インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

『セノーテ』
小田香監督インタビュー

© Kaori Oda

ボスニアの地下300メートルに位置する炭鉱の荒々しい光景とノイズを捉えた『鉱 ARAGANE』(2015)で長編デビューを果たした大阪在住のフィルムメーカー・小田香。新作『セノーテ』でふたたび潜った地下世界はメキシコ・ユカタン半島に散在する天然の泉。マヤ文明の記憶に深く結びついた水中と地上を行き来するカメラはやがて過去と今、生者と死者の境を溶かしてゆく。秀逸なミックスによるサウンドスケープも鮮烈な、この新作をめぐるインタビューをおこなった。

 

──本作の制作は監督のサラエボの映画大学時代のご学友の存在、そして「水を撮りたい」いうアイデアが発端になっているそうですね。撮影開始までを時系列に沿ってお話しいただけますか。

日本に帰国したのが2015年の冬で、当時は友人のマルタもメキシコに帰っていました。これから何をしようかと考えるなかで、彼女から「まだ水や海を撮りたいのならメキシコにビーチもあるけど、セノーテという泉があるよ」と連絡をもらい、ネットの情報や資料を集めはじめたんです。その後、17年の5月あたりに20から30のセノーテを回るリサーチに行きました。そこからまた少し時間を置いて資金もできたので、18年の5月と秋に一ヶ月ほど撮影に出かけました。撮影期間を合計すると、およそ三か月でしょうか。

──そもそも「水を撮りたい」と思われたのはなぜでしょう。

水のなかの撮影に挑戦してみたかったのがひとつ。それから水中の光の反射などがどうなっていて、自分がそれをいかにキャプチャーできるかという好奇心もありました。

──画面に広がるセノーテの色や光彩は、肉眼でもあのように見えていたのでしょうか。

© Kaori Oda

やっぱり肉眼で見るのとは違いますね。水中ではiPhoneで撮りましたが、露出や色彩はカメラが勝手に調整してくれる。肉眼のイメージと異なる部分がかなりありました。

──『鉱 ARAGANE』のコンプレッションされたサウンドはカメラマイクのリミッターによるものでしたね。本作でも監督の視聴覚に加えて、機材のオートモードが影響しているのが興味深いです。水中撮影に使ったのはすべてiPhoneですか?

基本的にはそうで、8㎜カメラで撮ったショットもあります

──深いと光が届かなくなることもあったかと思います。撮影で困ることはありませんでしたか?

真っ暗でなければ写りました。ただ奥に入ると光源が無くなるので、そのときはタンクを背負った状態で片手にiPhone、もう一方の手にダイバー用の懐中電灯を持って撮っていました。

──『鉱 ARAGANE』の地下撮影は、空気が薄く騒音も鳴り響いているので、3時間ほどが限界だったと伺った記憶があります。本作の場合は?

タンクを背負った撮影は3回ほどしかおこなっていませんが、自分の息の使い方だと1回につき50分くらいでしたね。

──魚をフォローしているショットも見られますが、水中のカメラの動きはどのようなイメージにもとづいていたのでしょう。

潜るときは一発勝負なので、水のなかの下調べはできません。だから魚などの動くものはもちろん、苔であったり、水底に生えている植物のゆらぎにもカメラを向けました。あとはやはり光の差し込み方などが場所によって異なるので、それに反応していたと思います。初めての場所なので、私が「ここってこんな場所なんだ」と感じた探検的な眼が反映されていますね。その意味でカメラは素直に回しました。

──たしかに何かを探しながら撮っている気配を感じます。地上と水中では手持ち撮影に何か違いはありましたか?

水のなかではいろんなものを撮っているので、カメラを動かす範囲が広い。でも水中ではブレをさほど体感しないので、動きにくさは感じなかったです。むしろ地上のほうが緊張していました(笑)。

──訪れたセノーテにはそれぞれ固有の物語があったのでしょうか。

場所が変わると、人々がそのセノーテに対して持つ記憶もそれぞれ異なります。あとは口頭伝承なので、人によって語られる内容も変わってきますよね。

──オーラルヒストリーですね。そうした歴史的背景に関して、かなりリサーチされたのでは?

