今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「東京から 現代アメリカ映画談議 イーストウッド、スピルバーグ、タランティーノ」

著者:黒沢清、蓮實重彦
出版社:青土社
発行年月:2010年5月

「太陽は、明日もまた、いつものように東の空から昇るだろう。ほとんどそう信じるのと変わらぬ故のない楽天性をもって、明日もまた、これまで通り、面白いアメリカ映画が見られるはずだと思いこんでいました。」本書の冒頭で蓮實重彦が述べるこの言葉ほど、アメリカ映画の特質を簡潔にかつ正確に描写したものも少ないだろう。これは単に良質なアメリカ映画が作られ続けてきたという意味ではない。事態はむしろ逆である。アメリカ映画はこれまで通り、同じように作られ続ける。だから、面白いのだ。アメリカ映画を見る喜びは、その終わらない(ようにしか見えない)反復の中にある。
フォード、ヒッチコック、ホークス。あるいは、オルドリッチ、フライシャー、シーゲル。蓮實はこのように並べる。彼らの映画は言うまでもなく個性的である。そして、その個性的魅力をこれまで誰よりも説得力を持って主張してきたのも他ならぬ蓮實自身である。しかし、彼らの作品にはそれぞれの個性を超えた共通性が見出される。というよりも、彼らを一つの束として捉えることが、彼らの映画を肯定的に支える要素になっているように感じられる。それが「アメリカ映画」だ。デヴィッド・リンチやテレンス・マリックの作品がいかに優れていようと、それらは作家の個性が全面に押し出された反アメリカ的アメリカ映画なのである。

蓮實は、そのような「アメリカ映画」の特徴を「有効」であることのみをめざす映画として説明している。「有効」とは「スクリーンと向かいあう観客にとっての現在という何ともとらえがたい時間を、どう経済的に組織するかという実践的な戦略」(13‐14頁)のことである。これはアメリカ映画が持つ「慣習」という力が問題になっているのだと理解してもよいかもしれない。慣習に従うこと。それは作り手のみならず、観客にとっての快楽でもある。蓮實が『アバター』を高く評価する理由の一つも、慣習的であるがゆえにその物語展開が的確に予測できるという「アメリカ映画」の特質を、それが間違いなく保持していたからであろう。

本書がイーストウッド、スピルバーグ、タランティーノという現代のアメリカ映画を代表する三人の監督を取り上げるのは、単に各々が個性的で魅力的な映画を作ってきたからではない。この三人を並べて配置することで、その根底になおも「アメリカ映画」なるものが存在しているのかどうかが、蓮實重彦、黒沢清の二人の対談を通して、パフォーマティブに問われているのだ。

このような意味において、イーストウッドの章は本書の中でも特に興味深い。というのも、蓮實、黒沢の両氏は「われわれの映画作家」であったはずのイーストウッドが、『チェンジリング』や『グラン・トリノ』といった近年の作品では、われわれを拒絶しているようにみえると述べ、そのことに対する戸惑いを隠そうとはしないからである。イーストウッドの新作に対する戸惑いには、映画がさらに新しい段階へと踏み込んでいくことへの期待と(より多くの)不安が入り混じっているように思える。「アメリカ映画」の本質的な魅力が「変わらないこと」にあるのならば、そのような「反アメリカ映画」的運動に我々は常に戸惑わずにはいられないだろう。蓮實の場合、その戸惑いは最新作『インビクタス/負けざる者たち』でも変わらないどころか、ますます強化されている。それは、イーストウッド個人の変化を示しているのだろうか。あるいはアメリカ映画全体がパラダイム・シフトを迎えつつあるということなのか。それともやはり明日もまた、これまで通り、面白いアメリカ映画が続いていくというのだろうか。イーストウッドに対する両者の率直な戸惑いを通して、我々はふたたび「アメリカ映画」の論理の再考を迫られているのである。
(木原圭翔/早稲田大学大学院 文学研究科演劇映像学コース 修士課程)

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