神戸映画資料館

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『カウンセラー』 酒井善三監督インタビューPart2

1月に神戸映画資料館で上映された酒井善三監督の短編サイコスリラー『カウンセラー』(2021)が東京・ユーロスペースでアンコール上映中だ。心理相談室を突然訪れた女が切り出したエキセントリックな話は虚と実、主体と客体、記憶と妄想の境界を溶かし始め、耳を傾けるカウンセラーの精神をも侵食してゆく──。上映当日、資料館に来館された監督と言葉を交わすうちに話は白熱し、急遽インタビュー続編の収録となった。
 
*ぜひ前編とあわせてお読みください。

──本作の語り手が誰かと考えると、一見アケミ(西山真来)がその役を担っているように思えますが、ラストには倉田(鈴木睦海)のオフのナレーションが入る。さらにカメラワークはほぼ全編が主観ではないし、純粋な客観とも言い切れない。つまり話者が3人いるように感じます。意図的にそうされたのでしょうか。

映画には主観・見た目ショットがあります。でも、カメラがそこにあるとすれば、それも含めてすべて客観とも言えますよね。不思議なのは、客観的に撮られている筈の映画を、観客は主観的な感情で読み取ることです。以前からそのはざまに興味を持っていました。クロード・シャブロルが自作を「ヒッチコック的」と言われたときに「僕の映画は客観だ」と反論した逸話を聞いたことがあります。「ヒッチコック作品のモチーフの多くはキャラクターの〈疑い〉などの主観だけど、僕の映画は客観的に事件を見ている。むしろフリッツ・ラング的だ」と。実際の発言は少し違っていたかもしれませんが、勝手な解釈を通して妙に腑に落ちた記憶があります。
僕も撮るときは客観的・即物的に「これが写る」と考えるタイプです。ただ、今回は物語上で現実に起きていることと、感情のあいだを狙いました。主観か客観かを問えば、カメラが存在することで当然後者になるけど、その部分を曖昧にしていこうと。それが指摘された「3人の話者」につながっていると思います。僕のなかでも「ここまでは誰/ここからは誰」といった区切りの無い、主観であり客観である不確かな視点にしたかった。物語の締め括りとして「こういうことでした」とナレーションを入れましたが、それも本当なのかと思えるつくりを目指しました。

──視点の構想は川口諒太郎さん(撮影)と事前に共有しておられたのでしょうか。

基本的に、撮影直前までコンテをつくらないようにしていました。唯一、エロティックなシーンだけは現場で迷いたくなかったし、キャスト・スタッフに負担をかけてもいけないので厳密に固めていましたが、それ以外に「必ず撮ろう」と決めていたものを除けば、その場で川口くんと話し合って決めて撮る形でしたね。伝わりづらいかもかもしれませんが、撮影には「伝言ゲーム」に似た面白さがあると思っています。僕のイメージをその通りに実現してもらうのではなく、その場の演技を見たうえでカット割りの意図を伝え、さらにカメラマンが解釈して意図を載せて撮ってもらえば、誰のものでもない拡がりが生まれる。その意味でもシナリオには極力コンテを書き込まないし、漠然と「こんな感じで」と事前に言うことはあっても、「この角度からこう撮ってくれ」と細かく指示することはほとんど無かったです。

──前回の取材でお好きな作品としてタイトルが挙がった『検察官(「レイプ殺人事件」改題)』(1981/クロード・ミレール)は、黒沢清さんが『CURE』(1997)をつくるときに参照された作品ですね。80年代生まれの監督は、Jホラーブームから受けた影響が大きいのでは?

僕は1985年生まれなので、それより少し遅い世代ですね。とはいえ90年代後半の映画に多大な影響を受けたのは事実で、中高生の頃に黒沢さんや北野武さんの作品を夢中で見ました。いま思えば、ホラーやヴァイオレンス作品に新しい波が起こり、Jホラーや三池崇史さんのVシネマに注目が集まった時期ですね。当時はそんな気運はまったく意識しておらず、観客として純粋に作品を消化していた。それでも劇映画をつくるうえで、あの頃の黒沢さんや北野さんたちからの影響はヒッチコックと同じくらい強く残っています。だけど、映画をつくるときに「Jホラーを」と具体的に意識することはないですね。

