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なぜ、いま「本木荘二郎」なのか!? 

~「昭和桃色映画館50年目の幻のフィルムと活動屋たち」上映企画に寄せて~

昭和桃色映画館 50年目の幻のフィルムと活動屋たち 前編

昭和桃色映画館 50年目の幻のフィルムと活動屋たち 後編

晩年の本木荘二郎(後列左から3人目)、撮影現場にて。

後列左に俳優関多加志、左から3人目に俳優野上正義がいる

鈴木義昭(映画史家・ルポライター)

■はじめに

特集上映「昭和桃色映画館50年目の幻のフィルムと活動屋たち」として特集上映をおこなっています。8月31日から9月3日にかけて前編「小林悟 元祖独立プロ監督」「時代を作った活動屋たちと発掘フィルム」のプログラム、多数の来場をいただきました。恒例の「トーク」コ―ナーも「本木荘二郎と桃色映画の50年を考える」をテーマに「50年」即ち半世紀に及んだ映画のジャンル、市場、路線、作品、監督、出演者などに思いを馳せて語らせていただきました。前篇の演題は「黒澤明の盟友、撮影所を去り桃色映画の開拓者となる!」。徹夜の締め切り続きで少々朦朧としていたせいもあり、やや情緒的な話になったきらいもありますが、本木荘二郎がなぜピンク映画に登場したかを中心に、撮影所からドロップアウトした活動屋、映画人たちによって、初期のピンク映画が生み出された経緯をできる限りお話しました。参考特別上映として、撮影所育ちの監督たちの映像をいくつか見ていただきました。いずれも、活動屋の気概にあふれる映像ばかりだった。最後は、今回上映がプリント状態の不備で実現できなかった小林悟監督の『ニッポン発情地帯』の上映可能な部分を見ていただいて終了した。ここに前篇「トーク」の簡単な「あらすじ」を原稿にまとめ、後篇の「トーク」に繋げたいと思います。まずは、本木荘二郎の「ピンク映画渡世」前篇を、お読みいただければ幸いです。


神戸映画資料館の安井喜雄館長を紹介してくれたのは、今年の2月に亡くなってしまった映画作家の布川徹郎だった。布川徹郎は、知る人ぞ知るドキュメンタリー映画の「無頼派」ともいうべき監督で多くの作品があるが、05年に住んでいた大阪へ訪ねインタビューをした。その時、布川さんと一緒に梅田にあるプラネットの事務所を訪問したのが、安井さんとお会いした最初であった。「プラネットの安井さんも取材していきなさい」と、布川さんが執拗に言った。自分のフィルム、NDU(日本ドキュメンタリストユニオン)関連のフィルムなどを、安井さんが昔から運営していた「プラネット映画資料図書館」に保管・寄託していて、いろいろな意味で頼りにしているという感じだった。「プラネット」の存在は以前から聞いて知っていた。安井さんが日本有数のフィルムコレクターで、関西映画界、映像業界では古くから隠れた仕掛け人というか、神通力を操る(!)仙人のような存在であるということも聞いていた。ドキュメンタリーや文化映画に造詣が深く、また戦前作品など映画史上重要なフィルムを各地で発掘されていることでも知られていた。お会いしてみると、安井さんは、さまざまな独立プロ作品と一緒に同じ独立プロという名称でも少し色合いの違う、即ち「桃色映画」「ピンク映画」をも発掘、蒐集、保存されていることを知って、俄然興味が湧きまた親近感も持った。これは、いろいろと教えを請わなければいけないという気になったのである。あまり知られていないが、安井館長は若き日には、ピンク映画館で映写技師の仕事もされていたようだった。僕も若い頃ピンク映画専門館で働いていたことがあり、その意味でも近しい気持ちになった。「昭和桃色映画館」(社会評論社)という書名で本にまとめた、映画雑誌「映画秘宝」(洋泉社)の連載「セクスプロイテーション映画興亡史」を開始する少し前のことだった。

