『風の波紋』 小林茂監督インタビュー
前作『チョコラ!』(2009)から7年、小林茂監督の新作『風の波紋』の関西公開が始まった。舞台は、友人である木暮茂雄夫妻が住む新潟・妻有地方。そこにある日常を5年に渡って捉え、彼らの暮らしぶりにも似たスタッフとの協働作業によって生まれた本作は、里山暮らしの記録の枠に収まらない多層性を折々でのぞかせる。撮影を担当した『阿賀に生きる』(1992)や、当時コンビを組んだ佐藤真監督のことも交えてお話しいただいた。
──風や波紋は、それ自体はなかなか見えない不可視のものでもあります。タイトルの由来から教えていただけますか?
映画をつくるときには、仮タイトルを付けます。『阿賀に生きる』は、『阿賀野川』でした。これまでそうした仮タイトルの制作書をもとに、5千円であるとか1万円のカンパを募りながら映画をつくってきました。この作品も同様に仮タイトルが必要だった。最初は『豪雪の村』という案もありましたが、本作に登場する長谷川好文さんが、酔っ払って即興詩のような形で「風が!」とか叫びます。「風が吹く! 山が泣く!」という調子です。それを聞いて、「風、いいなあ」と思ったんです。本来、「風の波紋」という言葉は無いんですね。辞書を引くと「風紋」しかない。石が池に放り投げられたときに波が起こりますよね。「波紋」と聞くと、普通は水をイメージします。このタイトルは、長谷川さんの詩と僕の好きな言葉をくっつけたものですが、親交のあった木暮さんが2002年に中立山集落に移住した。風のようにそこへやってきた人が、住み着いて生きることによって、さらにまた波紋が生まれるという意味も含めて付けました。それから「見えない」ということについては、映画はシャッターで光をさえぎりますから、半分見えていない世界を見ているわけですよね。1時間の映画なら、半分は暗闇を見ていることになります。人間は脳のなかでそれを補いながら見ていることになる。やっぱり僕は、映画は見えない世界を描けるのが素晴らしいと思う。受け取る側が、「見えないものを見た」と感じる映画になればいちばんいいと思っています。『風の波紋』が、ご覧になられた皆さんにどう見えたのかは聞いてみたいところです。
──これから様々な見え方が生まれていくかと思いますが、あの長谷川さんが即興詩を叫ぶシーンは前衛的にも見えました。
文字に書き起こすと大変な詩で、びっくりしますね(笑)。「ここで映画をつくりはじめたい」と動き出したとき、「面白いところがあるから」と真冬に、ゴンドラに乗って川を渡ったところにある長谷川さんの民宿に連れて行ってもらったんです。そこが印象深くて、映画に入れたいなと思っていて、その3年後くらいでしょうか、撮影が実現しました。もちろん即興詩を叫んでもらうには、お酒を呑んでもらい、友人で尺八を吹く高波敏日子さんにも、それなりに準備して登場してもらわないといけませんでしたが(笑)。
──制作期間は5年と長いですね。『阿賀に生きる』の撮影期間は3年なので、それを上回ります。はじめから長期制作を見込んでおられたのでしょうか。
そこまでは考えてなかったですね。佐藤真監督が亡くなられた2007年、僕も腎不全から人工透析を受け始めました。ちょうど時期が重なったんです。僕はうつ病になり、クリニックに半年通い、服薬を止めると、佐藤さんの命日が近づくたびに体調を崩すということを繰り返していました。あるとき、木暮さんが移住した村へ遊びに行くと、皆が宴会を開いて、蕎麦を打ったり、山ぶどう酒を持ってきてくれたりした。朝方4時ごろになると、みんな仕事に出てしまっていなくなるんですね。そのとき、日差しが山を照らして夜露が光っていた。それを見て、「ここなら映画が出来るんじゃないか」と感覚的に思っただけなんです。いまお話ししたような事情があって、映画制作を半分以上あきらめていたので、「ここでなら出来るんじゃないか」という想いが湧き上がってきたのが不思議でした。風景を見たときに、自分が生まれ育った村(新潟県南蒲原郡下田村)や幼い頃を思い出したんでしょうね。いざ思い立つと、マグマが湧き上がるように、だんだんつくりたくなった。映画をつくりたいために元気でいられるのか、元気でいられるから映画が出来るのか。この5、6年のあいだは、その問いがパラレルな関係にあったように思います。ただ、思わぬことに東日本大震災の翌日に撮影現場を大きな地震が襲い、木暮さんの家も全壊しました。僕は日常を撮りたかったし、震災によるゴタゴタを撮りたいわけではなかった。とはいえ、撮っている人たちのところに大きな被害が及んだので無視することは出来ない。その時点では、避難生活を事細かに撮ることはやめようと。でも、震災によって赤裸々になる人間関係は撮っておきたいと思っていました。同時に、村がひっくり返るような出来事が落ち着くまでに、少なくとも2、3年はすぐに経ってしまうだろうなとも想像しました。だから、『阿賀に生きる』のように家を借りて住み込みながら撮っていくというのは無理でした。家を借りてどうのこうのという状態ではなかったんです。カンパが集まればロケをするという形を繰り返す。それで5年経ったのは、柿が熟して落ちるようにして映画が完成した。そのような気がしています。
──何を撮っていくか、どのような撮影プランをお持ちでしたか?
