インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

『TOCHKA』 松村浩行監督インタビュー(前編)


 
今年3月、国立国際美術館で第20回中之島映像劇場「松村浩行レトロスペクティブ」が開催された。プログラムは初監督作『よろこび』(1999)から『TOCHKA』(2008)までの4作と、決して多くない数にもかかわらず「日常に溢れかえるイメージの喧騒から距離をおき、映像表現の可能性を過去の作品から再発見する」中之島映像劇場の主旨を見事に充たし、映画作家・松村浩行のポテンシャルを示す2日間だった。
『TOCHKA』の舞台は北海道本島の最東端に位置する根室。戦争遺跡〈トーチカ〉の点在する海辺で出会った見ず知らずの男女はぎごちなく言葉と視線を交わす。彼らが携え、口から漏らす私的な記憶はその場所が持つ記憶でもあるが、かすかに重なりはしても、私的であるがために応答や共有に届かない。男が重い語りをトーチカ内の薄闇に響かせたのち、彼らは別れ、より深い夜の闇と孤立がトーチカを覆いはじめる──。厳密なキャメラワークと大胆な音響が、男女の一日の交錯を見る者の視聴覚に焼きつける。公開から10年以上の時を経ても強度が朽ちることのないこの作品をめぐり、監督にロングインタビューをおこなった。
 
*中之島映像劇場のプログラマーであり、取材にご尽力くださった国立国際美術館客員研究員の田中晋平さんに、この場を借りて深くお礼申し上げます。

 

──今回のレトロスペクティブでは客席から自作をご覧になっていました。どんなご感想を抱きましたか?

このようなかたちで自作がまとめて上映される機会は、これまでありませんでした。2009年10月にアテネ・フランセ文化センターでおこなわれた上映会〈オルタナティヴ・シネマ宣言〉でも、『TOCHKA』はプログラムされていませんし。コロナ禍の状況で質疑応答の場は設けられませんでしたが、観客の方に感想を伺いたかったですね。個人的には、作品数は少ないのに作風がバラバラだとあらためて思いました。滅茶苦茶だなと(笑)。

──映画美学校の卒業制作16ミリ作品『よろこび』から『TOCHKA』まで通して見ると、同じ人がつくったとは思えない部分もありました(笑)。

今回まとめて見直して、同時に感じたことは、「でも繋がっているな」ということでした。

──そのひとつはモチーフや構造の「反復」でしょうか。

以前からそれは薄々自覚していました。でも実際に作品を企画・制作しているとき、そういう思考はほとんどないんです。「気づいたらそうなっていた」というのか、計算して組み立てているわけではないのに、出来上がってみるとそうなっているというのは、自分でもおもしろいなと思います。

──『TOCHKA』公開時に「緻密に練られた映画だ」という主旨の作品評をいくつか読んだ覚えがあります。構造をしっかり固めて撮っておられると思っていました。

たぶん僕にそういう能力はないですね。これは韜晦などではなくて、頭のなかに白紙から設計図を描いて、それを具現化していく作業がおそらく不得手で、建築物や場所、テキスト、何でもいいんですが、何か具体的な「もの」からしかつくれない。オブジェのような取っ掛かりがないと駄目で、それがあってはじめて、自分なりの思考が生まれてくる気がします。ルノワールもコーヒーカップを例にそういうことを言っていますね。反復や繰り返しも、その過程で自然にそうなっていくもので、抽象的な構造を先にきっちり決めて話をつくるというのは、僕にはおそらく出来ないでしょうね。今まで一緒に映画をつくってきた人たちは、この意味がよくわかるかと思いますが。

──映画美学校の講師で、『よろこび』を編集された筒井武文監督に「ほかの生徒の作品の編集に手こずることがあったけど、『よろこび』は例外だった」と伺いました。

『よろこび』

確かに筒井さんにそう言われた記憶があります。当時京橋にあった映画美学校のスタインベックを使って編集しましたが、最終的な仕上げの前に「ひと晩かかるだろうから泊まり覚悟で来てくれ」と伝えられ、夜10時くらいから朝までやるつもりで行ったのですが、1時前には終わってしまいました(笑)。筒井さんはじめ、みなさんはそれぞれ帰られたけれど、僕はもう終電がなくて帰ることの出来ない時間で、京橋から江戸川区にあった家まで、4時間ほどかけて東へ東へと、暗い道をトボトボ歩いて帰った思い出があります(笑)。

