『SHARING』 篠崎誠監督インタビュー
完成から2年を経たこの春、篠崎誠監督作『SHARING』がいよいよ劇場公開される。前作『あれから』(2012)に見られた「311以降をフィクションで描く」取り組みは、ドッペルゲンガーや予知夢というモチーフを持つ新作で、どのように画面に定着しているのだろうか。制作の発端や、教鞭を執る立教大学の新座キャンパスを使った撮影、分身のような2つのヴァージョンが生まれるまでの経緯などを伺った。
*なお、このインタビューは約1年前におこなったもの。公開までの長い待機期間の記録として取材時の表記を残し、今回の掲載にあたり、監督に補足していただきました。
──篠崎監督の作品で英語タイトルは珍しいと感じました。どのようにして決められたのでしょう?
これまであまりなかったですね。中学生、高校生の頃には横文字のタイトルに憧れて、自作の8ミリ映画に横文字のタイトルをつけたこともありましたが、ある時期からは使っていません。デビュー作の『おかえり』(1996)を、『OKAERI』だと思っている方もいらっしゃいますが、あれはポスターのデザインのロゴであって、正式な題名は平がなで『おかえり』です。ただ、『あれから』でも脚本を書いた酒井善三君と「題名はどうしようか」と話していて、なぜかフト今回は英語のタイトルも解禁かと考えていたら、彼が僕の心を読んだかのように、「英語のタイトルはでどうでしょう」と切り出したのが『SHARING』だったんです。聞いてすぐにいいと思いました。「それしかないな」と。『あれから』公開の際にプロデューサーからフェイスブックを任されたことも大きかったかな。「シェアする」という表示が出てくるじゃないですか? 「これは一体何だろう。どういうことだろう」と思っていたんです。「シェア」って、必ずしもよいことに賛同するだけじゃなく、逆の意味でもおこなわれますよね。それも含めて面白いと感じていました。賛否とか関係なく、あることを「共有」する。本作では、同じ大学にいるけれども、本来なら交じり合うことのない複数の登場人物たちが何かを共有してしまう。しかし日本語で「共有」とするとタイトルとして硬いし、すんなりとこの題に決めました。響きがちょっと『シャイニング』(1980)みたいだし(笑)。
──言われてみれば似ています(笑)。多くのシーンを立教大学の新座キャンパスで撮影されたそうですね。新しい試みだったのでは?
思い返してみると、新しい試みというより、僕自身が大学生の頃は学内でばかり撮っていたんですよね。新座キャンパスは初めてですが、かつて僕は立教大学文学部心理学科の学生で、当時は池袋キャンパスしかなくて、来る日も来る日もそこで映画を撮っていました。上の世代に黒沢清さん、万田邦敏さん、周防正行さん、塩田明彦さん、小中和哉さんがいらして、同世代では齢は下になりますが、青山真治さんが学内で8ミリ映画を撮っていました。学生にとっていちばん身近な大学を、まるで撮影スタジオのように使っていました。毎日通っているので裏道に何があるか、そこにカメラを置いてフレームを区切れば、いままで見たことのないような不思議な場所になると知っていたから、「こんな面白い空間がある。ここはまだ誰も使ってないな」と競うように毎日撮っていた記憶があるんですね。いまは立教大学の現代心理学部映像身体学科の学生たちとワークショップで映画をつくっていますが、彼らはすぐに「大学の外に出ていいですか?」と聞いてきます。すぐ大学の外に出たがる。すごくもったいない。いやいや、ちょっと待って、と。大学って被写体として非常に面白い場所が多いし、空間のあり方も不思議なんです。映画の面白さのひとつは、カメラアングルや、どこから見つめるかによって自分のよく知っている場所が全然違って見えてくることです。フレーミングによってそこが異空間になる。だからもう少し学内で撮ってみてもいい。「こんなに面白いところがまだあるんだよ」ということを学生たちに示す教育的な効果(笑)もひっくるめての撮影でした。でも、大学って面白いですよ。撮ってみて改めて感じました。おまけにロケ費用がかからない(笑)。あと、台車1~2台で機材が運べて、撮影現場から次の撮影場所への移動も徒歩5~10分で出来てしまう。これはとても重要なことなんです。実は撮影で一番時間がかかるのは、ひとつの撮影現場から別の撮影現場への移動です。機材の積み下ろしやセッティング、移動時間でどうしても数時間はロスしてしまいますから。その分じっくり粘って撮れるし、食事休憩もゆっくりとれました。
──予告編(『SHARING』特報)は、「このように大学を撮れるとは」と感じさせるつくりです。
予告編はいちばん面白く見えるようにしないとマズイじゃないですか? 僕らが子供のときにだいぶ騙されましたけど(笑)。
──そうでしたね(笑)。本作は文科省の研究プロジェクト(「新しい映像環境をめぐる映像生態学研究の基盤形成」)の一環ということですが、当初から映画制作の構想も含まれていたのでしょうか?
