『ハッピーアワー』公開5周年リバイバル上映記念
濱口竜介監督インタビュー
濱口竜介監督が2015年に神戸で撮り上げた大作『ハッピーアワー』が年末から各地の劇場でリバイバル上映される。丸5年という時間、『寝ても覚めても』(2018)と『ドライブ・マイ・カー』(現在製作中/2021年公開予定)の2本の長編を経た現在、監督はどのようなパースペクティブでこの作品を捉えているのだろうか。ふたたびお話を聞くうちに、劇場公開当時は見えてなかった「幸せな時間」が浮かび上がった(公開時のインタビューとあわせてお読みください)。
──神戸と大阪での年末リバイバル上映がすっかり恒例となり、今年はそれに京都と東京の劇場も加わります。完成した段階で、映画がこのような広がりを持つ展望を少しでも持っておられましたか?
まったくなかったですね。そもそも劇場公開自体を想定していなかった、とまでは言いませんが、「がんばろう」とは思いながらも公開できない可能性を十分覚悟してつくった作品です。どこかの映画祭が拾ってくれれば嬉しいなというくらいの気持ちでいたのが、毎年かけてもらえるようになるとは想像もしていませんでした。もちろん映画に関しては何がしか写っている確信を持っていたので、多くの人でなくても、折に触れて見てもらえるものだとは思っていました。でもこの作品がある種の大衆性──そこまでいうとオーバーですが──を持っていたこと、少なからぬ人々に届くものであったことには驚いています。
──劇場公開から5年が経った現在、作品との距離感はどのようなものでしょう。すでに手元を離れた、あるいはまだ身近な存在としてこの映画がありますか?
難しい質問です。たとえば、『PASSION』(2008)から5年後、『ハッピーアワー』を撮りはじめた頃には「随分遠くへ来たものだな」という気がしていました。5年経って、それまでと全然違うことをしている感覚があったからだと思いますが、今『ハッピーアワー』に対して感じていることは少し違いますね。同じことを続けている訳ではないので、現在からこの映画を振り返ると、やはりすごく遠いものではある。けれども「引っ付いている」というのでしょうか、今やっていることの基盤や根っこになっています。『PASSION』を撮ったあとは「明確に違うことをやろう。このままではいけない」と考えた5年間がありました。一方でこの5年間を思い返すと、『ハッピーアワー』でやったことに対して否定的な気持ちはほとんど持っていないことに気づきます。同じことを繰り返せるとも思っていませんが、あれほど充実した製作・撮影期間を持つ機会はそれまでのキャリアでなかったし、その後もあのような贅沢な時間は、やはりまだ持っていません。製作で過ごした時間は自分の目指したことそのものだし、簡単にはできないけど、違う形でまた繰り返すべきものなのではないだろうか。そう感じられる、自分の基盤であり指針と言える作品です。
──公開前、神戸映画資料館で特集が組まれた際に、黒沢清さんがこのようなコメントを寄せられました。「人間描写と映画表現、このあまりにもかけ離れた二つの作業を、完全に平等に、かつ同時に行おうとする濱口竜介は、果たして映画の救世主なのか、それとも破壊者なのか…今後の映画史が決めてくれるだろう」。
これはよいコメントだと思いました。人間描写と映画表現の両立は『何食わぬ顔』(2002-2003)の時点で成されていたと感じますが、『ハッピーアワー』はそれを究極まで突き詰めた映画ではなかったでしょうか。製作時間と完成した尺が、一般的な映画とかけ離れたものになったのはその帰結だと推察しました。
あのときは大それたコメントを頂いたと思いました。ただ「人間描写」という言葉で映画を考えたことは、正直ほとんどないんです。結局、人物に対してカメラを向けるのは1つの作業だと思っています。それでも、このコメントを頂いたときはハッとしました。それは腑分けできる2つの作業でありえるのだ、と。
僕が本格的に映画製作を志すきっかけになったのは、ジョン・カサヴェテスの映画でした。特に『ハズバンズ』(1970)。そこには何か「感情」が写っていると思ったんです。ただ、日本語でそう言うよりも「エモーション」と呼びたくなるものがそこにあった。当時の僕は20歳そこそこで、いま思うと何も知らなかった。それでもアメリカの40歳のおっさん達の姿を見て、「自分は知らないけれど、これが人生というものに違いない」と直感しました。そして「どうも映画というものは、いま俺が送っている実人生より濃密なものを描けるらしい」と理解して、それをやってみたいと思い立った。
