショットは……、あれをやりたかったのはなぜでしょうね。ひょっとすると、『ラルジャン』(83/ロベール・ブレッソン)のイメージがあったのかもしれません。

──僕もそれを考えていました。現金をバッグから取り出した手のショットは、『白夜』(71)の夜のシーンも思い出すし、駅のシーンなどでも手を〈断片〉として撮っておられます。単独のショットと前後や全体との関係はブレッソンと異なるかもしれませんが、本作では山田監督流の断片化がおこなわれていると感じます。
ブレッソンの映画は美しいですよね。画の切り取り方もそうですし、省略という部分でも。そういうところにフォーカスを当てるだけで、その瞬間に生まれる緊張感がある気がします。ある状況をざっくり全体的に表すより、断片にフォーカスを当てた時に立ち現れるもの。そこに言葉にしづらい魅力があります。
僕が最初にそうしたブレッソンらしさに触れたのは、彼の影響を受けたミヒャエル・ハネケの初期作品などを介してでした。初めて観たときは衝撃的で、だいぶ影響を受けました。『ラルジャン』に斧を振りかざすシーンがありますよね。あのアクションを真似ようかと一瞬思ったんですが、ちょっとやり過ぎだろうと思って止めました(笑)。
Ⅱ
──前編ではサトウの役づくりについて伺いました。他の俳優陣に対しては、シナリオ以外にキャラクター像や人物設定を共有する資料を作っておられましたか?
設定資料に近いものがあるにはあったのですが、確か共有しなかったですね。作品に表だって出てこない裏の部分は、できるだけ口頭で伝えるようにしました。厳密にいえば口頭で、というより、お互いに探り当てていくような感じでしたね。俳優さんとキャラクター像を作り上げていく中で模索しました。
だから、あまり事前に固定しませんでした。それぞれの俳優さんのやり方もありますし、最終的に演じるのは生身の人間なので、その人に根差したものをふんだんに使っていただきたかったからです。あえて宙ぶらりんの状態のまま残しておいて、リハーサルを重ねる中で馴染ませて作り込んでいく。そういう方法を採ったので、最初から設定だけバーンと投げることはしませんでした。
──そうした演出法や「見せないこと」と関連するかもしれませんが、たとえば先ほどお話しいただいたプラントのような施設にいる人物設定には曖昧さがあります。監督の中ではきっちり決まっていたのでしょうか。
ある程度は決めていました。しかし、がっちりと固めてはいなかったですね。決めていた部分は俳優さんたちにお伝えしました。
あの施設の二人の関係性や、彼らと闇バイトのコンビの関係性は、会話ベースで伝えてテキストなどは渡しませんでした。〈館の女たち〉についてもそうで、「こういう事情で、この人たちはここにいる」程度のことだけ伝えていました。
──その〈館の女たち〉が眠っている奇妙な描写があります。着想源を教えてください。
あそこは、別に起きていてもいいシーンではあります。ただ、少し見えづらいですが、テーブルの上には、食べた痕がある大きなアイスクリームの箱と飲みかけのコーラが大量にある。それは本当に些細な、ちょっとした美術として置きました。外では騒がしく蝉が鳴いていて、暑い夏の日の昼下がりのひとときといった雰囲気です。
女たちはあの館で何かをし終えて、ちょっと休憩してうたた寝している。そんな緩いムードの空間を演出することで、彼女たちに対して「あれ? 今まで何をしていた人たちなんだろう」という興味を湧かせられるかもしれない。彼女たちがそこにいる、それまでの因果というか、過ごしてきた時間の蓄積みたいなものを、眠っているアクションひとつで示せるかなと思ってあのようにしてみました。
緩やかに流れる時間と、そこで実際におこなわれていることのギャップも意識しつつ、少しおかしな空間を演出してみたかったんです。

──緩急でいう「緩」にあたるシーンですが、サスペンスは持続しています。このシーンではカメラが少しズームアップするなどして、車のバックドアに観客の意識が向かうように演出されています。