──以前、筒井監督にお話を聞いた際に「編集作業のピークは1時間から2時間で、逆算して夕方から作業をはじめる」とおっしゃっていました。その日もそうだったのでしょうか。

その時点ではすでに粗繋ぎを終えていて、全編を見直しながら最終調整をする段階でした。同時に制作していたほかの組から、深夜に筒井さんがゾーンに入って、決定的なひとコマを一撃で射抜くような神がかる時間帯があると噂で聞いていて、密かにそれを期待していたのですが(笑)、実際はほとんどやることがなかった。おそらく、ある程度編集的な意図を持って撮影をしていたから、あらためて検討を要するところが少なかったのかなと思うんです。

──レトロスペクティブで配布されたリーフレットに、撮影を担当された居原田眞美さんが寄稿されています(『まつむのこと』)。そこに『よろこび』は「監督が順撮りを切望されていた」と記されています。その通りでしたか?

いや、順撮りではなかったですね。キャストをはじめ、関わっている人が多く、また撮影場所の制約もあったため、撮り順はバラバラでした。ラストの、羊の牧場のシーンは撮影スケジュールの最後に撮りましたが、実は本当の最後は冒頭の海のシーンで、少し日が経ってから、僕が皆に無理を言って、追加撮影のようなかたちで撮らせてもらったんです。

──その『よろこび』から『TOCHKA』を追ってゆくと、ロケ地が都市部から北の果てまで移動します。制作条件なども影響したと思いますが、この風景の変化には理由があるのでしょうか。

『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』

言われてみると、『つかのまの秘密さ海の城で〜水無月蜜柑試篇』(2005)もある意味、その途上にあるのかもしれませんね。でも『TOCHKA』では、人の手が生み出した「もの」と、自然の力との拮抗というか──弁証法ではないですが──その両方の危うい均衡を捉えることが重要でした。単純に風景にのみ心が動くのではなく、人工物との緊張状態に何より興味がある気がします。トーチカというのはロシア語で「点」の意味らしいんですが、まさにその一点で、水平的に拡がる風景の横軸と、人間の記憶や歴史の縦軸が垂直に交わるようなイメージですね。また、『よろこび』や『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』(2002)では時間の移り変わりのなかで空間を展開させようとしていたのが、『TOCHKA』ではひとつの場所に留まって、時間のほうを動かそうとした。その点は以前と違うのかもしれません。

──『TOCHKA』は自然を牧歌的に描いた映画とは違いますね。公開当時の記事やリーフレットを読むと、撮影までに何度も根室へ足を運んでおられるのがわかります。一般的なロケハンやシナハンとは異なる意識をお持ちでしたか?

純粋なロケハンやシナハンという意味でなら、片手の指で足りる程度なんですが、実際にはそれ以上に何度も足を運びました。実はキャスティングに思いのほか時間がかかってしまい、そのあいだとくに準備らしい準備が出来なくなってしまった期間があったんです。一方で、地元の人たちとはただ場所を借りるだけの付き合いにはしたくなかった。それは制作の柴野淳くんも同じ考えでした。とにかく自分らの身体を持っていき、根室の人に会って関係を持続させる。「途切れさせてはいけないな」という思いが大きくて、まあ単純に楽しかったからというのもありますが、とくに必要のないときでも数ヶ月、半年くらいおきに行っていたので、自然と回数が増えてゆきました。
また、まだ現地に行ったことのないスタッフを入れ替わりで同行していた、ということもありました。撮影に入るまでの時間が長かったぶん、人の出入りもありましたから。そういうわけで、新しく入ってきた人とは慣らしの意味で、「一緒に行こうか」となりました。

──関係の糸を切れないようにされていたんですね。遠征を重ねた経験は、映画に直結しましたか?