僕は、30年前に「ピンク映画水滸伝 その二十年史」(青心社)という本を書いている。これは、僕の物書きとしての処女作である。ルポライターとしてさまざまな取材対象に向かうが、物書きは処女作に帰るものという台詞があり、僕もどうしてもこれまで「ピンク映画」「戦後映画史」に帰って来るところがある。安井館長に会って、日本全国の映画会社や配給会社から見捨てられ、ジャンクされた「ピンク映画」、もうひとつの「独立プロ映画」とそのフィルムの行方が気になり始めた。このままでは、この世から「ピンク映画」のフィルムが、消えてなくなるような思いにとらわれたのだ。ピンク映画の歴史を調べなおすきっかけの一つだった。もう一つの発端は、30年前にアポなしで熊本まで会いに行って、会うことができなかった女優の香取環さんに、その頃、念願叶って会うことが出来たことだった。これも大きかった。長くなるから略すが、「創刊50周年」特集の記事として取材に出かけた「週刊新潮」の記者のおかげだった。彼女は、「ピンク映画第一号女優」といわれながら、長く「行方不明」とされていた。30年前に会いに出かけた僕は、当時の御主人のガードが固く会うことすらできなかった。その時は、会えなかったが、彼女のそれまでの半生を調べ上げ、「噂の真相」という雑誌で記事にした。

香取環は、日活撮影所時代は赤木圭一郎と同じ第四期のニューフェィスで、「久木登紀子」の名前で多くの映画やテレビで活躍していた。新東宝出身の映画監督・小林悟が新興の独立プロ協立映画で撮り、倒産した新東宝の系列を再編し映画配給に乗り出した大蔵映画で公開した『肉体の市場』という映画に主演した。「香取環」は、そのヒロインの役名で、以後この名を芸名に初代の「ピンク映画の女王」とまで言われるほど多くの作品に主演、多彩な活躍をする。『肉体の市場』は、昭和37年(1962)2月に公開された。俗にいう「ピンク映画第一号」である。彼女は、脚本を読んで「これなら日活映画にも負けない」クオリティがあると思い、出演を決断した。『肉体の市場』は、公開直後に警視庁によって「猥褻図画」として摘発された。猥褻な表現であると問題となった8シーンがカットされ、再編集、再上映された。事件の宣伝効果もあって、逆に当時の映画としては大手作品をはるかに凌ぐ大ヒットとなった。大きな興行収益を得たといわれ、正確な数字は不明だが、この年最も興行収益をはじき出した邦画かもしれない。大ヒットした黒澤明『用心棒』を上回るプリント数が稼動したというのは、よく知られることだ。ところが、今では『肉体の市場』は断片映像しか残っていない「まぼろしの映画」になってしまった。多くの「ピンク映画」と同じく、そのフィルムは映画館での上映が途切れると、廃棄されていった。現在、フィルムセンターに収蔵されている「断片フィルム」(現在は上映禁止)も、ある収集家のコレクションから見つかったものだ。最近、当時の助監督だった小川欽也監督の自宅から脚本が発見され話題を呼んだ。ようやく、作品の全体像が見え始めたばかりでもある。

どの映画が「ピンク映画第一号」かというのは、議論があるところだ。僕は、混乱しないように、「ピンク映画」の「三要件」を提起している。大手映画会社の製作・配給でない「独立プロ」などによる製作・配給。18歳以下は見ることが禁止される「成人指定」。ストリップやレビューのヌードを撮影したものなどでなく芝居台本(脚本)のある「劇映画」。この三つが、「ピンク映画の三要件」であろう。この「三要件」に当てはまる最初の映画が、昭和37年の春に公開された『肉体の市場』なのである。

この『肉体の市場』(あるいは『肉体市場』というタイトルで公開されたと考えられるポスターなども見つかっている)は、猥褻容疑による摘発という火だるま状態になりながら、映画界に桃色映画の「市場」を開拓した。さらに『肉体の市場』の大ヒットにあやかるように、同じ年の秋に公開された「ピンク映画」がある。『肉体自由貿易』(国新映画)という題名の映画で、監督をしたのは本木荘二郎。当時の新聞・雑誌や映倫通過リストなどを点検すると、香取環主演の『不完全結婚』(純潔映画協会製作)に続き、「3本目」の「ピンク映画」として、この映画が浮上する。今から考えても、あきらかに『肉体の市場』にタイトルも似通っているから、「二匹目のドジョウ」を狙った企画であるのがわかる。『肉体の市場』『肉体自由貿易』と、「肉体」の名が付いたピンク映画が公開され、いずれも大ヒットし、大手では信じられない興行収益を映画館やプロダクションにもたらしたのだった。「肉体」の時代が始まった。そんな気分を、男たちに与えた。

