インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

『森田芳光 70祭(ななじゅっさい) 映画監督・森田芳光特集』
三沢和子プロデューサーインタビュー

 

70年代、自主制作の8ミリ映画時代より注目を集め、2011年に61歳で亡くなるまでに才気溢れる映画を発表し続けた森田芳光監督。その軌跡をたどる特集上映が大阪でスタートした。リトルモアからは、8ミリ時代から監督の映画作りを支えてきた森田夫人・三沢和子プロデューサーと、宇多丸(RHYMESTER)による共編著『森田芳光全映画』も刊行された。貴重な資料と証言、テクストで構成した568ページに及ぶ大著のページを繰りながら、プロデューサーにマイクを向けた。

 

──『森田芳光全映画』でまず目に留まった文字が、『ライブイン茅ヶ崎』(1978)の章の「編集が好きで好きでたまらない」。監督は初期の頃から編集に長けておられました。ヒップホップも編集の音楽と捉えれば、宇多丸さんが森田作品の最大の理解者のおひとりであることが腑に落ちます。

確かにそうですね。その部分でも宇多丸さんは森田の映画を気に入って下さっているのかもしれません。2018年11月に東京・新文芸坐で〈森田芳光監督全作上映会〉が始まり、その際に宇多丸さんと私がおこなった27回のトーク*がこの本を作る発端になりました。

*「森田芳光研究」として所収。以下〈研究〉と表記。

──その全作上映にあたり、数本の上映用フィルムが見つからなかったという逸話に少なからず驚きました。まさか、プリントそのものがなかったのでしょうか。

仮にプリントが存在していても、退色していたり悪い状態のものが多く、色々と問題があったんです。半分くらいのフィルム作品は、国立映画アーカイブに寄贈されています。ただし、借りて上映する際には一切手をつけてはいけない。すると2台の映写機が必要で、殆どの劇場で上映できません。映画会社から借りる場合は、状態の悪いプリントを出されることが普通にあって、それもとても気になっていました。今は国内も海外でも上映素材はデジタルが主流ですよね。ただ、そのための素材も揃ってなかったんです。DVDにすらなってない作品があるし、過去に出たものも既に廃盤になっていたり、と。勿論ブルーレイは殆んどないし、DCP素材も晩年の3作しかない状態でした。
2016年4月の〈第6回北京映画祭〉でも森田の特集が組まれて、大盛況でした。その時にも言われましたが、海外の方から「森田作品を上映したいのに、デジタル素材がない状況を何とかして欲しい」という声が届いていました。日本でもデジタル化が進む中で、「とにかく素材をつくらなければ」という思いがありました。それに加えて、お好きな方に全作品を持ってもらい、何度も観て楽しんだり研究して頂ければいいなと思い、今回の「生誕70周年記念 森田芳光 全監督作品コンプリート(の・ようなもの)Blu-ray BOX」の企画に踏み切りました。このままデジタル素材がない状態が続けば、観て頂くことさえ不可能になります。本人が「自分の映画は途中で止めて何度も観て頂いて全然大丈夫です。むしろそうして欲しい」と言っているので、手元におかれてお好きな時に観て頂くのに向いていると思います。

──ちなみにネガフィルムは保存されていますか?

さすがにネガはすべてあります。でも、映画界ではそれが失われている作品もありますよね。幸いうちのネガは残っています。

──それを伺い、安心しました。導入部で新文芸坐マネージャーの矢田庸一郎さん、あとがきで三沢さんが、監督の作品だけに限定しない、映画保存の重要性を説いておられるのも本書のポイントです。この大著には50人以上の方が寄稿やインタビューで参加されていて、読みどころが詰まっていますね。キャメラウーマンの芦澤明子さんが70年代初頭、青春期の監督の部屋の様子や8ミリ映画の創作について綴ったエッセイも新鮮でした。基地のような「モリタクンチ」には音のいいオーストリア製の映写機があったと。