村を撮るときは、木暮さんの日常をベースに、彼が知り合った老人や若者のところに行きますよね。そういうふうに広げていこうと思っていたので、軸はふたつありました。ひとつは木暮さんを中心とした世界。もうひとつは、映画に出てくるメンバーはみんな僕の友人で、彼らにも仕事があります。たとえば草木染めをしている松本英利さん。蕎麦をつくっている高波さん。その日常も撮っていく。ただ、ロケをするためにはきっかけが必要ですし、録音や撮影スタッフに来てもらわないといけない。農作業の田植えや稲刈りをきっかけに置きながら、冬なら小正月の塞の神などを目指して集まりました。でも残りの期間は相談しながら、撮れる範囲でやっていこうと。春ならば、「山菜採りを誰かに頼もうか」という感じです。そういう点では気楽なものでした(笑)。
──山村の労働だけでなく、日常にも重点を置いておられますね。たとえばカラオケのシーンも、歌をじっくり聞かせるように撮られています。
木暮さんと村の方たちとの関係が面白いですね。向こうでは雪があまりにたくさん降るので、雪下ろしを「雪堀り」と言います。「権兵衛さん」と呼ばれる佐藤富義さんは、雪堀りを若者たちに頼む。それも大事だけど、茶飲みをして自分のカラオケを聞かせたい。あそこの間合いも何とも可笑しいですよね。私たちも「これは一曲では終わらないな」と思っていると、木暮さんが「雪堀りがあるから」とうまくかわす(笑)。権兵衛さんがラーメンをふるまいながら、むかしの田植えの自慢話をするじゃないですか? 若者に向かって自分がやってきた力自慢の仕事の話をするのは、それほど気持ちのいいことはないと思っているんですよね。『阿賀に生きる』に通底するところがあるかもしれませんが、農作業や様々な行事は基本的に撮る。でも、佐藤さんも悩まれていました。「いくら農作業を撮っても、日常がうつるものではない」ということがだんだんわかってきます。農作業を撮りつつも、そこからはみ出すものが日常を面白くあらわすんですよね。雪堀りのシーンを撮るつもりで行ったのに、カラオケ大会のほうが主になったり、むかしの田植え自慢に話がズレていく。そういう方向にアンテナを張るのが、私たちのやり方だったと思います。
──無駄に思えるものも撮っていくというスタイルでしょうか。
木暮さん夫妻が朝食を食べるシーンがありますね。あれは権兵衛さんのカラオケのシーンのあとに来ている。なぜかというと、権兵衛さんの奥さんがみずから裏山で採ってつくったわさび漬けの話題になるからなんです。その雪深い朝のシーンで、夫婦の関係も見えるし、豊かな食卓の様子も伝わる。湯気が立つお米は木暮さんがつくったもので、わさび漬けは隣のお母さんからもらったもの。納豆は買ったのかもしれないけど(笑)。何気ないシーンですが、あの日は実は朝4時に木暮さんが起きて、圧雪車で道をつけるのを撮影する予定でした。ところがその日、雪が降らなかったので作業は止めて二度寝をして、6時頃に起きてきたそうです。キャメラマンと録音は泊めてもらっていました。3人は無理だから、僕は民宿で待っていたので、あそこにはいないんです。でも、圧雪車がダメになったら、そのあとの何気ない日常にきちんとキャメラを向けてくれていた。そういうスタンスは、すごく大事なことでしたね。
──その一方で、獅子舞などのフィクションパートが織り込まれているのも面白いです。
ああいう伝統芸能を入れちゃうと、伝統文化保存映画になるという考えが僕にはあって、撮らないと決めていたんです。ところがあるとき、小学校を改装した宿舎で収穫祭がおこなわれて、夕飯会には誰でも参加できるので会費を払って参加しました。そこへ突然、イベントとして獅子舞がやって来た。本来ならば笛や太鼓の人たちも一緒に、何人かで来ないといけないわけですよね。でも、もうそういう人たちがいないんでしょう。カセットで音を鳴らすんです。それをスタッフがちゃんと準備してないものですから、獅子が戸惑ってウロウロしてしまった。「段取りが悪いな」と思って、イベントで呼んでいるのに大事にしていないように見えたんです。何とか音が鳴って踊りが始まると、とても上手なんですよ。獅子が足を噛むなど小技もうまい。感動しましたね。