そうですね。ナショナルジオグラフィックではないですが、資料やマヤ文明に関する文献は、日本にいるあいだ、一年間の準備期間があったのでかなり読み込みました。

──その前からマヤ文明への関心を持っておられたのでしょうか。

© Kaori Oda

それはあとからですね。マヤ文明のことは漠然と知っていましたが、そこまでの知識はなく、資料や文献を読むうちに、水源という人々の生活との密接な関係や、マヤの血を引く人々の存在に興味が湧きました。

──セノーテは生贄を捧げる場でもあり、その記憶も語られます。語り手のひとりである少女は「精霊」とクレジットされています。精霊の朗読のもとになったテキストはどのようなものですか?

昔のマヤの人がつくった人の詩を引用した部分と、私が書いたものからできています。

──あの朗読は撮影とは別に録音したのでしょうか。おそらくスタジオのような空間で録っていないですよね。

撮影とは別でしたね。スタジオは使っていなくて、彼女の家──それも土壁の家でした──で収録しました。

──後半にその声が重なるシーンがあります。あれはふたりで読んでいるのか、もしくはダビング処理でしょうか。声が途中からずれて、とてもおもしろい効果を生んでいます。

あそこはひとりで読んでいて、同一テイクを重ねた部分と、言葉は同じでも違うテイクを重ねた部分があります。語り手と言葉は一緒でも、異なるテイクを使っています。

──さらに途中から声が左右のチャンネルに分離します。そのシーンの前に語られる双子のエピソードが関係しているのではないかと想像しましたが、いかがでしょう。

訊かれない限り言わないようにしているんですが(笑)、双子が大きく関わっています。特に双子でなくてもいいのですが、音の編集をしているときに「どこかに複数性を感じさせるものが入っていたほうがいい」と思ったんです。ただ手元にある音源はそう多くない。そこで何ができるか考えて、ちょっとした遊びのような、あのアイデアが生まれました。

──冒頭で語られる言葉も「私たちの物語」と複数形ですね。本作はマヤ文明の記憶が主題になっていて、個人の語りにとどまらない複数性がその根底にあります。男性の朗誦も使っていますが、そこで読まれるのは演劇のシナリオですか?

リサーチで訪れた家にいた彼が、突然朗誦してくれたんです。私はそのとき朗誦の内容がわかりませんでしたが、あとでマルタに訊くと「こういう意味だよ」と教えてくれて、翌日にまた訪れて収録をお願いしました。

──マヤがスペインの植民地だった時代のことが語られているのでしょうか。

そうです。スペインによる征服のことが言及されています。

──シナリオならそれなりの分量があるかと思います。すべて朗誦した中からピックアップされたのですか?

彼が持っていたシナリオのセリフだけ読んでもらいました。それは全部使っています。

──彼も含めて語り手の姿は画面に一切写りません。そこからは集合的な記憶や歴史性を感じさせます。さらに朗誦にエフェクトをかけておられますね。

編集で、素の声のまま合わせてみるとイメージと合わなかったんです。噛み合ってないというか、自分が見ているのは水中洞窟という空間だけど、声を録ったのは小さな部屋でした。それがどうもしっくり来なくて、あのような響きにしました。

──木霊のようでもあります。サウンドに関して、続けてお聞かせください。水中撮影でマイクは使ったのでしょうか。

特別なマイクや録音機材はなく、水のなかの音は同録もダビングしたものもすべてiPhoneの内臓マイクで録りました。あとは、アシスタントをつとめてくれた方が手の空いたときに小さなテスカムでレコーディングしてくれた洞窟や街の音を重ねています。

──フィールドレコーディングした音もミックスしているんですね。実際に水中で聴こえた音と、映画で聴ける音に隔たりはありますか。

私の耳では、それほど変わりはないですね。特に「ブクブクブク」という自分の呼吸音などは「違うな」と感じませんでした。

──息の音もサウンドスケープと呼んでいいと思いますが、あのように鳴っていたんですね。

あれは外からの音ではなく、自分が発しているものです。水中ではもっと大きく聴こえていたかもしれないですね。身体から出ている音なので、ダイレクトに伝わるんです。iPhoneで録った音はそれにかなり近いと思います。

──冒頭、そしてその後も何度か、かなり変わったファットな音が聴こえます。あれは何でしょう。日常生活では耳にしない類の音です。

あれは「ホエザル」というジャングルに住む猿の鳴き声なんです。

──猿の声でしたか。その姿も画面に写りませんし、「そこにない」フィクショナルな音を当てていることになります。現実の音とそうでない音の使い分けに対して、どのような構想を持っておられましたか?

