インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

『ホテルニュームーン』
筒井武文監督インタビュー (Part2)

©Small Talk Inc.

筒井武文監督の最新作『ホテルニュームーン』(2019/イラン・日本合作)が神戸と広島で公開された。テヘランで暮らすシングルマザーのヌシンと娘モナ。自立をはかろうとしていた矢先、モナはある日本人男性とヌシンの関わりを知り、母が秘めた過去と自分の出生の真実を探り当てようとする。
前回に続く監督インタビューでは、交錯する親子の心の綾を精妙に視覚化した技術を中心にお話しいただいた。

 

──最初にタイトルを聞いたとき、ジョン・アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』が影響しているのではないかと読んでみました。しかし、きっと関係ないですよね?

ええ、まったくないと思います(笑)。

──映画を見てわかりました(笑)。どのようにしてこのタイトルが決まったのでしょうか。

準備稿の段階では色々な候補がありました。一時期は『サクラの孤独』が仮題になっていて、まさか最終的に『ホテルニュームーン』に決まるとは思っていませんでした。それから『モナ』という日本語タイトル案もあったんです。でも、イラン側のデザイナーがタイトルカットに日本語の「ホテルニュームーン」も入れてしまったので、僕も了解してこれに決まりました。ただし、このタイトルは多くの意味を含んでいます。まずホテルはモナ(ラレ・マルズバン)の生命が宿った場所です。そして「ニュームーン」とは新月ですが、ペルシア語で「モナ」は新月を意味します。響きは地味で、なんだかホテルのCMみたいですよね(笑)。もう少し人を誘うものがいいんじゃないかと思ったけど、そういう裏の意味から考えると納得のゆくタイトルなんです。

──その映画は全体的にスピーディーに展開します。編集はイランスタッフのソーラブ・ホスラビが担当しました。

クランク・イン前に「この映画は2時間を超えます」と僕は言っていました。それに対してイラン側のプロデューサーは「いや、このままだと75分にしかならないからシーンを増やさないといけない」と主張する(笑)。日本映画であれば間違いなく2時間を超えていたでしょう。その原因はイラン人のしゃべる速さにあって、話し終える前に割り込んできます。普通は試写室でラッシュをすべて見て検討しますが、イランではよくあるように撮影と並行して編集がおこなわれていたので、今回はその余裕がなかったですね。結果的に95分の作品になりました。

──日本パートの編集は、監督と東京藝大大学院の教え子である山崎梓さん(映画専攻編集領域2期生)も手がけておられます。

それほど複雑ではない「こうつなぐしかない」編集だったので、日本での撮影後に彼女と2日ほどで仕上げました。ただ、編集で変わった部分は大きい。もとのプランで編集しているときには、ヌシン(マーナズ・アフシャル)がモナに語る回想パートが先に入る予定でした。その話は事実ではなく、さらにタケシ(永瀬正敏)が語る回想もある。ふたりの回想にはずれがあって、芝居を変えた同一シーンも撮っていました。マンキーウィッツの『裸足の伯爵夫人』(1954)のような回想にする予定でしたが、イメージとは違ったので現状の形になりました。回想パートの若いヌシンをラレが演じる案もありました。彼女が演じていれば、タケシが語る日本家屋や風景の断片的な話から、頭のなかでイメージを再創造する形になる。その場合は大胆にアヴァンギャルドをやろうと思っていました(笑)。たとえば彼女があるシーンを演じていて「何かおかしくない?」と言って、もう一度演じ直す。ちょっと吉田喜重監督の映画みたいですね(笑)。

──そのヴァージョンも見てみたかったです(笑)。諏訪敦彦さんがパンフレットに寄せた論考では、日本パートはモナの想像ではないかと書かれていて、たしかにそのようにも見えます。

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僕がそんなことをやろうとしていたのを察知してくれたんじゃないかな。過去を語り出そうとするとき、タケシは前を向いています。彼のほうを向いていたモナも正面にある円形劇場に視線を移す。つまり映画館でスクリーンを見る姿勢に変化します。想像上のスクリーンに映った世界を見ているイメージですね。あそこはカット尻も少し延ばしました。

