インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW
『共喰い』 青山真治監督インタビュー

 

『東京公園』(2011)に続く青山真治の2年ぶりの新作『共喰い』が、9月7日(土)に全国ロードショー公開される。第146回芥川賞を受賞した田中慎弥の同名原作が持つ空気を十分に吸い込み、オリジナルの展開と結末を接続して高い跳躍を見せる102分の作品だ。第66回ロカルノ国際映画祭でのYOUTH JURY AWARD最優秀作品賞、ボッカリーノ賞最優秀監督賞のダブル受賞も頷ける「スクリーンで見ること」を要請する映画といえよう。ロカルノから帰国直後の監督にインタビューすることができた。

 
 

──プレス資料に掲載された荒井晴彦さん(脚本)との対談によれば、本作の出発点は荒井さんからの提案だったそうですね。原作には血や土地、『Helpless』(1996)に共鳴する時代性など、これまでの監督作に通底するモチーフが見られます。ほかにも映画化を決定づける要因はありましたか?

女性たちが活躍する……、いや、活躍っていうのは変だな、女性たちの物語を描けると思ったんです。僕は今、女性たちを撮ることに興味が向いている。そりゃあ世界には男性たちもいるにはいるけど、女性優先で撮っていきたい思いがあります。物語には主人公・遠馬(菅田将暉)の母親と恋人、親父の愛人という3人の女が既にいて、非常に重要な役割を占めている。そこにアプローチできるのが決め手でしたね。

──対談には、映画化が決まったあとに荒井さんと「日活ロマンポルノのノリでいこう」と話した逸話も記されています。性描写云々ではなく、女性を讃える。そこがロマンポルノとの共通点でしょうか。

そうですね。ただ「ロマンポルノ」はお互いのモチベーションを確認するタームに過ぎなくて、まずは「女性を描くんだ」というところからスタートした。出来上がった作品は、もっと開かれた内容になっていると思います。

──サイズはシネマスコープ。このサイズを選ばれた理由は?

僕がよくわかってなかったということもあります。「デジタルでシネスコってどうなんだい?」と。キャメラマンの今井(孝博)が「これはシネスコでいきましょう」と最初から頑として決めていた。「じゃあそれで」という流れでしたね。今井は『EUREKA ユリイカ』(2000)あたりから一緒にやってくれている田村(正毅)さんの助手だった男です。彼が一本立ちして初めて本編を手がけることになったので、「全部責任を押しかぶせてしまえ!」と思った。……それは冗談で(笑)、任せてみようと。今回、僕は画面に関してほとんど注文を出さずにいました。

──ポジションなどは監督が決めたとばかり思い込んでいました。

「こう撮ろう」と今井が言ったときに「そうじゃなくてこうだ」と指示したことは何度かあったけど、基本的には任せっぱなしでしたね。

──監督が指示を出されたシーンはどこでしょう。

お互い迷っていましたが、特に僕が「こうしたい」と思って押し通したのは、雨のなかを遠馬の母・仁子さん(田中裕子)が夫の円(光石研)を探しに出てゆく、あの一連です。あそこは僕がその場でかなり強く「こうだこうだ」と言ってカット割りをつくっていった。芝居を見ながら「どうできるか」と考えました。あらかじめ決めていたところはほとんどなく、現場で決める感じでした。

──終盤にさしかかるあたりのシークエンスですね。カット割りにはシネスコのサイズも影響したと思いますし、『サッド ヴァケイション』(2007)や『東京公園』(2011)と異なる印象を受けます。

今回はできる限りワンショットで収めたくて、カットを割っても同時にキャメラをもう1台回すことが多かったかな。芝居の呼吸が途切れるのが嫌だったし、菅田くんの〈一息の芝居〉を残したかったんです。

──遠馬が預けた鰻を取りに来るシーンの田中さんの芝居もすごい。それをほとんど一気に撮り切っています。

© 田中慎弥/集英社・2013『共喰い』製作委員会

あそこも2台回しました。一瞬だけ遠馬の表情が欲しくて、ポンと座ったところにワンカット入るけど、それ以外はほぼ一息で撮っています。母と子の語らいで最もキーになるシーンだと思ったので、息の長いショットを撮りたかった。

