インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

『共想』 篠崎誠監督ロングインタビュー

 

『あれから』(2012)『SHARING』(2014)に続く篠崎誠監督の長編『共想』。東日本大震災を機にすれ違ってしまった幼なじみの二人を主人公に据えた物語は夢と幻影、詩と声を織り重ねて多層的な世界を築き上げ、あの日から過ぎた時間と彼女たちを隔てる距離を描き出しながらある場所へと向かう。監督の無意識や偶然も編み込まれたこの作品をめぐり、ロングインタビューをおこなった。

 

──『あれから』の原点は、東北で被災されたご友人から監督に届いたメール、『SHARING』は教鞭を執っておられる立教大学のプロジェクトでした。「幼なじみの二人」が主人公である本作の出発点から教えてください。

私の映画はどこから始まったのかハッキリと言えないことが多くて……。『SHARING』もそうでしたが、十代の頃から思い浮かんだことをメモに取っていて、ある時に別のアイデアがきっかけで、それらがふっと結び付くことがあるんです。本作の場合は、思い返せば、立教の私のゼミ生ふたりの母親が同じ大学の同級生だった偶然が出発点のひとつです。その学生は女性ではなく、二人とも男性で、受験したのも、まして同じ私のゼミに入ったに母親同士が示し合わせたわけではないですし(笑)、全くの偶然だったんです。「こういう偶然もあるんだな」と感じたのが、数年経ってから『共想』の主人公を「幼なじみの二人」の設定にしようと思ったきっかけでしょうね。これはあとから考えて思い至ったことで、「幼なじみ」という設定ありきだったわけではありません。それよりもやはり……、おそらく出発点は、主人公のひとりを3月11日生まれにしようと思ったことです。それは、『あれから』『SHARING』に出てくれた木村知貴くんの2015年3月11日のツイートがきっかけであるのは間違いないと思います。「3月11日に生まれたみんな別になにも悪くない。心から祝福し、祝福されていいと思う」というツイートを読んだからですね。ただ、「よし、じゃあ、これで映画を」というわけでもなく、結局2年以上『共想』を作るまでに時間がかかりました。震災当時もそうでしたが、何か妙な抑圧が働いたでしょう? 自粛ムードというか、楽しんではいけないかのような。でもそれに対する違和があって。震災から2週間後くらいのある日、映画美学校で『死ね!死ね!シネマ』(2011)の編集をやっていて、気分転換に代々木公園を一人で散歩したんですね。すると、大勢の人たちが花見をしていました。日本人だけでなく、日本で暮らす色んな国の人たちが楽しそうに酒を酌み交わしていて。その姿を決して不謹慎だとは思えなかった。それから数年足らずで、「絆」という言葉とは裏腹に、何か物凄く不寛容な空気が社会を支配するように感じて。実は最初は3月11日生まれの3人の女性を主人公にした連作あるいは変形オムニバスにするつもりでした。その3人にそれぞれ別の3人の女性が絡む。3組=6人を中心にした映画を考えていました。タイトルはズバリ、『イントレランス』という(笑)。