オイミッヒですね。

──「音に困れば筒美京平の曲を使えばいい」とアドバイスを受けた逸話も語られます。

この音のくだりは可笑しいですよね。芦澤さんは、その頃自主映画作家で70年代に森田と一緒に上映会を開催していました。私はやはり70年代の8ミリ作品の中に、のちの森田の映画の素が入っていると思うんです。カメラワークと編集と音。その3つにこだわっていたし、優れてもいた。

──レコードが部屋の壁を埋め尽くしていたという回想からも、音に対する感受性が高かったことが窺えます。

渋谷・円山町の森田の実家の部屋には、仲間がみんな集まっていました。すぐそばの百軒店にはジャズ喫茶が多く、昼間にしょっちゅう行っていたのが、道を渡ったところにある森田の部屋を知ってからは「え! もうジャズ喫茶に行く必要ないじゃない?」と思いましたね。ジャズのレコードも沢山あり、本もセンスのよいものが揃っていました。

──監督の本棚の写真も掲載されています。

もう少し時間があって、プロのカメラマンに撮ってもらえば本棚を隈なく見て頂けたんですが、これは私がスマホで撮った写真なんです。

──とはいえ、監督の脳内が垣間見えるような写真です。芦澤さんの寄稿のタイトルに入っている「青春の一コマ」というフレーズが示すとおり、本書は三沢さんと宇多丸さんの〈研究〉を軸に、多くの資料やテクストが映画のコマ=ショットをつなぐように巧みに編集されています。どのようなプランがあったのでしょう。

私は、森田の映画が今も生きて受け継がれているという主旨で、次世代の監督の方々に書いて頂きたいと考えました。並行して、1本の作品に対して最低1本の原稿を載せたいというリトルモアの加藤基さんの編集方針もあり、「さあ、どうしましょう」となって……。『ライブイン茅ヶ崎』の章には、日比野幸子さんの1985年の原稿も再録しました。

──8ミリ作品の上映会記録やチラシまで網羅したフィルモグラフィは貴重ですし、日比野さんの論考も個々の作品論と、8ミリ時代の状況論を両立させた濃密なものです。

正確で貴重な資料です。この機会にメジャーデビュー前の、8ミリ時代の自主映画の記録をきっちり残しておきたくて選びました。8ミリ作品もすべて国立映画アーカイブに寄贈しました。ただ修復しないと、もう劇場でかけられないですね。保存だけはしておかないとと思って、主な作品はブルーレイに焼きました。今回のブルーレイボックス特典にも7作品を再編集したダイジェスト版を入れています。

──その編集・構成は三沢さんと、メジャーデビュー作『の・ようなもの』(1981)から監督作品を手がけ続けた編集技師・川島章正さんによるもので、ファンには嬉しいですね。そして監督のキャリアは8ミリからいきなり35ミリの『の・ようなもの』へ発展します。作品のキャッチコピー「ボタンダウンの似合うスタッフは“ニュアンス”が映画にとって最重要と考えた。」は監督が考えたものですよね?

そう、タイトルは勿論コピーも全部森田です。

──「ニュアンス」はタイトルと響き合う、なおかつ映画の持つ空気をうまく捉えた言葉ですが、その後の作品でも監督は人間関係の綾など、様々な「ニュアンス」を撮っておられたのではないか。本書を読み、作品を観直す中でそう感じました。

「ニュアンス」は「間」や「行間」とも言い換えられます。そこを映像や音楽、リズムで埋めてゆくのが映画ですよね。そのあやふやな余裕のようなものが、文学との違いなのかなとも思います。そういう意味でも、森田の映画にはずっとニュアンスがあったと思います。

──『それから』(1985)に見られる、動きを止めた人物をスローモーションで撮る手法も「スローニュアンス」と呼んでおられたそうですね。三沢さんは8ミリ時代から監督の映画制作を様々な形でアシストされてきました。『の・ようなもの』〈研究〉で驚くのは、主演の伊藤克信さんを口説くのに、まず三沢さんにファンレターを書かせる監督の発想です(笑)。

