映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW



第九回 「コンプライアンスの時代」にはドク・ホリデイも断酒会に通うのか
『フライト』

『フライト』
Flight

全国ロードショー中
監督:ロバート・ゼメキス
2012 / 139分 配給:パラマウント

 離陸した飛行機が空の高みへと晴れやかに上昇する動きと対比されて、空港に併設されたホテルの一室の薄暗いよどんだ空気の底では、夫婦ではなかろう男女がしどけない姿で貪っていた眠りを今まさに中断されたところだ。裸で眠る若い女のすぐ傍らで別れた妻からと思われる電話を受ける男の枕元には空になった酒瓶が何本も転がっており、起きぬけの煙草、目立つ場所に入れられたいくつものタトゥー、とどめに眠気覚ましのコカインと、およそ考えうる限りの地上の悪徳がここにかき集められている。しかもこの男は、あろうことか、そのまま機長の制服に身を包むと何食わぬ顔でジェット機の操縦桿を握り、乗客の目を盗んでさらにウォッカのミニボトルを胃に流しこむのだから、やがて彼が惹き起こすであろう大惨事を予想せずにいることのほうが難しい。
 はたして事故が起きる。その肌に粟を生じるほどの緊迫感と、とっさに選ばれる驚くべき危機回避法については実際に見ていただくに如くはないが、大混乱ののち、完全に動力を喪失した飛行機の機内がふと凪いだような静けさに包まれ、少し遅れて自分たちが滑空していることに気づくまでの空気の鮮やかな変転ぶりは見事だとだけいっておこう。結局、飛行機は数名の死傷者を出すものの、奇跡的に不時着に成功する。それはそうだろう。映画はまだ始まったばかりなのだから。だが、見ているわれわれにとってまったく予想外なのは、この事故の原因があの酒浸りの機長にあるのではなく、それどころか、彼のマニュアルを超えた冷静な判断と天才的な操縦技術によってこそ多くの人命が救われるという点だ。その後、機長の血液中から多量のアルコールが検出されたことにより、彼の責任を調査委員会がどのように問うかをめぐって映画は展開していく。しかしながら、繰り返すがもともと事故の原因は機長にあったのではなく、仮に彼が酒を飲んでいなかったとしても事故は同じように起こったのだから、ここで問われる責任とは、法的なものである以上に道義的なものたらざるをえない。その意味で、『フライト』と題されたこの映画が最大の関心を向けているのは、実は飛行機でも飛行機事故でもなく、あくまでも一人のアルコール依存症者の良心なのである。航空機の機長という設定は、日常的に多くの人命を預かる職業に彼を就かせることで、その良心の呵責をいっそう激しくするためのものにすぎないといってもよい。
 主人公の機長を演じているのがデンゼル・ワシントンという、単純に善悪では割り切れない複雑な内面を抱えた役柄を得意とする俳優であるせいもあり(付言すれば、彼は肌の色を有徴として機能させずに主役を張ることのできる例外的なアフリカ系俳優でもある)、一筋縄ではいかない複雑な映画になることも予想されたのだが、まったく反対に、『フライト』は拍子抜けするほど単純な映画である。煎じつめれば、『フライト』はある男が自分がアルコール依存症を患っていることを自覚するまでの映画、「私はアルコール依存症者である」という発話を公然と為すまでの映画にほかならない。遅延に遅延を重ねてその発話を延々と繰り延べることがこの映画の持続をかたちづくっているのである。だからこそ、ついにこの決定的な発話が為された後のラスト・シーンにおいて、主人公に投げかけられる「あなたは何者?」(“Who are you?”)という質問がこの映画自身を終わらせることができるのだ。彼はようやく自分が何者であるかを理解し、自分の人生を他人に物語ることもできるようになったというわけである。事故発生から不時着までを機内の視点だけで通したように、はじめ主人公を英雄としてほめそやしたとされる民衆の姿も主人公が救った乗客たちのその後の姿も――オリヴィエ・アサイヤスの『カルロス』とはまた少々異なる目的から――大胆に切り棄て、主人公一人に焦点を合わせたことは、この意味で一応理解できよう。しかし、それにしては薬物依存のどん底で彼と出会い、そして別れていくケリー・ライリー演じる女性の扱いには若干の問題が残るように思う。映画は、二人が出会うはるか以前から機長の物語に時折彼女の物語を差し挟むかたちでゆるやかな二焦点構造をとり、二人が破局を迎えることを契機に機長一人を中心とする完全な円へと移行する。その移行に戦略を欠いているために、機長と出会う以前の彼女の物語が冗漫に感じられ、終盤の彼女の不在も充分な効果を発揮しないのである。
