今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

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「マキノ雅弘 映画という祭り」

著者:山根貞男
出版社:新潮社
発行年月:2008年10月
 
評:北浦寛之
評:羽鳥隆英
 
 
 
 
 

 
 

評:北浦 寛之  

 
 〈マキノ〉という名が〈日本映画史〉と同等の響きをもっていることに、今さら何の説明も要らない。にもかかわらず、その〈マキノ〉から容易に連想される〈マキノ雅弘〉について、彼の映画を、網羅的に分析し体系的に論じた書物がこれまで刊行されてこなかったという事実には驚かざるを得ない。本書は、そんな貧窮なマキノ映画論の現状に際して、マキノ雅弘生誕100年を迎えた今年、満を持して上梓された待望の一冊である。
 「マキノ雅弘は生涯に二百六十本余りの映画を撮った」。本書はこの明解な一文から書き出されている。この一文は、マキノ雅弘の膨大なフィルモグラフィーを明らかにしながら、『マキノ雅弘自伝 映画渡世』全二巻(平凡社)を山田宏一とともに編んだ著者をもってしても正確な制作本数を割り出せない、〈マキノ〉の全貌をつかむことが困難なことを的確に伝えている。マキノ映画についての論考の乏しさは、こうした事情があってのことかもしれない。ただ著者はこの冒頭の一文を、決してマキノの端的な説明に終わらせることをしない。すなわちこの一文は、触知不可能な〈マキノ〉へと果敢に接近していく覚悟の表れでもあり、事実これを口火に著者の脳裏から圧倒的な量のマキノ映画が解き放たれるのである。
 『血煙高田馬場』(1937)や『鴛鴦歌合戦』(1939)といったマキノ映画の代名詞はもちろんのこと、大群衆による阿波踊りがラストに約15分延々と展開される『阿波の踊子』(1941)、主人公の長谷川一夫が冒頭約30分も登場しない文字通りの『待って居た男』(1942)、一般には黒澤時代劇の印象が強い三船敏郎が山口淑子と組んでメロドラマを演じた『抱擁』(1953)といった、DVDやビデオでは見ることができないユニークな作品も本書で詳しく論じられている。また、一般的な劇映画と違う、『泡立つ青春』(1934)のようなPR映画も本書は取り扱っていて、マキノ映画の幅の広さを読者に印象付けている。こうして本書の至るところから、著者の映画に対する情熱と、映画を見ることからすべてを語ろうとする真摯な姿勢が伝わってくるのだが、それは裏を返せば、マキノの映画を見ること、マキノの映画と対話することによってのみしか、触知不可能な〈マキノ〉へと接近することができない証左でもある。それでは、本書ではマキノ映画との対話はいかに実践されているのだろうか。著者がどのようにマキノ映画を論じているのかを具体的に見ていく。
