『息の跡 trace of breath』
小森はるか監督インタビュー
小森はるか監督の新作『空に聞く』公開にあわせて、長編デビュー作『息の跡』(2017)が各地でふたたび上映される。被写体は岩手県陸前高田市で、撮影時はプレハブの種苗店を営んでいた佐藤貞一。英語で綴ったみずからの体験を自費出版している人物だ。監督とのやり取りもまじえて日々の営みを捉えた映像にはホームムービーのような瞬間もあるが、次第にそこから被災者とドキュメンタリーのつくり手という図式を破る何かがあらわれはじめる。語る言葉と語れない言葉、「わかる」と「わからない」、記録と記憶──。今ではもう撮れない、その見えない層の「記録」ともいえるだろう。さらにここでの声への関心は、並行して撮影を進めていた『空に聞く』で飛躍を見せることになる。新作公開を記念して、当時おこなったインタビューを掲載したい。
──佐藤真さんの映画がお好きだと聞いて、『日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』(里山社/2016)を持ってきました。ここに佐藤真さんがロメールについて書いた文章が収められていて、「『緑の光線』の空気感は群を抜いている。不確かなものそのものをテーマにしたような作品で、浮遊する空気が見事にとらえられている。この映画を作るためにロメールは(…)わずか二三歳の女性キャメラマンを起用し(…)」とあります。本作の序盤で、佐藤貞一さんが監督の年齢を問いかけます。当時の監督は23歳。この一節はまるで監督のことを言い当てているようにも読めたのですが、23歳の女性は、ある空気をとらえるのに長けた力を備えているのでしょうか。最初から突拍子な質問ですが。
年齢と性別、何かあるんですかね(笑)。うーん……、23歳は、大学に通っていた身からすると、社会人になった人とならなかった人との境目の年齢じゃないですか? 私は大学院(東京藝術大学大学院)に進学したので、社会人ではなく、将来がまったく見えていなくて──今もそうですが(笑)──「作家として何かをつくっていきたい」という志だけがありました。かといって、何か当てがあるわけでもないし、作家としての評価が認められているわけでもない。本当に中途半端な立場でしたね。でもその分、自分のつくり方や考え方が変わっていくことに、何の抵抗も無い年齢だったのかもしれません。もしそれから3年後とか、外での発表のキャリアが積み重なった年齢であれば、ドキュメンタリーのほうにすんなりと行けなかったかもしれませんし、身のふり方も違っていたかもしれないですね。
──映像制作のスタイルや方法論も、当時は固まっていなかったのでしょうか。
全然固まっていませんでした。自分なりに考えてはいたし、実験的に取り組んだこともありましたが、何のためにそれが必要なのか? 自分にとっていちばんネックになるものが抜けていたように思います。最初は劇映画をつくることも考えていました。でもそのつくり方が自分に馴染まなかった。あと、私は監督としてではなく、カメラマンとして、カメラを主体に何かを表現したいと思い始めていました。俳優とどういう関係性でものをつくったらいいのか、個人対個人で「うつらないもの」をどうやって映像に映していくのかということを考え始めていましたが、どうするべきかわからなかった。その頃に東日本大震災が起きて、自分のなかで「記録する」ということが大きな軸となり、そのための方法論があとから必要になってきました。そのように変化した時期だったと思います。
──「うつらないもの」については後程くわしく伺いたいのですが、その頃に、お好きな作品を訊ねられて、即答できる記録映画はありましたか?
いやあ……、ドキュメンタリーを見ていなかったですね(笑)。あることは知っていたし、積極的に見ようと思ってはいましたが、どのような歴史があって、どんな監督がおられるのかも、まったく頭のなかに入っていませんでした。でも、接点的な存在としてアビチャッポンがいましたね。アートの方面から見ても有名な作家だし、映画でも活躍しておられた。表現にも、ジャンルを問わず活動する作家としてのあり方にも関心がありました。とはいえ、いわゆるドキュメンタリーに対してということではなかったですね。
──アビチャッポンは写真も撮りますよね。監督が創作する上で、映像と写真の共通点、あるいは違いはありますか?
