レポートWEBSPECIAL / REPORT

2008年2月23日(土)
山根貞男連続講座 [加藤泰の世界]2報告《クロースアップのバリエーション》を、若き映画研究者、北浦寛之氏がご寄稿くださいました。

《寄稿》 クロースアップのバリエーション

北浦寛之

 連続講座第二回目の批評対象となった作品は、加藤泰唯一の、同時代を舞台にした現代劇映画として記憶に留められている、1968年公開の『みな殺しの霊歌』である。<註1>1968年と言えば、やくざ映画とピンク映画の絶頂期に当たり、大衆は当たり前のように暴力とセックスを享受していた。本作品にも暴力的でエロティックな場面は随所に見られる。とは言っても、本作品は紛れもない加藤泰の映画であり、単純な暴力とセックスの表象に帰着するはずはない。山根貞男は暴力ならびにセックス描写で印象的に用いられているクロースアップに着目し、そのクロースアップの議論を敷衍させながら本作品を分析していった。
 物語はマンションの一室で女が強姦され殺害される場面から始まる。山根はこの冒頭部のエロスとタナトスが交錯する場面に加藤泰の演出上の意志が感じられると言う。すなわち、映画がスクリーンをすっかり覆うほどの超クロースアップの女の顔から始まると、キャメラは男に乱暴され、犯され、苦悶の表情を浮かべる女を何度もクロースアップで収めて提示していく。なるほど、同時代の映画スタイルの範例を過剰なまでに具体化した始まり方であることは間違いない。ただ、加藤泰は無作為に迫力のある画面を創造しているわけではない。そのことがわかるのが、女が殺害されてクレジットタイトルへと画面が切り替わり、そのなかに断続的に挿入される、警察の現場検証を収めた場面においてである。
 女が殺されたマンションの一室を、刑事たちが動き回り、犯罪の痕跡を調べている。やがて、キャメラは窓際までやってきたひとりの刑事に注目する。するとその直後、これまでの密閉した空間とは一変して、われわれの眼前に開けた世界が出現する。刑事の視点から撮られたショットが、部屋から見える広い世界を映し出すのである。映し出された屋外の光景は、この後、物語上重要なトポスとして幾度となく挿入されるのであり、ここでの提示は物語を円滑に進行させる潤滑油として機能する。だが、山根はそうした物語的な文脈においてではなく、映像的、視覚的文脈からこの屋外のショットが映画の冒頭で印象的に提示されたことを評価する。
 本作品は、集団就職で田舎から出てきた少年を死に追いやった五人の有閑マダム(物語冒頭で殺害される女を含む)を、少年と親交があった前述の男、川島(佐藤允)が次々に部屋で強姦しては殺していく、復讐劇の一面を持っている。それもあって、これからもマダムたちが殺害される場面で(全員の殺害場面が詳しく提示されることはないが)何度も利用されるクロースアップは彼女たちへの川島の憎悪を翻訳するという重要な役割を担っているのだが、山根はその川島の憎悪を内包したクロースアップを際立たせるために、屋外のショットが映画の冒頭で印象的に提示される必要があったと述べ、これからも幾度となく映画内に挿入される必要があることを強調する。
 外部が存在感を持つことで内部も際立つ。本作品では外部と内部の二項対立的な図式が観客に印象付けられることが重要なのである。そして、その二項対立的関係のなかで映し出されるマダムたちのクロースアップの映像は、内部の密閉した空間を観客に意識させ、ある種の閉塞感をもよおさせながら、女たちの苦しみをフレームに充満させると同時に、復讐鬼川島の突出する怒りを表象する装置としても機能するのである。
 山根はまた本作品においてクロースアップが、機能を変えながらいたるところで有効に活用されていることにも注意を向けている。例えば、川島と恋人関係になるヒロイン春子(倍賞千恵子)を捉えるクロースアップは、厚化粧のマダムたちと違う、「すっぴん」の春子をはっきりと捉え、われわれに彼女の素朴さを印象付けると同時に、その印象が表面的なものでしかないことを暴露する事実、つまり、春子が実は自身の兄を殺した過去をもつ女性だったという物語後半で明らかになる事実に対して、驚きの響き与えることにも貢献している。また、春子の店で指名手配犯の写真がいくつも貼られてある壁に寄っていくキャメラは、いちまいの写真が剥ぎ取られていることをわれわれに知らせる。この写真の人物は実は川島(川島は自分の妻を殺した)で、春子がその写真を剥ぎ取ったことが後でわかるのだが、ここでは、川島と春子の関係に異変が生じていることが暗示される。こうして、山根は本作品で活用されているクロースアップを中心に議論を進めるなか、物語の終盤、本来クロースアップで撮られてもいい箇所でそれが撮られていないことに注目し、そこから検出される加藤泰の映画的想像力についても言及している。
 春子が自身の兄を殺していたという過去を川島が知った後、物語は急展開を見せる。西新宿辺りの河川敷で、春子の過去の話を黙って聞いていた川島は、話が春子の兄に関する部分に及んだとき、居た堪れなくなって「どうしたんだ、その兄貴は」と切り出す。すると春子は、間を置いて「死んだわ」と返答する。われわれは、春子の兄殺しの事実を知っているだけに、興味の対象は、ここでふたりがどのような表情を浮かべ、どう話をするのかという一点に絞られる。観客はふたりの表情をよぎる陰影に着目しながら、両者の微妙な心理を推し量りたいところである。だが、加藤泰はこうしたわれわれ観客の欲望に迎合せず、ふたりの表情をクロースアップで捉えようとはしない。キャメラはフィックス、長廻しのロングショットで、ふたりをフレームに収め続けるだけである。そう、加藤泰はわれわれが望む視覚的情報を抑圧することで、逆にわれわれの心理的高揚を促すのである。
