今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

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「映像身体論」

著者:宇野邦一
出版社:みすず書房
発行年月: 2008年3月
 見えるものである映像(イメージ)は、見えないものという深淵の中に浮かびあがると本書の冒頭で著者は言う。本書『映像身体論』において映画とは、スクリーン上に投影されてある映像なのであるが、それが常に見えないものである身体を覆い隠してしまう、ある意味で否定的なものとして定義されている。というのも「機械の与える映像」である映画は、「見るべきものが十全に見えているという錯覚とともにあるものであり」、必然的に本来見るべきものを制限し、排除してしまうからだ。見えるものである映像は、その配置関係が生み出す物語や感情、欲望といったものによって深淵である身体を従属させ、「世界との生き生きした接触を失わせる」だろう。つまり我々は、映画館の暗闇の中でスクリーンに向かい合うとき、何かを見たような気になっているが、プラトンの洞窟のたとえのように実際は何も本質的なことを見ていないということになる。
 では深淵にある身体とはいかなるものだろうか。それは我々に与えられ、現前している身体よりもさらに奥にある、無意識の場にうごめく未知の形象である。それは物語や情報伝達といったものには還元されない身体と身体の共振、振動から生まれる無形の力である。この生の力の渦巻く真に見られるべき身体=深層と、それを否定的に固定し、排除しにくる映像=表層という二つの葛藤関係が本書で一貫してとりあげられる映画の問題である。
 この問題は特に現代映画に関わる。なぜなら現代映画は、この葛藤を乗り越え、映像の裂け目から幾分かの身体が露呈されるような純粋状態の時間=「真なるイメージ」を表現し、「悪しき映画」(映像)で膨張した現実世界から身体を回復させるかもしれないからだ。深層の身体と表層の映像という二元論、そしてその二元性をうち崩す現代映画という真なる映像(ローシャの「群衆」としての身体、デュラスの音声イメージと視覚イメージの間に穿たれる空白の身体等々)、これらが本書で繰り返し展開されるテーマであると言える。
 本書においてこの身体と映像をめぐる問題は、哲学と映画という異なる創造行為の間で思考し、映画の概念を生み出した二巻構成のドゥルーズの映画論『シネマ』とともに主に展開されている。その展開の主軸となっているのは、二巻目の題名でもある「時間・イメージ」という概念である。時間・イメージについて詳しくここで論じる余裕はないが、本書においてそれは前述した身体が、幾分か露呈された真なるイメージと同格のものとして提示されている。
 しかしながら本書と『シネマ』における映画の捉え方には、根本的なちがいがある。本書は前述したように不可視の身体から始め、それを覆い隠す映像として映画を扱っていた。このことから映画、もしくは映像を見ること、分析、批評することとは、「見えているもの、見せられているものを問い、それがどんな配置や、制限や、錯覚とともにあるかを問う」ことであるとされる。それに対し『シネマ』は、映画がその背後に本質的に見られるべきものなどないすべてスクリーン上に現われてあるもの、〈イメージ〉や〈表現〉であるということから始めている。ここでは映像とは運動状態の身体のことであり、その限りで互いが区別されることはない。つまり映像・身体は我々に常に・すでに与えられてあるものであり、問題はそれがいかなる仕方で、他の身体との関係や運動において表現されているかということなのである。映像・身体は運動の速度や他の身体との関係によって別の表現の仕方や特徴へと移行していく。
 本書で否定的なものとしてあげられていた映画を構成する欲望や感情、物語といった運動・イメージも、時間・イメージと同じように表現の仕方の種類として含まれる。そしてそれぞれの表現の仕方の間には、優劣や真偽の関係はなく、すべて肯定されるべきものである。しかし、もしすべては表現の仕方、またはベルクソンのようにすべては同等なイメージだとするのなら、「偽のイメージが真のイメージを覆ってしまうという問いを提出する」必要はなくなってしまうではないかと著者は反論する。本書は『シネマ』のようにスクリーン上に表現され、現われてあるもの=映像・身体の移行・生成過程としての映画からではなく、あくまでまず純粋な感覚されるべき不可視の対象である真正な身体から始め、それにより近いイメージを真のイメージ、そこから遠ざかったイメージを悪しきイメージとして定立する。