全然違うと思います。まず私は、写真を撮るのがすごく下手なんですよ。それは「映像がうまい」という意味じゃなく(笑)。瞬間を見極めてシャッターを切るということが全然できなくて。
──フレーミングの問題はどうでしょう。
ああ、それもあると思いますけど、撮る現場で起きていることに対して、どのように身を置いているかが最も違うように思います。写真だと、その場にいて、たまに脱け出して撮ることが出来る。瞬間的な動作ですよね。映像は、なんて言うのかな……、カメラを持ってその場にずっと立ち会い続ける感覚で、それが違う気がしますね。
──立ち会い続けるほうが、性に合っている部分もあるでしょうか。
そうですね。私はしゃべるのも下手で、撮りたかったり、ずっと見ていたいものがあるときに、カメラを持っていたほうが、そこに居やすいんですよ。
──カメラを介してコミュニケーションを取っておられる?
そんな気もします。直接的なコミュニケーションを取らなくても、カメラを持っていれば「居てもいい」というか。その作業を見ていていいし、一日一緒に居ても許されるように思える。そうして立ち会うのが、自分の撮り方に合っているのかもしれないですね。
──本作のパンフレットへの寄稿文で、細馬宏通さんが「小森はるかの待ち方には驚かされる。どうやったらこんな待ち方ができるのだろう」と書いておられます。いま伺ったお話で、その意味が少しわかったように思います。
むしろずっと待ちたいですね。「そこに居たい」という思いのほうが、撮影したい思いよりも、はるかに大きいかもしれないです。
──本作も「ずっと居た」からこそ生まれた作品ですね。インタビュアーとして、最初に佐藤さんに向けた質問が何だったか覚えておられますか?
何だろう……。でも撮影のためにとか、「この言葉が欲しい」と思って質問したことは一度も無かったと思います。行くたびに話してくださることが変わりもするし、同じ話を何度も聞くこともある。撮りたいから質問することって無くて、撮影してないときに聞いたお話もたくさんあるし、撮っているときにたまたま記録できたお話もある。その境目が自分でもはっきりしてないんですよね。でも、あとから観返して、「あの話、いつも聞いていたから撮れてるだろうな」と思っていたら、撮れていなかったものも多くあります。最も撮れていなかったのが、佐藤さんが英語で手記を書く理由。私は毎日、いろんな理由を聞いて撮った気がしていたけれど、実際にはきちんと撮れていなかった。そこで、撮れなかった言葉をどういうふうに映画のなかであらわしたらいいのかと考えて、テロップを使いました。そんな具合に、行き当たりばったりなことが意外に多いんです(笑)。
──本作には、「声の映画」という側面もありますよね。それがテロップになるシーンの意図を考えていたんです。そういう理由だったとは(笑)。
撮れてなかったんですね(笑)。「質問して撮ったほうがいいのかな?」ともちょっと考えましたが、佐藤さんを前にすると出来なかった。内容も内容だったので。英語で書いた理由を訊ねるのは、報道カメラマンなら出来るかもしれませんが、私はやっぱり無理だなと思って。書いている理由は佐藤さんの文章に綴られているけど、それはひとつだけではないし、答え合わせのようになってしまってもよくないと考えました。文章を読んでいるところを録音させてもらってはいたんです。だけどあの文章は、映像に収めた姿だけじゃない佐藤さんをうつしているような気がして。だから、あのシーンは佐藤さんの声が聞こえてきてもいいタイミングでテロップを出しています。「聞こえないけど、言葉が語っていく」。そんな演出がいいのかなと考えて、あのようになりました。
──そして、本作では観客がカメラの存在を意識してしまいます。監督が佐藤さんとやりとりを交わす場面では、カメラが透明になっていない。そのような撮り方で進めようと決めたのは、早い段階でしたか?