 阪東妻三郎や嵐寛寿郎、片岡千恵蔵といった往年の名優から、中村錦之助や高倉健、さらには上述の三船敏郎といった戦後の大スターまで、あらゆる主演級の役者がマキノ映画に出演していることを、多くの者は知っている。だが、彼らがマキノ演出によって、どのように文字通りのスターとして輝いていたのかを突き詰めた者はなかなかいないだろう。こうしたマキノ映画への漠然としたイメージに対して、著者は明確な形を与えていく。著者は、誰もが体験していながら、そうだとは断言できなかった〈マキノ的〉要素、〈マキノ的〉演出をはっきりと同定していくのである。マキノ映画が徹底して娯楽映画であることは誰もが認めるところである。ならば、娯楽性を形成する〈マキノ的〉要素とはいかなるものか。著者はそれについても明確な回答を寄せている。他にも、マキノ映画に見られる男と女の恋愛が、マキノ演出によっていかに魅力的に描かれているのかも考察されているし、マキノ特有のリメイク作品の多さに着目した著者が、オリジナルとリメイクを比較検証する章もあるなど、分析対象となった数多くの作品がそれぞれ共鳴し合って、いくつもの〈マキノ的〉なるものの実像を浮かび上がらせるのである。
 とは言え著者は、見てきた映画だけをたどることで、〈マキノ的〉なるものを同定するわけではない。著者はマキノ映画の脚本を綿密に調べ、脚本と映画の違いを検証し、マキノが何を表現しようとしていたのかを明らかにしようとする。そして、この試みが、本書の見所のひとつと言える。と言うのも、ここで議論の俎上に載る作品のひとつに新国劇の殺陣師を主人公にした『殺陣師段平』(1950)があり、本作品は監督マキノ雅弘、脚本黒澤明とまさに日本映画の黄金期を支えた両雄によって作られたもので、議論は両者の映画作りに対する姿勢の違いを鮮明に打ち出していくのである。「シナリオは段平のリアリズムへのこだわりをもっと細かく描いている。そもそも映画では段平がリアリズムという言葉をちゃんと口にすることはない」、「マキノ雅弘が夫婦愛に力点を置いているのに対し、黒澤明はリアリズムという言葉を強く差し出すのである」。こうした著者の記述から見て取れるように、リアリズムに固執する黒澤と、そうではなく映画的バランスを保とうとするマキノの姿勢が浮彫にされる。本書では『殺陣師段平』の映画とシナリオの比較が詳細に行われていて、読み進めていくうちに、マキノ雅弘と黒澤明のそれぞれの映画が連想される仕掛けになっている。
 本書に目を通した読者のなかには、マキノ映画を実際に体験しているような感覚を覚える者もいるかもしれない。次々と紹介されるマキノ映画は、例えそれが未見のものであっても、馴染みのある〈マキノ的〉要素と関連付けて記述されていて、その映画を想像することが容易であり、文章は、まるでマキノ映画のリズミカルな編集を思わせる律動を刻んでいる。しかし、だからと言ってわれわれは本書の〈マキノ的〉感覚に酔いしれているだけではいけない。本書がまだまだ拾い上げられていない〈マキノ的〉なるものはきっと数多く存在する。われわれは本書を足がかりとしてマキノ映画を体験し、そこで拾い集めた〈マキノ的〉要素から、不可視な〈マキノ〉の全貌を少しずつ明らかにしていかなければならない。
 