あそこは、サトウがある行動を取ろうとした瞬間に電話がかかってきて、「急いで行け」と指示されたあと、ローアングルで彼を捉えたショットから女たちの館へ車で入ってくるという繋ぎです。その後のバックドアにこだわったのは、「そこに何かが入っているのではないのか」と意識して、観る人に少しドキドキハラハラしてもらおうという演出です。
──視線の誘導ですね。
そうです。「ここに注目してください」という。先行するショットの流れから、「何か入っているかもしれないですよ」と示唆しています。
──そして最も曖昧さを感じるキャラクターが、写真でのみ登場するサトウの母親です。母との過去や、バックグラウンドはどの程度つくっておられたのでしょうか。
母親のバックグラウンドは、最も細かく作っていた設定かもしれません。別バージョンのプロットでは、もっと深く母とサトウの関係を書いていました。しかし、それをバッサリ切って、最終的には描かずに匂わせる程度で終わらせる形にしました。語りすぎることでわかった気になってしまう怖さもあって、あの程度にしましたが、要はサトウとの母の距離感ですね。
本作はサトウの一人称に近い映画ではあるけれど、カメラはそこまでずっと彼に付き添っているわけじゃなく、「彼の友達」くらいのポジションにあります。リビングと別室で作業したりするときには、サトウと距離を置いているし、要所で近くまで行かない距離感を設けています。サトウにすごく近い視点で描いていても、100パーセント彼のものではないし、內面が見えるような描き方といっても、そこにちょっと距離を置いて描いています。その意味で、説明しすぎないことを撮り方でも意識していたし、それに沿って母親との関係性も最終的にぼかす方向にしました。

Ⅲ
──サトウが鍵をかけるショットを積み重ねています。ところが後半でうっかりかけ忘れる。言葉にすると単純ですが、そこで緊張感が一気に高まります。この演出についてもお聞かせください。
現実でも鍵をかけ忘れたときって、そこで暮らしている人にとっては一目瞭然です。それでも鍵の形状は色々あるし、縦橫でかける方向が違ったりする。だから、駅のトイレなどの鍵も撮っていたし、サトウの家に限っても鍵を丹念に撮って積み重ねておくことで、あそこで鍵がかかっていないことを視覚的にも観客に伝えないといけない。そう思って、前半から鍵のショットを要所に入れるようにしました。
そして鍵はドアとセットなので、そこの行き来ですよね。ドアを開けてその先へ行く、あるいは行かずに閉めるというモチーフも、全編に渡り貫き通しました。そのモチーフは、最後まで一貫してあるもので、ひとつのギミックとして鍵とドアに気を配り、繰り返し使ってみました。
──開閉は『浦島太郎』の決定的なアクションでもあります。今回、お話を伺うまでは『浦島太郎』ありきで、「開ける」アクションを設計されたのかと思っていました。でも順序が逆だと聞いて驚きました。とても巧く接続されましたね。
ストーリーの形が完成に近づいた段階で、『浦島太郎』のモチーフを使えることに気づいて、そこは割とスムーズにいった感じです。浦島太郎のモチーフを思い付いてから追加したところはほぼないんです。
──ストーリーは着地点を定めるが難しかったと思います。そこを「開ける」アクションと見事に繋げておられる。あのアイデアはどのように生まれたのでしょう。
最後、あの人物の見てみたい未来が二つありました。一つはドアを開けずに、理性的な判断を下して距離を置いて去る。もう一切関わらないという像です。もう一つは、何か危険な匂いを察知して逆の行動を取る。その二つを見たいけど、どうしたらいいだろうと考えた時に、「それなら両方やればいい」と思い立ちました。一回去ったあとに思い直す。そのように考えて決めました。
あの演出の元は、昔の映画やドラマで最後の戦いに向かう主人公やヤクザ者に対して、その恋人や配偶者にあたる人物が止めようとして一悶着するという、よくある展開です。