それはもちろん、色々なところに影響しています。何度も訪れるなかでシナリオの変化もありましたが、やっぱりもっとも大きかったのは、人との関係を築けたことです。僕の口から言うのも何ですが、その厚みがあったからこそ、こちらがやろうとしていることへの信用を得ることが出来たし、様々な面で力を借りることが出来た。いちばん大きいのはそこじゃないでしょうか。
大阪でのリーフレットに寄せてくれた柴野くんの文章(『まだ見ぬ友たちへの手紙』)にも似たことが書かれていて、もしかすると僕以上に彼のほうが、そうした長いスパンとプロセスを要するような作品づくりへの志向が強いのかもしれません。つい最近までは、自分が彼の人生を巻き込んでいると思っていたのですが、今回寄せてくれた文章を読みながら、「むしろ巻き込まれていたのはおれで、彼のほうがそういうことを出来る奇特な人間を無意識に欲していたのかもしれない」と思うようになりました(笑)。「そういうこと」というのは、「映画づくりであって映画づくりじゃない、狭義の映画制作を逸脱してゆくような、ときに大きな回り道も厭わない活動」とでも言えばよいでしょうか。でも彼の目下の生業は一般商業映画のラインプロデューサーなので、何とも皮肉なんですが(笑)、最近はそんなふうに考えたりしています。

──準備から上映も含めて、作品だけではない何かをつくり出す活動ですね。

ふたりでトーチカのある場所に行った最初の日、近所に食堂「新茶屋お母婆」の個性的な建物を見つけて、ゆくゆくお世話になるかもと飛び込みで入りました。「もしここで撮るなら、このお店に顔を出さないわけにはいかないよね」くらいの心構えでしたが、結局そのお店には完成した映画の上映までお世話になりました。でもはじめて僕たちを見た女将さんは、テロリストだと思ったそうです。「何かよからぬことを企んでいる奴らが現れた」と(笑)。ただならぬ雰囲気を見抜かれていたのかもしれない。

──その直感が的中した(笑)。今回、『TOCHKA』はDCPで上映されました。2009年の公開時の素材は?

DVカムでした。

──DCP化は2018年に宮崎大祐監督がプログラマーをつとめた特集「シネマ・レガシー」がきっかけでしたか? ステレオだった音も5.1chになっています。

『TOCHKA』

シネマロサでの打ち合わせの際、劇場からDVカムではなくDCPかブルーレイの素材を用意出来ないか、という相談を受けました。そこで手間はかかるけど、今後を考えて思い切ってDCPにすることにしました。変換作業に関しては宮崎さんがお知り合いを紹介してくれ、大いに力を貸してくださり、ありがたかったです。録音・整音・編集・劇中写真を担当した黄永昌くんも、これを機に音をミックスし直してくれました。

──DCP化された画と音からは、2021年公開の新作だと言われても納得できる強度をあらためて感じました。映画は1931年、根室に降り立ったリンドバーグの写真からはじまります。監督による自作解説〈『TOCHKA』(トーチカ)と二つの固有名詞〉でも触れているポール・ヴィリリオの『戦争と映画』は、大学の担任教官であられた石井直志さんが翻訳を手がけた書籍で、写真から映画へのテクノロジーの進化を扱っています。冒頭の写真には、その影響もあるでしょうか。

根室遠征の初期に、取材のため根室市郷土資料保存センター(現・根室市歴史と自然の資料館)に足を運びました。動物の剥製なども展示している施設なんですが、その壁にあのリンドバーグの写真が飾られていたんです。それが印象に残っていて、映画のいちばん最初に映そうと思いつき、壁の写真を撮影することにしました。これは先ほどの「水平と垂直」とはまた別で、映画のなかの風景の上に、同じ場所ではあるけれど異なる時間と文脈のレイヤーを重ね合わせたかった。だから、石井直志さんを介したヴィリリオのテクノロジー論やイメージ論とはまた方向性が違うかもしれません。ほんの思いつきではあるけれど、この映画に必要だと感じて入れました。

