今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

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「密やかな教育:〈やおい・ボーイズラブ〉前史」

著者:石田美紀
出版社:洛北出版
発行年月:2008年11月
 本書は、マンガや小説における「女性がつくり楽しむ男性同士の性愛物語」の表現がいかにして成立したのか、その歴史を分析するとともに、作家たちが何を糧として創作活動をしてきたのか、そして何よりもその創作と表現形態がわれわれにとっていかなる意義を有しているのかを論じたものである。
 作家たちが描いたある男性の横顔のワンカットを見て、そのあまりの美しさに驚き、少女ではなく、彼を主人公にすべきだと強く作家に薦めたプロデューサーをはじめ、作家だけでなく創作現場の当事者たちへのインタヴューも収録されているのだが、このワンカットの魅力を引き出すことにはじまる著者の議論は、これらのジャンルについての歴史分析、作家論、そして作品論として具体的で緻密な分析となり、時にはユーモラスなしかし真摯な説得力をもって読者を触発するだろう。
 著者はこのコーナーで以前に紹介された『入門・現代ハリウッド映画講義』の共著者なのだが、「女性がつくり楽しむ男性同士の性愛物語」の創作活動に映画がはたした顕著な影響も明らかにされており、同時に、これらの物語から映画に向かって紡ぎ出されていた様々な言葉たちもまた丁寧に紹介されていく。
 例えば、「それは、ほかの誰のためでもない、自分のためだけに行った密やかな教育であった。そして今、私たちは、彼女が遺した批評と小説のなかに、ひとりの女性が『何かできるはずだ』と筆をとった意志を読み、彼女の思考が目指すものを辿り、到達したところを知ることができる。この営みを文化と呼ばずして、何を文化と呼べばいいのだろうか」と本書の著者は書く。
 ここで言及されている彼女、映画評論家としても知られるその女性は、ある男性の映画評論家の評論集の文庫版「解説」で、「映画や小説への無限の接近を欲望する言葉を産み出しておられるが、つまり言葉がゆきつ戻りつの実戦の場で具体的に鍛えられ、絶えず豊かな運動として騒がしく私たちを脅かし軽やかにつついて廻る、肉体の艶やかさまで備えた戦力そのものに昂まっている」と書いていたのだが、本書の著者が綴るテクストも、まさに表現への無限の接近を欲望する言葉と戦力に充ち満ちている。
 ある時代においてひとつの表現ジャンルを形成していく〈力〉はいかなる力学をもつのか。著者はその戦力でもって、まず作家たちの〈欲望〉を繊細に紹介していく。欲望が力となるには戦略と力学が必要なのだが、例えば、少年マンガVS少女マンガ、あるいは、マンガVS文学、サブカルチャーVS芸術でも、何だっていいのだが、本書で論じられている作家たちの〈欲望〉は、男性・女性という本質論的性差も含め、そんなうんざりするような二項対立からは逃れていくための戦力を有する〈教育〉が結実した〈営為〉、すなわち〈作品〉であることが明らかになる。この〈教育〉はやがて人々の営為そのものをあらゆる「限定辞」から遠く離れたものにしてくれるかもしれない。
 「人間=男であることの恥ずかしさ—書くことの最も優れた根拠はそこにあるのだろうか?」とある哲学者は書いていた。本書で論じられている作家たちもまた、その哲学者がいうように「あらゆる素材にみずからを押しつけようとする支配的な表現形態としてある人間=男」ではない、さらに「書くことは、生きられた素材にある形態(表現の)を押しつけることではもちろんない」のだから、彼女たちが描く彼らは〈男たち〉ではない。本書の作家たちは、〈男たち〉のように声高に主張して、ヘゲモニーの転覆を目論みはしないし、決して支配的な表現形態を描きはしないだろう。
 欲望とはある何ものかを押しつけるものではない。おそらく、「自分のためだけ」という恥ずかしさは、〈男たち〉の恥ずかしさからは限りなく遠く離れたものとなるように、何より自らの欲望に真摯であるための〈密やかな教育〉として実践されてきたのだ。
 もちろん、この〈密やかな教育〉が苛酷な闘いの歴史とともにあることを忘れてはならない。ある作家のエッセーが本書で引用されている。
 「そうだ、おまえは表現していい。好きな方法で。そうだ、おまえは存在していい。いかに邪悪だろうとくだらなかろうと、存在しているのだから存在を続けていい。好きなように。望むように。考えるとうりに。そうしていい」。
 この思いはこの作家だけのものではないだろう。いかなる状況にあろうと、いま現在において生きているわれわれ自身の誰もが、それぞれの表現における実践と実戦において抱く思いに他ならないからである。われわれが映画をつくり、上映し、見ているのならば、〈この戦いの轟きを聞かねばならない〉のである。(前田晃一)


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