映画制作は最初から含まれていました。僕らのチームが探究したのが、3Dを使わない、「映画の奥行きの表現」。奥行きは2Dの時代から大事な映画表現で、もう一度そこへ立ち返って、3D以前の映画の空間がどのように構成されていたかを探求するのが目的でした。もともと5年間のプロジェクトで、最初の3年間に研究発表があって、後半の2年が映画制作にあてられました。僕と筒井武文さん、万田邦敏さんは監督なので、「論文の研究発表じゃなく作りたい!」ということで、奥行き表現を取り込む形でそれぞれが短編映画を撮ることになったんです。でも奥行きって……、当たり前ですが、カメラを向ければ否が応でも奥行きは出てしまいますよね。裏を返せば、どのような題材でもいい。予算は少なかったですが、こんなチャンスはなかなか無いのでワクワクしていました。ところが最初の1年が終わる頃、本来3年目は可燃性のフィルムを見るために海外出張する予定だったのが、それが不可能だということがわかりました。映画の撮影は4年目に開始のはずだったのが、1年前倒しになり、急遽3年目に制作しなければならなくなったのです。では誰が最初にやるのかということになって、万田さんに「シノやん、先にやって」と。つまり斥候兵の役割ですね(笑)。とりあえず僕が偵察に行って、「ここには地雷が埋まっている、これ以上こっちに行くと危険だ」とか攻撃を受けたりするのを、筒井さんと万田さんが後ろでニヤニヤしながら見ているという図式でしょうか(笑)。でも僕が最初に、本来なら短編の予算で長編を撮ってしまったものだから、おふたりも長編を撮ることになって。3本共通のテーマは「奥行き」ということだけなので、ある意味すごく野蛮な企画ですよね(笑)。僕が2013年度に『SHARING』を撮って年度末の2014年3月に完成。続けて2014年の暮れに筒井武文さんが『自由なファンシィ』を撮影して、今年(2015年)9月に万田邦敏さんが撮影に入ります(万田邦敏監督作『SYNCHRONIZER』は2015年12月に完成)。ありがたかったのは、商業公開を目指しているわけではないので、内容的に実験的なことが出来たことで、内容に関しての制約は大学から一切ありませんでした。研究目的でつくったので極端な話、完成して大学のなかでお披露目すれば、本来それでおしまいのはずでした。ただし、研究期間が終了すれば、著作権は完全に僕らの元に戻って自由に公開できるようになります。ずるいのは(笑)、僕は2年待たねばならないわけですが、筒井さんは完成から1年、万田さんは完成の数ヶ月後、プロジェクトの終わる来年(2016年)4月には公開できるんです(笑)。
──まさに斥候兵だったわけですね(笑)。しかしながら、「奥行き」という研究テーマが長編映画3作に発展するとは。
「何でもあり」とも言えますね(笑)。ただ、有名な漫画やベストセラー小説を原作にして、テレビでもよく知られているような俳優が出ないと映画が成立しない現在の状況で、「奥行きだけ映っていれば何を撮ってもいい」というこの企画は、僕らにとっては本当にありがたかったですよ。三者三様の映画が出来るはずです。
──モチーフである「311」や「予知夢」についてもお話しいただけますか?