──あの写真は物語の「外」にある時間というイメージがあります。

そうですね。ある種、閉じたものの外側を示したかったのだと思います。

──もうひとつ、「外」にあると感じたのは中盤の女のモノローグです。とても美しいモノローグですが、現在の時制で語られる言葉だと思っていると、どうもそうではない。このあたりから映画が抽象的な色合いを帯びはじめます。

モノローグはシナリオ執筆の最終段階で、不意に書き加えたものです。あの部分にはもともと今のようなモノローグはなかった。男(菅田俊)と女(藤田陽子)が出会い、女が離れてまた戻ってくる展開は同じです。でも、モノローグの箇所には何もなくて、何かが決定的に足りないのはわかるけれど、それが何なのかをまるでつかめずにいた。あるときキーボードに向かってシナリオを直していると、天から突然落ちてくるようにあのモノローグが思い浮かびました。その瞬間だけ、まさか自分は天才なんじゃないかと疑いましたが(笑)。「ああ、これだ!」と納得して、ほぼ直すことなく、一気にあの夢の話が書き上がったんです。
実はさらに遡ると、より以前の段階のシナリオには、女が東京に戻ってくるというシーンがありました。完成したシナリオでは、女は自分が戦争遺跡の研究者であると咄嗟に嘘をつきますが、そのバージョンではそのような詐称はなく、本当に研究者として根室を訪れ、そこから戻ってくる、という設定でした。そして撮ってきた写真を壁に投影して近い過去を思い出す。一種の後日談的な場面ですが、やがてそのシーンはなくなり、根室で完結するかたちになりました。ただその場面はなくなっても、時間が跳んだところからの回想のモノローグという意味で、それが生きています。
女のキャラクターも、研究者がフィールドワークのためにトーチカを訪れるという、もっと明確でわかりやすい人物像でした。そこが曖昧模糊となって、なおかつ彼女の内面を示唆する長いモノローグが入ることで、人物のイメージもずいぶん変わりました。

──あのモノローグをラップのフリースタイルのように書けるのは、天才の所業です(笑)。そのあとの展開を最後に女が去って、映画のトーンも一変します。二部構成ではないけれど、レコードに喩えるとアルバムのA面とB面のようになっていると感じました。

レコードのイメージはありませんでしたが、感覚的には近いかもしれないですね。B面はハードで、しかもA面とは明らかに曲数が違う(笑)。

──A面には3分から4分の平均的な長さの曲が並んでいるのが、B面は一曲だけになるという(笑)。しかし、B面にあるはずのショットがA面の終わりにあるのも作品の抽象度を高めているように思います。リーフレットへの柴野さんの寄稿で、「女性を最後にトーチカに引き戻すことが大事だ」と監督が気づく、シナリオの変遷にも言及されていますね。

ある段階のプロットまでは、男と女が別れてそのままでした。彼女が駆け戻ってくるシーンは一切なく、「戻る」という展開、アクションに気づけていなかったのですが、あるとき、「いや、一回戻るんだな」とわかりました。戻ったのち、彼女は再び去るわけですが、そのあたりがA面からB面への橋渡しだと言えるでしょうか。

──レトロスペクティブでは映画研究者・堀潤之さんとのトークもおこなわれました。踵を返した女が消えることが作品の後半、つまりB面の展開につながったというお話もあったかと思います。

解釈を狭めることは意図していませんが、堀さんとのトークでも話したように、それまでのナラティヴがあそこで破綻してしまうわけですよね。語り手であったはずの女性が急に舞台から退場してしまう。ひとつの解釈として、そのあとに続くのはナラティヴから外れてしまった、もはやナラティヴが責任を取れないような時間──ナラティヴがあずかり知らない時間です。A面の終わりに入る、女性の回顧的なモノローグが知り得なかったような時間ですね。さらに考えれば、そのナラティヴ自体も妄想かもしれない。それは制作の途中から気づいていましたが。

──映画は人がつくるものですが、B面はそれ自体が自律的に作動しているような……、そんな妄想めいた印象も受けました。フィックスの長いシークエンスは、監視カメラの映像に似た無機質な質感を持っています。

