映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW



第一回 映画において「撮るな」という禁止はまともに機能しない
『これは映画ではない』
                 ©Jafar Panahi and Mojtaba Mirtahmasb

 
 
 

 

 『これは映画ではない』In Film Nist/This is not a film
                       9月、シアター・イメージフォーラム他全国順次公開
                       監督:ジャファル・パナヒ、モジタバ・ミルタマスブ
                       イラン / 2011 / 75分 配給:ムヴィオラ


 「撮るな」という禁止の命令ほど映画においてあてにならないものはない。いくら性交を撮るな、性器を撮るなといったところで、大島渚が『愛のコリーダ』で世間を騒がせるはるか以前から、誰も全貌を把握できないほど夥しい量のブルーフィルムが地下で流通していたことは周知の事実だし、婚前交渉を撮るな、犯罪者を魅力的に撮るな等々と、表現上の禁止項目を延々と羅列したハリウッドのプロダクション・コードでさえ、現場を委縮させるどころか、かえって洗練された、暗示的であるだけにいっそう過激な表現を生んでしまったことは映画史の常識といっていいだろう。抑圧的な体制が亀井文夫やアンドレイ・タルコフスキーに加えた圧力も、なるほど彼ら個人の生涯にとっては悲劇だったかもしれないが、結局彼らが撮る映画をいっそう個性的に韜晦させただけだったのだから、ここでも「撮るな」という禁止はまったくといっていいほど効力を発揮しなかったのである。したがって、反体制的な活動に携わったかどで当局から今後20年間映画を撮るなと命じられ、自宅で軟禁生活を強いられている一人のイラン人映画作家が、「これは映画ではない」とうそぶきながら平然と新作を撮りあげてしまったとしても、その事実じたいには何の驚きも含まれていない。映画において禁止の命令はまともに機能しないという古くからの命題が、またしても真であると証明されてしまっただけのことだ。
 『白い風船』の監督ジャファル・パナヒによる『これは映画ではない』は、昨年3月に自宅で密かに撮影されたのち、USBメモリに保存されて菓子箱のなかに隠され、協力者たちの手によって国外へ持ち出されて5月のカンヌで首尾よくワールド・プレミアを飾ったという、ほとんどスパイ活劇のような経緯を持っており、75分というB級映画的な上映時間に簡潔に収まっている。とはいえ本作は、不自由な環境のなか、デジタルビデオキャメラとiPhoneだけで撮影されているのだから、英語題This Is Not a Film(「これはフィルムではない」)はたんなる強弁であるというより、実は文字どおりの意味であるともいえるだろう。
 何も知らなければ平和そのものに見える瀟洒なマンションの一室で、妻子の留守にパナヒが独り自分自身を撮っている。弁護士との電話で裁判の厳しい見通しがうかがい知れるが、やがてパナヒは呼び出した友人の映画監督の助けを借りながら、撮ることのできなかった、つまり当局から「撮るな」と命じられた映画の構想についてキャメラの前で語りはじめる。映画を撮るのは禁止でも、脚本を朗読することは別に禁止されていないだろうというわけだ。居間のカーペットの上にテープを貼り、シーンの間取りに見立てたりもしながら進められるこの前半部を通じて、閉ざされているはずの室内は、窓の外をよく見渡すことのできるマンションの開放的な作りも相俟って、徐々に外界とのさまざまな回路に貫かれてゆく。時折ペットの巨大なイグアナが悠然と視界を横切ってこの空間をよけい謎めいたものにするが、再現されるいくつかの映画の断片が、家に閉じこめられてなんとか外に出ようとする娘の物語であったり、実際に警察に踏みこまれたその日にパナヒらがこの部屋で撮影していた映画についての語りであったりというように、今、この場でパナヒ自身が置かれている現実といやでも重なって見えるものであることが、外界とのつながりの印象を強めることになる。同じように映画を撮れない映画監督が自分自身を撮っているといっても、『これは映画ではない』がキム・ギドクの『アリラン』における肥大した自意識の目を覆いたくなるような醜悪さ――確信犯ならいいというものではないだろう――を完全に免れているのは、この不思議な開放性ゆえのことなのだ。
