今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「アニメーションの映画学」

編者:加藤幹郎
出版社:臨川書店
発行年月:2009年2月

本格的なアニメーション研究の出版をまずは何よりも喜びたい。本書は、タイトルの示すとおり、広く古今東西のアニメーションを対象に、映画学の観点から分析を行う6本の論文を収めた論文集である。6本のうち、2本は英語の論文の日本語訳、4本は日本語の論文で構成されている。日本においてはこれまで、概論や通史の紹介や、日本のアニメーションに関する仕事は徐々に蓄積されてきたが、国内外の短編やインディペンデント作品を含むアニメーション全般に目を配り、新たな視座を開拓するような研究書はそれほど多くはない。英語圏でのアニメーション研究の拡張や深化に比して、日本でのそれは遅れているとみなさざるをえない現在、本書をきっかけに、アニメーション研究に対する関心が多様な広がりを見せてくれることを期待したい。

以下に、各論文の内容を紹介していく。
今井隆介「<原形質>の吸引力」は、ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインのディズニーに関する論考を整理して、歴史の中に位置づけて理論としての整合性を検討し、アニメーション一般に応用する可能性を論じている。エイゼンシュテインの論考の要旨は以下である。ディズニー作品のキャラクターの柔軟で伸縮自在な身体のような「どんな形式にもダイナミックに呈することができる能力」、すなわち「原形質性」は人を魅了する「吸引力」になる。なぜなら原形質的な形象は、人の意識を「前論理的で感覚的な思考」(幼児的で原初的な思考)へ回帰させ、人を理性から解放して論理と合理を一時的に「忘却」させるからだ。論考はアニメーションに限らず、ダリや浮世絵などの絵画やシェイクスピアやホメロスの文学、炎の可変性や「放火狂」の心理など現実の事象も対象にして、人が形式そのものを感覚するメカニズムの解明を試みている。重要な示唆に充ちた刺激的な論考だが、全訳は未だ出版されていない。本論文は現時点において、エイゼンシュテインのディズニー論を最も詳細に紹介し検討する日本語文献となっている。
土居伸彰「柔らかな世界」は、エイゼンシュテインの「原形質性」の論考を手がかりに、ライアン・ラーキン作品を始め、物語やキャラクターが存在しないアニメーションのもつ可能性について検討している。ラーキン作品のように具象/抽象をとわず流動的に様々な形象へ変容する表現に対し、「実験」や「商業」など従来の枠組みから離れ、アニメーション表現の「原形質性」に焦点を当てる。エイゼンシュテインの論考で「原形質性」はキャラクターの一貫性のある形象を指すが、本論文ではより射程を拡大し、いかなるものにも変貌を遂げるアニメーションそのものがもつ可能性と捉え直す。そうした原形質的な表現は、常に変容し運動する外部世界と作家との衝突を描き出し、「生きていること」そのものの表現となることを、ノーマン・マクラレンやレン・ライ、ユーリー・ノルシュテインなど作家達の製作過程や発言を参照しつつ示していく。本論文はこれまで高い評価を受けながらも殆ど論じられなかった短編アニメーションに注目し、論考を展開していく意義を示している。

加藤幹郎「風景の実存」は、映画(アニメーション、実写を問わず)研究において看過されてきた風景の表象の問題に着目し、アニメーション映画作家・新海誠の風景表象の新しさについて探究するものである。新海誠の作品は、キャラクターと風景を切り離し得ないものとして一体論的に創造し、実写映画ですら不可能であった風景の実存を可能にしたものであることが、おもに『秒速五センチメートル』に対する精緻なテクスト分析を通して検証されている。具体的には、実写映画における風景と物語の関係性をふまえたうえで、新海誠の作品で際立つ雲の風景(クラウドスケイプ)および白のイメージの主題系をとらえ、そうした風景の機能を浮き彫りにしていく。風景はたんなるスペクタクルではなく、そのなかで人間が生きている空間として相互作用的関係を人間とのあいだに構成するものとなり、人間の情動のドラマを産出する機能を果たすことが明らかにされる。本論文はアニメーション論や作家論に限らず、映画学における風景表象のトポスの可能性を明らかにし、風景の表象論の重要性を示す点においても意義深い。