私自身も、できればカメラを透明にしたいし、それを理想にしています。三脚をちゃんと据えて、撮るべき位置から撮る。そのほうが撮影しやすいし、撮りたいものが撮れると考えていますが、撮影を続けていくと、その方法では逃してしまうものが多過ぎたんです。佐藤さんは作業をしているし、次から次へと動く。それをいかに撮るかというほうに身体が訓練されていったように思います。撮影中に話しかけてくれても、最初は答えたくなかった。でもそういうわけにもいかなくて(笑)。そうするうちに、自分の方法を固持するのではなく、「とりあえず返事はする。会話しないといけないときには言葉を交わす」と変化してゆきました。でも、それは編集で切れると思っていたんです。個人で制作しているときは、私が応答している部分はもう少しカットしていました。それが劇場公開にあたって、秦岳志さんが編集に関わってくださり、埋もれていた私の声が拾われて表に出てしまいました(笑)。少し抵抗もあったんです。恥ずかしいというか……、タメ口をきいている失礼な場面もあって、その場ではよかったんでしょうけど、映像でわざわざ出す必要があるんだろうかとも思ったりして(笑)。ただ、観てくださった方が、そうした関係性から本作を評価してくれたり、佐藤さんとのやりとりがあるから心を寄せていただいたことがわかってきたので、「じゃあ、そういう方向でいきましょう」ということになりました。
──結果として、それが本作の鍵にもなっています。佐藤さんが机に座っているショットは、ほぼすべて手持ち撮影でしたか?
固定もあると思います。置きっぱなしで、私がふらふらしているときもありました(笑)。
──劇場公開版を拝見する限り、佐藤さんが急に大きく動き出して、あわててカメラがそれを追いかけるというケースはあまり無かったのでは?
そう見えているのなら、よかったです(笑)。
──ということは……
たくさんありました。おしゃべりしている途中でカメラを回し始めたことも多かったので。バタバタと撮り始めたものは、素材を観返すといっぱいあります。そこは、秦さんにうまくつないでもらって(笑)。
──そうだったんですね(笑)。それからお訊きしたかったのが、佐藤さんとのやりとりにある「わかる/わからない」という応答についてです。「わかる」は、「理解できる」を意味する場合もあれば、「共感できる」の場合もありますよね。ほかにもあるかもしれない。佐藤さんとの会話のなかの「わかる/わからない」に関して、感じていたことをおきかせください。
どれだけ同じ場所に暮らしても、やっぱり私は「よそ者」なんですよね。「わかる気になりたくない」とは、ずっと思っていました。ある感情や出来事が存在したことを知ってはいても、理解者ではない。だから、佐藤さんに「わかる?」と質問されると、すごく困ったんですよ。でも、「わからない」と突き放してしまうのもやっぱり違うし、「わかる」と言うのも違う……、「答えられない」という考え方しか私には出来ないと思いますね。しかも佐藤さんも、別に「わかってほしい」というつもりではないと思うんです。(私が)「わからないこと」をわかってくれているというか。絶対に理解は出来ないし、被災した方の細かい気持ちの変化や、それぞれに違う悲しみをわかるはずはないけれど、それでも「わかる?」と訊いていると思うんです。「わかってほしい」というのでもないし、「共感してほしい」でもない。ただ、何かをたしかめるために質問しているのだなとは感じていましたね。
──神戸でも1995年に阪神淡路大震災が起こりました。お互いの経験や感情がわからなくても、人とのあいだに関係が成り立つことはあり得る。当時、漠然とそう感じたことを本作から思い出しました。さて、ここでまた少し佐藤真さんの話題に戻って……、監督は『おてんとうさまがほしい』(1994/佐藤真は構成・編集を担当)がお好きだそうですね、
どうしてご存知なんですか!(笑)
──リサーチしてきました(笑)。
どこにそんな情報が(笑)。
──(笑)。『佐藤真の不在を見つめて』に収められた『おてんとうさまがほしい』についてのエッセイには、こう書かれています。「なにかが過剰すぎて伝わらないほどに思いが溢れること。それが映画というもののひとつのあり方なのかもしれない」。監督が佐藤貞一さんの営みに対して感じておられたことに、どこか似ているのではないかと想像しました。いかがでしょう。
どうだろう、過剰さ……。自分ではまったく意識していないけれど、受け取る人にとっては、佐藤さんだけが出てきてずっとしゃべり続けていること、そして佐藤さんがやっていることは過剰なのかもしれないですね。私は慣れ過ぎているのかもしれませんが、それが良さであることに気づいていなかった。観てくださった方の反応からわかったことですね。
──佐藤さんが何か特別なことをしているという意識はありませんでしたか?