 

 
 

評:羽鳥 隆英  

 
 本書は映画批評家・山根貞男がマキノ雅弘を分析した研究書の類ではない。著者自身「あとがき」に記すように、「マキノ作品の名場面集」として編まれている。そして、ここが重要な点であるが、著者は本書を執筆する過程においてマキノ雅弘を追体験している。つまり、本書はマキノが映画(特に東宝版『次郎長三国志』)を撮る作法に則って書かれた活字版「マキノ作品の名場面集」なのである。
 映画を語る者にとって、マキノ映画の魅力を言葉にすることほど困難な仕事はない。実際、マキノ映画を見た者であれば、それらがいかなる理論的枠組みをもすり抜けていく映画であることを直感的に知るはずである。例えば、東宝社内に残されているかもしれない一次資料を精査して、『次郎長三国志』(1952—1954)の演出にあたり、マキノがいかに撮影所の桎梏と折衝したかを整理したところで、それがこの連作の持つ出鱈目な魅力を解明するとは思えない。あるいは『肉体の門』(1948)の中盤、田端義夫に貞操を奪われたらしい月丘千秋が街中を駆ける姿に、あろうことか田端の歌う『ダンディ気質』をかぶせる演出について、音楽における対位法の概念を借用したところで捉えきれるとは思えない。「あとがき」にある、「メチャクチャ楽しいだけの映画[中略]を論じることなど自分にできるわけがないと」の一節は、マキノを愛する者全ての歯痒さを代弁している。しかし著者はマキノに挑戦した。それを可能にしたのは逆転の発想である。
 マキノ映画にいかなる理論を押し付けたとしても、結局はそれらの魅力を取り逃がしてしまう。それならば、マキノ雅弘の視点からマキノ映画を眺めてみよう。撮影現場のマキノに《なったつもり》で、マキノが自作の「名場面集」を監督するとしたらどうするかを想像しながら、活字版「マキノ作品の名場面集」を編んでみよう。そこから、マキノの魅力を言葉にできない歯痒さを打破する契機が得られるかもしれない。本書には著者のそうした期待が込められているはずである。実際、本書はマキノ映画のように、とりわけ東宝版『次郎長三国志』のように書かれている。本書の原型である雑誌『新潮』でのマキノ論の連載回数が全《9》回というのは、著者が「マキノ山脈の中心」と位置付ける『次郎長三国志』全《9》部を踏まえた数字であろうし、『新潮』連載時には第8・9回を前後篇として『次郎長三国志』論にあてていたものを、単行本化に際して1章にまとめ、最終的に8章構成になっている点も、本来は前後篇であるべき『次郎長三国志』第9・10部のうち、結局第10部は製作されなかった事実と奇妙に符合する気がする。そして何より第10部が製作されなかったこと、すなわちマキノの「代表作が傷を持ち、円満な姿をしていない」ことをもって「名場面集」を締め括る本書もまた、『次郎長三国志』同様に「円満な姿をしていない」。普通であれば、300頁近くに及ぶ「マキノ作品の名場面」を踏まえつつ、マキノ雅弘について、あるいはマキノ映画全体について総括めいた言葉が書かれるべきところを、尻切れ蜻蛉の第9部(並びに第10部の予告編)ともどもほとんど尻切れ蜻蛉に筆を置いてしまう身振りなどは、まさに『次郎長三国志』をなぞっていると言えるだろう。個性的な俳優たちが織りなす「名場面」の緩やかな連鎖が第9部の結尾で不意に断ち切られる『次郎長三国志』と、「マキノ作品の名場面」の緩やかな連鎖がマキノ映画全体の総括に帰結することなく終わる本書とが、合わせ鏡のような関係にあると言えばよかろうか。
 『新潮』での連載から単行本へという本書の辿ってきた道程も、多分にマキノ映画的と言える。今春、東京国立近代美術館フィルムセンターで開かれたマキノ雅弘特集を踏まえてのことであろうか、雑誌連載時には触れられなかったマキノ映画への言及が単行本化にあたって追記され、本書は雑誌版よりもかなり厚みを増している。そして、このこととマキノ映画におけるリメイクの問題も、やはり奇妙に共鳴しあうのである。繰り返せば、本書は「マキノ作品の名場面集」である。それゆえ、マキノ映画についての限りない経験の引き出しを持つ著者にとって、「名場面」を按配することで自著の厚みを調節するなど訳もないことであろう。かつて大河内傳次郎版『丹下左膳』2部作(1953)を水島道太郎版『丹下左膳』3部作(1956)にリメイクした折、役者の色の変化に合わせて、マキノは水島が得意ののどを披露するという「名場面」を書き加えた。同様に、著者も雑誌連載から単行本へという出版形態の変化に合わせて、「マキノ作品の名場面集」を自由自在に編み直している。このときの著者は、まさにマキノ映画的なリメイクの過程を追体験していると言えるであろう。
 本書はマキノ雅弘が映画を撮るようにマキノ映画を論じることに成功している。それゆえ、本書はマキノ映画と同様「メチャクチャ楽しい」。とはいえ、本書が著者によるマキノ論の集大成であるかと言えばそうではない。むしろ著者がマキノをめぐる決定的な啓示をもたらすのは今後である。前述のように、本書執筆の過程で、著者はマキノ雅弘を追体験していた。つまり著者はマキノ雅弘になっていたのである。その著者が、本書の刊行を契機として、山根貞男という本来の自画像を取り戻していく。そして、かつてマキノ雅弘になっていた著者自身を、山根貞男に返った著者自身が顧みる。このとき著者からこぼれるマキノ論は、マキノ雅弘がマキノ映画を語るときほどに(つまり本書ほどに)「メチャクチャ楽しいだけ」でもなく、また理論を振りかざすマキノ論ほどに退屈なだけでもない、まさに「メチャクチャ楽しいだけの映画」の真実を貫く言葉となるだろう。その言葉が紡がれる瞬間を逸することのないよう、マキノ映画に魅せられた我々は今から心の準備をしておかねばならない。


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