踊り終わって引き上げていきましたが、すぐ楽屋へ追って、「トラブルがあって大変でしたね」とか「いつもおふたりでやっているんですか?」と色々な話をしました。「笛や太鼓をやる者が誰もいなくて、うちの村ではふたりでやっているんだ」とも聞きました。すると、その神楽がとても愛おしく見えたんです。いま神楽をどこで見られるのかというと、このようなイベントくらいしかない。それでは神楽の意味が無いんじゃないかと思った。神楽は豊作や健康を願う祭りでやるもの。また神楽は、人間とは違う時間を生きていないといけないわけですよね。そこでふと思い付いたんですが、木暮さんの棚田で稲が実った頃に獅子が様子を見に来て、そのあと踊るシーン。僕はあそこを、「人間が知らない時間」として設定したんです。
──幻想的に撮られたシーンですね。
神楽獅子が田んぼをのぞくときにはスモークをいっぱい焚いている。あのスモークは自動車屋でもらったもの。つまりつくっているわけです。朝なのか夜なのかわからない不思議な時間があり、獅子が踊る。人間とは別の、神の時間が働いているというイメージで撮影したんです。村人のたくましい太鼓の音を活かして編集されていますが、僕のなかではそのように設定したものでした。おふたりに何度も頼みに行って理解してもらいました。最後は神社で頭を脱いでもらったんです。すると、やっぱり興奮して顔が上気している。神楽をやるには、人間でありながら神に近づく、あるいは成り切ることが必要なんでしょう。着替えるうちに、だんだんと人間の表情に戻っていくんです。そういう時間軸と空間軸がズレたシーンをいくつか用意しました。「意味がわからない」ということで落ちたものもあって、たとえば河童の目線で、川から顔を出すと真っ白な雪の世界で、また顔を出すと今度は真夏。「河童が出てくる必然性がない」と却下されてしまいましたが(笑)。
──そんな夢幻的なシーンも準備されていたんですね(笑)。冒頭にある狐の幻灯会のシーンも、独特の時間軸を持っている印象を受けました。
あれは宮沢賢治の『雪渡り』という童話から発想を得ています。もちろん狐の幻灯会を見たことはありませんが、僕らが新潟で「凍み渡り」と呼ぶ雪渡り。2月から3月、昼間に気温が上がると雪の表面は溶けるけど、放射冷却で朝方に凍るようになるんですね。すると、硬い雪の上をどこでも歩いていける。その凍み渡りは、私の原体験として強く残っているものです。そうなる前の夜は、月が出ていたり天気が良くて、一帯がブルーの世界なんです。宮沢賢治は、「林のなかに青い光が突き刺さっている」と表現していますが、僕もまさにそんな体験を持っている。冬の夜、青い月の光のなか、雪の上に乗ってみると沈まないんです。海の底を歩いているような感じになるんですね。その実体験を再現したかった。子供たちに出てもらい、幻灯もイラストの人に頼んで、僕がスライドをつくりました。言ってみれば、あれは「子供の時間」だと思っていただきたいんですよ。子供にしかわからない世界ですね。童話では、子狐から幻灯会の招待券をもらうというお話で、「お兄ちゃんたちは来られないよ」というセリフがあるように、ある年齢以下でないともらえない。童話は子供だけが見える世界としてありますが、映画でも、そのように時間軸がズレているんですね。だからなかなか本編に入らなかった。落ちてもおかしくないシーンでしたが、編集の秦岳志さんが「冒頭の冒頭に持ってきましょうか?」と提案してくれた。「狐にだまされるなよ」という子供のセリフは、僕が現場でたまたま思い付いて言ったもらったものです。それを秦さんが、「コバさん、冒頭に置けば『狐にだまされるなよ』というセリフが、そのあとのすべてのシーンにかかって活きるかもしれない」と言ってくれて。それで生き残ったシーンです。
──幻灯会が映画の入り口にあることで、以降の見え方も変わりますよね。作品の時間軸が単線的ではないと感じさせる導入です。
そうありたいと思っています。映画の見てもらい方というのか、「こんなシーンもあるよ。夢のようなシーンもあるよ」ということですよね。そういうシーンが突然出て来ても、違和感のないようにと考えましたが。
