今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「再履修 とっても恥ずかしゼミナール」

著者:万田邦敏
出版社:港の人
発行年月:2009年11月
「百年の映画へ、宣戦を布告する。映画が撮りたいという欲望から出発するのではない。自分には映画が撮れるという確信から出発するのだ。」

このような勇ましい「宣戦布告」によって、「とっても恥ずかしゼミナール」は再び開講となる。しかし、冒頭のこの強気はどこへやら、そこには「映画」と向き合うことの困難さが露呈されることになるであろう。

「自分には映画が撮れるという何の根拠も保証もない確信が戦闘初日に直面する巨大な敵、それは「映画」だ。映画が百年かけて築き上げてきた「もの」に、あなたはこの確信だけで立ち向かわなければならない。確信に満ちた〝用意、スタート〝の掛け声は、こんなはずではなかったという〝カット〝の声に変わる。」

「こんなはずではなかった」という嘆きには、暗く沈んだ顔よりも赤面の方がふさわしいはずだ。そこには、「映画」の意地悪さにまんまと乗せられて、意気揚々と映画制作に乗り出してしまった人々が否応なしに直面してしまう一種の「恥ずかしさ」が見受けられるように思われる。相手を見くびっていたことから経験してしまったこの「恥ずかしさ」を払拭するためには、金輪際その相手と関わりを持つことを避け、時の流れがその記憶を洗い流してくれるのを待ち続けるか、一旦相手の巨大さを認めたうえで、もう一度より深く相手と向き合うことを決意するかのどちらかであろう。実作者として映画制作に携わっている著者自身もまた、そのキャリアの出発点において同じような「恥ずかしさ」を経験した身であるはずだ。そして、まるで自身も受けたであろう「恥ずかしさ」への仕返しだとでも言わんばかりに、本書において「映画にとっての恥ずかしさとは何か」を解き明かそうと試みるのである。そのためのアプローチとして、ここに収められた映画批評にはある一貫した戦略が見受けられるであろう。

例えば、「物語が自然に流れていく映画」のからくりを暴きだすため、「物語」と「映画」との関係についての考察を試みる時。「なんら知的発展性もなく、バカバカしい物語であるにもかかわらず巧妙にして単純な仕掛けによってそれが語られる時、普段子供を愛する親の気持ちなどまるで馬鹿にしきっていた人がつい涙してしまう、それが映画というものらしいのだ。」と述べることで、「映画の面白さ」とは物語の内容が高尚か否かという問題とは別の次元において決定されるのだと指摘する。さらに、本来映画の画面に必要なものを排除するブレッソンの不自然さを指して、それこそが「ある人工的な(非映画的な)仕方によってしか描くことができない」映画における「リアリズム」なのではないかと推論する時。あるいは、意図的なつなぎ間違いと執拗な長回しの混在によって、「切断・分断と継続・持続」という映画の基本要素を観る者に深く印象付けるゴダールの文体を、「われわれの視線と感性を正しく「映画」の方へ向ける」と評する時。著者は、宗教・政治・思想などとの結びつきで語られがちなこれらの監督を、正しく「映画」の下に語ろうと試みる。このような観点からすれば、物語や政治などという要素は「映画」にとって単なる外縁的なものに過ぎない。そして、筆者が用いる「映画にとっての恥ずかしさ」を解明するための戦略とは、それらの要素を一旦全て取り払ってしまうことで、裸のままの「映画」そのものと対峙しようとする試みであると言い表せるだろう。なんだか漠然とした物言いになってしまったが、その実体のつかめなさこそが百年の歴史を有する「映画」の神秘なのであり、とりあえずその神秘を「映画にとっての恥ずかしさ」と名付けることで、著者は「映画」という巨大な何かと真剣に向き合おうとしているのではないだろうか。

まさに「映画」そのものと対峙しようとするこのような姿勢は、今日の映画界においてとても貴重なものであるはずだ。それは、「自己表現」という名の下に「映画」を利用しようとする今流行の姿勢とは対極の、「映画」に対するある種の「ストイックさ」を伴っている。この「ストイックさ」によって読む者の意識も正しく「映画」の方へと目覚めさせてくれる教科書として、本ゼミナールは「映画」に関心を持つすべての人々に開かれている。
(坂庄基/神戸映画資料館スタッフ)

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