──黒沢さんも「画面に写っているものは存在する」という意味で即物的な映画作家です。でも監督の即物性は、黒沢さんのそれとは少し異なる気がします。

違うでしょうね。その違いは画面の広さに関係しているかもしれません。感覚的な話ですが、黒沢さんの映画では出来事が唐突に起こる。「あ、起きちゃった」とでもいうような唐突さです。たとえば大好きな『降霊』(1999)では、逃げる男の頭上に工事用の鉄骨が崩れて落ちてくるカットがあります。引いた、一見そっけないほど広い画のまま大きな出来事が起きる。僕の場合はもう少し意味づけのために寄ったカットが多い。それが映画を主観よりにしている気もします。

──本作は室内劇ということもあり、黒沢さんのような空間処理ではないですね。次に、アケミと倉田の人物造形に関して教えてください。倉田は、映画では描かれないバックストーリーもつくられています。

僕は人物へのこだわりがまったく無いんです。それは自分でも結論づけている。シナリオを書く際の傾向にプロット先行と、人物先行で人を深堀りしていくタイプがあるとすれば、僕は断然プロット派です。人物の経歴まで細かく書き込む人もいますが、普段の僕はまったくその作業をしません。シナリオで重要なのは状況や立場だと考えていて、あとは役者と話し合ってみないと人物、もっといえば「人間」のことなんてわかりっこないと思っています。わかったふりをしてドラマを描きたくない思いもあって、そこはアバウトにして「人間はわからない」というところから出発します。
それから僕は、映画美学校の脚本コースでティーチングアシスタントを3年ほどつとめました。──ちなみにその講師は高橋洋さんだったので、その点でもJホラーとのつながりがありますね。高橋さんにも影響を受けていると思います──そのなかで、あるゲスト講師から、日本と海外のシナリオの違いを聞く機会がありました。「たとえばロシアなどではシナリオとは別に、一冊の本を渡すくらい人物をつくり込むらしい」と聞きました。フランスも書き込みがすごいそうです。それに比べると日本はあっさりしていて、シナリオの書き方は国によって一様ではない。そうした違いも興味深くて。しかし本作で最初に考えていたのは、さっきお話ししたようにぼんやりした人物の方向性だけでした。
そこで、他国の事情を思い出して、試しにちょっとやってみようかなと思いました。だからバックストーリーはリハーサルをおこなう前後の段階でつくったものです。ロケ地が決まるまでは序盤の手を洗うシーンも無く、その頃はちょうどコロナウィルスが社会問題化してきた時期でもあったので、「潔癖」のワードが思い浮かんで物語と結び付いた。そこから倉田のバックストーリーを書いて、鈴木さんに送ってイメージを伝えました。だから、やはり出発点は人物でなく状況ですね。人物像はあとから付け足していきました。それによって人物の曖昧性も高まったと思います。
鈴木さんが「倉田の受けの芝居が難しい」とおっしゃったのも、バックストーリーを書いた理由のひとつです。西山さんにはいまだに見せていません。「そんなのがあるなら見たい」と言われるほどです(笑)。アケミのバックストーリーは一切書きませんでした。しかし、西山さんが面白がってくれたのもそこだった気がします。つまり、アケミはいくつかの要素や背景が直線的に結ばれて出来たキャラクターではない。むしろそれが西山さんにしっくり来たようで、僕もそうであればいいと思っていました。
西山さんは、人物をしっかりつくり上げて撮影に臨める俳優です。でも今回は「必ずしも内面を考えてからアクションとして外に出すのではなく、外から考えましょう」と提案しました。アケミの思考に基づいたセリフじゃなく、とりあえず言ってみる。仮にそれがセリフの流れのうえで腑に落ちなくても、何か人物にフィットする瞬間がある筈で、それを撮りましょうと。外側から人物を考えて、結果的に理解できないキャラクターになったとしても、スクリーンに写ったときに妙なリアルがあればそれでいい。人間ってそういうものかなと。西山さんもそこに乗ってくださり、リハーサルでも現場でもとても冷静に──化学実験的に──アイデアを出してもらい、話し合えました。