そこで「女のほうがいい。信用される」という意味が全然わからない(笑)。

──でも、すごい策士ですよね。いざ監督自身が伊藤さんに会って出演依頼するために言った「お前を不幸にはしない」という言葉も、すでに三沢さんと結婚されていたにもかかわらず、まるでプロポーズです(笑)。

その頃から人がやらないことを、ずっとやっていますね(笑)。

──そうして伊藤さんをキャスティングして撮られた作品が、ラッシュの段階で不評だったとは、完成版から想像し難いですが……。

当時の私たちは至極真っ当な映画を作ったつもりでしたが、みなさん理解できなかったんでしょうね。40年経って思えば、『の・ようなもの』が世に出た時の衝撃は大変なものでした。今は新人が1本撮って、あれ程大騒ぎになることってほとんどないですよね。現在から振り返ると、当時の反響の大きさがよくわかります。ラッシュに関して言えば、音が入ってないところに、いきなり伊藤さんの落語でしょう? 編集はしてあるけど、それだけで見せる映画でもない。最後の道中付けは好きな方が多いシーンです。でも、あそこも音がなければ「一体何をやってるんだ?」となってしまう。オールラッシュでみなさんが心配されていましたが(笑)、音を入れた初号試写で反応が180度変わりました。それまでが嘘のように、キャリアのある映画人の方々が褒めて下さって「ああ、作ってよかった」と痛感しました。

──その音入れの過程が、監督のコラム「ダビングでの大逆転」に書かれています。そこからアイドル映画とロマンポルノを経て、1983年に制作・公開されたのが『家族ゲーム』。次作『ときめきに死す』(1984)と共に原作もので、読み終えた瞬間に「全部できた」とおっしゃられたと。具体的に何を指していたのでしょうか。

全体のコンセプトですね。『家族ゲーム』も『ときめきに死す』も、原作者の本間洋平さん、丸山健二さんが映画化にあたり自由にやらせて下さったのが、いちばん大きかった。それから「全部できた」とは、映画の肝を掴んだということでもあったと思います。実際2作とも、あっという間にシナリオを書き上げて、殆ど直していないんです。ひとつのコンセプトで作れる、本人の資質にぴったり合った映画だったのでしょう。これが大きなドラマになるとそうはいかないけれど、原作を読んで「これは書ける!」と即座にシナリオを書き上げた作品はだいたいうまくいきました。

──『家族ゲーム』のシナリオは第1稿を使っているんですね。

誰かに言われたわけでもないのに、「直したほうがいいよね」と自分たちで手を入れた第2稿を出してみると、みなさんが「前のままでいい」って(笑)。後にも先にもそのような例はないので、よほど第1稿がよかったんでしょうね。

──主演は松田優作さん。シナリオを読んで出演を快諾されたそうですが、やはり第1稿でしたか?

優作さんに読んで頂いたのも第1稿で、結局そこに落ち着きました。つまり森田の場合、シナリオに時間をかけるとロクなものにならないのかもしれない(笑)。

──その構築度の高いシナリオに書かれたセリフが、ボソボソ声で語られるのも画期的でした。いまだに不思議な船のシーンから引き込まれますが、〈研究〉で三沢さんがヴィスコンティの『ベニスに死す』(1971)を引き合いに出されていて膝を打ちました。続く『ときめきに死す』の章には1963年生まれの岩井俊二さんの寄稿、67年生まれの細田守さんと69年生まれの宇多丸さんの対談を収めています。公開当時、この作品に魅了された中高生は多かったと思います。自分もそのひとりでした。