酒井君と「311以降」を、『あれから』とは違う形で、別の角度から撮ろうと話してはいたんです。実は『あれから』が第25回東京国際映画祭で上映されたとき、まさにその会場の片隅で次回作の話を始めました。2011年の暮れか2012年の年明けにはすでにシナリオが出来ていました。『愚かな夫』という題名で、帰宅難民になった夫婦の間に亀裂が入る話で、後に改稿を重ねて『戻れない』というタイトルに変えました。残念ながらそれは映画にならなかったけど、「311以降」を描くというのはずっと自分の心のなかに残っていました。それを少し脇に置いて別の主題を考えようとも思ったんですが、なんでしょう……、うまく言葉で説明できないですが、誰に強要されたわけでもなく、どうしてもそこに戻ってしまうんです。そして、撮るからにはまったく違う形で、『あれから』から3年経った2014年を舞台にして、登場人物も増やして、物語の構成も前作で出来なかったことをやりたかった。そのなかに予知夢などのモチーフが入ってきたんです。ただ、だいぶ経ってから思い出したのですが、むかし、高校1年生のときに予知夢と分身、ドッペルゲンガーを題材にした短編をつくっていたんです。撮ったことすら忘れていました。だから、計算して出てきたものというわけではないですね。ずっと前から地震や原子力発電所に大変なことが起こるイメージを持っている人がいたとして、普通ならそれは「考え過ぎ、思い過ごしだ」と言われますよね。でも、そのような恐怖を抱いていた人たちは、実際に起きたあの出来事をどう捉えるだろう? 周りから妄想だと思われていたことが現実になったときにどう感じるだろうか? なぜそんなことを考えたのかわかりませんが、東日本大震災が起こった日か翌日に、そう思ったんですよね。そのことは『あれから』を制作する時点ですでに頭にあって、当時、作品パンフレットにも書いていて。『SHARING』の脚本をつくっていく過程で、そのことを思い出していました。
──震災以降、篠崎監督が撮ろうとしておられものにブレが無いとも感じます。
見た人からは、「また同じことやって」と思われるかもしれない(笑)。映画監督って皆同じかもしれませんが、つくっている本人たちは毎回違うことをやりたいと考えているんです。でも同じ人間が考えるので、通底してしまうことはあるでしょうね。だから、なるべく自己模倣に陥らないように、信頼できる脚本家やプロデューサーが必要なんです。
──2つのヴァージョンがあることも本作のユニークな点です。どのような経緯で生まれたのでしょう?
文科省の助成を受けたプロジェクトの一環なので、当然、計画書通りに2013年度末までに完成させて提出しないといけなかったわけです。それも3月31日ではなく、大学の都合で遅くとも3月半ばくらいには完成させなければならなかったんです。もともとのホンには、『あれから』と同じように桜のシーンもありましたが、開花を待っていたら締め切りに間に合わない可能も高い。ともかく何回か書き直したシナリオの決定稿で撮って、同時に編集を始めていました。メインのある登場人物のシーンを中途半端に展開させると散漫なものになりかねないと編集者から指摘されて、「いっそ登場人物を1人削ってはどうでしょうか?」と大胆な提案がありました。提案というより、「もう切ってしまったんですが、一度見てください。ダメなら戻します」と。本来、シナリオにはメインとなる登場人物が3人いました。それを申し訳ないけど1人ざっくり落として、女性2人の話として編集してみると、非常にシンプルで力強い話になりました。さらに言うと酒井君と話していたときは、そもそも歳の違う2人の女性の話でした。ところがいざ僕が書き出したら、筆の勢いなのか僕の無意識が生んだのか、第三の男を登場させてしまったんですね。なので、共同脚本の酒井君と話しはじめたアイデアに戻ったともいえる。これはこれでアリと。それとは別に本来のシナリオに近い形で時間をかけることにしたのが、もうひとつのヴァージョンです。
──それぞれの長さを教えていただけますか?