最初はあったのが、だんだんと普通になってくるんですよね。「佐藤さん、普通の人だな」と思うようになって。陸前高田で暮らす方たちもそうで、皆さんそれぞれ何かをしている。震災で失ったものに対してだったり、この先を生きていくためだったり。何かしら手を動かしていたり、それぞれやっておられることがあって、どれも本当に尊いなと思います。そういった人たちがたくさんおられるなかに佐藤さんがいる。そういう人たちを知っていくなかで撮影が続いていたので、特別なことではないと感じるようになりましたね。
──それは震災以降に「被災者」と呼ばれるようになった特別な存在を撮るというより、「そこで暮らしてきた人」を撮る姿勢といえるでしょうか。
そうだと思いますね。その人個人にとって、震災がどういうものであったかということを知らないと、震災自体が見えてこないし、おひとりおひとりにそれまで生きてきた時間がある。それはこれからも続いていくわけで、震災はそのなかのひとつの点に過ぎない。そういうふうに捉えることが必要だと思いました。被災したからどうということじゃなくて、そもそもその人はどのように生きていたか? それは震災後のほうがよく見えてくるようにも思いました。
──なるほど。本作は「記録している人を記録した作品」の側面も持っています。記録というと、ノスタルジーを伴う「タイムカプセル」のようなイメージもあります。しかし、本作は未来に向けた射程を持っていると感じました。監督はどのようなイメージをお持ちでしょう。
佐藤さんは、あの場所に津波が来てお店を流されて、その跡にまたお店を建てて、そこから毎日の生活を送ってきました。「佐藤たね屋」というお店にこだわっていたと思うんです。それがいつか無くなってしまうという想いがあったから、記録していたような気もしました。「ずっとここにはない」という。その終わりが映画の完成と同時に訪れるとは考えてもいませんでしたが。タイムカプセルかどうかはわからないけれど、あの場所が(かさ上げ工事の)土に埋もれて、震災のあとに陸前高田の人たちがどういうふうに生活したか、何にもわからなくなってしまうことは想像できた。それは20年、30年後に生まれる人たちにとって必要なものなんじゃないか。そう思ったんですね。そういう意味で、先を見ていたところがあると思います。
──本作は記憶をめぐる映画でもあります。監督が考える「記録」と「記憶」についてもお話し願えますか?
私が記録したいと思うものは、やっぱり映像に「うつらないもの」なんですよね。そこにどういう人が暮らしていて、どんな町があったかということは、形が無くなってしまった以上はうつらない。でも誰かの話──その記憶──を聞かせてもらったあとには、私にはそこが何も無い場所として見えない。だから、映像にはうつらないかもしれないけれど、その場所を撮っていくことで記録することが出来る。やっぱり何も知らない状態では撮れないんです。ただ「被災した場所」というだけでは撮れなくて、そこがどういう場所で、誰の家だったのかを知ることが大事です。撮るという行為が何をうつしてくれるのかはわからない。でも、撮ったものが誰かの目にもう一度うつったときに、きっと違う像が結ばれるだろうなとは思います。これは人じゃなく風景の話ですが、そういう形で自分の制作があるのかなと考えています。ただ単に、「記録したい」ということではないんです。
──佐藤真さんは撮ることの出来ない「不在」、つまりとらえようのないものをいかに映画にするかというテーマをお持ちだったと思います。監督の創作への思考にも、それに似ているところがあるでしょうか。
私は映画をあまり意識していないので、そこが佐藤真さんとの大きな違いだと思いますね。佐藤さんは映画の未来を切り拓いていった方ですが、私にはそんな哲学がなくて(笑)。どちらかというと、記録のほうに近いんですよね。それを受け渡すために形や表現が必要になって、たまたま映画のときもあるというくらいで。たとえばホームビデオを撮って誰かにDVDを一枚渡せれば、それで充分だったり、結構満足できるんです。記録したものを、誰かにそんなふうに使ってもらえればいいし、「使ってもらうためにどんな技術を身に付ければいいかを考えている」というほうが正しいのかもしれません。だから、佐藤真さんのような作家にはなれないというか、全然タイプが違うんだろうなと思います。
──瀬尾夏美さんとの協同作品『波のした、土のうえ』(2014)は、陸前高田で出会った方へのインタビューを瀬尾さんが物語に起こして、さらにそれをご本人がリライトしたテキストの朗読を使った作品でしたね。本作での佐藤貞一さんも、ネイティヴではない英語や中国語で手記を書いて朗読する。どちらの作品も、被写体本来のものではない言葉や声が使われています。その言葉や声に対して、どんなことを感じておられますか?