──あのシーンは、原作と違うタイム感があります。オープニングも原作と異なる、畳み掛けるようなスピードを感じました。

そうでしたか? あまり意識はしてなかったけど、オフのナレーションが乗りますよね。あの感じは、トリュフォー的にやりたかったのかな。編集中にトリュフォーのことを考えていた気がしますね。口調をすごくスピーディーに、と。あそこのイメージはトリュフォーだったと思います。

──その後の構造がシンプルなこともあり、インパクトのあるオープニングです。

画面に写っている遠馬の独白なのに、声の主は違う。語り手が別にいる感覚と、遠馬が2013年から1988年を望遠鏡で見るように語る〈距離感〉が欲しかったんです。

──原作に基づくなら、眼のクローズアップにしてもおかしくないかもしれません。でもそれがない。あえて避けたのでしょうか。

どうしてもクローズアップは撮りたくなかったというか。そういう気分でした。

──先ほど挙がった〈距離感〉にも関連していますか?

そう、引きの世界。寄らずに済むのなら、なるべく寄らないほうがいい。僕はいつもそうです。

──距離に関しては田中慎弥さんとの対談で、過去に監督のご出身地・門司から作品の舞台である下関を対岸の鏡のように見ていたと語っておられましたね。そして『Helpless』が平成のはじまりを描いたのに対し、本作は昭和の終わりで合わせ鏡みたいだとも。昨年の制作時、監督は48歳。それまでの人生のおよそ半分が昭和、残り半分が平成であるのも合わせ鏡に似ていないでしょうか。

……ああ! それは全然考えてなかった(笑)。自分が昭和と平成とをちょうど半々に生きていたとことに今、気がつきました。まったく忘れていました(笑)。

──もしかすると、それも映画化の要因かと想像していたんです(笑)。

いや、まあ運命的なことなんでしょうね。そうかそうか。

──エンディングのナレーションに「昭和が終わった」という一節があります。しかし映画からは「終わっていない」、むしろ「終わらせない」意志を感じました。

© 田中慎弥/集英社・2013『共喰い』製作委員会

昭和というより、「戦後」が終わってない意識ですね。父母や生前の祖父母たちから「戦後なんてものは終わらないよ。お前が生きている限り終わらない」とよく言われていました。「第二次大戦がつくり出した問題が山ほどあって、それはお前が死んでも終わらないんだぞ」。ずっとそう聞かされてきたので、その継続感の反映なんでしょうね。僕自身もやはりそういうふうに、できることをやり続けるしかない。終わらない、エンドレスな感覚があります。

──継続性はロカルノの会見でも話題に上っていました。また遠馬は、強いて言えば男性側に属しかねないけれど、男性と女性、父権や母権、どちらの側にもつかない若者なのだと。

この映画のストーリーのあとに彼が別の生き方、どちらでもない自分自身の人生を見つけて歩み出す。そこが僕自身の次のステップでもあると思っているんです。

──会見では「玄関に立った」という発言もありました。

© 田中慎弥/集英社・2013『共喰い』製作委員会

うん、そうでしたね。カネフスキーの『動くな、死ね、甦れ!』(1989)の次の作品が『ひとりで生きる』(1992)。英題はたしか『An Independent Life』でしたが、何か、人がひとりで生きる映画をつくりたいなと思っていて。母親の圏域からも父親の圏域からも逃れて、ひとりで生きはじめる人間の姿をこのあとに見ることができるんじゃないかな、と。ここまではひとりで生きてないけど、遠馬がこれから先、ひとりで生きる姿を観客の皆さんに想像してもらう。僕は僕で『共喰い』のあと、そっちへ進んでいきたいし、進んでいけたらなあと思っています。

──本作が、監督のフィルモグラフィの分岐点になりそうでしょうか。

自分はまあ、やれることをやっているだけなので。でも絶えず前に進んでいるのは間違いないんですよね。自分なりにふと「原点回帰したのかな」なんてことも一瞬考えましたが、いや、そうじゃないなと。やっぱり前に進んでいるんだと。「遠馬的な存在が玄関に立った」とはそういう意味です。だから、次は玄関の外に出たい。それはいつになるかわからないけど、やれるだろうという気持ちになる作品ですね。