みなさん大好きですよね。宇多丸さんも「当時から好きだった」と語っておられますが、業界ではさっぱりでした。褒められることも全然なくて。今の時代であれば、中高生の方たちがそう感じてくれたことがこちらにも伝わるでしょう。でも、あの頃はネットもない。今でも覚えているのは、仕上げの最中に、あるジャーナリストに「三沢さん、次はどうです?」と訊かれて、「個人的には『家族ゲーム』よりもすごい映画だと思う」と答えると、「またまた、そんなわけないでしょう」と言われました。別の人からは「『家族ゲーム』と違って笑えない」とまで言われましたからね。『ときめきに死す』はそんな映画じゃないでしょう? だから私たちは「理解されなかった」という感触でした。実は理解されていたんですね。

──右も左もわからない中学生ながら、映画館で「クールとはこういうことか」と思った覚えがあります。監督はずっと画の「色温度」にこだわりを持っておられたそうですが、この作品の冷たい質感は現像で調整されていたんですね。

現像時間の短い減感現像ですね。ロケ地の函館特有の色もありますが、それだけでは足りなかったんです。とにかく色彩をなくしたくて減感現像しました。あと、登場人物もモノトーンの服しか着ていない。樋口可南子さん演じる梢も黄色のワンピースで登場するけど、そのあとはモノトーンになっていく。色には相当こだわっています。

──スクリーンからダイレクトに目に入ってくる、統一された色調も中高生を惹きつけた一因かもしれません。また、コンセプチュアルに作られた監督の作品は、導入部でそれが示されますね。

この映画では駅のシークエンス、それから『失楽園』(1997)の滝もそうですね。

──本書は27章で28作を扱っています。宇多丸さんのまえがきに続くのは、『の・ようなもの』第28号のフィルム缶の写真。まるで『ときめきに死す』のようなコンセプチュアルな構成だと思いました。この作品には観客が不思議に思うショットが幾つかあります。監督特有の「ニュアンス」を初期から共有されていた三沢さんは、それらも自然に感じられたのでしょうか。

まったく不思議だとは思わないんです(笑)。観る方にそう捉えられるところも、もともと本人が持っているものを表現しているだけで、わざとやったり、ウケを狙ったことは一度もないんです。自然にやると驚かれたり、時にはネガティブな意見を言われたりもしました。逆にオーソドックスに撮らないといけない作品では、ちゃんと自分を抑えています。

──熱狂的なファンの細田守さんでさえ対談で、あるショットを「あれ、なんなんですかね?」と問いかけていますが、答えが出ない(笑)。

そう、理屈では説明ができない(笑)。

──ロジックではなく、センスから出てきたものなんでしょうね。今回の特集には、80年代の作品でもう1作、吉本ばななさん原作の『キッチン』(1989)がプログラムされています。当時の劇場パンフレットに監督が寄せたコメントの抜粋は、「キッチンの人間関係を僕なりに表現すると『リニアモーターコミュニケーション』という事になる。《離れているのにスピードがある》」。この一節とモンタージュ的につながる言葉を探しながら本書を読み進めると、最後の最後にそのひとことがあって驚嘆しました。数でいえば、わずか4文字ですが……。

これはすごいでしょう? 「未来の映画について」は、亡くなる1年前に「ラジオ深夜便」(NHK-FM/NHKラジオ第一)に出演した時のもので、再録であれば掲載していいとおっしゃって下さったので、記事にして入れました。去年の12月、本書を編集している時にアーカイブ放送を聴いて、みんなで絶対に最後に載せようと決めました。

──映画でいうラストショットです。編集の妙技を感じるのと同時に、監督の先見性の高さに目を見張りました。

この頃から、そういうことを考えていたんでしょうね。『キッチン』や『(ハル)』(1996)で提示しようとした人間関係やコミュニケーションの在り方は、今に通じているんじゃないでしょうか。しかも、『キッチン』のわずか3ヶ月前に公開されたのが『愛と平成の色男』(1989)で、この変化の大きさときたら(笑)。「バブル期の終わり」から「これからの人間の感性や生き方」への変化。『キッチン』も「早すぎる映画」だったのかもしれません。