一方で、同時に浴びるように映画を見る生活を送ってゆく中で、映画自体をますます好きになりました。あの映画も素晴らしい、この映画も素晴らしい、このショットは見事だ、というふうに。でも、映画を見続けてしばらく経った頃に「あれ?」と気づいたんです。カサヴェテスの映画はいま見ているだいたいの「映画」というものと何か違うんじゃないだろうかと。学生映画や自主映画をつくっていてわかったのは、映画製作には規模はどうあれ予算やスケジュールがあり、その中で脚本をどう撮り切っていくかを考えないといけない。撮り切るということは、編集を見越して脚本をショットに分割し、かつそのショットのための段取りを決めてひとつずつ撮って、最後に編集で積み上げる。そうすると映画ができあがる、と。そのように映画製作についてある程度の認識は持ったものの、それではカサヴェテスのような映画はつくれないらしいとわかってきました。つまり現在自分が映画製作だと認識している方法を繰り返していては、カサヴェテスの映画、それが示したエモーションには至ることができない。そこで極端ですが、カサヴェテスの映画は「映画じゃない」と理解しました。映画ではない何か。自分がつかもうとしているのはそういうものだ、と。
並行して20台後半には(東京藝大大学院での)黒沢清さんとの出会いもありました。そうして映画を見て、つくりながら、カメラで物事を撮ることの価値も強く把握しました。カメラで目の前の世界を記録したいと強く思うようにもなった。その点で黒沢さんがおっしゃったような、2つの引き裂かれた方向性が自分の中に生まれたんだと思います。
被写体がいて、カメラがあります。20代の頃は多くの映画を見ていく上で、正直ほとんど「被写体に対してカメラをどう置くか?」ということしか考えないようになっていました。それが『PASSION』の直前あたりで、それではカサヴェテスのような作品は撮れない、と自覚していったん考えから外そうと決めました。だからといって、それで急に映画ならざる映画ができるわけはない。では一体何が必要なのかを考えるうちに、「被写体からいったいなにを見せてもらうのか」ということが30代の課題になっていった気がしています。
──『PASSION』は監督が30歳になられた年の作品ですね。その後、劇映画とドキュメンタリー(「東北記録映画三部作」)をつくる中で、カメラと対象の在り方などがさらに変化していった。そして2013年9月にはじまった『ハッピーアワー』の礎であるワークショップの終了後に、撮影がスタートします。
ドキュメンタリーの製作を通して、「被写体から何を見せてもらうのか」という問題に気づいてからは、カメラの前でどんなことを起こしてそれをどう記録するのか? その問いのほうがより大きくなってきました。ドキュメンタリーを経て『ハッピーアワー』に臨みましたが、そこで初めて被写体とカメラのあいだに関係を切り結べた実感を得ました。被写体にカメラを受け入れてもらうような感覚を抱いたのも、『ハッピーアワー』が初めてかもしれないですね。「私はあなたのことを撮りたいと思っている。カメラはとても危険なものではあるけれども、ただ危険なばかりでなく、あなたの最善の部分を記録してくれるものでもある」。実際はこんなに硬い言葉ではありませんでしたが、正統と思われる手続きを踏みながら「あなたのことを魅力的だと思っている」と伝えて製作を進めました。それによって、被写体にカメラで撮るのをよきこととして受け入れてもらう。過去作でも、主演の一人二人とそのような関係を結べたことはあったかもしれません。しかし『ハッピーアワー』では、出てくれた演者一人ひとりとその関係を築けた気がしていて、それが製作期間、ひいては映画の尺が長くなった理由のひとつでもあります。もちろんドラマを進行させるのが最優先ですが、一方でカメラの前に立ってくれたひとりひとりに報いるように、ちゃんと写そうとした結果、このようなおかしな映画ができたとも思っています。
──『ハッピーアワー』では、カメラの前にいる被写体から受け取るものが増えたとも考えられるでしょうか。
そうだと思います。ただ、被写体に見せてもらえるものはそれ以前からもありました。それが写している人の中で編集が済むように変化したと言えるでしょうか。撮ったものからいいところを編集で残すのは今でもおこなっている作業ですが、『ハッピーアワー』からは撮影や準備段階で演者自身が行う「編集」がとても大きいと感じています。自分にとって撮影現場ですっきりとしたよいものを捉えられるようになった。無理な長回しなどではなくて、「見ていられる」ショットをたくさん撮れるようにもなりました。その実感は、『ハッピーアワー』から芽生えたように思います。それまではもっとゴチャゴチャしたもの──それにも魅力があり、取り戻せないものでもあると思います──をまとめて撮っていたのが、撮影もしくはその前の段階でよきものを残せるやり方を身に付けた。……いや、身に付けたというと少し語弊がありますね。『ハッピーアワー』の出演者たちとのあいだでは、それを理想に近い形でできた。またできるといいなと思いながら、今も映画づくりを続けている部分はあります。