編集中は、まとまった構想や「これはこうだから」というような明確な意味付けはありませんでした。ただ、生々しい音は生者の部分に、猿の声などのフィクショナルな音は死者の世界を構成するために、と無意識に考えていたかもしれないですね。いまお話ししていて、そうだったのかなと思いました。それらがどこかで重なればいいなともイメージしていました。

──本作ではサウンド面でも生と死の世界がシームレスです。たとえばブラスバンドの演奏も、その前の死をイメージさせるショットの音とクロスさせています。

地上は8㎜で撮っていて、生きている人を写します。その素材をつなげるなかで、時制が「今」でなくてもいいと思いました。死んだ誰かの記憶でもいいし、未来でもいい。そのイメージは撮影中にはなく、編集の段階で生まれました。

──生きている人のポートレイトが随所にインサートされます。生者なのに、それらも死のイメージをまとっているように思えます。クローズアップでアングルは真正面。なぜ正面からだったのでしょう。

© Kaori Oda

ポートレイトだけでなく、お仕事をしている様子を撮った人もいれば、お話を聞いたあとにポートレイトだけ撮ったケースもあります。正面の理由のひとつは「潔さ」でしょうか。「こちらを向いてください」と言って正面からだと、自分も気持ちよく撮れる。あとは準備期間中に読んだ本に、ル・クレジオが翻訳したマヤ時代の神話(『マヤ神話 チラム・バラムの予言』)があります。そこに「マヤの世界は今も続いていて、自分たちが彼らのことを知ろうとして見ているのではなく、彼らの世界のなかに自分たちが生きているのかもしれない」という意味合いのことが書かれていました。それは本作の見つめることと見つめられることの関係にも影響しています。見つめている者は見つめられてもいる。この映画がマヤの世界観のなかにあればいいなという希望のアングルでもあります。

──本作の制作と並行して、「セノーテのミューズシリーズ」という絵も描かれました。それらも正面から人の顔を捉えています。

それもやはり、見つめるのであれば見つめ返されるということでしょうね。そして自分が人とどう向き合いたいか? その直接的な体現だとも思います。一方的に見つめるのではなく、そのときには見られている。それが自分にとっての、人との心地よい関係のあり方なんでしょうね。

──映画と絵が連なっていますね。地上のシーンには闘牛場のシークエンスもあります。あそこで使っているカメラはiPhoneでも8㎜でもないですよね。

あそこだけはCANON EOS 5Dで撮りました。『鉱 ARAGANE』と同じカメラですね。

──ではカメラは合計3台ですか?

もう一台ありました。地上を録る8㎜と、水中用にもう一台8㎜を貸してもらったんですが、水が入って壊してしまったんです(笑)。でも、そのカメラで撮った画もいくつか入っています。

──テクスチャーのばらつきが、時間軸を「今・ここ」に限定しない本作にうまく作用していますね。

それでいいと思ってプロジェクトが発車しました。質感が異なることで時制の遊びができるんじゃないかという気持ちもあって。ただiPhoneは鮮明に撮れるので、水中のショットにはノイズを加えてもらいました。質感の違いを許せる範囲と許せない範囲があって、遊べる部分は生かしながら、無理のない範囲でやろうと、色や音を仕上げてくれた長崎隼人さん(整音)と相談して進めました。

──4台のカメラのテクスチャーをならさないことで、先ほどお話しいただいた「複数形」のモチーフが強調されています。カメラを変えるのと、絵を描くときに筆を変えるのには近い感覚があるでしょうか。

筆というより絵の具、素材ですね。『鉱 ARAGANE』は5Dで一貫していますが、絵の場合はチャコールやアクリル、パステルと使い分けています。「ミューズシリーズ」では、油の上に貝殻や瓶を乗せて樹脂で固めました。それは撮影体験がもとになっていて、生贄に対する装飾品を連想したのと、あとは水中なので塩化樹脂で固めるイメージがありました。

──コラージュという点も本作に通じています。さて、「ノイズ」という言葉が挙がったので伺いたいのですが、『鉱 ARAGANE』には一枚ごとにジャケットが異なるナンバリング入りのサントラCDがありました。これはノイズミュージシャンがDIY的につくるカセットのフォーマットに近い。なおかつあのCDに収めているのは、インダストリアルノイズのコラージュです。ノイズミュージックはお好きですか?

