レポートWEBSPECIAL / REPORT

 聞き手・構成:前田晃一
 (編集者・東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」共同研究員)
 通訳:土田環
このインタビューは『コロッサル・ユース』の日本公開時(2008年4月2日)に行われたものです。
配給会社シネマトリックス、および前田晃一氏らのご厚意により、ここに掲載させていただきます。
 

「何も変えてはならない」2011年1月8日(土)〜11日(火)
ペドロ・コスタ監督特集 2011年1月14日(金)〜16日(日)

── 私が初めて出会ったペドロ・コスタ監督の作品は『ヴァンダの部屋』で、公開と前後してコスタ監督は小津安二郎生誕100年を記念するシンポジウムのために来日されました。この印象が強くてどこかでペドロ・コスタと小津安二郎が結びついています。その時にコスタ監督は小津について言及し、「映画の力とは人を──見る人間を──、まず集中させること、画面にとにかく集中させる力にある」と言われていました。『コロッサル・ユース』を経て、このことに変わりはありませんか。
ペドロ・コスタ 自分としては集中させるという作業を続けているつもりです。ただし、人々はますます画面に集中しなくなってきているようです。観客にとってある種の映画は必要でなくなったのかもしれません。画面で何かを主張したりすること、それがなくなってきているし、映画自体もおそらくそれを必要としていないのかもしれません。ただ、映画を作っている自分としては、集中させるという作業を続けるつもりです。
── 『ヴァンダの部屋』では、ほとんど動かない画面において、狭い部屋にいるヴァンダをとにかくわれわれは見ます。しかし『コロッサル・ユース』では、少し変わったようです。引き続きフォンタイーニャス地区が舞台ですが、部屋といってもさまざまな部屋が出てきます。ヴァンダは新しい部屋に移っていますが、もとの地区にそのまま残っている人もいる。あるいは時間を飛び越えて、いろんな場所が出てきます。ある一点への集中から、物語全体への集中へと変化したように思えました。映画を見る人間は、『ヴァンダの部屋』からさらに、自分なりのストーリーを組み立てることで、より強く画面に集中することを要求されているように思われました。
コスタ 『ヴァンダの部屋』では、ヴァンダがある種の「平等性」というものを持っているように描かれていたように思います。つまり、観客はヴァンダについては判断することなしに、ただ見ることによってヴァンダと等しい位置に置かれています。例えばヴァンダに対して反対の意見を表明するということはなかったわけです。これが私の考える平等性であり、言うなれば、ヴァンダと観客には平等の視線が存在していたと言えるでしょう。
 それに対して『コロッサル・ユース』は、観客にある種の批判意識を持たせることに意識的になったのかもしれません。そこに描かれている人々は、監督自身が自由自在に操ることのできる登場人物というよりは、見る側の観客の判断に委ねられるかたちで映画の中に存在しているのです。つまり、彼らがここの新しい空間、コンテクストに存在しているのはどういう意味なのか、あるいは、彼らはこの空間において身体的にもどのように接しているのか、そういったことを考えるように集中するよう観客自身に求められるのです。人間が空間に接するそのありようそのものを考えることによって、社会的にも身体的にも自分たちがどのように置かれているかを観客自身が批判意識とともに判断するのです。

