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2008年1月14日(月・祝)
山根貞男連続講座 [加藤泰の世界]1報告《ふたつのシナリオ》を、若き映画研究者、北浦寛之氏がご寄稿くださいました。

《寄稿》 ふたつのシナリオ

北浦寛之

 長きに渡り映画評論の第一線で活躍してきた山根貞男が、自身の評論の原点とも言うべき加藤泰監督について、加藤泰が生まれた、この神戸で話をするという出来事は加藤泰ファンのみならず、多くの映画愛好家たちにとっても、誠に喜ばしい僥倖である。月に一回開催される山根貞男の連続講座を楽しみにしつつ、今回は記念すべき連続講座第一回目の報告という形で、彼の作品論を紹介すると同時に、筆者の加藤泰作品に向ける眼差しも開陳していきたい。

連続講座第一回目の冒頭、山根は40年ほど前の加藤泰映画との出会いから話をスタートした。当時の感動をまざまざと伝える彼の語り口は、加藤泰の映画に言及しながら、40年という月日を経ても色褪せない映画体験の素晴らしさについても語っているようであった。

こうして、スタートを切った山根貞男連続講座 [加藤泰の世界]、第一回目の批評の対象となった作品は、『大江戸の侠児』(1960)。『時代の驕児』(稲垣浩、1932)のために書かれた山上伊太郎のシナリオをもとに、加藤泰自らがシナリオも手がけて映画化した作品だ。『時代の驕児』の作品自体は現存していないため見ることができないが、代わりに山根は現存する山上伊太郎のシナリオと加藤泰のシナリオを比較して、加藤泰が『大江戸の侠児』でなにを表現しようとしていたかという検証を行った。

ねずみ小僧の次郎吉が主人公の映画。次郎吉がねずみ小僧となり、悪党を懲らしめるという話の大筋は、両方のシナリオとも似通っている。だが、物語の細部には軽視できない違いが発見される。

 山根の解説によると、山上伊太郎のシナリオは、もともと「こそ泥」だった次郎吉がねずみ小僧になるというストーリーを辿るのに対して、加藤泰のシナリオは、泥棒でないただの「博打打ち」の次郎吉がねずみ小僧になっていくストーリーの軌道を描いている。なるほど、山上シナリオは、山根の言葉を借りれば「小泥棒が大泥棒になるだけのストーリー」であり、加藤シナリオのような突然の飛躍が観測されるわけではない。「博打なら誰でもやってるよ」という登場人物の言葉にもあるように、どこにでもいそうな人物次郎吉が、映像通り突如大泥棒ねずみ小僧へと変貌を遂げてしまう加藤泰のシナリオは山上伊太郎のシナリオのような直線的な変化では追いつかない動きを実践する。

加藤シナリオの次郎吉は、ねずみ小僧になる前もなった後も、大きな心理的動揺を経験しなければならなかった。次郎吉は、信頼していた人物の裏切り、大切な義理の弟の残酷な死によって、ねずみ小僧になることを決意し、ねずみ小僧になった後では、貧しい人にお金を恵んだその行為が、逆にその人を不幸にさせたり、先の人物の裏切りが、実は自分の誤解であったりと、反省させられることの連続であった。こうした出来事がその都度次郎吉に動揺を与えているのは、映画を見た者ならはっきりと看取できるし、山上シナリオには弟の死以外のことは記載されていないという山根の指摘からも、繰り返される次郎吉の心理的振幅の表象は加藤泰独自の構想であったと考えられる。

普通の人が普通でないねずみ小僧になるという大きな転換。さらに、その普通の人が、心理的動揺を隠せないまま悩めるねずみを演じてしまうという相克。『大江戸の侠児』で連続して観測される大きな振動がこの作品の性格を特徴付けていると言える。そして、そうした振動はなにもシナリオ面だけに限ったことではない。山根が分析を行った加藤泰の画面作りにも、確かな揺れが確認される。

 山根は山上シナリオにはない、加藤シナリオの季節の指定が視覚的に面白い効果を生んでいると言う。モノクロ映画である『大江戸の侠児』。故郷に帰った次郎吉が、許嫁と義理の弟を連れて家を飛び出した後、尾根の上を疾走する場面が遠景ショットで収められる。通常なら息急き切って走る三人の躍動感を寄りのショットで収めてもいいはずの場面である。それを加藤泰は正反対の超ロングショットでフレームに収めることにより、観客は尾根の暗さ、黒さを強く印象付けられる。すると、次の場面では、白い雪が降り積もる宿場町に話が移行し、観客は直前の場面から一転、フレーム内に強く存在感を示す雪の白さを享受することになる。黒から白へ。この極端な色彩の振り子の揺れは、シナリオに冬という季節の指定があったからこそ可能だった演出であり、物語の大筋にはそれほど関係ないかもしれないが、加藤泰はシナリオで完結しない映画の面白さを観客に十分伝えるため、冬の特徴を利用した変化のある映像美を創造していた。

こうして、山根貞男の解説に則して、山上伊太郎のシナリオと比較しながら、『大江戸の侠児』で観測された物語的、映像的な「振動」に照準を合わせ簡単に本作品を振り返ってみた。そして最後に、ここで観測された「振動」はいっこの作品を越えてひとりの映画作家の「振動」にも照応していることを付け加えておかなければならない。

 加藤泰と言えば、ローアングル、フィックス、長廻しなどで構成される独特な撮影スタイルが有名だが、それらが確立されたのは1960年代以降のことであり、1960年に作られた本作品では、ローアングルと俯瞰ショット、フィックスと流動的なキャメラ、長廻しとモンタージュといった相反する撮影技法が混在しながら、それぞれが印象的に観客に提示されている。つまり『大江戸の侠児』は、ちょうど加藤泰の作家性に「動き」が見られていく過渡期の作品であると考えられる。加藤泰もまた本作品の次郎吉のように、普通の映画監督から、複数の撮影技法を駆使して革新的な映画を撮る不世出な映画監督へと向かう、その道中を歩んでいた。

北浦寛之(映画研究者)
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程在籍。修士論文で加藤泰について論じる。主な著作に、「ワイドスクリーンにおける奥行きを利用した映画演出の美学 ― 加藤泰『幕末残酷物語』のテクスト分析」『映画研究』第2号(日本映画学会、2007年)、「加藤泰研究序説 ― 奥行きを利用した映画の演出について」CMN! no.11がある。

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