──「絆」という言葉は『あれから』にある形で使われますね。そして「イントレランス」の意味は「不寛容」。映画史上でも重要な響きです。

図々しくもグリフィスの映画と同じタイトルですね。『SHARING』を公開した頃にもすでに不寛容な空気を感じていて、ノートの端にも「次回作……『イントレランス』?」と走り書きをしていた。そういう時に、非常に真っ当な木村くんのツイートを目にして……。それが本作の中でも登場人物の台詞として生きています。児童相談所で櫻井直幸君が言う「毎日が誰かの命日で、毎日が誰かの誕生日。だから毎日お祈りすればいいし、毎日お祝いすればいいんです」って台詞ですね。
それとは別に……いや、間違いなく繋がっているんでしょうけれど、当時安保法案をめぐる国会議事堂前のデモにも何度か足を運んでいました。別に映画にしようとするつもりはなく、ただどんな人たちがいるのか、何が起こっているのかこの目で見ておこうと。何度か通ううちに小さなビデオカメラも持っていくようになって、撮影もしました。それから……、同じ年か、その翌年だったか、街中でたまたま奇妙な集団を見かけたんです。銀色の頭巾をかぶった子どもたちの集団です。ちょうど私は自転車に乗っていましたが、持っていたスマホを起動させて、スローモーションにして、子どもたちの顔が写らないように配慮しながらやや後方から移動ショットで撮ったんです。列を辿っていくと、その先頭はうちの近所の公園で。9月1日の防災訓練でした。
先生に引率された100人くらいの小学生──10歳にも満たない子どもたち──が公園に集まっていました。その光景が、まるで駄目になった地球を捨てて脱出する小さな妖精か何か、あるいは昔から地球に隠れて暮らしていた異星人たちの末裔の集会のように見えて。妄想ですけどね(笑)。避難訓練には、無邪気に遊んでいる子どももいました。自宅に戻って玄関先で撮ってきたばかりの映像を見ていたら、今度また大きな地震がやってきた時に、この子たちはどうするんだろう、もうこんな風に無邪気には……と考えたら……。何とも言えない感情が一気に押し寄せてきて。玄関先で動けなくなったんですね。
そうした2014年から16年にあたり撮っていた断片的な映像が、溜まって来たんです。それらを挿入した形で短編か中編が出来ないかとも考えていました。それが3月11日生まれの女性たちの話として、一見関係なく進む3つの話が最後に結び付くオチのアイデアも一応ありましたが、うまく形になりませんでした。
一方、2011年に『死ね!死ね!シネマ』、12年に『あれから』、翌年に『SHARING』の一部を撮り始めて、14年に完成させたものの、諸事情あって『SHARING』の劇場公開が2016年になってしまった。間が空いたんですね。その頃、慣れない大学の業務もプレッシャーになっていまして(笑)。次はもう少し身軽に集まれる少人数のメンバーで、思い付きのアイデアでもワンシーンだけのシナリオでもいいから、演劇のエチュードみたいにやれないか、それに付き合ってくれる人はいないだろうかと思っていました。このままじゃダメだと、重い腰を上げようと一念発起して2017年の春に撮ることにしました(笑)。スタッフは、おもしろがって関心を寄せてくれる立教の学生にお願いして。主役も立教の生徒を探しましたが見つからなくて、それなら私と過去に接点があって信頼を置ける人を、と考えました。そこで思い浮かんだのが、『SHARING』の冒頭で高校生を演じた矢崎初音さんと柗下仁美さんです。助監督をつとめてくれることになった壷井濯くんを通して打診すると、ふたつ返事で快く引き受けてくれて、矢崎さんを善美に、柗下さんを珠子に配役しました。

──前作の作品世界を引き継ぐ形で、さらに偶然や断片的な想念、イメージがつながって制作が始まったわけですね。その後は?

二人のいずれかを3月11日生まれにするアイデアを活かして、まず彼女たちにインタビューをおこないました。それは完成した本編に一切使っていませんが、映画の冒頭と同じようにカメラを正面に置いて、2011年3月11日に何をしていたかを訊ねました。本作で彼女たちが話しているのは実体験ではなく作ったもの、全くのフィクションです。でも、二人の実体験は──「面白い」という言い方が適切かどうかわかりませんが──具体的な細部に満ちていた。ああ、人の話を聞くってこんなに面白いことなんだな、と。極端な言い方をすれば、それだけでも映画に出来る筈だと確信を得ました。直接的な被害を被ったわけではないのですが、震災当日にやはりいろんなものを見て、聞いて、心が揺れたことは伝わってきました。3月11日に関しても、日本に1億数千万の人がいれば、それぞれの体験があるという当たり前のことを実感したんですね。まったく揺れを感じなかった人もいるだろうし、大きな被害に遭われた人もいる。大切な方を失った方もいらっしゃる。当然ですが、「ひとりひとり全く異なる経験をしていて、それは個別具体的な変えの利かないものなのだな」と。やはり、ここから始めるしかないと思いました。

──『あれから』以降、震災を題材にした長編映画が続きました。三部作のように見えるし、連なる部分もある。しかし本作で再出発を切ったともいえます。

『あれから』『SHARING』の公開後に──悪意はないのでしょうが──「次もまた3.11以降のテーマで撮るつもりですか?」と訊かれることがあって、するとこちらも意地になってしまう部分もなくはないのですが(笑)。それ以上に「3.11以後」は流行り廃りではないし、この後もずっと私たちは「3・11以後」を生きざるを得ないわけです。だいたい東京電力福島原子力発電所のそれぞれの原子炉の中がどうなっているか皆目見当がつかないし、汚染水の問題も全く解決されないままです。つい最近も東京電力の社員が別の原子力発電所の動力室に不正入室していたという信じがたい不手際がニュースになりましたね。震災から10年経っても何も変わっていない。今も不安定な状況は続いていて、ちっともアンダー・コントロールな状態ではない。原子力発電所のことだけじゃなくて……、本当は私たちの生活も含めて、いろんなことが変わらざるを得ないし、「なかったこと」には出来ないですよね。元にも戻れない。それを訴えたいために、ものするために、映画を作っているわけではないです。ただ、少なくても、忘れないようにしたいとは思っています。あとやはり『あれから』を最初に作ったことが大きかったですね。「震災」や「3・11」をテーマにした映画を撮ろうと思ったのが動機ではなくて……、物凄く自分のプライヴェートな感情に基づいた映画から始まったことが。