立教でお披露目した第1ヴァージョン(*篠崎注①)が99分。釜山国際映画祭や第15回東京フィルメックスで上映したのはそれとは違う長いほうで、ほぼ2時間。こちらを仮に第2ヴァージョン、ロング・ヴァージョンと呼んでいます。フィルメックス上映時はほぼ2時間近かったのですが、その後も部分的に手を加えて、いまは重要なワンカットを戻した上で、シーンそのものはひとつも落とさずに、そのなかで説明的な部分や繰り返しに思えるところをカットして、115分弱(2016年4月現在さらに短くなって111分)です。先ほど申し上げた通り、『SHARING』は、文科省の研究助成プロジェクトでつくられていて、研究機関は来年(2016年)の3月末まで続くので、そのあいだに商業映画として上映して利益を上げてはいけない規則になっています。これまでも映画祭で上映した場合は、入場料金はすべて第三者である映画祭の主催者側、上映側に落ちるようにしてきました。それだと全く問題ないですが、研究の当事者である僕たちが利益を上げてはいけないという事情があるんです。よくディレクターズ・カットというと長くしたがる監督が多いようですが、僕の場合は逆でどんどん短くしたくなってくるのです(笑)。
──2014年の東京フィルメックスで上映されたのは117分版でしたね?
いえ、あれはフィルメックス側のデータの記載間違いで、フィルメックスで上映した時は119分ちょっとありました。119分40秒くらい。あの間違った上映時間の記載を見て、「これって2分カットしろってことなのか」と(笑)。最初に関係者だけに見せたセミ・オール試写は、たしか129分。その後、数か月ごとにチェック試写を何度もして、どうしても気になるところを短くして119分、そして117分、115分弱(その後、112分を経て最終的に111分)となりました。それとは対照的なのが、立教でお披露目した99分版です。最初に観客に見せたヴァージョンなので便宜上、第1ヴァージョンと呼んでいましたが、こちらは最初に立教大学で上映してから手直ししていません。第1ヴァージョンと第2ヴァージョンでは、上映時間に10分以上の開きがあります。「10分ちょっとしか変わらない」という言い方もできるけど、第1ヴァージョンにしか存在していないシーンやショット、台詞もありますし、編集の間合いをたっぷり取っていたりもします。だから単純にショート・ヴァージョンとロング・ヴァージョンということでもないんですよ。どちらかがディレクターズ・カットで、もう一方を不本意に作ったというわけでもなくて、いずれも僕が編集に関わっているので、2作ともにディレクターズ・カットですね。ご覧になられた方の多くは、やはり「印象が違う」とおっしゃられます。まさにドッペルゲンガー(分身)のように、似ているけれど、違う2本の映画があるということです。
*篠崎注①:この度の公開に合わせて99分の第1版=ショート・ヴァージョンは、『SHARING アナザー・バージョン』と命名。第2ヴァージョン=ロング・ヴァージョン(111分版)は単に『SHARING』としました。
──物語の展開や構成もだいぶ異なっているのでしょうか?
全体の構成自体は同じですが、どこからか枝分かれして、山田キヌヲさんに演じていただいたヒロイン・瑛子の運命が変わる……と言うと大袈裟かもしれませんが、彼女の抱えているものが『~アナザー・バージョン』と111分版では少し違いますね。でも『~アナザー・バージョン』が短いからといって不完全ではなく、いまお話ししたように、ある意味で「事故」のように出来上がってしまったものではあるけれど、自分としてはとても気に入っているし、短いほうが好きだとおっしゃる方もおられます。一方で長いほうがいいという方もいらっしゃいます。ヴァージョン違いって、結構ありますよね。ジョン・カサヴェテスの『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(1976)も2つの異なるヴァージョンがあるし、ホウ・シャオシェン監督の映画も複数のヴァージョンのある映画がいくつかあります。もっとハッキリ別物といっていいくらいに印象の違う映画だと、ジャック・リヴェットの『美しき諍い女』(1991/231分)と『美しき諍い女/ディヴェルメント』(125分)がありますよね。