── ゴダールの有名な言葉で、「正しいイマージュではなくて、ただイマージュがある」というのがありました。しかし、『コロッサル・ユース』は、そのゴダール、あるいはそれに影響されたドゥルーズに逆らってでも、コスタ監督は「正しいイマージュがある、これを見よ」と観客に投げかけているように思えました。そのうえで批判的であれと。あるいは、まずは目の前にこうして開かれているコンテクストを共有することから、正しいものを批評として探ることに集中してみようと呼びかけているようにも思えました。
コスタ 『コロッサル・ユース』は二つの運動から出来上がっていると思います。その二つの運動がぶつかりあいながらある種の正しさというものを提示してくれているかもしれません。私は、言ってみれば、これは詩的な公正さについての映画だというふうに思っているのです。二つの運動のうち、一つは隣人愛的なもの、詩的なものであり、これがある種の原理というものを示しています。これはヴェントゥーラの手紙に顕著ですが、皆が持ちたいと望んでいるもの、それは社会であれ個人であってもいいのですが、何かこうしたいと望むものについての原理とでもいうものを示しています。もう一つは、よりプログレマティックなものです。こちらは現在の我々の社会における問題というものを提示しており、私はこの二つの動きから映画が出来上がっていると考えています。映画全体は、その映像と音を通して、これらの二つの運動というものがぶつかりながら、ある種の公正さ、正しさというものの可能性を探るような作りになっていると思います。そして、これは、ゴダールが今日においてやっていることと変わらないと私は考えるのです。
 映画にはこの二つがなければいけません。一つは社会の外側にあるもの、一つは社会の内側にあるもの、この二つの両方の存在がぶつかりあうことによって公正さの可能性に向けての探求が行われていると思っています。さらには、この映画では先ほどの二つの運動に当たるものに加えて、「時間の外」と私が言うものが存在しています。いわゆる「過去」です。そして「現在」の具体的な問題が、過去に対峙することによって、問題提起されています。この二つの運動、二つの時間、それを比較すること、そこに批評性が宿っていると私自身は考えています。

── 私がこの映画で一番驚いた運動というか、アクションがあります。男二人が、トランプをする場面で、それを180度裏返して逆構図で撮る場面です。その逆構図で、レコードプレイヤーが真ん中にあり、一方はトランプに勝ったからペンを相手に与えるという。そのペンでものを書きますが、レコードがものを書くので机が揺れて止まる。ほとんどフィックスで進んでいたところで、ふっと構図が変わり、左右が変わることで、二人の立場が変わったように見えました。さらにペンを動かす、ものを書くというこの二つの運動が出てきた時、とてもショックをおぼえました。いま、「時間の外にある過去」と監督はおっしゃいましたけども、実は、どうにもならない現在と、過去を引きずりながらも否が応でも未来というものがあることが提示されているように思えます。しかもその未来はターンテーブルのレコードという現在にあっては、人が思うように進むようで進まない。これは時間と形式が見事に一致した、大変な活劇の瞬間ではないかと思いました。
コスタ まずおっしゃっていただいたシーンは、たしかに例外的な場面です。ある種の「謎」を私たちに要求しています。まずそこには距離というものがあると思います。キャメラの軸の転換について言えば、時間の変化というものがそこには生じている。突然、キャメラ位置を180度変えることによって、時間の変化が訪れているわけです。
 いま「謎」と言いましたが、映画を撮り、あるいは撮られるだけでは表現しきれない何かがあるということを、この場面で示して、残しておきたかったのです。カードゲームをする二人は、ほぼ背中から撮られた状態であるわけですけども、この背中から撮るということによって、過去が、そして、彼らの奥深いところに何かがあることだけは提示しています。あたかも彼ら二人の間に距離というものが存在しているかのように捉えていると言えるでしょう。その距離とは、ともすれば沈黙であり、さらに言うなら、それは二人の間に横たわっている不可能性そのものだとも言えるでしょう。それは歳月の変化、二人の年齢の違い、あるいはメンタリティの差異といったものに根付くものだと思います。
 ご指摘のようにこの場面には、革命歌とペンで何かを書く行為があります。このシーンで考えたかったのは、様々な時間というものが持っている増幅性、つまり、時間の軸が増幅していくということです。ヴェントゥーラはかつて革命を信じ、そしておそらく革命において敗北しました。そして今はその経験についてくり返し述べるだけですが、そこは何かメランコリックあるいはノスタルジックな要素というものが映し出されていると思います。
 一方で若者は、ヴェントゥーラの弟のような存在であり、労働者として同じような苦しみを分かちあっていたとしても、彼とは異なる時間を持っています。この若者がヴェントゥーラに苛立つ時間もそこには存在しています。ヴェントゥーラと同じ状況にある若者というのは、ある種のメタファーですが、ヴェントゥーラと違う要素がこの若者にあるとすれば、彼には未来というものを想像する手段がないということです。つまりヴェントゥーラにあったペンや音楽というものを彼は持っていないのです。このシーンの前に、手紙を書くことについてヴェントゥーラが話しますが、手紙を書くことで、ペンが必要になるというふうに彼が言うシーンがあります。それに対して別の男の人が、我々は一度もペンを持ったことがない、というふうに答える。貧しい者、中国人、アフリカ人といった人たちも含めてですが、貧しい者は決して書く術を持ったことがないわけです。道具というものがそこにはありません。
 このシーンは映画全体の象徴となっているかもしれません。この映画自体、あまり多くの要素をもたないままに何かを描こうとする夢の作業のようなものになっているのではないかと考えます。つまり、貧しき者にとってのペン、何かを書こうとする手段としてのペンというものは、私たち、つまり映画を撮る者にとってのキャメラではないか、と思うのです。映画とはこの夢の作業であるように進行し、ヴェントゥーラの歌にあったようなある種の革命というものを映画は夢見るかもしれません。ただこのシーンは、言葉で説明するのが難しいですね。このシーン自体が音や視線だけで出来上がっているものであって、ひょっとすると言葉は必要ではないのかもしれません。そのことには留意していただきたいと思います。