──本作が「訴える映画ではない」ことがよく表れているのは、チャペルのシーンではないでしょうか。祈るイメージがもたらされます。空間の音も録っておられて、生々しさがある。

立教大学はキリスト教系で池袋キャンパスと新座キャンパスの両方にチャペルがあり、どちらでも毎年3月11日に追悼の集いが開かれます。春休みの時期なので、これまで私は参加したことはありませんでしたが、震災から6年目を迎えた2017年の3月、「この機会に新座キャンパスの追悼集会に出席したい」と思いました。そこで、参加者にはカメラを向けない条件で、チャプレンの講話と俯瞰の映像だけ撮らせてもらう承諾を得ました。だからあのシーンは再現ではなく、2017年3月11日のリアルな講話を撮影しています。そこに矢崎さんと柗下さんに入ってもらって聞いている姿を撮りました。ただショックだったのは、震災の翌年は、溢れかえるほど混雑したのが、私たちが参列した6年目の集会は10名も人がいませんでした。
そこで私も胸を打たれたのは、「宗教が絶対的なものでそれで救われる」という押し付けが一切なかったことです。かけがえのない人たちを失った人たちに対しては、どんな言葉も無力だということを引き受けて、その上で、他者の痛みを自分のことのように想像してみることの大切さを静かな口調で語る言葉が胸に沁みました。
集会が終わって、皆さんが退出されたあとで映像を再生してみると、実際の参加者をフレームに入れないために構図がおかしかったり、ピンぼけを起こしていたり、映像的に問題があって、その場でリテイクしました。教会内のステンドグラスなど、インサートカットを撮るのに2時間ほど余計に時間を頂いていたので。誰もいなくなってから、先ほどのチャプレンのお話を再生して、それを聞くふたりの顔を撮りました。だから使っているのは実際に話を聞いているリアクションではあるんです。

──ちなみにそのシーンの前にあるのは、珠子が児童相談所の建物を出るショット。カメラがティルトアップすると『SHARING』に写っていたのと同じでしょうか、十字架があらわれて、チャペルの十字架にオーバーラップするつなぎになっています。チャペル内は色彩も豊かですね。

色では赤をモチーフにしたい思いもあり、柗下さんに「赤い服を持っていたら持ってきていただけませんか?」とお願いしました。でも、いま考えたら、そのうち何点かはわざわざ映画のために買ってきてくださったんじゃないかという気がします。大学の校舎はモノトーンで、物語自体も決して明るい話ではありません。しかし、内容にルックも合わせると映画が閉じてしまう。撮影の柳田智哉くんにも「色調はナチュラルにしないでくれ。女性ふたりのフェイストーンはとても大切だけれども、とにかく色をちゃんと出したいし、黒は黒にしたい。白黒映画ではないけれども、カラーと黒の映画にしたい」と頼みました。でも、どうしても仕上げの段階で肌のナチュラルな色に合わせてしまうので、それだと色が出てこないんです。そこで、何人もの知り合いにグレーディングを手伝ってもらって、最終的にお願いしたカラリストの清原真治さんには「色を抑えてナチュラルに、という考えはやめたい。シーンによっては暗部の黒にニュアンスはいらない。完全に潰してください」と伝えました。「映画の内容に合わせるのではなく、むしろそこからはみ出すくらいがいい。黒はパキッと締めて、赤や青や黄色や緑など原色がグッと前に出るような昔のテクニカラーのような色彩を」とも求めましたが、そもそもテクニカラーを知らない世代ですよね(笑)。それでもそうすることで物語をなぞるのではなく、物語に別の光を当てたかったんです。