そういうシチュエーションで「このわからずや!」と言うだけ言って、最後は「でもあんたは行くんでしょう」とスルッと反転して、結局主人公は出て行く。そういう作劇のテクニックがありますよね。それが頭の片隅にあって、反発する二つの気持ちや葛藤を、一人の演技で自在に操ることができるんだ、と。ラストはあの展開からヒントを得ています。
──二つの相反する感情を、同一構図で撮ることで引き立たせています。ラストを観て思ったのが、「人はある状況下で予期せぬ選択を取ってしまう」。他にもそのような描写があり、それが本作の駆動力になっていないでしょうか。
そうですね。僕自身、そういう選択をしがちな人間だという部分があるかもしれません。ちょっとした思い付きでやってみることがあります。それは本作のような危ないことをするという意味ではなく(笑)。
そして、大きな理由もなく少し反抗してみたりとか。そういうところに人間味を感じるので、その要素は物語にあって然るべきで、なければ人間である必要がないという気もします。リアル寄りにはなるでしょうけど、やはり人って僕らの思い通りに動いてくれないんだというところを組み込んで、ストーリーを設計していきました。
──冒頭とラスト近くを円環構造状に響き合わせた構成からは、人間の負の欲望の連鎖を描いているようにも思います。いかがでしょう。
完全にループさせるつもりはありませんでしたが、「人間の業は終わりなきものである」という意味で、暗喩ではないけれど、含みを持たせたくて初めと終わりを同じような形にしてみました。
──そしてサトウにとっては、ある種の未完を描いた物語とも言えそうですね。その分岐は、どう考えられたでしょうか。
自分では、あれが作品にマッチしていていいかなと思っています。実現させてもよかったけれど、そこで起こる気持ち悪さと実現させずに終わる後悔を比べると、後悔のほうがカタルシスが大きいと思い、そちらを選びました。
──最後に音響についてお聞かせください。本作は5.1ch仕様です。これには予算も時間もかかります。物語には音楽的な抑揚があり、音楽自体も凝っている。そこからの仕上げはハードルの高い作業だったと思います。
本当に大変でした。シアター用の音響設計は、自宅で配信やテレビで映画を観る音響のバランスと異なります。実は仕上げに入る段階で、そのシアター用のバランス設定ができていなかったんです。
本作を劇場公開するにあたり、バランスとサウンドデザイン全体という音の構成要素を一から見直そうと思ったし、劇場で上映するのであれば、そこが備える音響設備である5.1chを活かして、より臨場感や沒入感を高めようと。その三点が重要でした。劇場用の音のダイナミクスを作り上げる作業は大変でしたが、間違いなくやってよかったと思えました。
やっぱり劇場が大きいと、どこから音が聞こえてくるか、はっきりとわかるんですよね。家庭だと正面、イヤホンならそこからしか聞こえない。それがシアターという大きな空間だと、たとえばステレオでLRしかなければ音が出るのは左右のスピーカーからで、観客との位置関係で音が反響したり音量・音像が変化するなどして、自分が意図した聞こえ方と違うものになってしまうことがあります。5.1chでシアター対応にするべく最初から作り直すことは、劇場体験として本作を屆けるうえでの必須条件でした。その有無によって映画への沒入感がだいぶ変わってきますし、やはり観客の臨場感や沒入感は、基本的には画より音が影響します。
だから編集も、画より音に時間をかけたし、それは結果として作品体験の質にダイレクトに関わってきます。箱の大きさにもよるでしょうが、小さめのスクリーンであればステレオでも十分いけます。ただ、数百席ある劇場だと5.1chでないと聞いて没入できる映画になってこないので、苦心して仕上げた5.1chで本作を広げていきたいと思っています。*注
(2026年7月)
取材・文/吉野大地
*注 神戸映画資料館での上映はドルビーSRです。何卒ご了承ください。