──そこから日本パートに移る本作の転換点です。ふたりが正面を向いているショットはローアングルから撮られています。そこをはじめ、随所で高低差を生かした画づくりがなされていて、テヘランは坂が多い印象も受けます。

実際はそう多くないんです。ただ、テヘランの北側は3000m級の山がそびえ立つ、かつては王族が別荘を建てた一帯でもあります。現在は再開発が進んでいて、高台から市街地を見下ろすエリアに富裕層が住んでいます。

──モナが訪れる、タケシの商談先の工場があるのは北側から遠いエリアでしょうか。

南のほうの郊外で、テヘランから車だと1時間半ほどかかる工場地帯です。

──その一帯への移動シーンは、真実を知ろうとするモナの心理を描写する上でも重要ですが、郊外の工場を撮影場所に選んだのはなぜでじょう?

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日本パートにも工場が出てくるし、設定上でもタケシがビジネスであの工場を買い取ろうとしています。さらにモナの試練のイメージとして、なるべく遠くの込み入った空間が必要だと考えました。その工場へ行くと炎が燃え盛っている。それから工場といえば、映画史の始点に位置するものです。当初はリュミエール兄弟の『工場の出口』(1895)と同じアングルで、外から門を撮ろうと思っていました。ベタ過ぎるので断念しましたが(笑)。炎で残念だったのは、モナの車がエンストするシーンで、最初は美術部が火元にタイヤなどを放り込んで画面いっぱいに黒煙が広がっていたんです。でも、OKテイクが出る頃には火の勢いが小さくなっていた(笑)。

──その画も見たかったです(笑)。でもモナが工場を行き来する際のロングショットはいいですね。それに続く、ヌシンがタケシの滞在するホテルを再度訪れるシークエンスに関してお聞かせください。ロビーで待っていたヌシンが彼を見つけて追いかけるのをワンショットで捉えます。あの一連の動きはどのように撮られたのでしょう。流麗だけれど揺れのある絶妙な移動撮影です。

あそこはジミーさん(撮影監督・柳島克己)の名人芸で、すごく小さな移動車を使っています。手持ちではなく三脚にキャメラを載せているんだけど、ただ載せているだけで、手持ちとフィックスの中間のような撮影ですね。ほかにもああいうキャメラワークで撮ったショットがあります。一方、完全な手持ちはモナがヌシンに写真を見せて札束を投げるシーン。でも揺れが少なく安定していて、あのスピードはジミーさんの運動神経の賜物です。それに対してホテルのシーンは、移動車でなければあのスピードが出ない、とても難しいショットです。ロビーの斜めの軌道を客用のエレベーター前でいったん止まって、今度は三角形のような形で折り返す。そこでキャメラを振るのは非常に高度な技術です。芝居は、客用エレベーターの前でヌシンが立ちはだかり、下手に業務用のエレベーターがあることを知っているタケシはそっちへ動きます。ヌシンは知らないのでタケシを追い越してしまい、そこで少し時間のタメが出来る。そしてタケシに続いて、戻ってきたヌシンもギリギリのタイミングでエレベーターに乗り込む複雑な動きになっています。

──数秒のタメでもヌシンの先走る気持ちが感じ取れます。エレベーターは『孤独な惑星』(2010)『自由なファンシィ』(2015)にも使われました。

あの業務用エレベーターも撮影許可が必要で、取れたのは当日でした。イランの演出部が事前に『孤独な惑星』を見て、「エレベーターを使うといいんじゃないか」と相談したようですね。

──なおかつ中に鏡があるので、カットバックを撮らずに済みます。絶好のエレベーターが見つかりましたね。前回のインタビューでも伺った、ヌシンが小学校の校庭でサッカーをしている子どもたちの前を横切るショットは、直線と曲線のレールを組み合わせたのでしょうか。