──食堂のシーンでは赤と白と黒が映えています。深度の深い広角レンズで撮った画面が幾何学模様にも見えるほどです。

逆に俳優の芝居は映画的に作り込んだものでなく、ナチュラルなものを目指しました。あえて棒読みに近くして、言葉の強度を全面に押し出すようなやり方もあると思いますが、誤解を恐れずに言えば、私は自然でいいと思っています。台詞じゃなく、その場で言葉が俳優から発せられたような。ただし、いわゆる俳優任せの即興とは違います。「即興」と呼ばれる映画を見てしんどく感じるのは、俳優の戸惑いが見えてしまう時です。「どうしようか、どう言おうか」と迷っているのがわかると見ていても辛い。あるいは、最悪なのは自然っぽく見せようとして、わざと言い淀んだり……。
それは断じてやめたかったんです。「自然」はいいけど、「自然っぽさ」は嫌だ、と。本作では、震災がきっかけで仲違いではないけれど、友情のボタンを掛け違えてしまった二人が最後にまた一緒になるかもしれないという全体の流れがまずあって、その上でシーンごとの方向づけをしています。クランクイン前にかなり話したし、撮影当日にも話し合いをおこないました。内容についても、「これ」と「これ」と「これ」は必ず言ってほしい、と。それで台詞の前後が入れ替わったのならそこで対応すればいいし、忘れても構わないと伝えていました。

──どれくらいの分量のシナリオ、もしくは用意された言葉があったのか、一見しただけでは正直わかりませんでした。冒頭の善美、中盤の珠子のインタビューシーンは、どの程度固めておられたのでしょう。

冒頭の善美のインタビューも中盤の珠子のインタビューも内容を話し合い、前もって決めていて、個別具体的なエピソードなども、私が口立てて伝えたりしています。たとえば、珠子が幼稚園の頃に注射を嫌がったのが、離人症のきっかけになったと語るくだりがありますよね。あの話は私がカトリック系の幼稚園に通っていて、注射が怖くて神様にお願いしたのに祈りは届かず(笑)、注射を打たれて大泣きしたリアルな体験がもとになっています(笑)。あとは、彼女たちのリアルな経験ではないけれど、お互いの経験のある部分を脚色して入れ替えて使ったりもしています。

──その離人症のモチーフはどこから発生したのでしょうか。『SHARING』で描かれた分身の延長にも思えます。

『おかえり』(1996)を撮る時には、人間の内面や精神的な部分、本来は最も映像にならない、映画に不向きなものを撮りたい思いがありました。非=映画的な題材への欲望(笑)。でも、『おかえり』が終わって、その反動もあって、次は運動やアクションに重点を置いた正反対の『忘れられぬ人々』(2000)を撮りました。まだ、内省的な部分がだいぶ残っているんですが(笑)。それ以降、封印していた精神的なモチーフが『あれから』と『SHARING』で復活して、「50歳を過ぎたのだから、やりたいことをやったほうがいいか」と思うようになりました。珠子の離人症に関しては……、改めて調べてみたら、症状から大きく分けて3つか4つに分類できるそうで、身体が固まるような体験をした人の証言も読んだんですね。その時に脳裏をよぎったのは、たとえば、車の運転中に症状が出たらどうなってしまうのだろうとか。火事になったり、事故に巻き込まれた瞬間に症状が出たら命に係わるなと。そこから、震災の時にも離人症の症状が出た人がいるかもしれないと発想が生まれました。私と壷井くんとでそれぞれ調べて作った資料をもとにミーティングで発表して、資料を矢崎さんと柗下さんに渡して読んでもらいました。
珠子だけでなく、実は善美も精神的なプレッシャーを抱えている女性で、なぜ彼女がそもそも「演技」をするようになったのか。また震災当日にある幻影のようなものを見ている証言があったんですが……、複雑になりすぎるのでカットしてしまいました。

──それは具体的にはどういう話でしたか?

善美がなぜ演技をしようと思ったのか、インタビューにはその理由に触れる部分がありました。自分のことが好きではないので他人を演じたい。他者を演じている時だけは、少し楽になる、と。完全に自意識を消すことは出来ないかもしれないけれども、自分という器を空っぽにすることで、自分から自由になれる。でも、そこで善美は煮詰まってしまったわけですよね。自分が本当に俳優に向いているのか。俳優として必要とされているのか。彼女は演じることを辞めて裏方になるべきか迷っている。そんな思いで揺れている時に、エレベーターに閉じ込められて、向かいのビルにある光景を幻視するんです。スケルトンのエレベーターの中から向かいのビルを見たら、ビルの窓という窓にペラペラの人が張り付いてこっちを見ていた、と。でもそこまでやってしまうと、善美と珠子が二人とも精神的な抑圧を感じていて、区別が付きにくくなるのと、物語が複雑で饒舌になると思い、バッサリとカットしました。その代わりに台詞ではなく、後半に映像で見せようとしました。

──善美の向こう側の校舎に珠子が何人もいるシーンですね。

廊下のベンチで夢から醒めた珠子が窓辺に駆け寄って向かいの校舎を見ると、今度は窓という窓に善美が大勢いる画も撮ったんです。これはちょっとやりすぎましたね(笑)。完全にホラーになってしまったので編集で切りました(笑)。『共想』は『SHARING』のような映画ではないですし。厳密に組み立てたシナリオがなかったおかげで、そうしてトライアンドエラーを繰り返すことが出来ました。美術部スタッフもいなかったので、あのシーンは、私が窓辺にいる大勢の珠子のセッティングをしました。

──あれはCGではないのですか?