──終盤にさしかかるあたり、雪のなかを列車がトンネルをくぐり抜ける場面も、映画を異空間に運んでいるように見えました。
風景や風土のなかに、いまお話ししたような違う時間と空間を入れてみたかったんですね。雪国では、トンネルを抜けた途端に新緑が広がったかと思えば、瞬間的に吹雪が襲ってくることもある。僕はそういう極端なトンネルが好きなんです。移動には北越急行のほくほく線をよく利用しましたが、山深いせいか、町中では雪が無くても、トンネルをひとつ抜けると吹雪いてたりする。雪がいつも降っているわけではないので、何回も撮り直しましたが、不思議な時間軸と空間のような気がしますよね。雪の時間に紛れ込んでゆくというか、裂け目に入り込んでゆくシーンとして設定しています。
──エンディングにある風景の画の早回しも不思議な時間性を持っていますね。いわゆる情緒的な画ではないのに、インパクトは強いです。
テーマ曲を歌っている天野季子さんが思わぬ形で音楽をつくってくださり、それによって映画がどんどん変わっていきました。最後の最後に細かいカットが入らなくなり、秦さんが早回しにしてくれたんですが、最初はうまくいかないとNGにしていたのを引き上げたものなんですね。陽が上るにつれて村全体に光が届いていくシーンで、固定カメラで3時間ほど撮っているだけです。途中から露出がオーバーになるし、NGだったんですよ。それが早回しになると、ヤギも出て来てチョコチョコ動いたりして、とても不思議な時間に映りました。音楽ともマッチしていた。あれは仕上げの最後で、スタッフで議論を詰めました。秦さんはそのあと、明け方まで数百時間ある素材のなかからNGも見直したそうです。長い何もないシーンを早回しして付けてくれた。秦さんの組んだその映像を僕らは朝10時くらいにもう一度見て、泣きましたね。これで映画が完成した。そんな気がしました。
──先日出版された『日常と不在を見つめて──ドキュメンタリー映画作家・佐藤真の哲学』(里山社)の座談会で、『阿賀に生きる』の制作を振り返って、「最後の小川プロ的な集団制作っていうふうな言い方をされるけれども、あまりそういう意識はない」とお話しされています。今回のスタッフとの作業についてもお話しいただけますか?
集団で泊まり込んでつくるという形では、似ているように思われるかもしれません。小川プロの内部のことはわからないので何とも言えませんが、僕らの集団はヒエラルキーを否定していく。「監督だから」ということを僕はよしとしないんです。議論を戦わせるときは、最後は監督権限でエイヤッ!という姿を想像されるかもしれませんけど、対等であるべきだと思っています。僕も残したいシーンは擁護する。ときには補強したくて、追加撮影をおこなうこともあります。でも、編集の途中でスタッフから出てくる意見には最初からノーと言わないようにしています。色々やってみて結局ダメということはあっても、自分の気持ちをちょっと抑えてでもスタッフの言うことを実現したい。それが僕の考えです。『阿賀に生きる』でも、一度編んだものをバラして全員でもう一度やり直した点において、佐藤さんはとても度量のある監督だったし、それをもってみんなの力を吸い上げたとも思うんですね。
──制作は、本作に映っている木暮さんたちの「協働作業」に似た形だったのでしょうか。
まさにそうだと思います。稲刈りにたとえれば、刈る人もいれば集める人もいる。はざ掛けする人もいますよね。それぞれの役割はあっても、「稲を刈る」ということでは一緒で、映画もそう。まとめをして、責任を持たなければいけない人間として監督というポジションがあるのかもしれませんが、映画をつくることにおいては、みな平等ですから。自分が思ったことを現場でどんどん言える。僕はそれが大事だと思っているし、その発言に対して「監督だから」とすぐに否定も肯定もしません。他のスタッフがさらに発言することで、議論が重層的になっていくことを望んでいます。
──そのようなつくり方が見える映画だと感じます。作品の主題の里山暮らしについても、もっとお話を伺うべきところを……、つい脱線してしまいました(笑)。
