今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「小川プロダクション『三里塚の夏』を観る――映画から読み解く成田闘争(DVDブック)」

編著:鈴木一誌

出版社:太田出版

発行年月:2012年5月

「公共のため」という言葉の裏には犠牲のシステムがある。

これは本書の冒頭で鈴木一誌氏によって書かれた一文です。戦後の高度経済成長の下、「公共のため」という名目で推し進められてきた様々な開発事業。高速道路もゴミの焼却場も貯水ダムも、その恩恵の裏側には開発のために土地を剥奪されなければならなかった人々の苦悩が常に纏わりついているという事実がこの一文には集約されています。小川紳介監督が1968年に発表した『日本解放戦線 三里塚の夏』。全部で7作を数えることになる「三里塚シリーズ」の第1作にあたる本作には、現在の成田国際空港の建設を巡って生じた軋轢が徐々に武力闘争へと転化していく過程が捉えられています。そこには、公共事業が孕む犠牲のシステムに呑み込まれまいと必死の抵抗を試みる人々の姿が克明に記録されているのです。

本書は、『日本解放戦線 三里塚の夏』のDVDと、この作品を読み解くための解説や論文を収めた書籍によって構成されています。世界初ソフト化となるこの作品が、今を生きる私たちに戦後日本の地域闘争の実態を示す貴重な記録であることは疑いようがありません。しかしながら、本書はいわゆる「三里塚闘争」を当時の映像資料を基に回顧する類の書物ではなく、あくまで『日本解放戦線 三里塚の夏』という作品を中心に据え、社会的・政治的文脈を踏まえた上でその映画作品としての真価を問い直す試みとなっています。その中核を成すのが、編著者の鈴木氏を進行役に、映画評論家の山根貞男氏、映画監督の筒井武文氏が、本作のメインカメラマンであった大津幸四郎氏に当時の撮影の状況を伺っていく座談会です。出席者が実際に作品を鑑賞しながら進行していくこの座談会では、本作の形式面における特異性(劇中に解説がなく時間の経過も明示されないという構成、活劇映画を彷彿とさせる編集など)が強調される一方、農民たちの姿をカメラに収めることを通じて、撮影隊がその視線の在り様を発見していく過程が考察されていきます。

闘争の過程そのものではなく、その周辺にある「人間の営み」を中心に据える。このような作品製作を試みながら手探りで撮影を始めた小川紳介たちは、空港建設反対同盟や全学連から三里塚に住む農民たちへと徐々にその関心を移していきます。いわば「農民たちの闘い」へと焦点を合わせていくのですが、闘争現場を追う場合とは異なり、それはカメラを一方的に向けるだけで容易に捉えられるものではありません。なぜなら、三里塚の農民たちにとって常にカメラを担いだ撮影隊がそばにいるという状況は日常的なものではないからです。彼らにとって、普段見慣れないカメラの存在は重圧であり、撮影隊は外部からやって来た余所者に過ぎない。このような事実が撮影隊に重く圧し掛かっていたであろうことは、「最初のころは、農民にそっぽを向かれるんじゃないかと怖かった。」という大津氏の発言からも明らかです。本書の座談会においては、この両者が歩み寄って次第にある種の共犯関係をたち上げていく過程が、主に大津氏が現場で選択するカメラポジションの観点から考察されていきます。当初は農民たちの横顔を離れた位置から狙うので精一杯だった撮影隊が、カメラを向けられても動じない彼らの強さを目にするにつれて、次第にその顔を至近距離から捉え始めていく。「客観的なスナップショット」から「顔のクロース・アップ」へ。このように、カメラと農民との距離感がそのまま両者の関係性の変化を物語っていく過程が、時には1カット単位に及ぶ仔細な分析によって読み解かれていきます。それは同時に、当時のニュース映画に顕著であった「物事のクライマックスだけ撮れればいい」というようなものとは異なる視線、対象の「生」のすべてを画面に定着させようとするような新たな視線を、ドキュメンタリーという表現形式が獲得していく過程でもあるのです。そして、3.11以後ドキュメンタリーの有効性が問い直されている現在、カメラが投げかけるべき視線の在り様の一例を示すという点だけをとっても、『日本解放戦線 三里塚の夏』という作品が現在に再び召喚される意義は大きい。ドキュメンタリーという表現形式の在り方そのものを問うという意味で、今こそ読まれるべき一冊。

(坂庄基/神戸映画資料館スタッフ)

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