 事実として、この室内をやがて外界がさまざまに侵食していくだろう。テレビをつけると、直前の3月11日にアジアの反対側の島国を襲った悲惨な大災害が報じられているし、マンションのすぐ外の市街では、当局の指示に逆らって民衆が火祭りを行なおうとしていることが知れもする。そして、実際に玄関のベルが鳴る。聞こえてくる会話から、同じマンションに住む女性が火祭りに行くので飼い犬をパナヒに預けようとしているとわかるが、断りきれず犬を室内に入れると、はじめ行儀よくキャメラの前でちょこんとお座りしていた犬が、飼い主が去った途端に凄まじい勢いで吠えはじめるのが可笑しい。堪らず犬を慌てて返しはするものの、窓から見える火祭りの派手な花火といい、この部屋が外界から隔絶された密室などではありえないことが、そうした具体的なやりとりを通じて絶えずあきらかにされていくのである。
 一日が終わりに近づき、撮影に協力していた友人も帰る頃になって、不意に一人の青年がパナヒの部屋を訪れる。不在の管理人夫婦の代わりにゴミの回収にきた兄だという、この少々口が軽すぎる気もしないではない青年の屈託のない若さの輝きに吸い寄せられるようにして、パナヒがビデオキャメラを手に青年の仕事につきあおうと決めたことから、スペクタクルとは無縁の思いがけないクライマックスが導かれる。パナヒが拘束された日にもこのマンションにいたという青年の話は、エレベーターが各階に停止し、青年が住人のゴミを取りに行くたびに幾度も中断されるのだが、エレベーター内にとどまるキャメラからはどの階もひたすら同じ眺めが続いているようにしか見えず、ただ時折響いてくる青年の話し声によって、かろうじて別の階に移動したとわかるにすぎない。視覚的にはまったく移動の感覚をともなわないエレベーターの白い密室の眺めが、しかし扉が開くたびにまったく異なる人々のまったく異なる生へと接続されうるということ。徹底して閉ざされて在ることが外界に対して開かれていることと何ら矛盾しない本作のクライマックスとして、これほど相応しいものはないだろう。エレベーターを出てゴミ捨て場に向かう青年の後を追うパナヒのキャメラは、まさに監禁であると同時に開放でもあるようなあるイメージに到達する。それが、『これは映画ではない』の最後の画面となる。
 何しろアッバス・キアロスタミの助監督をつとめた経験もある人なのだから、吠えまくる小犬がケッサクなかたちで再登場しさえするこのできすぎた一篇を、全部演出なのではないかと疑う人がいても不思議ではないし、映画でないどころか映画的すぎるではないかという言い方もありえるだろう。だが、本当にこれが「映画ではない」のか否かという問題は、どうでもいいことだ。そもそもそんな問題は、パナヒに「映画を撮るな」と命じたイラン当局にとってしか意味を持たないものであって、当局の関係者でもない人間にそんな議論の土俵に進んで上がる必要があるはずもない。
 おそらく重要なのは、これが「映画」であろうとなかろうと、『アラビアン・ナイト』のシェヘラザードを思い出すまでもなく、物語ることは常に生き延びることと関係しているということなのだ。パナヒはただ、映画における禁止の無力をあらためて証明してみせたにすぎないのであって、そんな彼への懲役刑さえ含む無慈悲な判決が確定してしまった今、せめて彼を失敗したシェヘラザードにしてしまうことだけは避けなければならないと思う。だからといって、何もパナヒの解放のために、みんなして劇場にしかつめらしい顔をして向かう必要はない。『これは映画ではない』はおもしろいと思う観客たちの自然な拡がりが、結果としてパナヒによりよい状況をもたらせばそれで充分なはずである。スターリンですら『十月』と『戦艦ポチョムキン』の作家をついに粛清しえなかったという事実を、われわれは思い出すべきだろう。
 それにしても、これほどまでに「撮るな」という禁止の声は映画において無力であるというのに、一方で「撮るな」と命じられたわけでもない人間たちが撮れない、撮らせてもらえないとただただ頭を抱えて嘆いているらしいというのは、いったいどうしたことなのか。

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