あのCDのジャケットの画も創作のひとつとして自分で描きました。ノイズに限らず、音楽は日常生活でほぼ聴かないですね。生活音は鳴っているけど、無音状態がいいですね。

──その答えにちょっと動揺しています(笑)。まったく聴かないのでしょうか。

友達を招いて食事をしているときなどに音楽を流すことはあっても、ひとりで作業するときにはまず聴かないですね。

──それはなぜでしょう?

これまで聴いてこなかったからだと思います。自分の人生のなかに音楽がなかった。嫌いということではないんです。自分で映画を撮りはじめるまでは人生に映画がなかったのと同じで、知らないということですね。

──音楽が耳に入ると、ストレスになるということもあるのでしょうか。ミュージカル映画も苦手ですか?

それはまったくないです。友達とカラオケに行って十代の頃のヒットソングを歌うのも好きですが、リスナーとして音楽を聴くことがないんです。

──本作も『鉱 ARAGANE』も音が個性的なので、音楽をお好きだとばかり思い込んでいました。
以前、『鉱 ARAGANE』のサウンドを「音楽として聴こえる」とおっしゃっていたのも記憶に残っています。

リズムがあるからじゃないでしょうか。雑音だけど、そこに炭鉱内のリズムがある。「音楽」と言い切っていいのかわかりませんが、ただの音として捉えてはいませんでした。生活音や環境音も同じで、それが音楽に聴こえる。包丁を刻む音や窓から入ってくる音にもリズムがあって、そういうのを聴くのは好きなんです。『鉱 ARAGANE』で音について訊かれる機会が多かったので、それからは耳のトレーニングをしようと思い、公園や街で聴こえる音の分析をするようになりました。それはとても楽しいです。

──具体的にどのように分析されているのでしょう。

外では車の走行音や子どもの声、足音などが一緒に鳴っていますよね。風の音も場所によって違う。それらを意識的に「自分が総体的に耳にしているのは、この音とこの音で構成されている」と考えながら聴くのが楽しいですね。

──それはリスナーが音楽を聴くときに楽器の音を聴き分けるのと同じなのかもしれないですね。本作のサウンドは監督の耳にどう響いているのでしょうか。

環境音は環境音として聴こえますが、呼吸音は音楽に近い印象もあります。空間や自分の呼吸の量によって音が変わる。それに加えて歌も入れています。映画ではあるけれど、75分で一曲の音楽のようにできればいいなと思いました。

──たしかに75分のエクスペリメンタル・ミュージック、あるいはテープコラージュのようにも聴こえます。

『鉱 ARAGANE』のトークに『月夜釜合戦』(2017)の佐藤零郎監督に来ていただきました。そのとき、トラブルで画が出ていなかったんです。黒画面のなかに5分ほど騒音が響いていて、佐藤監督は初見だったので、「そういう実験的な映画だと思った」と(笑)。そうでもありますねと笑って話しました。それからこれは余談ですが、「尖った映画とは聞いていたけど、ここまでとは思わなかった」とも言われました(笑)。

──そう思うのも頷ける逸話です(笑)。これも余談ですが、昨年、七里圭監督をまじえた小さな酒席が開かれました。そこで「物語とは何か」という話になり、七里監督がテーブルを指さして「このホタルイカには物語があるけど、ポテトフライにはない」とおっしゃった。「ホタルイカはそれだけで語るべき物語を持っているけど、ポテトフライはホタルイカに絡めないと物語がない」と(笑)。それに対して小田監督はしばらく考えた上で、「なんとなくわかった」と答えておられて、おふたりともすごいなと感嘆しました(笑)。あくまで酒席の雑談でしたが、ここで物語についてお聞かせください。『鉱 ARAGANE』に比べて本作は物語の要素が大きいと感じます。

『鉱 ARAGANE』よりは強いですね。『鉱 ARAGANE』は自分の体験を提示する気持ちでつくりました。起承転結という意味での物語にはそれほど興味がないですが、何らかの語りで映画を進めていくのを編集の段階で決めました。撮影の段階でも揺れていて、その語りがどこから始まってどこで終わるのかはずっと考えていましたね。それは変則的ではあるけれど、本作なりのナラティヴだと思っています。

──本作は見ているうちに時間感覚を失います。スクリーンにうつし出されるものが過去と未来につながっていると解釈できるでしょうし、事前に情報をまったく入れずに見ると、どこの国の監督がいつ撮ったのかもわかりません。

無国籍映画になればいいと思っていたので、そう見てもらえると嬉しいですね。『鉱 ARAGANE』もそう言ってくださる方がいました。

──その『鉱 ARAGANE』との大きな共通項はやはり「地下世界」です。地下には何かがある。そのようなイメージをお持ちですか?