──昭和が終わり、松田優作さんが亡くなられた1989年は、監督にとって大きな転換の年でした。再録された87年のインタビューでは30歳を過ぎたら、つまり90年代からは「面白い人間、興味ある人間を写していこうと思う」と語っておられて、実際に作風も変化してゆく。そのせいか、公開時にリアルタイムで見た筈の『キッチン』は、記憶では90年代の映画になっています。

あと1年公開が遅ければ、もっと理解や支持を得られたでしょうね。完成してすぐに公開する「撮って出し」だったので、宣伝も広がらず、興行成績はふるいませんでした。ただ、ビデオがすごく売れたんです。夜中にひとりで観たい、という方が多かったです。

──映画館の静かな暗闇にも合う筈ですよね。三沢さんはこの作品で共同プロデューサーをつとめておられます。しかし本書によれば、劇中に出てくるカツ丼は、函館の名店で3日間修行した三沢さんが作られたと……。どうしてプロデューサーがそんなことを(笑)。

信じられないでしょう? (店主から)「教えて欲しいなら通え」って。自分でも「なぜ函館でカツ丼づくりの修行をしてるんだ……」と思いましたよね。毎回、私は他のスタッフの手が回らない現場の隙間、それこそ「ニュアンス」を埋めていたのかもしれない(笑)。

──今回の特集で、その「ニュアンス」にも注目して欲しいです(笑)。さらに本書で目を引くのが「湾岸道路に似合う10曲」。東京湾岸道路を走る時のBGMを選曲されています。

これも必ず入れてほしかった記事です。風景と音楽のコラボレーションを常に感じていた人だから。

──監督の都会的なセンスが表れたコラムで、それとは一見対照的なのが、大阪出身の阪本順治さんの寄稿です。スタイリッシュな森田芳光像とかけ離れていそうな「土着性」に着目して、映画監督としての共通点を見出しておられます。

阪本監督の文章は最高ですね。観る人の区分けでは、阪本監督と森田の映画はテイストが異なるかもしれないし、世代も少し違う。でも、ものを作る人間として一致するところがきっとある筈です。そこを否定するようでは本物の作り手じゃない。この文章は本当に素晴らしいですよね。

──森田作品の見え方が変わるような、文体も含めて圧巻の論考です。それから、90年代の作品でプログラムされているのが『(ハル)』。当時、まだ浸透してなかったパソコン通信をテーマにしていて、ここでも共同プロデューサーの三沢さんが、メールやチャットの文字画面を作る作業を担当しています。

まだアナログの時代で、これも大変苦労しました。

──監督は映画にも「読後感」が大事だという考えをお持ちですね。三沢さんが〈研究〉で語っておられる文字を出すタイミング、配列、バックの画面との組み合わせなどは観客の想像を超える細密な作業ですが、その賜物で、文字のショットごとに読後感を覚えます。

そうであれば嬉しいですね。まだCGの普及していない時代だから、作業はフィルム・レコーディングでした。ワンカットにかかる時間はどれくらいだったでしょう……。とにかく死ぬほど大変で、これだけで半年ほどかかりました。最後は森田がすべて修正しますが、それも追いつかなくなってきて、盛岡での撮影中に、私は東京でずっとやっていました。できれば、海外の上映に向けた文字画面も作りたかったんです。でも北京で上映した時の反応を見て、字幕だけでも大丈夫だと感じました。ニュアンスは伝わっているな、と。

──この作品から、手書きだったシナリオ執筆がワープロに変わっているんですね。

『家族ゲーム』はものすごいスピードで書き上げましたが、「手が痛くならなければもっと速く書ける」と言っていました。直筆から変わってよかったんじゃないでしょうか(笑)。

──脳と手が直結しているイメージがあります。大阪の特集プログラムはここから時代が少し跳んで、次は『間宮兄弟』(2006)、そして最後の作品となった『僕達急行 A列車で行こう』(2011)。『間宮兄弟』の関西キャンペーンは主演の佐々木蔵之介さんと監督のおふたりで、ここ大阪・梅田スカイビルでおこなわれました。三沢さんもご一緒でしたか?