人の手から放り出されてしまったような、ゴロンと塊として存在するような「もの」ですね。だから「一曲」でなければならない。B面がワントラックのようになっているのは、そういう意味でもあって、やはりそれは感覚として分割できない。ひとつのオブジェとしてあってほしかった。

──まるでトーチカそのものですね。B面には犬と少年も登場します。彼らもナラティヴの外にいながら、男女とすれ違います。

少年と犬は、男女のラインからさらにもう一段外れる存在だと感じています。映画はB面の主人公である男性の思惑からも外れて、少年と犬にバトンが渡され、ズレていく。女から男へ、男から少年と犬へと、映画が手渡されていくイメージですね。

──そのモチーフは実体験がもとになっているそうですね。

ロケハンで僕と柴野くんがある集落の公道を走っていると、対向車の軽トラを子供が運転していました。ふたりで「今の子供だったよな?」と確かめ合いましたが(笑)。その出来事を取り入れています。それから、おばさんが車を運転しながら犬を散歩させていたんです、やっぱり公道で(笑)。運転席の窓からリードを持った手を出して、犬を散歩させている姿をちょくちょく見かけては「すごいな」と思って、軽トラの子供と組み合わせました。
あともうひとつ、作品に繋がる忘れられない出来事があって、ある日の明け方早起きして、トーチカのなかでひとり考えごとをしていました。朝5時くらいの、まだ薄暗い時間です。すると突然、犬が僕のいるトーチカに入ってきた。近くの「新茶屋お母婆」で飼っている犬たちが朝になると放し飼いにされるんですが、すごくびっくりしたし、犬たちも映画のシーンのようにトーチカの入口からじっとこちらを見ていました。映画に出演しているのはそのときの犬の一匹です。ですから大まかに挙げると、僕の頭で考えたものではない、実際にあった3つのモチーフが混ざり合っています。

──まさか3つとも幻視ではないですよね?

たぶん。もしそうなら、すぐに病院を予約しないといけないかもしれない(笑)。

──(笑)。生々しくもあり、どこか寓話的にも思えるモチーフはそうやって出来ていたんですね。ではA面の序盤に話を戻して、女は旧いカメラを携えています。トーチカの銃眼はファインダーのようでもあり、そのアナロジーからカメラを持つ設定が生まれたのではないかと思ったのですが、いかがでしょう。

『TOCHKA』

いちばん最初まで遡ると、この映画は女が一切出てこない話でした。まだホンにもなっていない、カードに思いつきをメモしている状態だったときは、男がひとりで木立のなかにいて、そこで行き倒れになっている。自殺志願者なのか何か正体のわからないその男は、猟師に見つけられ、「こんなところで寝ていてはいけない」と諭されて、海辺に向かいます。そこにトーチカがあり、男はなかへ入っていって、そこにずっと寝転がっている。キャメラはひたすらその様子を撮っていて、やがて日が暮れると、海から白い濃霧(ガス)が立ち込めてきて、トーチカのなかまで這入ってくる、というような、今とはまったく趣の違う話を構想していました。それを出発点にして、「いや、目撃者がいないと男が際立たない」と考えたんです。男を対象化するためにそこにひとつの眼差しを置こうと。その視線を具現化する道具として、女の持つカメラがあったのだと思います。そうした発想の移り変わりのなかで、カメラとトーチカという構造物の類似性が深まっていったように思います。

──「視線」ということでは、出会った男女がトーチカの外で会話を交わします。このシークエンスはふたりの位置と距離、視線の交わりを把握しづらい変則的な切り返しで構成していて、いま見ても斬新です。キャメラポジションは撮影時に現場で固めたのでしょうか。もしくは撮影前から決めておられましたか?

撮影前にすでに決めていました。正確にどの時期だったかは定かではないんですが、撮影が2007年の春だったので、もしかすると前年の晩秋くらいだったかもしれません。キャメラを置く位置にひとつひとつ釘を打ち込んでいきました。それがどこにあるのかわからなくなった記憶があるので、おそらく冬をまたいでいたと思います。あのシーンは男女の切り返しを、同じポジションからキャメラの首を振り、レンズの長さを替えて撮影しています。そのほかの切り返しもほぼ同様で、ショットごとにキャメラは動かしていません。

──続く、防波堤での会話の切り返しもそうですか?