エドワード・ヤン監督の『牯嶺街少年殺人事件』(1991)にも4時間版と3時間版、それからクシシュトフ・キェシロフスキの『デカローグ』(1989)にも、『愛に関する短いフィルム』と『殺人に関する短いフィルム』がありましたね。『デカローグ』自体は10時間近くあって、1話が約1時間。そのロング・ヴァージョンは30分ほど長い。ストーリーそのものは大きく変わらないけど、やっぱり微妙にディティールが違っていたり、ある部分に肉付けが施されていて、見終わったあとの印象が異なります。特に終わり方は対照的で、それが自分にはとても面白かったです。キェシロフスキみたいにやろうとか、そんな大それたことを考えたわけではないんですよ(笑)。ただ、ふと考えると、そういうふうにやっている監督たちもたくさんいるなと。さらに言えば、サイレント映画の時代には幾らでもヴァージョン違いがあります。国によって検閲の対象も全然違うので、もうその辺の細かいことはいいんじゃないかと乱暴な思考に発展したり。これもある人に言われたんですが、「いっそのこと、上映するたびに変えたらいいんじゃないか」とかね(笑)。それをするほどの体力はもうないですし、その時間があるなら別の映画を作りたいですよ。でもウッカリ、またひとつ、変なヴァージョンを考え付かなければいいように自制しています。
──それにしても、よくこのような大胆なつくり方が実現しましたね。
いろいろありまして、本当にギリギリのタイミングで最終的にプロデュースを担当してくださったのが、オフィス北野の市山尚三さんでした。ここ数年だと、ジャ・ジャンクー監督の『罪の手ざわり』(2013)を手がけられた方です。市山さんとは知り合って20年経つのですが、監督とプロデューサーとして仕事をするのは今回が初めてでした。市山さんは僕に輪をかけてラディカルな人で、海外映画祭でそれぞれのヴァージョンをどの順で見せるべきか、どちらを見せるかと話していると、「この中間くらいのヴァージョンがもうひとつあるといいかもしれません」とおっしゃって、この人はなんて怖ろしいことを言うのだと思ったんですけど(笑)。そういう柔軟で自由な発想ができる方と一緒にやっていたのも大きかったですね。おかげでこのようなつくり方が可能になりました。なお、99分版は2015年の3月11日にもキャンパスで再び上映し、「3・11以降」をめぐる表現について、立教大学の同僚で、劇作家・演出家でもある松田正隆さんと話をしましたが(*篠崎注②)、僕はどうも映画館で育った人間なので、劇場で公開されるまでは「まだ完成していない」という思いがあるんでしょうね。
*篠崎注②:2015年3月11日以外にも、99分の『SHARING アナザー・バージョン』は立教大学新座キャンパスで上映。2015年6月7日(ジョアン・ペドロ・ロドリゲス監督、ジョアン・ルイ・ゲラ・ダ・マータ氏、赤坂太輔氏)と6月13日(塚本晋也監督、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス監督、ジョアン・ルイ・ゲラ・ダ・マータ氏)にも上映。2度の公開シンポジウムも行われた。また2016年2月26日(深田晃司監督、想田和弘監督)、2月29日(是枝裕和監督)、3月4日(黒沢清監督、相田冬二氏)の3日間にわたって「3・11以後の映像表現」と題し、『~アナザー・バージョン』の上映と公開シンポジウムが行われた。こちらの対談、鼎談は、近日中に『SHARING』公式サイトにて公開の予定。
──予告編からは、篠崎監督らしいホラーテイストも感じます。撮る上で「ジャンルもの」いう感覚はお持ちでしたか?
むしろ、ジャンル分けしづらいものをつくりたい思いがありました。『SHARING アナザー・バージョン』にドッペルゲンガーのモチーフは具体的な描写としては出てきませんが、111分版では、中盤あたりにかなりそういう描写が出てきて、ホラー映画的な匂いがするかもしれません。でもそれは「311」以降、自分が生活していて覚える不安が作品に反映にされた結果でしょうね。ある意味で不安や恐怖がテーマのひとつであることに間違いない。しかし、ジャンル映画としてのホラーを目指したわけではないんです。見る分にはジャンル映画は大好きですから、無意識に出ているのかもしれません。改めて本作を見た酒井善三君が、「変な映画ですよね」と嬉しそうにしていました。ひとことで言えば「変な映画」でしょうか。
──『あれから』は端正な映画でしたが、制作スタイルにも違いはあったのでしょうか?