──助監督をつとめた高野徹さんに『二十代の夏』(2016)についてインタビューをおこなった折に、余談として『ハッピーアワー』は「濱口さんも何を撮れるかわからない現場だった」という意味合いのことを伺った記憶があります。たとえ演者のレスポンスが想定外で、それに複数のヴァリエーションがあるとしても、当時の監督が確立していた方法なら何かしらイメージしたところに着地させられると考えていたので、そのお話には素朴に驚きました。実際に現場で「何が撮れるかわからない」と感じておられたのでしょうか。
そうでしたね。第一に物語のレベルでどんどん変化していく状況がありました。高野くんが参加してくれたのは、脚本の流れは固まっていた時期でしたが、最初は2時間半ほどの常識的な尺で収まるように準備していたのが、改稿を繰り返すうちに明らかに6時間近いものになっていった。「これをどうするんだ」と誰しもが思っていたけれど、全部撮るしかほかにやり方がわからなかったんですね。単純に、物量として週に2日ないし3日しか撮れないとなったときに「一体いつまでかかるんだ」という果てしなさが生まれた。
そして脚本が完成した段階で、基本的にひたすら撮っていく作業に移りました。「何が撮れるかわからない」というのは本当にそうで、現場に行くまでカット割りが決まってないことがだいたいで、未知の部分が多いまま撮影を続けていました。先ほどからお話ししているような繰り返せなさ、「かけがえのなさ」とは、そういうところにあると思います。「わからない」ままやれたし、そのこと自体が方法論でもあった気がします。そのような状態で撮影に臨んでも許容される体制があった。スタッフであれキャストであれ、そうしなければいけない製作なのだと思いながら進めていました。脚本が演者にふさわしいものでなければならないし、そのためには改稿を繰り返さないといけない。テキストがある程度納得できるものになったら、演者にもそのレベルに達してもらわないといけない。できるかどうかわからないけれど、やらないといけない製作状況だったと思うんです。その時間を過ごすことの意義はそれほど言語化しませんでした。でもあの場にいた全員がそれを感じながら取り組んでいた気がします。だからこそできたし、何度も繰り返せない一回限りのものになりました。
──何が撮れるかわからなかったからこその一回性ですね。今年はミニシアター・エイド基金に関しても取材をおこないました。それらを通じて感じたのは、想像以上に監督が「映画館で見る体験」を大事にしておられることです。それを踏まえて、この度のリバイバル上映にあたっての思いをお話し願えますか?
東京と、京阪神で年末にこの映画を見てもらえる機会をいただけて、とてもありがたく思っています。神戸の元町映画館では、2015年12月5日に先行公開してもらったのを今でも覚えていますね。それ以来、毎年上映していただいています。大阪のシネ・ヌーヴォもここ数年、毎年スクリーンにかけてくださっている。京都の出町座は前身の立誠シネマプロジェクトの頃からお世話になっている素晴らしい劇場で、この映画をまたかけてもらえるのを本当に嬉しく思っています。5時間17分・3部構成なので、見るのは大変ですよね。ただ、映画館はそれをやわらげてくれる場所だと思います。シートに座って、スクリーンに反射する光を見つめる。その最良の環境です。
また、ただ見やすいということだけでなく、僕が現場で感じていたのと同じように写っている人たち──ワークショップに参加してくれた人が17人います──が、役を持ってそれぞれの輝きを示しています。もちろんスターではないので、その輝きは誰の目にも明らかなものではないかもしれませんが、映画館の暗闇の中でスクリーンの反射光をながめているときに素直に入ってくるものがあると思います。それは僕が2年間の製作期間中に感じていたものを凝縮したものだと思っていただいて構いません。その人たちを見つめていて、幸せだと思える時間がきっとあるのではないでしょうか。物語には多少シビアなところがあるものの、「幸せな時間」と名づけられた映画の意味を劇場で紐解いてもらえたら、ご自身の目と耳で感じてもらえたら嬉しいです。そしてこの5年が次の5年後、10年後につながっていけばより嬉しいですね。個人的にはその価値のある映画だと感じています。この機会に見て、皆さんがまた見て話題にしてくだされば、そういうこともあり得るだろうと思っています。
(2020年12月)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地