あそこは同様のポジションを2ヶ所つくっただけでした。キャメラを置いて藤田さんを撮って、次に菅田さんを撮って、という撮り方は同じで、そのポイントが増えただけです。ひとつのショットを除き、すべて防波堤より陸側に置きました。その同じポジションから女/男と、キャメラを振っています。画面上では、藤田さんの正面と菅田さんの背中というかたちですね。

──男が姿勢を変えてキャメラを見つめる瞬間がありますね。そこで彼が語るのは過去の話で、記憶をたどる行為と、トーチカのほうへ振り返るアクションが重なって見えます。

それまでは肩越しだったのが、グッと身体を開いてこちらを見るところですよね。あれにははっきりした理由があって、撮影後に菅田さん本人から伺ったのは、ずっと肩越しで芝居を続けていたため、ひどくストレスが溜まっていたそうです。やはり演技をする上で、自分の表情を正面から押さえてもらうのがごく自然なことなんでしょうね。僕があまりに意地悪に背中ばかり撮るので、イライラされていたようです。のちにおっしゃっていたのは、あそこで思い切り身体を開いて、ほぼキャメラのレンズを見る姿勢を取ったのはご自分なりの「抵抗」だったと。男が肩越しに女性の気配を感じながら話すイメージしか僕は持っていませんでしたが、あのように身体を開いてレンズを見つめるのは、そうした演出への菅田さんのレジスタンスなんです。

──あのアクションは、今まで監督の演出だと思っていました。

あの眼をよく見ていただくと、菅田さんはものすごく怒っておられます。おそらくキャメラの向こうにいる僕を睨んでいる眼です(笑)。

──その逸話を聞けただけで、もう取材を終えていいくらいの驚きと充実感がありますが(笑)、質問を続けると、不自然にも見えるポジションはどのように決められたのでしょう。

先ほどのお話とも繋がることですが、キャメラのポジションを節約したかった。それは撮影の効率などの事情とはまったく別の問題なんですが、自分には奇妙な使命感があって、あちこちにキャメラを動かして撮りたい画を撮ることに──うまく説明出来ないんですが──何か嫌な感じを覚えます。これは今でもそうです。撮る側が不自由さや枷を自分に課すことが映画を撮ることだという困った考え方を持っていて、僕のなかでその基準のひとつがキャメラポジションの節減です。
もし自分の映画づくりにストローブ=ユイレの影響があるとすればその部分で、自在に空間を動き回って撮りたいものを撮ろうとする欲求を出来るだけ減らしたい。そういう意志があります。そのためには防波堤やほかのシーンも、ややもすればぎごちなく、うまくいってない印象を与える画や繋ぎになっても構わないので、少ないポジションで構成したかった。それがいちばん大きい理由です。
俳優の芝居の流れを損なわないよう、つねに最良のポジションを優先させることに重きを置く演出をされる方もたくさんおられるでしょうし、とくに近年はその傾向が強いような気もします。かりにそのような立場に立てば、菅田さんの表情を押さえるために海側に回って撮ることも出来ました。でも僕は少ない要素によって構成することをあらかじめ決めていた。そのときは女によるナラティヴだから、自然、キャメラを置くのは防波堤を挟んだ藤田さんの側になります。その選択を離れて、自在にキャメラを動かして素材をストックすることがあまりピンと来ないのです。窮屈な考え方であるとは自覚していますが、映画全編を通して「鈍重さ」というか、「不自由さ」を必要としていたように思います。

──先ほどの水平と垂直の喩えにならうと、倫理と美学の交わるところですね。

そこに通じると思います。繰り返しになりますが、効率性を考えているからでは全然ないですし、もとより、撮影前に用もないのに根室へ何度も行っていたような人間が効率性を口に出来るわけもないんですが(笑)。でもその「不自由さ」がないと、映画を撮った気がしないんですよね。