── もう一つ印象的だったのは部屋の光です。移転先の新しい団地には光があふれている。しかしそこにある窓はホワイトライトで外が見えない窓です。光だけが差し込みますが向こう側が見えない。まるでスクリーンのような窓です。ですが、貧しい人たちがいる場所、時間をさかのぼったところの船着き場など、そういう暗いところには窓から光が射してくるので、外があるというのがわかる。外から来る光があるということによって貧しい者たちにはむしろ空間が存在しているのに、貧しさから脱出して向かったはずのところには、外もなければ空間もなく、未来もないように見えたのです。
コスタ 未来がないというよりも、むしろある種の戸惑い、あるいは躊躇というものを確認する、そうした作業だと考えています。新しい部屋は、非現実的なSFのような空間で、空っぽであり、居住が不可能な空間として描かれています。この新しい世界に直面した時の居住者、そして私の視線といったもの、その戸惑いというものが、この映画に描かれています。その視線はまだ真っ暗にはなっていない、ただし、その新しい世界、新しい居住地区に移ることによって何かを失った。そしてその失った何かとは、まさにヴェントゥーラの手紙が言明しているものだと思います。ヴェントゥーラの手紙の中では、何かを私はあなたにあげたい、あるいはこうしたものを持ちたいというふうな事が言われますが、そうしたものが失われてしまった。
 また、この新しい空間では、その壁に何も読み取れません。登場人物の一人が「この壁には何も想像できないんだ」と言います。新しい世界で失われてしまったもの、それは壁にはかつて読み取れていたかもしれない何かです。まだ物語というものは終わっていません。ですから、今後どうなるかは、推移を見ていきたいと思います。