合成は一切使っていません。リアルに作りました。ヒントになったのは、ポランスキーの『テナント/恐怖を借りた男』(1976)です。ポランスキーが演じる主人公が窓の向こうを覗くと、反対側にも双眼鏡を覗くポランスキーがいる。「あれはどうやっているんだろう?」と思ったのが発端です(笑)。

──アナログな映画の魔術にすっかり騙されました(笑)。

そんな風に、とにかく思い付く限りのことをしました。シーン1とラストだけは決まっていて。あとは、こういう場面とこういう場面を撮りたいと。あるいは、この空間で、この場所でこういう時間帯にこんなシーン、こんなショットを撮りたいと発想して。フォーレのレクイエム──あの曲を最初から使うつもりではなかったのですが──が流れる、二人のすれ違いのシーンなども完成版ではモンタージュしてしまいましたが、元々長廻しのワンカットで撮影したんです。あそこは、日にちも時間帯も変えて、太陽の光を待ったりして、数日かけて撮影しました。

──すれ違うタイミングも絶妙ですし、光と影、階段や長い廊下、扉という映画的要素が凝縮されています。ただ、フォーレのレイクエムが流れるシーンは物語内の現実と、夢幻的な描写がオーバーラップする入り組んだ構成です。撮影全体の流れを想像しても、どこからスタートしたのかちょっと想像できない。撮り始めたのはどのシーンですか?

映画のクランクインは……、先ほど言った参考のインタビューを別にすると、あの廊下のすれ違いに挿入されるギャラリーのシーンです。あの場所は唐橋充さんの『Mono Klowの庭』(2017)という展覧会場です。唐橋さんは『仮面ライダー555』シリーズなどに出演して、私の『忘れられぬ人々』や『いもうと』という短編ドラマ、『殺しのはらわた』(2006)や『0093 女王陛下の草刈正雄』(2007)などで何度も組んでいる、とても好きな俳優です。彼は絵の腕も素晴らしくて、震災の翌年の個展を見に行きました。その時に見た絵画のいくつかも、『Mono Klowの庭』に展示されていて、本編に写っています。2017年の個展の際にはトークの相手を依頼されて、「私でよければ」と引き受けました。その機会に「お客さんが帰ったあとの30分ほどでいいので、展示作品を撮らせてもらえませんか」とお願いして、それが撮影初日になりました。その翌日に、いきなり丘の上のラストシーンを撮ったんです。滅茶苦茶なスケジュールですよね(笑)。

──信じがたいスケージュールです(笑)。しかしあのラストは順撮りでも撮るのが難しい気がします。2日めでよく撮れましたね。

記憶がちょっと曖昧ですが、2日目めか3日めだったかもしれません。でも、そこで語るべき内容はインタビューシーンと同様に事前にかなり細かく話していました。

──そこで善美が珠子にあるものをプレゼントします。プレゼントの中身はどなたの案でしょう。

物語が誕生日にまつわる話で始まるのなら誕生日で終わるのがいいだろう、それならプレゼントがあるほうがいいし、現実的に高校生が買えそうで、ラストを飾るにふさわしいものは何だろうと皆に考えてもらいました。最終的に採用したのは私の妻のアイデアで、手袋にしました。あの手袋は彼女の手製です(笑)。でも映画のために新しく編んだものではなく、すでに何年か前に編んだものを借りました。温もりを感じられるアイテムでいいなと思ったし、劇中のインタビューシーンで、善美が手を握ってくれたことで離人症の症状が寛解するという部分にも呼応する。皆に提案すると賛成してくれたし、実際に妻が編んだ手袋を何点か用意して、矢崎さんと柗下さんにも見せると「これがいい」と意見が一致しました。

──篠崎家で作られていたとは(笑)。続けて、丘の上のふたりの動きについてお話し願えますか?

