映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW


第八回 リムジンの走行とともに2人のカラックスが激しくせめぎあう
『ホーリー・モーターズ』

© Pierre Grise Productions

「ホーリー・モーターズ」HOLY MOTORS
監督:レオス・カラックス
2012 / 115分 配給:ユーロスペース
4月6日よりユーロスペース、梅田ガーデンシネマにて公開
全国順次ロードショー
5月、京都シネマ、神戸アートビレッジセンターにて公開

 どうしてそんなことになるのかさっぱりわからないのだが、この春、都内のミニシアターでは、馬鹿馬鹿しいほど車長を引き伸ばされた真っ白なリムジンが、少なくとも2台、都市のただなかを走りまわることになるらしい。そのうえどちらのリムジンも、互いに直接の関係はなさそうだというのに、揃って24時間以内にすべての走行を終えるのだから、この偶然には薄気味の悪いものを感じないでもない。
 最初の1台に乗るのは、ロバート・パティンソン演じる若き大富豪である。デイヴィッド・クローネンバーグの新作『コズモポリス』では、ドン・デリーロによる同名小説にもとづき、まるで動く邸宅のようにあらゆるものが装備されたリムジンをオフィス代わりにして、ニューヨーク市街を絶えず移動しながら巨額のカネを操る青年投資家の、ある運命的な1日が描かれる。外界ではどうやら危機的なことが起きているらしいのだが、彼はリムジンの後部座席に悠然と腰かけたまま、ジュリエット・ビノシュやサマンサ・モートンなど、次々と車内に乗りこんでくる人々の話に耳をかたむける。その気になれば車内から一歩も外に出ることなく一生を終えることもできそうなここでのリムジンは、いわば外界へ向けて張り出した主人公の自意識の殻そのものであり、そのボディが外界の刺戟から乗り主を守る保護膜としての機能を失い、ぶざまに毀損されるにしたがって、主人公もまた奇妙な自己破壊衝動を抑えられなくなっていく。だから、すっかり薄汚れた主人公がついにこの動く要塞を乗り棄てるとき、いかなる運命が彼を待ち受けているかは実際に見るまでもなくあきらかだろう。
 映画の主要な部分はSFめいたリムジンの内部にほぼ固定されており、誇張された金属の光沢といい、車窓の景色の合成といい、故意に「デジタル臭さ」が強められている。主人公が都市を漂流しながら、誰にも実感が湧かない額のカネを国境を越えて瞬時に動かし、また失うさまは、それじたいが個人のコントロールを超えるまでに爛熟した現代資本主義社会における不確かな現実の表象なのだろう。そこにこめられたクローネンバーグの野心を認めるにやぶさかではないし、パティンソンの、もともと主演を張る器ではないのにいかにも間違ってスターの座につけられてしまったというような所在なげな風貌が活きているといえなくもない。だが、映画はそれを批評しようとする者に、これほど造作ない言語化を許してしまっていいものかとは思う。良くも悪くも作家にやりたい放題やらせてしまうパウロ・ブランコの製作のもと、クローネンバーグの観念的な部分がまたしても悪いほうに作用しているとしか思えないのだが、それだけに後半、銃が出てきた途端にいきなり画面が活気づくのには苦笑せざるをえなかった。クローネンバーグの美質にもっとも気づいていないのは、クローネンバーグその人だということだろうか。
 対照的に、もう1台のリムジンが登場する映画はなんとも批評家泣かせの映画に仕上がっており、だからこそ滅法おもしろい。別に難解な映画というわけではなく、それどころかノンセンスな笑劇として笑いとばしてしまっても一向にかまわないようなものだが、到底一言ではまとめきれない雑多な要素が野蛮に詰めこまれており、安易な言語化を鋭く拒んでいる。ここでリムジンに乗るのはドニ・ラヴァン、そしてハンドルを握るのはエディット・スコブ。あのレオス・カラックスによる13年ぶりの長篇、『ホーリー・モーターズ』である。
 そもそも内容をかいつまんで紹介することが簡単ではない。いや、あまりに簡単すぎるというべきか、周囲からオスカーと呼ばれているラヴァンがリムジンでパリ市街を流しながら、次々と別の人物に扮装を取り替え、異なる人生の瞬間を演じていくというのが一応の筋書きである。それぞれのエピソードは何者かによって時間と順番まであらかじめ厳密に定められているらしく、それらは映画中で「ランデヴー」と呼ばれるが、「逢引き」というこの語の通常の意味に相応しく、オスカーは男と女のメロドラマ的な昂揚をともなう物語を何度も生きることになる。