──創作や表現で優先されるのは「やりたいこと」ですよね。逆の「やりたくないこと」から、あのような繋ぎが生まれたとも言えるでしょうか。

そうですね。やりたいことというよりは、むしろやりたくないことに近いですね。

──そのあとの、一度去った女が戻ってくるシーンに関しても教えてください。あそこはトーチカのなかからの画に対する外からの画がありません。つまり女の側のPOVやそれに近いショットで切り返していない。それにもかかわらず、何か強烈な視線の介在を感じさせます。

これもまたロケハンの話に戻りますが、事前にスタッフの皆と一緒に様々なショットを実験しています。そのなかで、あのシーンの女の側からのショットも試してはみたんですが、実際の撮影では女のPOVや彼女の主観的な肩越しの画を撮ることはありませんでした。実は最初、ヒッチコックの『めまい』(1958)の有名な、トラック・バックしながらのズーム・アップと同じようなことを考えていました。奥にトーチカがあり、手前に立っている藤田さんがいて、あの手法で撮れば、トーチカへの距離感がグラッと変わるだろうと思いついて、実際にやってみたんです。しかしスタッフとあれこれ試行錯誤するうちに、「やっぱり何かちょっと違うよね」という雰囲気になって(笑)。とにかく、女のPOVや彼女越しのショットを省いたのは、トーチカのなかからやってくる視線の出どころを客体化、対象化したくなかったんです。あくまでトーチカのなかからの視線で終わりたいと考え、それを切り返す女側からの視線を置きませんでした。
もう一歩踏み込むと、女側からの見た目を入れてしまうと、なかに誰もいないことがわかってしまいます。あのときのトーチカのなかにおそらく人間は誰もいない。劇場パンフレットで言うと表紙のほうですね。この画を撮ってしまうと──現実には暗くてよくわからないはずですが──内部を写してしまうわけです。そのショットは入れないほうがいいと思いました。あくまで裏表紙の、非人称的な視線を尊重したわけです。

左:パンフレット表紙 右:裏表紙

──何度か繰り返されるトーチカのなかからの画でも、あそこは際立って見えます。

『めまい』風のショットがうまくいかなかったがために、方向転換してよかったです(笑)。トラック・バックのためにわざわざレールを敷くことも考えましたが、やっているうちにみんなの「これゼッタイ違うだろ、やめといたほうがいいぜ」という空気を敏感に察して断念しました。こういうのは大切です(笑)。

──その判断の結果、映画の反復構造も強調されることになります。空気の察知は大切ですね(笑)。続けて、男女の関係性に関して伺えればと思います。A面には会話劇の趣があります。しかし初対面であることや、もっと大きな理由が作用しているのか、ふたりの会話はいささかちぐはぐです。噛み合わない微妙な話のラインはどうつくられたのか、シナリオと演技の両面からお話し願えますか?

互いに一定の距離を測りながらダイアローグが拮抗し合う感じは、僕の印象だと、文字のほうがより強かった気がします。とくにそこは藤田さんの個性だと思いますが、シナリオよりもどこか柔らかい雰囲気になりました。わかりやすい言い方をすると、文字だともうちょっとキツいというか、どこかギスギスしていて、体温が低い感じなんです。でも藤田さんの資質のせいか、そこに柔らかみが生まれている印象があります。
例えば、「入水でもするんじゃないかと思って見ていたんです」と女が男に打ち明けるセリフにもっともよく表れていると思いますが、文字に込めていたニュアンスはあの状況のなかでもっと皮肉に響くものでした。それが藤田さんの口から発せられると、辛辣なトーンが弱まって、どこか相手を気遣う口調のようでもある。もちろん直すことも出来たけれど、「そうじゃなくてもいいかな」と判断しました。「これはこれで人物が立っている」と。
吉野さんが指摘された、会話のラインがギクシャクしていてどこか噛み合わないような印象ということでは、シナリオの段階でもある程度意識していましたが、演出や編集の影響もあるかと思います。お気づきかと思いますが、各台詞の前と後に、それぞれ少し長めの、余白のような間を持たせているんです。通常なら台詞と台詞の間合いがもっとタイトで、場合によってはクロスしてしまうようなところを意識的に引き離して、互いが交わらないように孤立させている。そのために奇妙な間合いが生まれて、見ている人がどこかしら会話に違和感を覚えるようにしています。