プレゼントを渡すことは伝えていたし、ある言葉をきかっけに立ち上がって、二人で詩を暗唱することも決めていました。当然、先に詩を渡して「暗記しておいてください」と伝えていた。すれ違っているあいだの時間についてもクランクインの前に話し合っていたとはいうものの、インから数日でこのシーンを撮ったので、関係性がどう変わっていくのか探る余裕はありませんでした。だから、矢﨑さんがあの丘を登っていく時に、物凄く緊張した面持ちをされていたのを覚えています。劇中の善美の思いとシンクロしていたのでしょう。話の内容は決めていたというのに。
実際に袋の中から手袋を取り出してそれを渡す時に、矢﨑さんの声がすでに微かに震えていて……、涙声になっていたんですね。それを受けて、柗下さんの眼が見る見るうちに潤んで手袋で顔を隠すように泣いたんです。「泣いてほしい」と二人にお願いしていたわけではありません。でもそれ以上に見ていて、こちらが感動したのは泣いたあとで、二人がお互いに顔を見合わせて笑ったことです。あの笑顔で今度はこちらが泣きそうになりました。

──あそこだけは何らかの演出があったと思います。違いますか?

あれは演出ではありません。

──『SHARING』のインタビューで「これからつくる映画にはもう少し笑顔があっていい」とおっしゃっていました、それを踏まえた演出ではないかと思いながら見ていました。

出来るわけないじゃないですか(笑)。「二人で笑ってください」なんて言えば、わざとらしく、ぎごちないものになるでしょう。あれは演出などではなく、柗下さんと矢﨑さん、お二人が積み重ねてきた時間だと思うんです。彼女たちは日本映画大学の俳優コースの同窓生で、同じく同窓生の壷井君が『サクリファイス』(2019)のずっと前から撮ってきた自主制作映画やミュージックビデオに出たりしていて。大学時代を経て卒業してからの彼女たちの時間があの丘の上で重なったのではないでしょうか。役柄の設定、そして自分たちの経験、感情……。眼の前にいるお互いの言葉を聞き、お互いの姿を見て心が反射し、涙を流し、そのあと、とっさに笑ったんです。計算された演技ではない。カットをかけた瞬間に「この映画は出来た」と思いました。全体のシナリオがないまま撮るのはかなり乱暴で、そのことの良さもあるけれど、それが弱点にもなりうる。しかも撮影はまだ始まったばかりで、彼女たちも手探りできっと不安だったと思います。しかし、私としては「最終的にはこの二人に戻ってくるのだから、絶対に大丈夫だ」という確信を持てました。

──画面からは、その後も撮影を続けたとは思えないですね。善美が丘を登るまでの時間も、彼女たちの関係の機微を表しています。お二人はどのような俳優の資質を持っていますか?

柗下さんは瞬発力があって、直感的に動くアスリートタイプ。身体能力も高く、画面の奥に向かって歩いていくシーンなどでも、「あと数センチ右に動いてもらうと最後までフレームに収まります」と言うと、その通りにピタッといくんです。矢﨑さんは、本来は事前に渡したシナリオを自分なりにしっかり解釈し、時間をかけて咀嚼して、役に自分を馴染ませて形にするタイプなのかなと思いました。微妙なニュアンスを私が下手くそに伝えても、ちゃんと受け止めて考えて、反映してくれる聡明な俳優です。ある部分では対照的な二人が互いに反射しながら、準備段階の無駄話で私が言ったことを二人ともちゃんと覚えていて、こちらがリマインドするのを忘れていても、サッっと出してくれるのもよかったですね。二人の存在には物凄く助けられました。いや、助けられたというか、彼女たちなしにはあり得なかったですね。

──逆に、きっちりとシナリオが準備されていたシーンはあるのでしょうか。

セリフが一から十まで全部書かれて、動きも指定していたのは児童相談所のシーンだけですね。あとは先ほど言ったように、インタビューで始まって二人のシーンで終わる大枠を決めて、そのあいだを「こんなシーンが撮りたい」「こういうアイデアはどうでしょう」と撮りながら継ぎ足していきました。

──それで夢や、幻想にも見えるシーンが折り重なる多層的な構成になっているんですね。タイムラインだけ追うと物語は直線的に進みますが、劇中の眠りも入れ子状で複雑な構造に見える作品です。