いやいや、やっぱり宣伝・配給担当の方たちも単純に一言では言えない映画ということで、すごく悩まれているし、いまでも悩んでいます。里山が大事だぞとは言っていますが、農村を賛美する、あるいは「アンチ都市」というつもりは全然ないんです。さきほどお話ししたように、映画の裏には僕の再生物語もある(笑)。木暮さんは彼の人生をここで再生しようとしているのかもしれませんし、天野季子さんはそういう村の人たちと出会って新たな人生を開拓しているんだと思います。その意味でも、僕は「限界集落」とは言わないんですね。それは村で生きようとしている人たちにはダメージのある言葉で、こういう村を要らないと思う人たちがつくった、いわゆる行政用語じゃないかと思うんです。たしかに人は減っても暮らしは営々と続いていて、里山がこのまま無くなってしまうのかどうか、いまは判断が出来ないとも思っています。3・11を経験した多くの若者が里山に入っている。高度経済成長を目指さなければ幸せは無いという路線とは違う、小さなサイクルの、お互いの顔が見える関係のなかでしっかりと生きていく。映画を見たある人が、「お互いに助け合うのは、豪雪地帯で生きてきた私たちのDNAだ」と言ってくれました。グッと来ましたね。
──「限界集落」は、たしかに外側からの言葉に聞こえますね。
「いなくなったあと、集落はどうなるのか」と友達から訊かれた木暮さんが、「野となれ山となれじゃないか。でも、きっとまたやる奴が出てくると思う」、「それは自分が死んだあとかもしれない」と答えます。その言葉を聞いたときに、ものすごく大きな宇宙の時間みたいなものを感じました。自分も61歳。いい歳になり、人生は一瞬の煌きのような気がしています。長い宇宙の時間からすれば僕の人生なんて瞬時の光かもしれませんが、その瞬時にいかに輝くかということだと思うんですね。人は死んでも全部無くなるわけじゃなくて、波紋のように何かが残り、伝わっていくこともあるんじゃないでしょうか。佐藤さんが亡くなって9年。あらためて作品が見直され、特集上映がおこなわれたり、本が出版されました。佐藤さんの作品は、時代としてちょっと早かったのかもしれないですね。いま見ても決して古くはないし、もっと先を行ってるのかもしれない。その意味で、佐藤さんはまだ生きていると言えるかもしれないですね。
──『日常と不在を見つめて』に掲載された小林監督との往復書簡に、佐藤さんが「『阿賀に生きる』は間違いなく100年先にも残る映画だ」と書かれています。完成した『風の波紋』に、どのような手応えを感じておられますか?
『阿賀に生きる』は、3組の夫婦をきちんと撮ったということだけで、公開から20年以上経ったいまも新鮮で生きている。それは、人生をきちんと描けば映画が命を持つということ。また、映画を認める人々の力が働いて初めて成り立つ「100年」だと思います。『風の波紋』は1年で終わるかもしれないし、2年で終わるかもしれない。でも、それは見た人が決めることなんですね。この作品は、映画として2本の脚でひとりで歩いていけるように支えてもらわないといけない時期です。まだ子供ですので(笑)。『阿賀に生きる』は素晴らしいし、超えるか超えないかをもう語れない作品です。当時の監督や僕たちは30歳前後。20歳のスタッフもいましたが、それをもう一度再現することは出来ない。だからもう超えることが不可能な作品だと思います。でも60歳を超えて出来た本作のような映画は、あのときにはつくれなかった。いつまでも「NEW」というんでしょうか。60代、70代、80代になっても、それこそピカソが晩年も最先端を生きたようにものをつくるのは、自分の持っていた壁を崩していく時間を生み出すということです。そのなかに、ダイナミックなものがあると思っています。
(2016年4月5日 大阪にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地
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●小林茂著『雪国の幻灯会へようこそ 映画「風の波紋」の物語』(岩波書店)
●2016年4月29日(金・祝)~5月3日(火・祝)
「ドキュメンタリー映画作家、佐藤真の不在を見つめて」