今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

ecce 1 映像と批評

編者:岩本憲児、北野圭介、リピット水田堯
出版社:森話社
発行年月:2009年7月
タイトルの「ecce(エチェ)」とは、ラテン語で「見よ」を意味する言葉らしい。そして記念すべき第1号の特集を飾るのは「アヴァンギャルド」である。何やら新手の啓蒙雑誌のような印象を与えるかもしれないが、本誌はアヴァンギャルドの世界を垣間見せてくれるだけで終始したりはしない。そこには間違いなくアヴァンギャルドを通じて映像文化・視覚文化全体を見渡そうとする視線が感じられる。その鍵となるのは、刊行にあたっての序文にある「脱中心的なベクトル」という言葉だろう。 たとえば、「アヴァンギャルド ~実験映画、ビデオアートの現在~」を寄稿した越後谷卓司氏は、高度な技術的達成を示す近年の実験映画作品が、「なぜか今一つ感動に欠ける、あるいは胸に迫るものがない」という評価を受けつつある事実を指摘する。その傾向の理由として挙げられているのは、パソコンやCG技術などの発達によって得られる技術的容易さがすべてを「想定内」のものにしてしまっているという事態である。技術的な制約を逆手にとって刺激的な表現を生み出していたアヴァンギャルドにとっては、これらの技術的容易さは必ずしも歓迎すべきものではないようだ。試行錯誤したであろう痕跡を観る者に感じさせない滑らかな画面は、西嶋憲生氏・松本俊夫氏の本誌対談で語られているような、「自分で撮ってつないでもなかなか手際いいしうまい」が、「圧倒的に感動するということがほとんどない」、「映画そのものの地平が変わって見えるというようなことがない」ような作品を量産することになるだろう。無意識のうちにどこかお利口になってしまう危機に直面しているように思われる現在のアヴァンギャルドをめぐる状況は、「アヴァンギャルド」という言葉そのものの意味を見つめ直す必要に迫られているといえる。そして広い視点でみれば、それは現在の映画界全体にもあてはまる状況のように思えてくるのだ。 単なるテレビ局主催のイベントとして、またはサブ・カルチャーの一種として消費されていく昨今の映画作品には、必然的に「分かりやすさ」や「とっつきやすさ」が求められているように思われる。このようなニーズに応えるために生産される作品は、観た者を打ちのめしてしまうような、かつての映画が持っていたある種の暴力的な野蛮さとは程遠い当たり障りのない作品になってしまうだろう。言うなれば、アヴァンギャルドだけでなく、現在制作される映画全体もお利口でおとなしい存在に成り下がってしまっているのではないだろうか?このように本誌からは、まるで「中心から外れた部分から物事を覗いてみることで見えてくるものもある」と言わんばかりに、アヴァンギャルドというある特殊なジャンルが置かれている状況を通して、映画界全体を見据える視点が導き出されてくるように感じられる。本誌冒頭で掲げられた「脱中心的なベクトル」とはまさにこのような視点を導き出すためのものなのではないだろうか?
本誌中で繰り返し用いられる語に「オルタナティヴ」というものがある。メインストリームの対極を意味するものとして広く認知されている概念であるが、あまりに安易に使われすぎたため有効性を失いつつあるとして、本誌ではこの「オルタナティヴ」という概念自体が現在ではもはや機能しなくなっているのではないかと指摘する。「メインストリーム」と「オルタナティヴ」という二項構造が消滅してしまったように思われる現状認識をふまえた上で、「脱中心的なベクトル」から何か新しい視点が得られるのではないかと出発した本誌が、これからも映像文化全体を視野に入れた刺激的な思考を展開していってくれることを願ってやまない。

(坂庄 基)

これまでの今月の1冊|神戸映画資料館