──本作は「撮影時間は8時間以内」ルールを設けていましたね。限定された時間で、そのようなキャラクターを撮るのは難しかったのではないでしょうか。

そのためにもリハーサルを重ねていたし、それに本作では撮影時間が限られていたのがよい方向へ転んだ部分もありました。お伝えした通り、西山さんは固めると濃い芝居をこなせるタイプのようです。それならば最初のテイクのほうがアケミの曖昧さが出やすい。川口くんにも「切り返しは原則、アケミからいきましょう」と伝えました。基本的な撮影は段取り、テスト、本番という流れで、テスト後にさらに少し提案したりもして、それから鈴木さんのリアクションを撮っていきました。西山さんと鈴木さんの演技の資質が違っていたのもラッキーで、「これなら短時間でも撮れる」と確信しました。

──鈴木さんの持っている資質についてもお聞かせください。

あくまで僕が本作で覚えた感覚ですが、鈴木さんは映画美学校アクターズコースの出身です。それが関係しているのかどうかわかりませんが、役柄に自分を載せず、ドライに演じることに慣れている印象があります。型にはまらず、一定のラインを踏み外さない。西山さんは真逆ですね。初めてお会いした時点で、そのアンバランスが面白いと感じました。鈴木さんには撮影前に「ジャンル映画はある程度、型の芝居でなければ撮れないと思っています」と話した記憶もあります。「強めの芝居」で西山さんに寄っていってほしいと。西山さんには人物を外から考えることで、自分のベクトルにすっきりはめない芝居をしてもらう。ふたりの中間地点にあるものが、この映画には合う気がしました。

──おふたりと監督の中間にあるものも、キャラクターに反映されたかと思います。それから人物、特に倉田は身体を断片的に撮っておられますね。全身を写す、安定したショットがほとんどありません。

特に設定説明となる序盤で、それを意識しました。たとえば、正面から一目で人物全体を把握できる紹介的な撮り方はしない。やり過ぎると勿体ぶっているようになるけど、今回はそういう画がいいだろうと何となく思ったのが一因です。あとは『フレンチアルプスで起きたこと』(2014/リューベン・オストルンド)の影響があったかもしれないですね。あの作品も「こういう人です」と示すショットが前半に無い。なおかつ、足元など断片だけを写すわけでもない。そういう撮影面での曖昧さも、最初に指摘していただいた話者=視点の曖昧さにつながっているかもしれません。面白い映画って、観客が「わかった」、あるいは「わからない」と消化しきる寸前で次のシーンに移ると思うんです。だから観客はあと乗りになるけど、それが映画のリズムを生んでゆく。そのために情報があっても、説明としてすぐに提示しないことも必要だと考えました。

──対照的に、俯瞰で撮ったアケミのフルショットがあります。最も安心して見られる画ではないでしょうか。束の間の安心ですが(笑)。

先ほどお話ししたように、厳密な画角については、僕より川口君によるところが大きいです。ただ、本作はシネマスコープで、僕には初めてのサイズでした。すると、どうやっても切れてしまう(笑)。上下がフレームに収まらないんですよね。かつてのスタジオシステムでは、美術もしっかりして画面に収める工夫がなされていたけど、逆に今は入らないことが面白いだろう。その意見を共有していました。横に長いのではなく、縦が短いという発想ですね(笑)。
でも、僕は基本的に現場でモニターを見ません。メイクの久津見綾音さん用にモニターが必要で、スタッフから頼まれればそれをのぞく程度でした。だから、ほとんどの画はさっきの伝言ゲームの喩えのようにざっくりとイメージを伝えて、川口くんの感覚・判断に基づくポジションで撮ってくれたものです。

──エレベーターで撮ったシーンがあります。過去作でもエレベーターを使っておられましたが、何か理由があるのでしょうか。

乗っているときに人がどこを見ているか? そこに関心があるんだと思います。急ぎながら階数を見ている人がいれば、漠然と一点を見つめる人もいる。あるものを見たいけど、目を逸らすために別のどこかを見ている人もいますね。エレベーターは、そのような視線劇ができる空間です。古典映画、たとえばエルンスト・ルビッチの作品は視線を追うだけでも十分楽しめる。『ウィンダミア夫人の扇』(1925)であったり、かつてのアメリカ映画は競馬場など、広い空間の引きの画でそれをやっていましたが、僕らの制作規模でそんな場所は当然無理なので、使いやすく、視線を使った描写が可能な場所を考えるとエレベーターになる。同時に、僕たちの映画はサスペンスが多い。するとあの時間と空間の「間」を生かせる利点もあります。実はエレベーターは、撮影のための許可を取るのが面倒なんです。だから、プロデューサーの百々保之くんに「今回はやめてください」と言われました(笑)。