 しかし本書において一貫されていたこの前提は、キアロスタミの映画を論じた「キアロスタミ讃」では裏切られている。この章で映画は、その創作や見られることに関わるあらゆる身体(カメラや照明機材、映写機といった機械も含まれる)の関係、またはその関係の関係であり、その関係の〈表現〉であるとされている。「ひとつの視線、言葉、身振りも、別の視線、言葉、身振りの反映であり、それらとの接触、それらとの距離、関係を表現する(…)映像そのものが関係であり、関係の関係である」。つまり身体・映像は、不可視の深淵にあるのではなく、スクリーン上にまぎれもなく現前し、他の幾つもの身体と多数の関係群を構成しながら新たな関係を生み出す力であり、その諸力の表現なのだ。そしてこの身体という力の総体が他の身体とともに関係づける力、交渉する力、演じる力、あるいは生きる力こそが、一見際だった物語のないキアロスタミの映像全体を貫いている映画を展開させる原動力なのである。
 では身体をこのような関係づける力やその表現とするなら、映画を批評することとはいかなることとなるだろうか。それは世界の外や彼方でも、真なる世界でもない、スクリーンという平面上に現われてあるこの世界、この身体・映像の諸力に、あるいは「イメージの神秘」に直面することから、語りうることを紡ぎ出すことである。言いかえれば、スクリーン上の映画を構成するあらゆる表現の仕方(物語、演出や感情も含めた)を優劣無く把握し、それを言語において表現することである。この章で著者は、スクリーン上に現われてあるもの(乾いた大地の肌触り、通り過ぎていく車の音や人の声、子どもたちのしぐさや態度、プロットや演出、一連のシークエンス)を丁寧に描写することから始めているのはそれゆえである。
 この前提への裏切りは何を意味するのか。それは著者の無意識の映像への信頼、あるいは肯定からくるとしか言えない。前述した前提において映像は、否定的、制約的なものであったが、「キアロスタミ讃」では固有の豊かさ、過剰さを内包したものとして考えられている。この豊かさは、表現の仕方の多様性からくるスクリーン平面上の見られるべきもの、あるいは批評において語られるべきものの豊かさであり、諸関係の構成と再構成を繰り返す身体の多産性からくる新たな表現の仕方の過剰さである。それは深淵の純粋性、真正性と表層の否定性という考え方に対立していると言える。
 そして映画を見ることとはこの豊かさ、過剰さに関係づけられてあること、貫かれてあることの震えや振動、あるいは喜びを享受することではないだろうか。この「キアロスタミ讃」における裏切り、つまり映像への信頼は我々をもう少し先へと進ませる。すなわち映像を信じること、スクリーン上に現われてあるものだけを信じることは、あらゆる現われてあるもの、あらゆる映画、あらゆる映像・身体からこの豊かさや喜びを受けとるという実践に我々を向かわせるのだ。
 これは時間・イメージというある一つの表現の仕方だけを絶対化し、真なる映画だけを悪しき映像から区別する道徳的態度と対立する、一つの倫理的態度である。この倫理的態度は、『シネマ』に一貫してみられるドゥルーズの倫理であり、本書序章で引用されている「身体は何をなしうるのか」と問うたスピノザの倫理と共鳴するものである。この問いが提起するのは、あらゆる身体からそれらが内包する多産性と表現の仕方の多様性を見出すという態度であり、特定の表現の仕方だけを絶対化する考え方への批判である。そして何よりスピノザは、より多くのなしうること、多産性・多様性を理解することを有能性、または喜びとした。映画を見ること、映画が持つイメージの神秘に関係づけられてあることとは、このスピノザ的倫理=実践を必然的に実行することに他ならず、本書における無意識の裏切りは明確にそのことを証明しているのである。(芳村優希)


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