そこがこの映画の面白さであると同時に、弱点でもあるかもしれません。『SHARING』はあらかじめシナリオをきっちりと構築した上で、俳優の自発性に任せたシーンもありますし、ギリギリまで悩んで台詞を撮影当日に渡したシーンもあります。即興的な余地を残しながら、土台はしっかりあった。しかし今回は撮りながら考えた部分が多かったので、何度も撮り直したり、1年経ってから追加撮影した部分もあります。二人の俳優が稽古している場面と二つの食堂のシーンです。半日ずつ2日連続で。スタッフは私と撮影の二人。2日間とも違う撮影者で、私が録音を担当しました。ガンマイクを持つ手が震えて、二人がほぼ同時に喋ると竿を振り遅れて台詞に追いつかなかったり、迷惑をかけました(笑)。あらためて、録音部の大変さが身に染みてわかりました。

──反復する食堂のシーンは互いの動きをなぞる形になっていて、そこでも二人の関係性が示唆されます。それから、前半に登場する兵藤さんが演じる白鳥教授は善美の演劇の先生で、その会話シーンは即興的です。しかし、ここまでのお話を総合するとそうではなさそうですね。どのようにつくられたのでしょうか。

話の内容は決めていました。ひとつひとつの台詞を細かく決めていたわけではないですが、いわゆる即興ではありません。兵藤さんはご存じのようにご自身が俳優であると同時に、色々なところで俳優たちを指導されています。映画美学校アクターズコースの授業を何度か見せて頂き、それを『SHARING』の役柄に反映させています。『共想』は、珠子に関しては離人症に加えて、一人でいる場面以外にも、児童教育相談所で働いているシーンがありますが、善美は一人で芝居の稽古をしているだけではやはり弱い。もう少し珠子以外の誰かと絡ませようとして、最初は後輩とのやり取りも考えていたのですが、演じてもらう学生がなかなか見つからず──結局、翌年に新入生にお願いして撮影しましたが──ここは再び兵藤さん演じる白鳥先生にご登場願おうと。その役名は大先輩のスクリプターである白鳥あかねさんの名前をいただきました。
兵藤さんにお会いして「教え子から急に演劇や俳優を辞めたいと相談される機会はないですか?」と訊ねると、「あります」と。そういう場合、個別に事情はあるでしょうし、本人も余程のことがあって辞める決心をするのだろうから、単に引き留めはしないだろうし、どういう形で相談に乗りますかと伺いました。最も気にされるのが、まず辞める原因がパワハラかどうかということでした。俳優としてのプライドを踏みにじられたり、何らかの理不尽なハラスメントで辞めるのではないか? それを本人が傷つかないように婉曲的に訊ねるそうです。「映画でもそのように訊いてもらえませんか」と。後日、今度は矢﨑さんと兵藤さんの顔合わせも兼ねて3人で会って、食事をしながら意見交換してもらいました。その上で、撮影当日の午前中いっぱいは、会話の流れと内容について話し合いました。決め過ぎるのもよくないけど「これとこれは訊いてほしい」と伝えたあとは、録音スタッフのために軽いマイクテストだけおこなって、いきなり撮影本番でした。

──兵藤さんが、少し遠回しに訊ねるのにはそういう下地があるんですね。画はツーショットがメインで、あいだに切り返しをはさんでいます。

カメラを2台用意して同時に回し、ワンテイクでOKを出しました。

──フィックスのバストショットが続くので、画面が単調になりかねません。しかし奥に扉があり一点透視の構図になっていたり、二人の手前にペットボトルを置いて遠近感を出しています。そして本作の尺は、表記では76分です。

正確に言うと、76分30秒少し超えているので、ゾロ目の77分(笑)。本当はもっと短く、60分台にしたかったです。『あれから』が63分なので、そのくらいに。

──善美と白鳥教授の会話シーンは、およそ9分あります。77分のうち占める割合は少なくない。でも話の中には震災への直接的な言及や暗喩のような言葉がまったくありません。

それは撮っている時は考えもしなかったですね。いま言われて「確かにそうだな」と気づいたほどです。あのシーンで大切なのは、人生の先輩が自分の演技のおぼつかなさや不安を抱えている若い学生に対して、「大丈夫だよ」と背中を押すことです。震災や、それにまつわる演劇を当事者ではない人たちが作品化する是非を含めて、演劇に絡めるのは『SHARING』でやってしまったので、繰り返しても仕方がない。