『肉体自由貿易』に出演していたのは、名も知らぬ外国人女性と沼尻真奈美という新人女優だった。監督の本木荘二郎こそは、あの黒澤明の「相棒」と言われた男だった。『七人の侍』『羅生門』『生きる』など全盛期の黒澤明作品のほとんどをプロデュースしたのが、本木荘二郎だった。本木荘二郎なくして、戦後の黒澤作品は成立しない。その名前は、日本国内だけではなく、「クロサワ」の名とともに、黒澤映画とともに世界中に知られていた。
僕は、30年前の「ピンク映画水滸伝 その二十年史」に、なにげなく書いている。

本木荘二郎、田中友幸や藤本真澄らと共に〝東宝三大プロデューサー〟と言われたあの本木荘二郎である。主に、最も脂のノリきった黒澤明監督作品を送り出し、『七人の侍』(五四年)、『用心棒』(六一年)などをプロデュース。『羅生門』(五〇年・大映)では、五一年にベニス映画祭のグランプリを獲得し、その名を世界的にした。だがしかし、その本木荘二郎がその後、ピンク映画監督に転じ死ぬ直前までピンク映画を撮り続けたことを知る人は少ない。七七年、そのグランプリ受賞の金獅子だけがきらびやかに残っていたというが、この世を去った。

(鈴木義昭「ピンク映画水滸伝 その二十年史」昭和58年1月刊より)

本木荘二郎と黒澤明の出会いは、運命的なものだった。黒澤明は、どんなプロデューサーが付いても「世界のクロサワ」になったかも知れない。しかし、本木というパートナーがいなければ、全然違う「クロサワ」が生まれたことだろう。本木が黒澤と黒澤映画を支え大きな大きな存在に押し立てていったのは紛れもない事実なのだ。二人は、若き日に出会い、下宿屋の上と下に住んでいた。上に住む黒澤が、ある日、「上に来なよ」と声をかけると、本木が一階の自分の部屋から二階の黒澤の部屋にゆっくり上ってきた。それ以来、二人は親しくなった。助監督だった二人は、黒澤明の師匠ともいわれる山本嘉次郎をはじめ多くの監督に付いてともに映画を学んだ。ある日、本木荘二郎は、東宝の当時の森社長に呼ばれ声をかけられた。「君は、演出よりプロデューサーに向いているから、プロデューサーになりたまえ」と、森岩雄社長が言ったといわれる。

そんな本木荘二郎が、なぜ、ピンク映画を撮るようになったのか……。

僕は、実は、それを一年間追いかけてきた。まもなく、一つのゴールへ出ることにする。月刊誌「新潮45」に、一年間の取材の成果をまとめて、原稿を書く。全ての「答え」は、そこに書かねばならない。ここでは、本木荘二郎が、どんなピンク映画を撮り続け、どんな暮らしをしていたかを、駆け足だが、追いかけてみよう。

本木荘二郎は、最初、「ショー映画」といわれるジャンルの短編映画を撮っていた。

ストリップやヌードショーのステージをただ撮っただけの、いわばドキュメンタリー調の短編映画を「ショー映画」という。それは、映画黄金時代、全国津々浦々の映画館で、上映フィルムにさえこと欠くような時代、三本立ての三本目に男性客の喜ぶ作品を組みたいという劇場などなど、大いに需要があった。黒澤明とともに東宝という巨大な映画会社に在籍していた本木荘二郎にとって、ストリップの世界は、実はそんなに遠い世界ではなかった。東宝は、有楽町の巨大な劇場・日本劇場(日劇)の中に「日劇ミュージックホール」という「ストリップの殿堂」を持っていた。そこは、NDT(日劇ダンシングチーム)を抱える日劇のエロス部門の付属施設として機能し、戦後多くの観客を集め多くのヌードダンサーを世に送り出した。本木のエロスへの傾斜は、ミュージックホールの人気のあるショーや赤坂や銀座のヌードショーを撮影することから始まったようだ。戦後のある時期、「ショー映画」は盛んに作られ、多くの観客を得ていた。

山本(晋也) 30分くらいのストリップをそのまま撮ったやつ。これが評判いいんで、国映っていう会社ができちゃったんだな。そーゆーのを本木荘二郎さんなんかもやってたんだよな。オレの好きな『七人の侍』とかの大プロデューサーがさ、東宝のあれに敗れて。いや、自分に敗れたんだな。後年、本木さんが死んで葬式の時、田中友幸が来て「かわいそうに」って言ったのが印象的だったな。