横濱雄二「複数形で見ること」は、日本の商業アニメがメディアミックスと呼ばれる複数の媒体へ展開していく現状のなかで、メディアミックス「作品」のとらえ方について考察している。メディアミックス「作品」の読解にさいし、従来はキャラクターに注目する方法がとられていたが、そこに「物語世界」という水準を加える方法を筆者は提唱する。ここでは複数のジャンルが交差する作品では複数の物語世界が並存しうるという立場をとり、物語世界とキャラクターの生成変化をとらえることに主眼をおく。具体的には『ほしのこえ』と『新世紀エヴァンゲリオン』それぞれに対し、「作品」の広がりを物語世界を通じて把握して、各メディア間の詳細な比較分析を行うことで、メディアミックスのもつ潜在的な可能性を示す。キャラクターという固定的な要素に、物語世界という変動的な要素を交錯させ、より立体的な読解を促すという視点が興味深い論考である。

バリー・ソルト「ミッキー・マウスの息吹を計ること」は、おもに1940年代までのアメリカのアニメーションを対象に、計量分析をほどこして数値的にとらえる試みである。アニメーションにおける運動の充実度を計るために、まずコマの総数に対する絵の枚数を比率として割り出す。そのさい一コマ撮りの使用率だけでなく、止め絵や実写の扱いにも目を配り、アニメーションの運動の複合性を的確に記している。さらにキャラクター等の運動の大きさを、フレーム内の運動領域として計測する。このようにして運動の充実度が浮き沈みしつつ変遷する過程を辿り、その高まりを30年代の作品(とくにディズニー短編)に認めている。最後にショットの平均持続時間、逆アングルショット、視点ショットの3点を計測し、実写映画のそれと比較することで、アニメーションのシーン分割の特徴を示した。こうした方法は、数値によって明らかになる側面を例証しており、さらに多角的な議論に応用しうるものだろう。本論文には訳者の川本徹による解題が付されており、これらの分析を具体的かつ的確に記述している。

顔暁暉「セレクティブ・アニメーションという概念技法」は、「リミテッド・アニメーション」というアニメーションのスタイルに対して、「リミテッド(限界のある)」の語から想起されやすい否定的なイメージを払拭するために、「セレクティブ(選択しうる)」という概念を提唱する論考である。これまでの言説では、滑らかな動きを特徴とするフル・アニメーションと、動きの少ないリミテッド・アニメーションを対置して、後者を下位とみなす傾向にあった。しかし筆者はリミテッド・アニメーションを創造的な表現方法ととらえ、運動を基準とする中立的な分類方法「運動のスペクトル」を提示する。次いで『鉄腕アトム』のケース・スタディを通して、「セレクティブ・アニメーション」とは多様な物語修辞と音響要素によって制限された動きを補い、アニメーションの潜在力を高めるものであることを明らかにする。流動的な運動に着目する今井論文と土居論文に対し、本論文はあらゆる運動を包括的に考察して、流動・不動とわず多様な運動がもつ可能性を問いかけている。
このように本論集は、緊急に求められている課題に確実に対応し、アニメーション研究に一石を投じるものとなっている。教示と示唆に富み刺激的な洞察に充ちた本論集を手がかりに、さらに開かれた議論へ展開されていくだろう。また現在、大学においてアニメーションに関する講義や卒業論文が増加しているため、教員が学生にアニメーションの知的なおもしろさや多角的な研究方法を伝えるための参考書としても適している。さらにより広い層の読者に対しても、慣れ親しんでいるアニメーションの新しい側面や、見たことがないアニメーションの多様な魅力を伝えられるような、議論の明快さと奥深さを巧みにつりあわせている。本論集は今後広く参照、検討され、アニメーションを語る言葉を豊かにするにちがいない。

佐野明子(京都造形芸術大学非常勤講師)

日本映画学会会報第17号(2009年3月号)から転載させていただきました。

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