© Kaori Oda

ずっとないと思っていましたが、きっとあるんでしょうね。2作とも、その存在を教えてもらったり、セッティングしてもらったりして、たまたま撮影をはじめた作品です。見たことのない光景に惹かれることはたしかにある。でもそれは地下空間に限定されないじゃないですか? そこから考えれば何かあるのだろうなとは思いますが、意識的に選択しているわけでもないんですよね。次の作品では意識的に潜りますが、地下には自分の身体を置く場所として、極限状態になりえる空間が存在するとどこかで思っているのかもしれないですね。そこで何をカメラに収めていくかということに興味があるし、そうした普段見えない空間を私は見たいし、それを見てもらいたい気持ちもあります。

──はじめに伺った、構築したイメージに画を近づけるのではなく、そのときどきに見て反応したものにカメラを向ける探検家の視点ですね。

探検家の自伝を読むのも好きなので、そうかもしれません。

──本作では水中の光の反射と闇もみどころです。監督は諏訪敦彦監督とペドロ・コスタについて対談されています(「ユリイカ」2020年10月号 特集=ペドロ・コスタ/青土社)。コスタも光と闇の作家ですが、親近感は覚えますか?

コスタはカメラを置く位置が厳密ですよね。私はもう少しラフというか、本作は特に感覚的に置いていて、遊びの部分も大きい。彼はもっと職人的だと思います。

──絵画に喩えると、コスタの『ヴィタリナ』(2019)は色を何重にも塗り重ねている。それに対してセノーテの撮影はスケッチに近いのかなとも思いました。

心構えもそうなのかもしれません。

──編集に関してはいかがでしょう。撮影がスケッチだとすれば編集段階で発見することや固まるプランも大きく、時間もかかったと思いますが。

時間はかけますね。『鉱 ARAGANE』にも似た部分がありましたが、本作はワンクールの撮影を終えて帰国すると、そのひと月分の素材を見直して、まず簡単にOKとNGを分けて自分のやっていることを整理します。その作業を3回続けて総合的な編集に入るので、あわせて半年ぐらいやっていました。もっと時間をかける方もおられるでしょうけど、私の場合は最初の構想がないので、色々と遊びながら組み立てます。そのなかで「セノーテって自分にとって何だったのかな」と考えたり、それ以上でも以下でもないところに素材を置く作業を延々とおこないました。

──背景にそうした時間の厚みが沈んでいるのはセノーテと同じですね。セノーテには雨神が宿っているという信仰が持たれていました。潜ってみて、何かそういう実感は抱かれましたか?

神秘性を感じるセノーテもいくつかありました。観光地化されていたり、多くのダイバーが潜っているところはそのような要素が失われていますが、アクセスが難しく、村の人だけで管理して伝承が語られているセノーテでは、幽霊的な怖さではなく、畏れ多さを感じました。ライフジャケットを着て水面は泳いだけど、タンクを背負って潜るのはやめようと感じたセノーテもありましたね。

──ドキュメンタリーにおいて問われる被写体への敬意とも紐づけられるでしょうか。

人に対する倫理観は頭で考えるじゃないですか? 「撮っていいのかな? いけないかな?」というふうに。それとは少し違っていましたね。最初からカメラを向ける気持ちにならないというか、「向けるとおもしろいかもしれないけど、怖いからやめよう」という体感ですね。

──それはポートレイトを正面から撮る態度と対照的ですね。では最後に、本作に関心を抱いている方に向けてひとこといただけますか?

セノーテはメキシコ、つまり異国にありますよね。簡単に行ける場所ではありませんが、このコロナ禍でずっと家にいてもしんどい。何か「ハレ」がないと日常が続かないと今年は感じさせられました。そんな状況で、もしもこの映画が何かお役に立てれば嬉しいです。
 

(2020年9月 シネ・ヌーヴォにて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

 

映画『セノーテ』公式サイト
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