声のことはさっきもおっしゃってくださいましたが、自分の作品にとって大事なものだと思っています。『波のした、土のうえ』の場合は、ご本人の声を録ったインタビューを使うのではなく、瀬尾が書いた文章をご自身が朗読していく。そこには、テイクを重ねることで出来上がっていく声がありました。「私」という一人称で話していたとしても、もう少し「私たち」が含まれていたり、ご本人自身だけではない「複数の声」を重ねられたと思うんですね。読んでくださる人が声に出すのを、すごいことだとも感じていました。その声はネイティヴなイントネーションじゃないかもしれないし、不自然なのかもしれません。でもそれは滑稽さが面白いということではなく、開かれていく声だと思うんです。佐藤さんの朗読する声は『波のした、土のうえ』とは全然違いますが、やっぱり「書いたものを声に出さないといけないんだな」と思ったんですね。ただ書くだけじゃなく、読んで自分の身体に入れないといけないというのか。なぜそういう声が必要なのかは今もわからないですが、あの佐藤さんの朗読は毎日の日課としてあって、それを撮りたい思いは最初からずっと持っていました。本作のなかでも重要なシーンだと思っています。
──普段、ラジオ番組の制作に関わっていて感じるのは、声の情報量は決して多くないということです。映像なら10秒で伝えられることが、声だけだと、その何倍もの時間が必要になります。
遅いということですね。
──はい。一方で、想像力を喚起する可能性もあります。声だけの作品をつくりたいと考えることはないですか?
そういうものをつくってみたいなと思います。私は完成された作品よりも、つくるまでのプロセスが好きなんです。そのプロセスが作品の表情をつくっていく。声には、そういうものがすごくうつると思っています。その人が言葉をどうやって読もうとしているか? どんなふうに言葉を引きつけようとしているか? それがうつし出されているのが好きで、声に出していく過程を大事にしたい。だから多分、声がまったく出てこない作品は無いだろうと思いますね。声と言葉は、つねに軸になっていくと思います。本作もバリアフリー版をつくりました。そのときに、目の見えない方と、耳が聞こえない方と一緒に、それぞれ作品をどうやって補えばいいのかを考えるのがとても面白かったんです。たとえば目の見えてない方と話すと、私よりもずっと映画が観えているなと感じるし、頭のなかの音だけでこんなに映像が観えているんだと思いました。耳にハンディのある方も、聴こえていないはずなのに、ここまで音が聴こえるんだと驚きました。そういう人たちと一から作品をつくったらどうなるだろうと思いましたね。全然違うものがうつったり聴こえたりするんだろうなって。次の作品でやりたいというわけではないですが(笑)。ただ、まだ私の全然知らない映画の形や、音や視覚の表現があることを教えてもらいました。
──陸前高田で撮られたそうした声と「うつらないもの」を、多くの方にご覧いただきたいと思います。本日はありがとうございました。
(2017年9月 大阪にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地