今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「映画論講義」

著者:蓮實重彦
出版社:東京大学出版会
発行年月:2008年9月
 本書のタイトルはいかにもそっけない。例えば、これまで蓮實重彦が講演などをもとにした『映画はいかにして死ぬか』『映画への不実なる誘い』に比べても、また、『映画に目が眩んで 口語篇』の〈口語〉もそっけないといえばそっけないが、「目が眩んで」という事態が喚起させる情景さえも〈映画論〉という言葉は退けているようだ。それでは〈講義〉が、それまでの著書に見られた〈誘惑〉や〈煽動〉と同じような実践を担っているのだろうか。
 もっとも、「あとがき」で、このタイトル、特に〈講義〉の一語は、本書の内容を裏切っているかもしれないと述べられる。その理由を著者は「本質的には啓蒙的であることを回避しようとする批評的な構想にもとづく言葉ばかり」で成立したものだからというのだが、では、啓蒙的であることを裏切ることが、不実な批評の実践ということになるのだろうか。
 例えば序章で「カノン化」に抗することについて述べられるように、「決して一つの意味に還元することのない映画への驚きを他者と共有すること。そして、誰かがポロリと漏らした言葉の中に、そうかと思える機会が拡がるよう、人々を多様性の中で自由に泳がせること。批評にはそういう役割があるはず」ならば、映画における〈批評〉とは、一つの意味といったものには徹底的に不実でなければならない、ということになろう。
 映画館の暗闇では一人孤独に驚いても、スクリーンを見つめる不特定多数の他者とともに暗闇を出たら、ポロリと漏らされた他者の言葉にあられもなく誘惑され、その誘惑に我を忘れつつも、さらには自分の驚きでもって無責任に他者を煽動していくこと、それが〈批評〉だ。
 とはいえ、『映画論講義』とは奇妙といえば奇妙なタイトルである。〈映画論〉を〈講義〉するということなのだろうか。しかし、本書が『映画講義』でなく、また『映画批評講義』でもないその理由は、端的に〈映画論〉とは、映画論じる試みではないからである。かつて浅田彰が的確に指摘したように、蓮實重彦の映画論の美しさは、言葉で映画に近づこうとしても、言葉は映画に敗北するしかないこと、死を迎えつつある映画を前にして抽象的にではなく歴史的に自覚しつつ、しかしその死を容易には認めず、自堕落な諦念で接するのではなく、死につつあるならその死を徹底的に看取ること、つまり徹底的に倫理的であることの美しさなのだ。ならば〈講義〉は、その倫理を、一つの意味に還元することなく、他者に示すこととなるだろう。
 人は映画を見るだけではなく、自分の言葉で映画に近づきたいと願ってしまう。しかし、自分の言葉ではいかにも慎みを欠く振る舞いとなるだろう。従って、そこには翻訳と秩序が導入されねばならない。つまり、言葉を、言葉のではなく、映画の秩序に置くこと。つまり、映画と書くこと。あるいは映画と語ること。要するに、映画とあること、まずはこれである。
 しかし、いったん映画の秩序に置かれた言葉は、もはや誰の言葉でもないのだ。言葉は本来の恣意性だけで成り立つ荒唐無稽なものとなり、自分も何も人数も人称もお構いなしに文字通りに不特定多数によって無数の細部に呼応し拡散されていくだろう。だが悲しいかな、われわれ自身は人間の秩序しか有していない。それは蓮實重彦といえでも例外ではない。
 従って、せめてもの慎みある試みとして不可能とは知りつつも、あくまでも書かれ/語られた言葉が言葉でしかないこと、つまり、映画論が映画でなく、映画についての言葉でしかないことに恥じながら、〈見る〉ことで映画に躙り寄って行くことで、言葉が言葉でなくなり、瞳が瞳でなくなるかもしれない臨界点において、とりあえずのものでしかない言葉と眼差しを、キャメラが映画を撮るように、映画とともに連ねることしかできないのだ。
 ロベール・ブレッソンは、「シネマトグラフとは、運動状態にある映像と音響を用いたエクリチュールである」と書く。蓮實重彦の〈映画論〉もまた、シネマトグラフそのものであるエクリチュールである。このことは実はそもそも本書のタイトルとして、さりげなく、しかし、堂々とクレジットされていることからも明らかだ。