 ここでのリムジンは、たとえていえば観客を前提にしない街頭演劇の移動式の楽屋のようなものだ。実際、オスカーがメイクをしたり食事をとったりする車内での様子も省略なしに示され、激しい「ランデヴー」の後に神経を摩り減らしながらも次なる「ランデヴー」に向けて急かされるさままでもが見据えられる。この映画は、一見したところ、社会のなかにあってそのつど何らかの役まわりを引き受け、演技しているにすぎない人間というものの寓話であるように思われるし、それがまったくの誤りであるはずもないのだが、注意すべきなのは、ここで任務としてオスカーに与えられる「ランデヴー」が、性交や死、父娘や恋人たちにとっての親密な時間といった、本来もっとも私的であるべき瞬間であることだろう。それに対応して、オスカーが束の間、本来の自分――とはだが何か?――に戻ることができるはずのリムジンの内部は、常に職業上のパートナーである女性運転手の視線に晒されつづけており、しかもオスカーの雇い主であるらしい謎の老人が何の前ぶれもなく姿を現し、また消えたりする。開始後間もなく、1日の始まりにオスカーが子どもたちに見送られながら出てきた豪邸が彼の真の私生活の場なのだというわれわれの思いこみも、最後の「ランデヴー」が遂行されるまでには覆されてしまうのであり、この映画においては、公私の別が通念に逆らうかたちで終始壊乱されているのである。だからこそ、結末近くにおいて、それまでずっと素顔を晒していたかに見えたある人物が、1日の仕事を終えて家路につくときにこそ仮面を付けることになるのだ。
 それゆえ、驚異的な身体能力を誇るドニ・ラヴァンの、11種類にもおよぶさまざまな役のカメレオン的な演じ分けを愉しむことだけをこの映画に求めるなら、その期待は少しばかり裏切られるかもしれない。モーション・キャプチャ工場(?)で彼が繰り出すアクロバットの数々は、ほとんど悪意に満ちたカット割りとスローモーションによって故意に動きのキレが損なわれるように撮られており、挙げ句にすべては唖然とするようなCGアニメへと加工されてしまう。前作――オムニバス『TOKYO!』の一篇――にも登場したメルドの凶暴な怪人ぶりでさえ、「美女と野獣」という既存の物語の枠組みへとおだやかに回収され、怪人は美女の膝で静かに眠りに落ちるのである。『汚れた血』や『ポンヌフの恋人』で見られたようなラヴァンの動物的な肉体の躍動は、ここではほとんど望むべくもないといってよい。代わりに際立つのは、多くの「ランデヴー」をこなすことで次第にオスカー/ラヴァンの身体に蓄積されていく、隠しようのない疲労と死の影だ。まさにその疲労がピークに達する頃、彼は老人として姪に看取られながらホテルで死ぬ場面を演じるのだが、感動的なこの「ランデヴー」よりもさらに感銘深いのは、「ランデヴー」を終えてその場を辞する際に彼が姪役の女性と交わすやりとりだろう。「ランデヴー」どうしを接続するリムジンは、何よりもまず、こうした疲労が、そしてこの映画自身の記憶が蓄積され、露呈されるための場であるように思われる。その意味で、『ホーリー・モーターズ』は多様なアトラクションを取り留めもなく数珠つなぎにしたオムニバス風の映画などでは断じてなく、紛れもない長篇映画なのである。
 それにしても、リムジンの車窓を流れる景色を昔ながらのスクリーン・プロセスで処理し、全篇にマレーのクロノフォトグラフィの引用を散りばめるなど、そもそもが謎めいた映画館の客席から開始された今回の映画ほど、カラックスがあからさまに、また無防備に、映画そのものに言及したことは初めてではないだろうか。コクトーやフランジュ、はたまたドゥミといった名前を引きあいに出しつつ、そうした側面を語ることはむろん難しいことではないのだが、むしろ私がこの映画で印象深かったのは、予想外にも、いくつかの瞬間でキューブリックを連想させられたことだった。先述した豪奢な寝室での臨終の場面はどこか『2001年宇宙の旅』を思わせるし、最後の「ランデヴー」の場となるごく普通の住宅の内部を、家の外に置かれたクレーンで窓から窓へと移動しつつ撮るあたりには、キューブリックが遺した原案をスピルバーグが映画化した『A.I.』のラスト・シーンを思い出さずにはいられない。それはもちろん、この映画の内容がキューブリック的な〈人間以後〉の、ポストヒューマンな想像力の地平にまでおよんでいるからだろうが、疲労の影の濃いオスカーが玄関先で深い逡巡を見せた後、意を決したようにチャイムを鳴らして踏み出していくこの地平がもたらす可笑しさと寂しさのないまぜになった不思議な感情は、他ではあまり味わったことのない種類のものだ。モーション・キャプチャまで動員した『ホーリー・モーターズ』は、結局、きわめて「アナログ的」なクレーンでの長回しによって、そうした未知の感情を喚起する静かなクライマックスへと至る。
 レオス・カラックスは、これまで二つの人格に引き裂かれながら映画を撮ってきた。一方には「単純なカラックス」がいて、それこそ「ボーイ・ミーツ・ガール」のこのうえもなく単純な物語を志向するのだが、いざ撮ろうとすると、いま一つの人格「複雑なカラックス」が現れて、パリの街並みを全部セットで再現するというような話になる。『ホーリー・モーターズ』が従来のカラックス作品と異なる魅力を持っているとすれば、それは、「複雑なカラックス」の不断の脅威に晒されながらも、「単純なカラックス」がついに勝利することに成功しているからだ。この2人のカラックスの激しいせめぎあいと、「単純なカラックス」の最終的な勝利こそが、ここで語られているもう一つの物語だろう。やはり直前の『TOKYO!』で、言葉の通じない異国を舞台にデジタル撮影による短篇をさらりと撮った経験が大きいように思われるのだが、暗闇に光が明滅して声が添えられさえすれば、それだけで映画は成立しうるとでもいうかのごとき単純さをきわめた『ホーリー・モーターズ』の真のラスト・シーンについては、実際に劇場で見届けていただくしかない。

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