── 戸惑うことにこそ未来があるのではと私は思います。ところで少し変な言い方になりますが、この映画を通じて、これは「喪の作業」かもしれないと思いました。喪に服しながら未来を見るという奇妙な感じがしました。先ほどゴダールに「逆らって」と言いましたが、それはロラン・バルトが引用して言っているのです。『明るい部屋』で亡くなった母の写真を前にして、「私の悲しみにとっては、正しいイマージュ、公正でかつ正確なイマージュが必要だった。ただのイマージュにすぎないとしても、正しいイマージュが必要だ」と(バルトは映画について「私は目を閉じる自由を持っていない」と否定的に述べていますが)。私が『コロッサル・ユース』から感じたのは、喪に服しているだけでは未来はもちろん見えてこないのだけれども、しかし戸惑うことからしか過去も、現在も、そして未来も作ることはできないかもしれないということなのです。
コスタ それを喪と言えるかどうかは私にはわからないのですが、この映画に出てくる登場人物たちは確かに何かをしています。何かをしているというのは、要するに新しいことに彼らは直面しているわけです。ヴァンダは新しい状況、つまり母親としての状況というものに直面していて、どのようにしたら、ここ、白い壁、この白い部屋の中で母親として存在することができるのだろうかということに直面しています。もう一人の登場人物は自分が見たことのない母親とどうやって話すことができるのか、そうしたことを自問自答している。彼らは、喪と言えるかどうかはともかく、未来といったものに向き合おうとしていることは確かです。
 この映画の中では一人、身振りだけで何かを語る人間がいるのですが、それはアパートに火をつけると言う男で、革命歌をヴェントゥーラと一緒に聞いている若い労働者です。彼は新しいアパートに移らなければならないのですが、その新しいアパートに移ったら、アパートに火をつけて窓から身を投げると言っています。焼身自殺というのはこの場合、白い壁に黒いしみを作ることに他なりません。白から黒への転換というものを示していると思いますが、手の跡が壁に残っているというのと同じように、過去の痕跡がそこに刻まれるという側面があります。要するに、過去を見るために自殺という恐ろしいもの、そうしたものを通過しなければいけない、と。
 この彼の発言は非常にラディカルで、つまり、自分の生を失う作業ですが、映画全体としては、どのようにすればイメージがまた再び戻ってくるのかを主題にしているようにも思うのです。つまり、以前にあった地区を見るためには、彼が先ほど言ったように白い壁の中にしみをつけなければならない。あるいは、この映画の中で登場人物は彼らの固有のイメージというものをその瞬間においては失いつつあるのですが、それに対して、例えば美術館という空間、あの空間は過去であり、フォンティーニャスの汚れた壁は、その壁の中に過去というものを垣間見ることのできる存在であったとも思います。
 この映画でヴェントゥーラは、常に我々にイメージというものを召喚するような存在です。彼は他の登場人物たちにイメージを提起している、そうした存在だと私は思います。例えばレコードのシーンで、ヴェントゥーラは「ここでこれを聞いてくれ」と言っているわけではありません。大きな意味において、「見ろ、これを見ろ」と言っているように思います。落ち着いてこれを見て、そして何かを考えなさい、と。そういうふうに問いかけているように思います。
 美術館のシーンでは若い職員の男とヴェントゥーラが話しています。職員が、ここでは非常に落ち着いて仕事もできるし、お金もわりと入るから非常にいい仕事だと言うのに対して、ヴェントゥーラはただ単に「あそこを見なさい、あそこを見よ、あそこで私は働いていた時に落ちたのだ」とだけ言います。そこで、彼の過去、イメージというものを思い出させているわけです。ヴェントゥーラが喚起させているイメージは過去ですが、これは他者にとっての未来にもなりうると言うことができるでしょう。つまり、お前もあそこから落ちるかもしれない、と。
 映画の中でヴェントゥーラはこのようにイメージを駆動させる役割を担っていると私は考えています。つまり若者やヴァンダのような存在は、想像力を失っているわけです。ヴァンダはテレビに釘付けになっており、別の人間は病院にいる。そうした状況の中でヴェントゥーラだけがイメージの中にいる。あるいはイメージというものを召喚することができる存在なのです。
 これとはまた別に、先ほど述べた若い一人の登場人物がいます。彼はある意味でヴェントゥーラをプラグマティックに、ヴェントゥーラの言っている全てのことを実践しようとしている人であるかもしれません。この新しいアパートに火をつけて自殺しようと彼は言う。つまり、彼は自殺することで過去のイメージを現在に駆動しようとしているわけです。はたして、彼が火をつけて自殺をするべきかどうか、それは私にはわかりません。わかりませんが、ひょっとすると、彼はそうしなければいけないのかもしれません。
 『あなたの微笑みはどこに隠れたの?』という私の映画の中でストローブが言っています。「世界はどんどん悪くなる。悪くなっていくからこそさらに傷ついたり、傷つくことを直したりすることもどんどんなくなっていくのだ」。そして、「残された者というのは、結局暴力的なものでしか解決ができないのではないか」と。それをひょっとしたら私たちはやらなければいけないのかもしれません。すると、この映画は、喪の作業というよりは、喪の失業、あるいは喪の消失といったものについて語る映画だと言えるのかもしれません。

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