 また、本書では、「見る」ことの倫理が繰り返し力説されている。フィクションであろうとドキュメンタリーであろうと、それが映画であるならば、「『撮る』とは何にもまして『見る』ことにほかならず、間違っても『見せる』ことではない」。さらには、「世界を『どう見るか』という問題に惹かれるのであり、『どう見せるか』という技法に惹かれるのではない」、と。「見せる」ことを問題にするということは、必然的にこの現実の外部にあるものを問題としてしまう。しかし、重要なのは、あくまでこの現実を「見る」ことなのだ。
 スクリーンには紛れもなく世界が、すなわち、現実が映っている。ところで、現実は外部を持たない。われわれにはいまここにある現実しか存在しない。スクリーンに映っているのは紛れもなく現実なのであって、それを何か別の現実なるものへとすり替えず、無数の細部を、つまりは表層を、徹底的に生きること、ゴダールがいうように、「現実の反映」ではなく、「反映の現実」を生きることなのだ。現実とは別にある可能性を夢想するのではなく、重要なのは、いまここにある現実そのものを、「見ること」によっていかに「豊かな」ものにできるか、である。キャメラは現実しか映さない。フィクションであろうとキャメラは目の前の現実に起きていることだけを映し、創造するのだから。
 ブレッソンは、「ためにキャメラを使う映画と、シネマトグラフの諸手段を用い、ためにキャメラを使う映画」があるとも書いているが、いわゆる「キャメラ=万年筆」などとは別の次元で、蓮實重彦の〈映画論〉もまた、創造への実践となるだろう。だからこそ蓮實重彦の〈映画論〉すなわち〈批評〉は、あれほどまでに「反映の現実」を創造する映画作家たちを鼓舞し続けているのだ。
 本書の帯文にあるように、「無数の細部からなる映画の魅力」と「豊かな映画史」の中から紡いだ「言葉」によって、われわれは「心躍る」。しかし、啓蒙によってわれわれの心が躍らされるわけではない。無数の細部が無数の細部であるならば、映画史の豊かさとは、私たちが見逃しているものを、著者によって「あれもある、これもある」と啓蒙的というより実のところ排他選別的に明らかにされることを期待するような、「データベース化の幻想」を抱かせるようなものではなくて、むしろ私たちが見ているその「あれもこれも」が、収拾の付かない祭りのように一斉に立ち騒ぎだす事態そのものなのであり、そもそも映画は、1秒に24の生と死から成り立つ一瞬のショットによって構成されているのだから、このショットを見ることのできる「動体視力」をもつこと、と同時に、「この一瞬を見てしまったという恐怖に耐えること」(『UP』2008年10月号での久保田智子との対談で蓮實重彦が思わずポロリと漏らした、墜落する戦闘機を目撃してしまったエピソードも参照せよ)、つまり、「どう見るか」を問題にしつつも、場合によっては、見ている当の自分さえもが生きつつ死ぬことにも耐えることができなければ、〈批評〉ではなくなるのだ。
 「活劇とは、生と死があたかも同じ一つの運動であるかのように見えてしまう高度にフィクション的な体験にほかならない。スクリーン上での運動の印象を仮構するフィルムの1秒間に24駒の死は、あくまで、フィルムの1秒間に24駒の生として消費されるしかないものだからである。こうして映画の現在は、生成と消滅とをたがいの同義語としつつ、きっぱりと未来を絶つ」(『映画崩壊前夜』)。
 そもそも1秒に24回も生と死の斬り合いのような活劇が繰り広げられている事態を前にして、どだい普通の人間の言葉など敵うわけがない。ならば、もういまここで踊るしかない。その祭りが繰り広げられるのは、あくまでスクリーンの上に、現在のものとして点滅している光と影を見つめること以外の何ものでもないのだ。つまり、豊かさとは、見ることで我を忘れてこの祭りで踊り狂う楽しさなのだ。
 だから、豊かな細部に心躍るとは、その絶えざる生と死を苛酷にこれもまた文字通りにことだ。映画に心躍るとは、この「批評あるいは仮死の祭典」、つまり「映画という祭り」で踊り狂うことに他ならない。以前に本欄で紹介された山根貞男の『マキノ雅弘 映画という祭り』が、名場面集であるというのは、マキノが名場面をどう見せるのかその技術を明らかにしているのではなく、まさにマキノが名場面を撮るように書くという運動の形式が徹底されていることに他ならないのである。山根のエクリチュールがシネマトグラフそのものとなっているから、あの本もまた、言葉でしかなく映画ではないはずの映画についての言葉が、ページがめくられるたびに名場面そのものの形式と運動をもつ言葉となっており、映画という祭りが踊り出している。