『あれから』の撮影日は、予備日を入れて6日しかありませんでした。最初から「これはできない」という制限もあり、限られた可能性のなかでの制作でしたが、今回はより大胆というか自由というのか、まず2013年の11月頃にテスト撮影と称してワンシーンを撮っていた。年が明けて、クランク・インからアップまではほぼ2ヶ月。週末だけとか、ある週は平日1日だけと変則的な撮り方をしました。そういうやり方でいくことに山田キヌヲさんはじめ、樋井明日香さん、河村竜也さん、木村知貴さんたちキャストの皆さんと俳優陣の事務所も理解も示してくださったので、時間をかけて撮ることが出来ました。実質的な撮影日数はおそらく2~3週の間くらいですが、いま申し上げたように、正式なクランク・インからアップまで2ヶ月に渡って撮れましたし、一度撮ったシーンを編集した上で、リテイクや追加撮影もおこなえました。それから、撮影した2月といえば大学は受験期間。その合間を縫って撮ったのも「大学らしい」ですよね。「観光学部の入試があるので、この期間は撮れません」とかね(笑)。一方、2月後半になると春休みで学校に学生がいない。無人のガランとした空間のなかで、まるで悪だくみをするかのように撮影していました。それも面白かったですね。
──では、撮影自体はスムーズに進行したんですね。
でも、逆に春休みだから、エキストラの必要なときに学生が集まらなかったり。「休みだと皆協力してくれるかな」と思っていると、アルバイトや旅行に行ってしまっていて(笑)。立教の学生でなく、外部の方に来ていただいて撮りました。よく見てもらうと、学生エキストラのなかに、『先生を流産させる会』(2011)の内藤瑛亮監督(注③)はじめ、友人の映画監督や主役を演じているような俳優の方も交じっています。ほかにも「すみません、このワンカットのためだけに来てもらえますか?」と頼んで来ていただいた方が何人もいますね。
*篠崎注③:近作は『ライチ☆光クラブ』『ドロメ』(2016)など。
──まずは内藤監督を探してみます(笑)。さて、篠崎監督の映画は初期の頃から音も凝っています。本作の音づくりはいかがでしたか?
音作りは非常に贅沢で楽しかったです。『あれから』は臼井勝さんに録音をお願いしたのですが、その下に映画美学校の学生がふたり就いて、ひとりが脚本の酒井君で、もうひとりが本作の録音技師・百々保之君でした。つまり、『あれから』で助手だった百々君が技師として『SHARING』の音響を担当してくれたんです。彼はいま、邦画メジャーの映画の現場で助手をして大活躍していて、同期の監督の録音技師もつとめています。前作では風の音にこだわって、台風のときに自宅の窓を開けてカメラのマイクで音を録っていました。今回も百々君が僕の好みをわかってくれていて、風の強い日に百々君自身や、あるいは助手に頼んで風の音を録ってくれましたし、僕自身も百々君から簡単な録音機材を借りたりして、やはり自分でも録りました。なおかつ撮影のない日に、わざわざ音だけ録りに、百々君とふたりだけで大学へ行って録音していましたね。廊下の奥のほうで僕がワザと咳をしたり、階段を駆け下りたり、遠くで音を立てて缶を落としてみたり。何の音かわからないものをいっぱい録って、それを映画のなかに入れていきました。それから立教大学の新座キャンパスって面白い造りで、中庭を囲むように4つの校舎が「ロ」の字の形に繋がっていて、さらに渡り廊下で別の校舎とも通じている。どこかでドアが開閉すると、反響して変な聴こえ方をするんです。空調もひと部屋ごとに違っていて、普通はそれを切りますよね。切ったあとで加工して録音部の方が音をつくるんですが、今回は大学なので、大元で切らないと空調が落ちない。「申し訳ないけど空調は我慢して。むしろバラバラでいい。強調しよう」と。切れるところは極力切って邪魔にならないようにしていますが、場合によっては空調が唸っている音そのものも映画に取り入れてくれと頼みました。「部屋ごとに音が変わってもいい」と大胆な提案をして、百々君もそれに応じてくれました。
──場所だけでなく、大学の音も活用なさっているんですね。