──遠馬と監督のこれからは興味深いです。それから、仁子が強烈な存在感を放つ終盤のシーンで伺いたいことがあります。遠馬と最後に言葉を交わすとき、彼女は普通ないであろう円い空間のなかにいる。あの円は、ロラン・バルトの言う「東京の中心の空洞」を表しているように思えたのですが。

あれは美術デザイナーの清水剛が図面を引いた完全な創作空間で、彼にそのイメージはなかった筈です(笑)。僕もそのことを考えてみたけど、あえて円形にした理由までは訊きませんでした。単純に構造として面白かったから「まあいいや、これでいこう」と。

──隠喩めいたものは一切込めていませんか?

うん。逆にあれがもし隠喩なら、(劇中で仁子が語る)「あの人」そのものになってしまうわけですからね。

──無駄な深読みでした(笑)。一昨年、神戸映画資料館で丹生谷貴志さんとの対談があり、『すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために』(2001)が上映されました。その翌月、丹生谷さんは東京大学で戦後日本をめぐる講演をおこなっています。そこで「不可能、無意味、つまりは《空虚》に対して表現があるとすれば、それは何か。それを知ってみたい」と話され、『すでに老いた』に触れている。ロカルノで監督も「不可能性」へのアプローチを語っておられました。表現と不可能性に関してお話し願えますか?

つねに空虚というか、「空白」を前提としているところがあります。それを表現と言っていいのかどうかわからないけど、何もないことからスタートする。でも、映画はそれを撮れないんですよ。「何もないのは表現にならないのだ」という挫折からはじまる。本当は「空白」を撮れれば一番いいんでしょうが、撮影してそれを映写するとき、絶対に何かが写ってしまう。単に光だけでもそこに何かが写っているわけで、真っ黒なら「黒画面」というものが写っている。絶えず何かが写し出されない限り、作品になり得ないとも言える。空白を前にした挫折感、そこからスタートするのはまず間違いないですよね。

──これから監督の映画を観てゆくうえでも考えたい問題です。次に、作品の細部についてお聞かせください。遠馬が着ているTシャツのデザインはチャック・ノリスです。そして彼が読んでいる本は吉行淳之介の著作と、白水Uブックス。「遠馬はどんな趣味を持っているんだろう」と疑問が頭をかすめました(笑)。監督のアイデアでしょうか。

チャック・ノリスは助監督が選んだものですね。本は……、吉行とマンディアルグ、どこかで中上(健次)も読んでいて、荒井さんがヒントをくれた部分が大きかった。吉行も荒井さんから出たのかな。『暗室』だった気がしますが、「そういえば『暗室』は日活ロマンポルノで映画化されたよね」って。そういうことも含めて選んでいた気がしますね。

──原作にはない面白いディテールです。

(笑)。チャック・ノリスって、やっぱりマッチョの権化じゃないですか? あの時代の17、18歳の少年にとっては、マッチョ=チャック・ノリスだったみたいですね。ちょうど遠馬と同い年にあたる助監督から提案があって、チャック・ノリスになった(笑)。

──マッチョの視覚化ですね(笑)。そして音楽のクレジットに監督の名前があります。具体的にどのような作業をされたのでしょう。

全体の音設計と、鈴の音を演奏しました。雅楽のイメージで。

──『映画秘宝』の柳下毅一郎さんによるインタビューにも「雅」というワードがありましたね。

そうそう。下関がある山口は、むかし「西の京都」と言われていましたからね。

──本作は「女たちの物語」だとはじめに伺いました。『女たち』といえば、監督のお好きなローリング・ストーンズの1978年のアルバムタイトル。その後、昭和が終わり平成になった1989年に彼らがリリースしたアルバムは『スティール・ホイールズ』でした。

……その頃はもうストーンズ聴いてなかったなあ。アルバムを買っていたのは「アンダーカヴァー」(1983)まで(笑)。

(2013年8月22日・大阪市内にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

『共喰い』2013年9月7日(土)より全国ロードショー!
大阪ステーションシティシネマ/なんばパークスシネマ/MOVIX京都/神戸国際松竹ほか
© 田中慎弥/集英社・2013『共喰い』製作委員会

映画『共喰い』オフィシャルサイト
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