 さらに加藤泰は、われわれに登場人物の顔を見せないだけでなく、ふたりの登場人物にも互いの顔を見せようとはしない。「どうしたんだ、その兄貴は」と尋ねる川島の顔は春子と反対の方を向き、同じく「死んだわ」と返答する春子の顔も川島がいる方とは反対の方を向く。つまり春子の兄殺しの事実に顔を背けるふたりの姿が文字通り/映像通り映し出されるのである。そして加藤泰はこの両者の身振りをフィックス、長廻しのロングショットで捉えることで、ふたりのあいだに醸成したどうしようもない気まずい空気をわれわれに伝えようとしたのである。
 以上が、山根貞男が連続講座第二回目で展開した、クロースアップを中心とした議論の詳細である。クロースアップが本作品でいかに機能していたのか、また逆に、クロースアップで本来撮られてもいい場面が撮られていない背景には何があったのかといった話がストーリーに沿って進められた。それでは最後に、山根貞男の解説を踏まえつつ、筆者の印象に残ったクロースアップのショットについて述べておきたい。
 春子の兄の話がふたりの間で出た後、今度は先にも触れた川島の過去の犯罪について、春子が話を切り出す場面がある。春子の兄殺しを川島が知っていることを、われわれは知っていた。だが、川島の過去を春子が知っているのかどうかを、われわれははっきりと断定できないでいる。この微妙な差異が、加藤泰の演出にも違いを生み出す。
 春子が心を決めて、川島が指名手配犯その人であるかについてそれとなく問いかける瞬間、川島に背を向け、川の水門の方に向いて立ち上がった春子を加藤泰は、今度はロングショットではなくクロースアップで収める。以前のように視覚的抑圧を図ろうとはしない。加藤泰ははっきりと春子の顔を捉える。ただ、このクロースアップも、単純な意図で撮られたものではなかった。そのことを説明するために、ひとまず川島と春子が河川敷で会う前、春子が同じ場所でひとり、物思いに耽っている場面について見てみる。
 春子は下を見ながら、川沿いを歩き回っている。やがて、春子は水門の方に目をやるのだが、後の川島との会話で、春子が「ここにいると昔、荒川の土手で、兄さんと一緒に、父さんとおじいちゃんの乗った舟が水門をくぐって帰ってくるのを待っていたことを思い出す」というような発言をしていることから、このとき春子は、祖父と父との帰りを兄とふたりで待っていたときのことを回想していると事後的に考えることができる。だが、春子が考えていることはそれだけではないだろう。大好きな兄と一緒に遊んでいた頃のことを懐かしんでいるのか、それとも、その兄を殺してしまったことを後悔しているのか。春子が具体的に何を想っているのか、その真相はわからないと言ったほうが正しいに違いない。ただ、注目すべきは、この水門の方を向いた春子を収めたショットが、同じく水門の方を見て、川島の過去について問いかける春子を映したショットと、ほぼ同じ大きさ、同じ方向、同じ角度で撮影されたクロースアップのショットだということである。
 このふたつのクロースアップの類似から、春子が、ひとり水門の方を見ながら複雑な想いをめぐらしていたときと、覚悟を決めて川島に重要なことを問い質さなければならない今この瞬間とが、同じ精神的重量感をもって春子に圧し掛かっているように、見る者は感じる。じっさい、春子が川島に真実を問い質そうとする瞬間を捉えたクロースアップは、その直前まで無言で水門の方をじっと見ている春子の様子をも収めている。このとき、春子の胸中に去来しているものは何なのか。春子がひとり川の側に佇んでいた場面と同様、ここでも、彼女の心理を一義的に言語化することは困難である。
 こうして、キャメラは水門の方を向いた春子を接近して収めるも、彼女の心の深部には決して近づくことができない。春子に近づけば近づくほど、彼女の心理的謎は深まるばかりである。加藤泰のクロースアップは逆説的に、春子の内面に広がる、深遠で不可解な宇宙の存在をわれわれに教えるのであった。
<註>
1  加藤泰の遺作『ざ・鬼太鼓座』(1994)も製作された時代とほぼ同時代のことを取り扱っているが、これはドキュメンタリー映画でありフィクションの劇映画ではないことから、『みな殺しの霊歌』を加藤泰唯一の同時代的、現代劇映画と本文で表現した。

北浦寛之(映画研究者)
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程在籍。修士論文で加藤泰について論じる。主な著作に、「ワイドスクリーンにおける奥行きを利用した映画演出の美学 ― 加藤泰『幕末残酷物語』のテクスト分析」『映画研究』第2号(日本映画学会、2007年)、「加藤泰研究序説 ― 奥行きを利用した映画の演出について」CMN! no.11がある。

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