──そのあと、女が紅茶を淹れて男に渡します。これも「孤立」と男女の「距離」に関わってくるように思うのですが、この行動に関して、劇場パンフレットに掲載された鎌田哲哉さんと監督の往復書簡で熾烈ともいえる議論が交わされていますね。紅茶という熱を持つもののアイデアはどこから生まれたのでしょう。ふたりが何かをやり取りする、演出のアイテム以上の役割を持つものとして選ばれたのでしょうか。

お湯を沸かす展開をどの段階で入れたのかもはっきり覚えていませんが、確かにふたりがやり取りする「もの」が欲しいとは思っていました。何か別の小道具を想定していたのではなく、はじめからその役目を沸かしたお湯で淹れた紅茶が担っていたように記憶しています。もうひとつ、ごく素朴な理由を挙げると、火を起こして何かを飲むというのが西部劇的だという子供っぽい発想もありました(笑)。
もともと彼女が持っていたもの──人にあげるつもりはなく、あくまで自分のためのもの──は何がいいだろうかと考えると、寒い場所だし、やっぱり何か温かい飲みものを準備していくんじゃないか。そしてそれを知らない人とシェアすることが、些細ではあるけれど、ひとつの大切な振る舞いになるんじゃないか。おぼろげな記憶ですが、そんなことを考えていたような気がします。

──そこからさらにふたりの関係性を考えると、リーフレットに収められた論考で堀さんが「記憶の絶対的な共有不可能性に促された、記憶の絶望的な反復」と述べておられます(『絶望的な反復の呪縛──松村浩行《TOCHKA》論』:初出『中央評論』270号)。これはとても鋭い考察で、男女が持つ記憶に接点はあれども、たしかに絶対的に共有不可能なものです。しかし、もし何かの可能性があり得るとしたら、と考え直してみました。「sympathy=共感」には至らないけれど「compassion=共に苦しむ」、それに近い関係が両者のあいだに結べないかと思ったのですが。

A面/B面の喩えでお話しすると、A面の終わりに女が踵を返して男から、映画のなかから去ってゆくアクションがありますよね。一見大変冷酷にも見えますが、あれが彼女のなかでは今おっしゃられたような、「共苦」としての「compassion」に近いものなのかなと思います。例えば堀さんが考察された文脈を踏まえ、記憶の安易な共有を拒む身ぶりとして踵を返すアクションがあったと考えると、確かにしっくり来るんです。じゃあそれが映画の結論であったり、僕の人間観だろうかと考えると、そこにはまた何か別の要素があるかもしれない。この、「そうであるけど、しかし」の部分が、吉野さんの言われた「共苦」であり、また、鎌田さんが往復書簡に書いてくださったお茶の持つ「熱」にも繋がるのかなとも思うんです。
男女が「記憶の絶対的な共有不可能性」のなかに封じられていることは、おそらく残酷な前提としてあるのだろうけれど、ときに事故のようにそこに起きる「再現不可能」なものというか、わかりやすいモラルといったことではなく、自分が飲もうと思っていたものをハッと相手にあげてしまうような、何か反射に近い、小さな事件のようなものがあの紅茶だったのかもしれない。今はそう感じています。

──それは点滅に近い、非連続的な交感であるとも思えます。「モラル」とも別の次元にある何か……。

そうですね。「こういうときには人にお茶を渡すべし」というルール化ではもちろんないし、次に同じような機会に出くわしたとき、また同じことをする義理も法則も再現性もそこにはない。僕が劇映画のなかで──あるいはドキュメンタリーでもそうかもしれませんが──登場人物の身ぶりとして、アクションとして描けたらいいなと思うのは、心身がときに示すそうした動きなんです。『TOCHKA』では、大げさに言えばひとつの「贈与」だったと言えるのかもしれません。事故のような、そんなささやかなやり取りを映画に描き込みたいと強く思っています。

(インタビュー後編に続く)
(2021年5月)
取材・文/吉野大地

 
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