野上(正義) うん。

山本 あん時、東宝内で争ってたんだ。

野上 権力争い

山本 で、本木さんは女に熱上げる方だからみごとに花と散っちゃってさ(笑)。「東宝からくんのはよ、阪急デパートの石鹸だけだからね。薄情な会社よ」って言ってたもんな。だから、あの頃聞いた黒澤明のいろんな逸話をよ、葬式の時脚色して言ったんだ。「~~」と、本木さんは言ってましたって。東宝のいろんな奴がいる前でよ(笑)。本木さんとか関さんとか、ああゆうの(ストリップ映画)を劇にしたらどうかってんでやりだしたんだ。小林悟の『完全結婚』とか、南部泰三の『女体難破船』とか、ポスター見てさスゲー映画だなあと思ってさ、オレその頃岩波映画だからさ、全然知らないから。まさかその世界入っちゃうとは思わなかった(笑)。

野上 ハハハ(笑)。

山本 それで、その南部泰三の許に渡辺護がいたんだよな。あとで考えれば。

野上 そうそう、助監督で。

山本 それから向井寛はあの頃、役者かなんかやっていたんだよな。

野上 役者やってって、その後助監督やってたんだ、東映かどっかで。

山本 うんうん。それでなんだかわからないうちにオレは助監督になっちゃった。その頃、その頃、若松組なんかにも行くようになってて、もう紅顔の美少年だったからね。早朝のシーンなんかで新聞配達のエキストラなんかやってた。…枡田邦子なんてのがいたね。

野上 いたいた。

(野上正義「ちんこんか ピンク映画はどこへ行く」三一書房/85年刊より)

本木荘二郎は、ピンク映画の世界に定着してしまう。何度か、この世界から足を洗う機会がありながら……。「大プロデューサー」から「桃色映画監督」に、生まれ変わったかのように。東宝という会社を追われたのは、なぜだろう。黒澤明と別れたのは何故だろう。いくつもの質問は、少しづつ解明された。

ピンク映画第一世代で、長く撮り続けたのは、小林悟、関孝二、小川欽也とともに本木荘二郎ぐらいしかいない。それぞれの撮影所をはみだしてきた活動屋たちは、一時は水を得た魚のように「ピンク映画」「成人映画」で活躍したが、その後には女の裸を売る世界から身を引く者も多かった。ピンク映画と独立プロの変遷の大きな流れについては、拙著「昭和桃色映画館」を読まれたい。撮影所とピンク映画の関係については、いずれ一稿を書いて整理する。そこまでを視野に入れた「昭和桃色映画館」の続篇を準備中ではある。

本木荘二郎は、「ピンク映画」と呼ばれる世界が気に入った。「ショー映画」を経て、「ピンク映画」草創期から作品を撮っていた本木荘二郎にしてみれば、何も恥じ入る世界のようにも思えなかった。女性のヌードで大きく稼ぐ、活動屋の生きる道のひとつというふうにも考えていたろうか。初期の本木は、ピンク映画の撮影現場にも、いつもバリッとしたスーツとネクタイ姿で現われた。もちろん「女好き」だが、それだけでなく思いのままに映画が撮れるこの世界が好きだった。しかし、監督名は、プロデューサーとして世界的な名声を得た名前「本木荘二郎」を使わず、高木丈夫、岸本恵一、品川照二、藤本潤三などの監督名を、その時々の気分のように使い分けた。全く自分の姿を隠すような、名前の使い分けだった。本木の監督するピンク作品の評判は良く、次々に仕事が舞い込んだ。初期は自前で配給したし、その後も配給会社は「良かったですよ。またお願いします」と言った。自前のプロダクションで配給していた時期は、飛ぶ鳥も落とす勢いだった。大手映画会社が桃色映画の集客力と魅力に気がついて、やがてお株を奪うまでは、本木たちの天下だったと言っても過言ではない。