──では本当にシンプルな、善美の人生相談ですね。

私自身も二十代の頃は善美のように不安定でした。兵藤さんに「私も二十代は経験がないくせにプライドだけは高くて、不安を抱えていた」というようなことも話した気がします。今でもそうですね。家族が出来て、何本か映画を撮ることが出来た今も。やはり揺れているし、不安を抱えています。保護者のようなまなざしで主人公ふたりを見守っているというよりも、彼女たちに私自身の気持ちを投影した部分が確実にあります。あそこで兵藤さんが「大学時代なんてまだ人生が始まっていない。大学出て23、4、5……6、27歳くらいかな。そっからなんで人生始まるの」ってだんだん歳の数が増えていくじゃないですか? カメラの後ろで笑いをこらえていました。大好きなところです。兵藤さんは撮影後に「これってたぶん普段通りの私だけど、大丈夫ですか?」とおっしゃっていました(笑)。とはいえ、カメラを2台回してワンカットで撮っている。たとえ普段通りでも、ある緊張感は強いていた。それと同時にあのようなやり取りをしてくれて、矢﨑さんも最後は笑顔になって、ホッとします。

──本筋から脇に逸れたように見えて、映画に欠かせないシーンになっているし、心理面の揺れが表れていますね。そして本作の特徴のひとつが「光」です。画でも言葉でも随所に光の存在を感じさせます。

最初から「光を撮るぞ」と狙っていませんでしたが、どんどん撮りたくなったんでしょうね。特に翌年2018年に追加撮影された部分に顕著かもしれませんね。稽古が終わって暗幕をサーッと開けると光が差し込むとか、明るい食堂のシーンとか。『SHARING』はあえて閉ざされた世界を描き、最も陽光を感じさせるのが、悪夢のようなイメージの爆発シーン直前の海辺のショットでした。だから、今回は全体的に光を取り入れた映像にしようと無意識に思っていたかもしれません。あとは詩の力が大きいですね。娘が小学生の時に書いた「ひかり」という詩。学校でも褒められたのか珍しく「こんなの書いた」って持ってきたんですね。それが良くて、「父ちゃんにちょうだい」ともらってからずっと私の作業部屋のドアに貼ってありました。本作を撮ることになり、準備を進めている時に「これは使える」と思って本人の許諾も得まして(笑)。あの詩がいいですね、と言ってもらえることが多くて、娘にも伝えています(笑)。

──ではあれは長年、監督のそばにあった詩でしたか。

そうですね。映画監督には皆そういう部分があるんじゃないでしょうか。さっきお話しした幼稚園の注射の逸話もそうだし、映画は作りもの(フィクション)だけど、すべて頭で考え出したことではない。自分がこれまで生きてきた折々で心に留まった出来事や見た光景、人から言われたひとことが残っていて、それらに不意に焦点が合って、映画の中で形になる。無理やりひねり出したものは、どうしても説明的になります。うまくいくのは無意識が作動している時で、そのとき撮れたものはあとで見直しても辛くない。たとえ私自身の想像力から生まれたものがよく出来ていても、やっぱり目の前で起きる予想もしなかったこと──書いたシナリオを上回る俳優の動きや表情など──は超えられません。
たとえば、ラストの丘の上の音も一発録りで、効果音は一切何も足していない。丘に登っていくところは足音も全部作り直して、風の音なども足していますが、頂上に上がってからは一切何も足していません。二人が会話している時に聴こえる救急車のサイレンや子どもの歓声、学校のチャイムや飛行機のエンジン音などは全部リアルにその場で響いてきた音で、現場でも滅茶苦茶感動しました。あの場面の録音を担当してくれた藤原里歩さんは生粋の録音部ではなく、監督として映画を撮っていて、その上マイクも扱える人。あれは二度と撮れない音です。ミキサーも一人で操作しながらの、天才的なマイク捌きでした。途中でほんの一瞬、その藤原さんと、たぶん私しか気づかない「カタカタカタ」という音が鳴ります。持っているブームマイクが何かにぶつかって竿鳴りした道具のノイズだから、本来は活かすべきではない。明らかに不自然ですが、でも「切らなくていい」と残しました。その瞬間、脳裏では藤原さんのがんばっている姿が思い浮かびます。正確には藤原さんは私の後ろに立ってマイクを構えていたので、どんな姿か直接見たわけではないのに、脳裏に浮かぶんです。きっと私だけですが(笑)。それであっても、矢﨑さんと柗下さんがお互いに眼差しを交わし、笑顔になる瞬間は、何度見ても泣きそうになります。内輪話ではなく、私にとってそれは本質的なことで……。どの映画でも、どんなに作り込んだフィクションであっても、カメラがまわり、録音機がまわる瞬間は、一生に一回限りのものであって、その瞬間のドキュメントでもあるんです。

(2021年3月4日)
取材・文/吉野大地

 
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