レールは直線だけでした。それをパンと組み合わせています。あそこは彼女がサッカーのゴールポスト前を直進します。サッカーチームには、ヌシンが歩いてくるときに出来るだけその足元にボールを集めてくれと指示を出しました。3テイクめくらいで実際にボールが当たったけど、その後の芝居との兼ね合いで本編には別のテイクを使いました。サッカーはイランの国技的なスポーツだから欠かせない。ヌシンとモナが引っ越す前の家の窓からもサッカーが見えますよね。ぜひともサッカーを入れたくて、あのショットを撮ったのは午後でした。午前中にサッカーしているのが見えたので、「子どもたちを残しておいて」と頼んだらもう帰りかけていて、助監督が必死で引き留めてくれました(笑)。校舎を出たヌシンが歩くのに連れて、背景が校舎から山に移る。そのあとヌシンがモナの恋人サハンド(アリ・シャドマン)と会話します。レールは校庭の端まで引いていました。やり取りを終えるとサハンドが去ってゆき、ヌシンは突き当りの金網まで行きます。そこでトラックバックしていたキャメラが戻って前進に合わせてパンしているんです。するとヌシンが見下ろすテヘラン市街がフレームインする。トラックバックからトラックアップへの変化が俳優の動きにうまく絡んでいるので、往復しているようには見えないと思います。溝口のような移動ショットを目指しました(笑)。

──高度な技術と、ヌシンの心理が調和しています。

前回もお話しした、ホテルでヌシンとタケシが再会するシーンは冒頭を除き、劇中で初めて日本人が登場します。真正面でサイズを変えて切り返しているのは、イラン映画とは違う撮り方をしようという意図からです。またあのように撮ると、日本人ではないけれど、日本的な距離の取り方をしているヌシンが新鮮に見えます。あの場にいたいのか、それとも去りたいのか。正面から撮ることで、そういう心の揺れも捉えられる。僕も気に入っているシーンですね。ホテルへ向かう前に、普段は化粧をしない彼女が口紅を引きます。でも「濃すぎる」と思って、それを拭って家を出る。そこでもヌシンの微妙な心の綾を描こうとしました。

──そのヌシンとモナが引っ越す前の家は、やはりおもしろい造りですね、地下室があります。

あれはありがたかったですね。モナが地下室に降りてきて、灯りのスイッチを入れると暗がりに光が入る。色んな機械の音も鳴っていて、少しホラー的なシーンになった。撮っていて鳥肌が立ちました。

──引っ越しの準備で空になった部屋の床をトラックバックで撮ったショットも、誰の視線かわからない不思議でいい画ですね。

無人称のトラックバックで表現しようとしたのは時間の経過です。あれもラッシュではもう少し長くて、ソーラブに一度編集したものを1秒半ほど延ばしてもらいました。

──食卓のシーンに写る模様のある壁は『孤独な惑星』、そしてそのもとにあるリヴェットの『狂気の愛』(1969)に似ているなと思ったのですが、美術部によるものでしょうか。

あの壁ははじめからあったので偶然です。キャメラの高さはテーブルとほぼ同じ、水平にとお願いしました。そのアイデアの源はリヴェットの『王手飛車取り』(1956)。テーブル上のグラスや食器が男女を皮肉に見せているシーンです。食卓と同様に、映画の序盤はヌシンとモナが横並びになっているシーンが多いんじゃないかな。

──位置でふたりの関係性を示しています。車の運転シーンもそうですね。

最初はヌシンが運転して助手席にモナがいます。そのあとにヌシンだけ、あるいはモナだけのショットがありますが、まったく同じサイズにしてもらうように頼みました。カフェのシーンでは、ヌシンが席を立ってフレームアウトします。その後、ヌシンが車を運転するショットも撮りましたが、それは使っていません。画面上、右側にいるモナから(やはり車中の右側にいる)ヌシンに切り替わるようにつなぐつもりでした。それから、拗ねたモナが渋々乗ったけど、助手席は嫌で後ろに座るパターンも考えたものの、その画は撮り切れませんでした。車の正面からのショットで、ふたりの関係のあらゆるヴァリエーションをつくりたかったんですけどね。

──パズル的な発想ですね。ほかにお好きなショットを教えていただけますか?