 『映画論講義』が「心躍る」本であるのは、本書もまた映画そのものとして成立しているからである。しかし、踊り狂う彼岸には〈死〉が色濃く現れる。〈講義〉といえば、『ハリウッド映画史講義』にしても『映画はいかにして死ぬか』にしても、「翳り」と「死」が出現する。しかし、蓮實は決して「映画は死んだ」とは言わない。また、あくまでも『映画崩壊前夜』なのであって、映画は崩壊していない。「映画を撮ることは、いつだって『明日なき』闘争なのだ」(『映画崩壊前夜』)。
 「間近に迫った映画の死を声高に触れて回ったりはせず、その事実を見つめながら、しかし、いっときの興奮で現実を忘却するのではなく、死を抱え込んだこと」と、『映画はいかにして死ぬか』で述べていたことは、『映画論講義』に至るまで、どんな祭りに加わろうと不実にではなく誠実に実践されている。これこそまさに「映画渡世」である。
 映画史とは、いかに映画が死ぬか——その歴史的な体験そのものであるかもしれない。ならば、それを体験するためには、絶えずわれわれは現在においていまここにある映画とともに生きなければならない。それを可能にするのは、「とんでもない!」と思わず発せられた一言を共有し、保険金受取りの場所で流れるにしてはあり得ない音楽の旋律に涙することを許す、まさに映画の肯定性であり楽天性なのだ。
 この体験はせっかくの驚きを孤独に自分たちだけで隠匿しているような集団には無縁のものである。本書に収められたテクストがすべて、不特定多数の観客を前にして、多くが映画館などでの上映とともにあったことを忘れてはならない。この実践は、著者だけでなく不特定多数の他者とともに映画を肯定し、運動させることに他ならず(啓蒙とは、本来いまここにある現在のわれわれ、つまり、歴史的に規定された存在としてのわれわれ自身を光=リュミエールともに分析する試みである)、これこそが蓮實重彦の〈映画論講義〉であり、映画が生と死の活劇であるなら、これはもはや人生の実践なのだ。
 ちょうどいま神戸映画資料館でも上映されているグル・ダットについて『映画論講義』収録のテクストでは、まさに人生という言葉が出てくる。しかし、この人生はグル・ダットだけでなく、また本書で言及される映画作家だけでなく、また人間のものでさえない。あくまでも豊かな細部としてスクリーンに点滅するあの光と影そのものの問題なのであり、要するに、bigger than lifeなのだ。
 従って、『映画論講義』を読むことと、グル・ダットの映画を見に神戸映画資料館に来ることは同義である。また、年末の「加藤泰まつり」に参加し、年が明けたら、『映画論講義』の「21世紀の映画論」で「伊藤大輔から山中貞雄への覇権の以降」と言及されていた論点を体験するため、『映画に目を眩んで 口語篇』では「時限爆弾」とまで語られている、伊藤大輔『御誂治郎吉格子』を見に駆けつけなければならない。「映画はいつ炸裂するともしれぬ物騒な時限爆弾だという映画批評的かつ映画史的な文脈」と書かれたのは『ゴダール革命』でだが、年越しをはさんで加藤泰から伊藤大輔へとまさに映画史的かつ映画批評的に体験できるなど、紛れもなく世界的に革命的なプログラムである。
 『映画論講義』の中で語られる作品のショットで無数の細部に仕掛けられた時限爆弾を炸裂させるのは、われわれ自身だ。今回、グル・ダット特集のために特別に寄せられた蓮實重彦のコメントに託ければ、「『映画論講義』を読むか読まないかは人生の問題である。だが、いったん本書を読んでしまうと、映画が人生の問題を遙かに超えてしまうことに誰もがたじろがざるをえない。そのたじろぎも知らず、やたらに人生や映画のまわりをうろうろしてほしくない」。本書のタイトルのそっけなさは、この宣言なのである。(前田晃一)

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