初期の本木作品『不貞母娘』(昭和38年)については、当時の出演者・椙山拳一郎さんからお話を伺った。ピンク映画が、まだ若く青年のように光り輝いていた時代があったことを、よく知ることが出来た。女優の新高恵子さんは、初期の本木荘二郎が、いかにピンク映画を生き生きと撮っていたかをも証言してくれた。小川欽也監督は、『肉体の市場』と『肉体自由貿易』の両方の現場を知る貴重な生き証人だった。『肉体の市場』ではチーフ助監督だったが、『肉体自由貿易』では「応援助監督」として駆けつけた。なぜなら、撮影されたスタジオが『肉体の市場』と同じく、東京の世田谷区祖師ヶ谷大蔵にあった大蔵映画のスタジオで撮影されたからだった。小川は、この後、日活を香取環と同じように飛び出してきた女優・筑波久子を主演にした、本木荘二郎監督作品『毒ある愛撫』(昭和38年)にチーフ助監督として付いている。松竹や新東宝、テレビなどで助監督をしてきた小川だったが、この後の翌昭和39年に『妾』(国映/牧和子主演)で監督デビューする。大蔵貢に呼ばれ、大蔵映画一筋にこの業界の主のようになるのは、それから先のことである。

ピンク映画業界の有為転変の中で、本木荘二郎も変貌を遂げ、作品も大きく変わっていった。その多くの作品が、ジャンクされ二度と見ることが出来ないのは全く残念だが、近年その発掘、検証も徐々に進んでいる……。本木荘二郎が、何を考え、ピンク映画を撮り続けていたのか。バカなピンク男優に「本木のジジイ」と罵られながらも、ヘラヘラ笑っていた顔の裏側に、溢れんばかりの映画への思いがあった……。


■以下「後篇」へ。二つの新旧の記事切抜きを置いて、本木の最期を知っていただこうか。

東京・新宿のアパートでだれに看取られるわけでもなく、62歳の男が息を引きとっていた。さる二十一日朝のこと。本木荘二郎さん。その死は新聞に一行も報じられなかったが、かつては黒澤明監督とコンビを組み、グランプリをとった「羅生門」、アカデミー外国映画賞の「七人の侍」など黒澤作品のほとんどを手がけた大プロデュサーだった。最近は人知れずポルノ映画を作っていたという。かたや黒澤、そしてこの人。なにが男の一生を分けたのか。

(「夕刊フジ」昭和52年5月27日号より)

 

服を着たままベッドに仰向けで死んでいた。6畳間は、弁当がら、テトラ型の牛乳パック、ラーメンの袋など足も踏み出せない。/「爺さん」と呼ばれていたが、まだ62歳だった。/前日、通りひとつ隔てた先の〈大和病院〉でクスリをもらった。また明日も来なさい。/ところが姿を現さなかった。/近いから医師の夫人がようすを見にいったら、息絶えていた/〈第2淀橋荘〉というアパートだった。JR大久保駅から10分足らず、成子天神下の近くである。

(「週刊ポスト」平成23年7月23日号「現場の磁力」第186回より)

次回=9月29日(土)、神戸映画資料館でお会いしましょう!

■「本木荘二郎」について、「本木荘二郎 伝説の活動屋・ピンク映画に死す」と題して、ミリオン出版「実話裏歴史SPECIAL」VOL.12(2012年5月発売)にも書きました。あわわせてお読みいただけると嬉しい限りです。

本木荘二郎、戦前にはNHKのアナウンサーの経験もあったという

女優浜田百合子(前列右)と結婚した頃か、穏やかな微笑を浮かべる本木荘二郎(前列左)。

俳優三船敏郎の顔も(後列右)

映画『毒ある愛撫』紹介記事 主演の筑波久子と若杉英二。

本作のフィルムは、国立近代美術館フィルムセンターに収蔵されているが、

劣化が激しく上映許可が下りない。
(「別冊事件秘話」日本文芸社1963年12月特別号より)


『女・うらの裏』(64年)主演は先頃詐欺容疑で実刑を受けた松井康子(当時は牧和子)


『妾のからだに悪魔がいる』(64年)撮影は後に若松孝二と組んだ伊東英男(東宝出身)

『あばかれた情欲』(65年)監督名は渋谷民三名義、主演は新高恵子だった


『女の悶え』(65年)主演は新東宝出身の扇町京子


『白い手袋の秘密』(65年)主演は東映出身の光岡早苗(城山路子)

ポスター画像提供:東舎利樹

昭和桃色映画館 50年目の幻のフィルムと活動屋たち 前編
昭和桃色映画館 50年目の幻のフィルムと活動屋たち 後編

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