やっぱりロングショットは好きですね。

──幕開けも日本の橋で撮られたロングショットです。

テヘランは川がない街です。陸橋はあるけど、本作に出てくるような橋もない。川の流れも見えるし、対比としていいと思いました。あとは、モナがホテルニュームーンに泊まった夜に、スマホが鳴っているのに取らないショットも好きですね。あの一夜でヌシンの過去を追体験して、彼女を赦すきっかけとなるショットです。あそこも本当はもう少し長く撮っていました。ラッシュでは、スマホが鳴る前にモナは長いあいだ考えごとをしているんです。シナリオには月のショットのインサートも書かれていました。

──あの終盤あたりは前半に比べてセリフの量がぐっと減りますね。それからスマホといえば、序盤にベッドにいるモナをスマホのライトだけで撮ったクローズアップがあります。『孤独な惑星』でヒロインをミニ・クレーンで撮ったショットを思い出します。

僕の映画には基本的にクローズアップがないけど、女性が横になっているときだけは例外のようですね(笑)。

──(笑)。撮影には自然光も生かしておられますが、ヌシンの母の家のシーンではステンドグラスの光を使っています。あのライティングに関して教えてください。

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あの家は本格的な撮影開始前、2018年9月にロケハンで見つけました。中にプールがあって、時代を感じさせる雰囲気を持つ家です。窓のステンドグラスを見て「ぜひ使いたい」と決めていて、撮るときは美術部スタッフが枠にセロハンを貼った、色々なカラーフィルターをつくってくれました。曼荼羅のようにヌシンの顔に光が射して、少し動くと表情も変化するアイデアもあったけど、それはちょっとやり過ぎでしょうね(笑)。

──『映像の発見=松本俊夫の時代』第Ⅳ部『実験映画篇』(2015)で、松本さんの身体に松本さん自身の映像を投影したアプローチに似ていますね。今回は過去作に増して、細部まで意匠を凝らしています。

言葉がわからないので、セリフやニュアンスのOKはイランチームの監督であるモーセン・ガライが出しました。その分、僕は画に集中した。イラン側と僕のダブルOKが出ないといけない形にしていました。だから普段以上に映像には神経を使いましたね。それから『孤独な惑星』や『自由なファンシィ』はギリギリの撮影日数で撮ったので、細かいカット割りをする余裕もなく、少ないカット数で最大の効果を上げないといけなかった。そういう作品ほど表現したいことが強くシャープにあらわれます。反面、日常風景などのディテールが薄くなる。それは自分で見ていても「弱い」と感じます。本作のイランパートは、そのようなディテールを含めて十分に表現できる時間がありました。その意味ではありがたい制作状況でしたね。

──イランパートは配色も凝っていますね。対照的に日本パートは色味を抜いています。

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最初はモノクロサイレント・字幕付きにしようとも考えましたが、プロデューサーから「やり過ぎだ」とNGが出ました(笑)。でも日本パートでエツコを演じた小林綾子さんがすごくいいですね。運動神経もすぐれています。階段を駆け下りてきて娘を探すショットは『レディメイド』(1982)や『ゆめこの大冒険』(1986)に近いかもしれない(笑)。

──深刻な状況ですが、動きはスラップスティック的です(笑)。

階段を駆け降りるのは危ないじゃないですか? 小林さんには「急いでいる設定だけど、芝居は慎重に」と言うと、「ここはそういう状況じゃないでしょう。必死でないと切迫感が出ないです」とプロの言葉をいただいたので、存分にやっていただきました(笑)。

──テイクは重ねたのでしょうか。

3テイクか4テイクだったと思います。それも技術の問題で、芝居自体はほぼワンテイクでOKでした。日本パートの撮影日数はイランほど多くありませんでしたが、そのシーンや最後にエツコが街中をひと晩さまよい歩いたのちに帰宅して、高台から街を見下ろす画を撮れたのもよかったですね。そこで、子どもが手の届かないところへ行ってしまったエツコとヌシンの姿が二重写しになります。ソーラブの編集は空舞台を使いません。でも日本パートの最後のショットだけは、小林さんがフレームインしてくるまでの1秒半を空舞台にしてもらいました。