さらに撮影が終わっても、百々君が映像身体学科の学生を呼んで、編集した映像を実際に撮った場所で流しながら、それに合わせて同じ歩幅で歩いてもらったりもしました。足音だけすべて完全につけ変えているところもあります。音って、その場所の響きが持つ固有のものなので、万遍なく綺麗にするよりは、雑音を雑音のまま残すのはどうだろうかと考えました。同時録音だと台詞の音量を上げれば雑音も立ち上がってしまうので、録音する方は、本来であればノイズは極力なくして、あとから足して台詞をなるべく良い状態で録りたいと思うわけですが、今回は「空間が持つ音の歪みもまるごと録ろう」と言ったら、百々君も面白がって乗ってくれて。そういうことが大きいんです。共犯者になってくれる人が現場にいるってことが。
──『あれから』もいい靴音が響いていました。音を含め、様々な繋がりを発見できるのではではないかと思います。
そうですね。『あれから』のクライマックスの結婚式のシーン。そこに登場する木村知貴さんが演じる花婿は、「大輔さん」と名前しか呼ばれませんが、同じ人物の3年後の設定として『SHARING』にも登場します。2本を見て気が付く方もおられるでしょうし、気付かれないかもしれない。本作は、『あれから』を見ていなくても楽しめるようにつくっていますが、登場人物がどこかで重なり合うのは、一度やってみたかったことでもあるんです。ただこれも最初からのアイデアではなく、ホンを書いているうちに、「この役柄は、あの大輔さんでいいんじゃないか」と思って酒井君に相談したら彼も乗ってくれて。はじめは年齢も一回り若い20代前半の設定で、そもそも役名も違いましたが、まずは出演交渉した上で、木村さんを念頭に置いてアテ書しながら直したんです。酒井君も面白い台詞を書いてくれて、木村さんにも、「実はこういう人物だったという展開はどうでしょうか」と話して出てもらいました。
──前作からは、「311以降」という社会性も引き継いでいます。映画との関係をどのように考えておられるか、最後におきかせください。
いわゆる「社会派映画」を撮りたいと思っているわけではないし、決してイデオロギーや、政治的メッセージを込めて映画を撮りたいと思っているわけではないんです。ただ、いまの日本に暮らしていて、政治のあり方などに対して感じる疑問が当然ある。それを括弧にくくって、「これは映画。虚構だから夢物語でいい」とは思えない自分がいるんでしょうね。『SHARING』を撮ったのは2014年の2月と3月でしたが、東京で暮らしているとたった3年であたかも「311」が引き起こした状況が収束したかのように、もっと言ってしまうと、なかったかのように──そう言うのは大袈裟だし、語弊もあるかもしれませんが──そんな風に報道の仕方も変わっているように見えました。映画が完成してから1年(2016年現在2年)、東日本大震災から4年(同じく2016年現在5年)が過ぎましたが、さらに報道が減っている印象を受けます。でもいまだ東京電力福島原子力発電所の状況が不明な点が多いし、放射性物質も空に海に大地に漏れ続けています。いたずらに煽る気はありせんが、再臨界の可能性だってゼロではありませんよね。ちっともアンダー・コントロールなんかじゃない。20万人近い方が不自由な暮らしを余儀なくされている。そもそも東京電力福島原子力発電所で作られた電気は、東京に送られてきたわけですよね……。そういうものに対する違和があります。声高にメッセージを訴えるような映画は好きではありませんし、映画が現実を変えるとは楽観的には思えないですが、一方で僕自身がどう思っていようが、映画にどこかしら今の社会状況が反映されざるを得ないとも思っています。しかしつくる以上は、映画としての面白さ、表現の強さを持つにはどうしたらいいかを同時に追求しないといけない。題材が深刻で真面目ならいいわけではないですよね。それは、これからも毎回悩みながらつくり続けるのかなと思っています。
(2015年4月)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地