──回想シーンでは、空舞台も使っていますね。

それも主観と客観の問題に関連するかもしれないですね。映画の回想は、実際にあったことのように観客の目に写ってしまう。でも現実に人が会話していて「こんなことがあった」と言うとき、それは客観ではないと思うんです。あくまで話す人の主観で、事実がどうかはわからない。そういうことも本作に取り込みたいなと考えました。そこにカメラを置いているのにもかかわらず、実際には「こんなことはなかろう」と思えること──リアリズムから離れたもの──がカットの切れ目に起こるように、と。

──あれは回想ですらなく、妄想かもしれない。そういう不確かさがありますね。さらに曖昧なシーンではスローモーションを使っています。そうした技法面でも『おもちゃを解放する』(2011/以下、『おもちゃ』)と比べて、つくりがかなり変化した印象を受けました。

『おもちゃ』と本作は、目指していたものが違いますね。2019年10月に初稿を書き上げて川口くんに送りました。その際に、「これまでずっと即物的な映画を撮ってきたけど、今回は〈トーンの映画〉をやりたい。そのためにはスローも使いたい」とメールに書き添えました。これは僕の偏見ですが、新たなものをつくろうとしている同世代の人たちは、シンプルな撮影技法──スローやコマ送り──を避ける傾向があるのではないかと感じていました。それには違和感を覚えるし、技法を「使わない」ことでスタイルを築こうとして、連綿と続いてきた雑多な映画の歴史に目を向けてないようにも感じる。僕は、たとえみっともなくても何でも表現に使いたいと思っています。今回、その技法がスローでした。
それはサウンドにも密接に関わっていて、「スローのときに音はどうなっているか」という点に興味があります。70年代アメリカ映画にはスローが多いですよね。サム・ペキンパーやロバート・アルドリッチの作品でも面白いのは、画がスローなのにタイミングに合わせて現在形の音が流れていて、その「嘘」にこそ生々しさがあります。本作は最初からそこに着目して、録音・音響担当の鈴木万理さんに「スローのシーンで音もスローにするのは嫌だし、音楽に逃げるのはもっと嫌なので、音は現在形でお願いします」と話して、タイミングだけ合わせた足音を付けてもらいました。いったんリアルからは離れるけど、むしろそれが生々しさを生むだろうと。「何もしない」のではなく、使える技法や技術は使って遊ぶ。その考えと〈トーンの映画〉のイメージが合致して、『おもちゃ』とは違う作品になったと思っています。見てくれた数人からは「展開が速くて、情報を詰め込んでいるのが『おもちゃ』に近いね」と言われましたが(笑)。僕としては『おもちゃ』を2倍くらい希釈したまったりなテンポ、トーンにしたつもりです。でも、離れようとして離れられない共通する何かもあるんでしょうね。

──スローのシーンは、フィクション度の高い描写にリアルな音を当てた、劇中で最も複雑な構造になっています。しかし、流れでそう感じさせないのは構成の妙ですね。音を抜いた無音のショットもいくつかあります。そうした全体の緩急はかなり考えられたのでは?

そこもやはり意識しました。サスペンスで最も怖いのは、出来事が起きない「間」だと思っています。例えばドン・シーゲルの『突撃隊』(1961)に地雷原を匍匐前進するシーンがあって、そこでは沈黙のなか、何も起きない間が怖い。ロベール・ブレッソンの『抵抗(レジスタンス)─ 死刑囚の手記より─』(1956)にもそういう間がありますね。沈黙や空白がうまくサスペンスを引き起こすのはなぜか、美学校の同期で勉強会を開いて考えたりもしました。ひとつ思うのは多くの情報があるなかで、そのカットだけ音などの情報が無くなると、画面に集中する観客には違和として写り、そこに緊迫感が生まれるのではないだろうか。ただし「無いサスペンス」をつくるために、ほかのシーンを無駄な情報で埋めてはいけない。無駄が多いと、そういう映画として弛緩した状態で見られてしまいます。ワンカットでも密度を失わないようにしたうえで沈黙を設ける。沈黙のために音を足していくとも言えるかもしれません。
『おもちゃ』ではナースステーションのシーンでそれを生かせたと思いますが、当時はまだ掴み切れてないところがあったので、本作ではより明確に意識してブラッシュアップしました。