──空舞台は監督がよく使われる技法ですね。そして終盤、ホテルニュームーンの部屋では、先ほどお話しいただいたようにヌシンとモナの体験も二重写しになります。

ホテルでモナがひと晩過ごした時間と、ヌシンが20年前にそこで過ごした時間の記憶が重なります。ヌシンが窓の外を見ているときは20年前の自分に同化している。モナはその窓の光景から20年前のヌシンを想う。この映画はひとりひとりの記憶の時間を幻視させます。あの部屋では体験の時間と想像の時間が交わるわけです。

──ふたりの時間が流れ込む空間ですね。

僕が本作でやりたかったのは、違う時間の厚みを持った人たちがすれ違いながらも、お互いの時間を理解して共感する場をつくることでした。それは隠しテーマですけどね。ナグメ・サミニさんの脚本がうまいのは、そこでモナが冒頭で描かれる問題をふたたび口にする。直接的な言葉でなく、その話を反復することが間接的な赦しになっています。

──仮にホテルの部屋を母胎と見立てるなら、物語もはじまりに戻る、一種の母胎回帰的な構造です。

あのふたりのシーンのあとにはヌシンの回想が入ります。あれはヌシンがモナに語る話として撮っていたのを、ひとつだけ入れたものです。本来は時制的にもう少し前に来るはずで、流れとしては少し変ですね。ご覧になると回想としか捉えられないでしょうが、あまりそういうふうには見えない。場所は同じホテルの入り口でも、受付の位置や「ホテルニュームーン」の字体を変えています。ガラス超しにヌシンを撮ったショットも、ガラスの歪みの影響で、ちょっと奇妙な画になりました。

──『孤独な惑星』『自由なファンシィ』もいつの間にか時空間がねじれる作品でした。そしてお話からは、「1秒半」と観客が認識できないかもしれない短い時間にまで細かく気を配っておられるのがわかります。

デジタルの時代になって僕が直接編集しない場合でも、編集者に「2コマ切って」「4コマ延ばして」と言います。フィルム編集で叩き込まれたその感覚を最も突き詰めたのが『ゆめこの大冒険』で、家に映写機があったので、確かめながらコマを足したり引いたりしました。フィルムだから、映画の時間を視覚で身に付けることができた。たとえば僕が指を広げると、16㎜だと親指から小指の先までだいたい26コマ。少し幅を抑えると、ちょうど24コマ1秒です。両手を広げると8秒と、身体でショットの長さが見えてきます。自分の身体をメジャーにするわけです。

──手先だけでなく、身体感覚で編集するということですね。

スタインベックなら自動で回るけど、シンクロナイザーで回すときは自分の体調を探るために黒味を使ってみます。たとえば4秒をイメージして回して止めると、絶好調ならひとコマのずれもなく96コマになっています。ずれていれば調子がよくないので、「大事な部分の編集は今日はやめよう」と判断できます。一日で編集の感覚がピークになるのはせいぜい1時間から2時間ほどです。大事なところはそこで勝負をつける。それまでは準備運動のつもりで段取りできる作業をやりつつ、ひとコマも狂わず切れる状態に身体を慣らしていきます。その日の重要なカッティング・ポイントが決まったら、そこを編集する時間から逆算して作業をはじめます。僕の場合は深夜1時ごろにピークになることが多いので、夕方5時ごろに編集室に入るサイクルですね。ただ編集を終えて片づけていると、すっかり終電の時間を過ぎていて帰れなくなる(笑)。それでも映画って、たったひとコマ変えるだけで、まったく違うものになるんです。

──本作はデジタル編集ですが、そのひとコマが持つ時間性まで味わっていただきたいですね。ありがとうございました。

取材・文/吉野大地

 
映画『ホテルニュームーン』オフィシャルサイト
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