 とはいえ、二人のすれ違いが確定的になるシーンが、アルコホーリクス・アノニマス(AA)と呼ばれるアルコール依存症者の自助グループの活動に関わっていることは示唆的だろう。依存症者どうしが自身の物語を言葉に出して語ることで互いを支えあうAAのミーティングの席上で、女は自分が依存症であることを認め、男は認めずその場を立ち去る(余談だが、AAの活動を映画で初めて取りあげたとされるジョージ・スティーヴンスの『生きるためのもの』[1952]が近くDVDで発売されるのでご覧いただきたい)。主人公によるこの否認が最終的に覆されることはすでに述べたとおりだが、自分が依存症であることを認めることが依存症からの更生においては決定的な第一歩とされているのだから、意地悪くいえば、『フライト』はほとんど依存症治療のPR映画のようなものだ。
 そのうえ『フライト』は、全篇に散りばめられた宗教的な含意と十字架形の形象によって、自らが依存症であることを人前で認めるという発話行為を、キリスト教における告解に限りなく近似させる。主人公がまさにその発話を為す直前、ふと彼の口をついて出た言葉がいかなるものであったかは誰もが記憶しているだろう。そもそもが天にそびえる教会の塔を翼で去勢することと引き換えに実現された決死の不時着は、宗教的な意味での失墜、信仰の喪失を意味していたかのようだ。この映画が空と地上のあからさまな対比とともに開始されたことは、やはり偶然ではなかったといわねばならない。ラスト、更生への道を歩きはじめた主人公の周囲には、彼が信仰を取り戻したことを告げる記号がこれ見よがしに溢れることになるが、こうしてわれわれは、この映画で12年ぶりに実写作品に復帰した監督ロバート・ゼメキスが、『コンタクト』の作家であったことを想起するのである。
 だが、たかだか飲んだくれ一人の更生を描くために、かくも大勢の人間の運命を巻き添えにし、おまけに神までが召喚されねばならないとはいったいどうしたことだろうか。『失われた週末』(1945)や『酒とバラの日々』(1962)のような直接にアルコール依存を扱った映画を別にしても、ハリウッドが酒浸りの人間を敵役ではない中心的なキャラクターとして登場させることは、それほどめずらしいことではなかった。『荒野の決闘』(1946)のドク・ホリデイを、『リオ・ブラボー』(1959)でディーン・マーティンが演じたデュードを思い出すがいい。そこでは酒で身を持ち崩した男が最後の最後にいいところを見せる。アメリカ映画にあっては結果がすべてなのであり、結果がよければ多少のカウボーイ的蛮行など、むしろ哄笑をもって迎えられたものなのだ。このプロダクション・コード下でさえ許容されたアメリカ映画ならではの「痛快さ」が、テレビのお笑い芸人にも品行方正さが求められる「コンプライアンスの時代」にはこれほどまでにまわりくどい、深刻ぶった試練にかけられなければならないらしい。『フライト』でその種の「痛快さ」をかろうじて体現し、なお残存させているのは、いうまでもなく、ジョン・グッドマンが演じる正体不明の友人である。公聴会の直前、絶体絶命のピンチに彼が騎兵隊よろしく駆けつける「痛快さ」でかつてのアメリカ映画なら大団円を迎えられたはずだし、そのほうがおもしろいに決まっているのだが、それはもう不可能だというのが『フライト』の生真面目な認識なのだろう。なるほど、現代では不可能なはずのカウボーイ的蛮行に強迫的にこだわったジョン・ムーアの『ダイ・ハード/ラスト・デイ』が、一度も「痛快さ」に突きぬけることなく見る者の心を無惨に凍てつかせるのは、何もチェルノブイリをディズニーランド化してしまったからという理由ばかりではないのかもしれない。トニー・スコットは死んだのだ。
 だからこそ、『フライト』における喫煙の位置づけがきわめて重要であるように思われてならないのである。現実社会から喫煙が締め出されていくにしたがって、映画のなかにおいても煙草を燻らせることは何ら自然な行為ではなくなってしまった。たとえばオーレン・ムーヴァーマンのなかなか健闘している『メッセンジャー』では、イラク戦争での戦死者の遺族に直接訃報を伝える二人の兵士を結びつけるものはもっぱら酒と女であり、もはや煙草などというものはこの世に存在しないかのように描かれている。同じように傷ついた男二人の危うい関係を注視するポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』では、飲酒と並んで喫煙の悪徳が精神を荒廃させた帰還兵といかがわしい新興宗教の教祖とを結びつけるが、それはこの映画が1950年代の初頭を主要な舞台としているからでしかない。一方、『フライト』での喫煙は、隠れて耽る限りは社会からなんとか見逃してもらえる、個人に残された最後の背徳的な愉しみとしてある。そのことは、主人公が薬物依存の女と初めて出会い、さらに末期癌の入院患者まで加わって繰り広げられる病院の非常階段のシーンを見ればあきらかだろう。喫煙を介して見知らぬ三者が織りなすこのシーンには、『フライト』という映画自身がしたり顔で語る更生の物語などよりも映画にとってはるかに貴重な何かが漂っていたと思うのだが、それは地上の悪徳に染まりすぎた者の自己弁明的な感想でしかないのだろうか。

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