──お話を伺っていると本作最大の「無のサスペンス」は栗林(田中陸)の存在のようにも思えてきましたが……、監督は『あれから』(2011/篠崎誠)の脚本を共同執筆されましたね。あのクライマックスのアイデアは、篠崎監督と酒井監督のどちらから出たのでしょう。

篠崎さんからの当初のプロットでは、主人公の女性と、相手の幻が話し合うというところまででした。「その先に何か足したい」と篠崎さんは、僕ら美学校の受講生全員に意見を求めました。そこで、僕は結婚式のビデオレターという案を出し、それを篠崎さんが気に入ったんです。
あとから聞いたところでは、プロデューサーの松田広子さんが「今回は受講生にシナリオを書かせるべき」と篠崎さんに言っていたそうで、その提案で僕がシナリオを書くことに決まりました。

──あのシーンは素晴らしいですね。本作のカウンセリング同様にヒロイン・祥子(竹厚綾)が椅子に座っていて動かない。しかし、アクションが起きていると感じます。本作にも単純に「動く」こととは別のアクション性があると思うのですが、監督の考えるアクション、そして面白さ=「fun」との結び付きについて教えていただけますか?

『あれから』に関しては、必ずしも僕だけ、または篠崎さんだけの意図でもない、多くのスタッフ・キャストによるところも大きいかもしれませんので、確実なことは言えません。
ただ、僕としては、篠崎さんは誰よりもシネフィルでありながら、陥りがちな「枠組み」の思考をしない人だと捉えています。それは「動線」というものを演出の主眼に置かないことにも表れていると思います。動線を芝居に付けるのは、とても面白いことなんです。特に僕ら映画好きが演出する場合、動線により芝居がハマった気がしたとき、「演出している感」という欲求が強く満たされます(笑)。
しかし、篠崎さんはそういったことに疑いを持っていると思います。当然、シーンによっては動線を作る局面もあるわけですが。映画とはこういうもの、演出とはこういうもの、よい演技とはこういうもの、そういうメソッド化されかねないものに疑いの目を持っている気がしますね。それは、篠崎さんが誰よりもジャンルや傾向を問わず映画を見ていて、参照する引き出しが多いからかもしれません。篠崎さんが映画について語るなかで、カテゴリーに分類して否定するような言葉を聞いたことがありません。どんなジャンル、傾向、題材に対しても、フェアに見ている気がします。勿論篠崎さんに価値判断が無いわけではなく、はっきりあるんですが、枠組みで否定するようなことはしない。「こういうもの」と定義されがちなものに対しても、そうではない沢山の可能性がある、と見えているのかもしれません。
今回、よく「篠崎さんの影響が作風に……」と言われるのですが、僕としては、実践的方法論などは意外と似ていないと思います。それに『あれから』や『SHARING』(2014)の影響を受けていると言われても、返答に困りますね。僕は書いていたりするわけで、どう言ったらよいのか……(笑)。ただ、そういった「それっぽい型」を信用しない篠崎さんの考えにはとても大きな影響を受けているし、尊敬し、自分もそうありたいと心がけてもいます。
話を戻すと、僕は『おもちゃ』の時などは「動線が演出だ!」と思うタイプのザ・映画好きでした。実習で見た万田邦敏さんの演出に強い影響と憧れを感じていました。

──『おもちゃ』はコンティニュイティも含めて、動線づくりを徹底していましたね。

しかし今回は「一切の動線が無い」状態で、役者さんとコミュニケーションを取ろうと思ったんです。そういった考えの根底には、篠崎さんの大きな影響があります。ただアプローチについては、感情からの表出をじっと見つめる篠崎さんとは、まったく違うものだろうと思います。セリフの発し方、間の持たせ方、細かい仕草、目線、そしてやはり感情やモチベーションなど含め、大きな動線とは違う細かいものを、役者さんと一緒に考えて共に組み立てていく時間になりました。
以前お話ししたように「よいショットというよりは、よいカット」を目指し、「動かない人の連続がアクションを想起させる」というような、部分部分の「それっぽさ」で充足したいというより、つなぎ合わさることで生まれる娯楽感=funがつくれればよいなと思っていた気がします。これは明確に言語化していたというより、いま思い返してみての後付けかもしれませんが。

(2022年1月29日・神戸映画資料館にて)
取材・文/吉野大地

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