あの時は、確か京阪神で舞台挨拶があったので私も来ていました。

──当時、録音と編集だけ任されたラジオ番組を担当していて取材に行くと、佐々木さんは積極的に話して下さいました。一方、隣に座った監督はほぼ無言で携帯電話のボタンをカチカチ打っておられる。シナリオを書いているのだろうかと思うくらいの速さで(笑)。でもインタビュアーは困り出して、そろそろ助け舟を出そうかと考えた途端、監督が佐々木さんのお話に短い言葉を挟み始めて、それらはすべて的を得た見事なコメントでした。

森田は大宅壮一マスコミ塾や久保田宣伝研究所で学んでいたし、そういう点も優れていましたね。他の監督と違うところがあるとすれば、マスコミュニケーションをとても熱心に勉強していたこと。「これがないと困るだろうな」とすぐわかったんでしょうね。

──本当にそうで「森田芳光天才説」を実感しました。話が逸れてしまいましたが、どちらも気負いがなく、とても抜けのよい作品です。

2本とも、以前から本人がやりたいと願っていた物語です。仕事のしがらみなどがない、フラットに付き合える友達が欲しいと生前に話していました。『間宮兄弟』の明信と徹信は兄弟だけど、そういう関係ですね。その続編も作りたかったけど叶わなくて、じゃあ元々構想していた同じ趣味の友達の物語を、という経緯で『僕達急行』が作られました。だからコンセプトはほぼ一緒。森田が、理想の生き方や人間関係を最後に描けたのはよかったと思います。

──ある時期から、監督の作品には作家性と職人性のはざまの揺らぎが見えるようになった印象があり、それが魅力にもつながっていました。しかし、この2作は吹っ切れていますね。

根岸吉太郎監督が『僕達急行』へのご寄稿に「どんどん真の少年になっていったのではないだろうか」と書いて下さいました。そのとおり、初期に戻ったように好き放題、楽しそうに作っていますよね。

──ダビングで映画を再構築する遊び心や、8ミリ作品の『水蒸気急行』(1976)、さらに映画史の始まりにあるリュミエール兄弟の列車にまで遡れそうな楽しさが溢れていますね。三沢さんとの対談で主演の松山ケンイチさんが語る、監督に(出演する映画を)「脚本で選びなさい」と言われたという逸話も、『家族ゲーム』の松田優作さんに重なるようで印象的です。最後にもうひとつだけ、お聞かせ下さい。『メイン・テーマ』(1984)〈研究〉で「森田が撮るとドロドロにはなり得ない」と述べておられます。この三沢さんのご指摘は他の作品にも当てはまる気がするのですが、なぜでしょう?

たとえば『海猫』(2004)でさえ、そうならないのは不思議ですね。理由のひとつは、たぶんそういうものが好きじゃないんでしょう。題材に合わせてテイストの違う映画を撮っていても、『の・ようなもの』の頃からずっと「人間って面白い」と言っているように、人のいいところを見たいんです。それは一貫している。
『模倣犯』(2002)や『黒い家』(1999)を除けば、意外と森田の映画には真の悪人が出てこないでしょう? 『悲しい色やねん』(1988)のやくざの描写も、どちらかと言えば笑ってしまうタッチです。きっと悪い人間を描きたくないんですよ。ドロドロになりそうなことも、そうじゃなく描こうとする。そこに地の部分や本性が出ているんです。この質問を受けたのは初めてですが、そこに森田の本質があるのかもしれませんね。

(2021年10月5日 シネ・リーブル梅田にて)
取材・文/吉野大地

 
〈生誕70周年記念プロジェクト 森田芳光 70祭(ななじゅっさい)〉公式サイト
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