映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW



第十回 代表される者の姿を欠いたまま不気味に鐘は鳴る
『リンカーン』

『リンカーン』
Lincoln

全国ロードショー中
監督:スティーブン・スピルバーグ
2012 / 150分 配給:20世紀フォックス映画

 激しい雨で泥沼と化した戦場にひるがえる星条旗――ときにアメリカ史上もっとも偉大な大統領と謳われ、生前から神話のヴェールに厚く覆われてきた実在の人物を主人公とするスピルバーグの『リンカーン』は、黒澤明を意識しなかったはずはなかろう、そうしたイメージで始まる。前作の『戦火の馬』(2011)に続き、またしてもジョン・フォードの名と強い映画史的なつながりを持つ題材に挑んだスピルバーグは、だがフォードならば非常な執着を寄せたに違いない兵士の着る濡れた外套のなまなましい光沢などには目もくれず、忠実な撮影監督のヤヌス・カミンスキーとともに、淡く彩色された白黒写真を思わせるような、われわれの抱く19世紀世界のイメージと無理なく調和したルックの創出に腐心しているようだ。『シンドラーのリスト』(1993)を第二次大戦中のニュース映画に倣って白黒で撮影し、『プライベート・ライアン』(1998)でロバート・キャパの戦場写真を参照し、『ミュンヘン』(2005)では作品の舞台である1970年代の政治スリラー映画に典型的な画調を模倣したスピルバーグにとって、歴史とは一貫してイメージの問題だからである。そのことじたいに今さら驚きはしないのだが、くすんだ調子の画面にそこだけ鮮やかな色彩で浮かびあがる星条旗が、全篇にわたって数えきれないほど登場することにはさすがに当惑を禁じえなかった。
 むろん、陽の光に透けた星条旗で最初と最後を枠取ってみせた『プライベート・ライアン』でのように、これまでもスピルバーグは、合衆国の建国の理念に関わるような重要な箇所において、しばしば星条旗を意義深く画面のなかに忍ばせてきた。しかしながら、ここでの星条旗は、たんに映し出される頻度だけでなく、その意味合いにおいても従来の星条旗とは根本的に質を異にしているといわねばならない。それは、『リンカーン』で描かれる戦争が、スピルバーグという作家が不可解なほど取り憑かれてきた第二次世界大戦という「よそ」の戦争ではなく、スピルバーグとアメリカ映画にとっての「ここ」で起きた南北戦争であるという事実と深く関わっている。劈頭のショットで戦場の泥濘にひるがえる星条旗は、連邦の統一が風前の灯となっているさまのわかりやすい表現に見えるかもしれない。だが、事態はいっそう深刻なのだ。今、苦悩する大統領が戦うことを強いられている「敵」とは、この星条旗によって代表されることそれじたいを拒み、独自の旗を掲げさえしているかつての同胞なのだから、真の問題は、この映画が執拗に映し出す星条旗がたかだか北軍旗の地位にまで貶められ、もはや合衆国の全体を代表=表象しえないという点に存するのである。
 リンカーンは、まさに合衆国が直面させられたこのような分裂の危機を克服し、再び国民を統合する者として神話化されてきたのであり、また神話化されねばならなかった。たとえば、ほかならぬフォードの『若き日のリンカーン』(1939)が、そのような統一者としてのリンカーンを政治家となる前史にさかのぼって描き出していることは、『カイエ・デュ・シネマ』同人による名高い分析が示しているとおりである(『「新」映画理論集成2』所収)。思えば、二つの世界大戦を前に自己定義の重要な変更を迫られていた合衆国において、『国民の創世』(1915)と『若き日のリンカーン』という極め付きのリンカーン映画がそれぞれ撮られていることは、たんなる偶然ではないだろう。では、二つの湾岸戦争のあいだにすでにリーアム・ニーソン主演で構想が伝えられながら、結局イラク戦争後にダニエル・デイ=ルイス主演で実現されたスピルバーグの『リンカーン』は、いかなるリンカーン像を打ち出しているというのか。
 ここでのリンカーンは、先述した冒頭の短い戦闘シーンの直後、静けさに包まれた雨の降る月夜に兵士たちの語りに耳を傾ける後ろ姿として登場する。あまりにも無造作にフレームに入りこんでくるその黒い後ろ姿は、神話的な偉人としての風格を故意に剥ぎ取られているようにしか見えず、その前面に回りこむ切り返しショットへの転換は、さらに呆気ないので拍子抜けするほどだ。では、このリンカーンが、それこそ『若き日のリンカーン』のヘンリー・フォンダがそうであったように、おのれを虚しくして人の話をよく聴く、来るべきものに対して開かれた存在であるかというと、そうともいえないのが厄介である。このシーンでの兵士たちの語りは、ゲティスバーグで接したリンカーンの演説がどれほど印象深いものであったかを、北軍の北軍たる証としての黒人兵の口から語らせることで閉じられる。つまり、兵士たちが語るのは、彼らの眼前にいる大統領その人の偉大さについてなのだ。実際、その後のリンカーンは、眼前の他者の声に静かに耳を傾けるような受動的な存在からはほど遠く、自分でも理解しがたい情熱に突き動かされるまま、奴隷制を否定する憲法修正第13条を可決させるという目的に向かって、独裁者と呼ばれても仕方のない強引さで邁進していく。なるほど、南軍からの和平使節団の処遇をめぐってリンカーンが決断を迫られるときには、一通信兵の言葉によって動かされるかもしれないが、そんなときですら、リンカーンはもともとしたいと思っていたことを為すにすぎないのである。そうしたリンカーンを、一兵卒とも対等な地平に立つことのできるごく普通の一個人と呼ぶことにはあきらかに無理があるだろう。
 しかし、そもそもリンカーンとは、「丸太小屋からホワイトハウスへ」というよく知られた伝記の表題にもあるとおり、アメリカン・ドリームを実現したポピュリズムの神話の代表的なヒーロー、あの「ジョン・ドウ」の代表なのである。D・W・グリフィスの『世界の英雄』(1930)にしろ、『若き日のリンカーン』にしろ、レイモンド・マッセイが主演したロバート・E・シャーウッド脚本の『エイブ・リンカーン』(1940)にしろ、リンカーンのそうした「普通の人」の代表としての側面を強調していたことはいうまでもない。これに対し、「エイブラハム・リンカーンの政治的天才」という副題を持つドリス・カーンズ・グッドウィンの最新の著作を原作とするスピルバーグの『リンカーン』は、生臭い政治的な駆け引きに明け暮れた大統領の最後の日々に焦点を絞ることと引き換えに、この人物が代表しているのは誰なのかという、より根本的な問いを見失う。戦争を終わらせてばらばらになった国家を再統合するという従来のリンカーン像に委ねられてきた目的よりも、憲法改正というもう一つの目的を優先し、後者を達成するためには前者の達成を遅らせることさえ辞さないここでのリンカーンは、だが、そこまでして奴隷制を根絶しようとする動機を決定的に欠いているのである。映画中で示される唯一の動機らしきものは、冒頭近くで妻に向かって語られる、独り舟で海を行く不可解な夢にすぎないのだから、これは普通のことではない。
 合衆国の全体を代表=表象することをやめてしまった星条旗の下、『リンカーン』は降伏後のリー将軍が無言のうちに馬で去るシーンをほぼ唯一の例外として、星条旗によってはもはや代表されえない南部のイメージを映画から締め出している。結果として生じるのは、リンカーンの決死の努力によって真に利益を蒙るべき、黒人奴隷のまったき不在である。もちろん、リンカーン家では黒人が召使として堂々と仕事をし、歴史的な可決の日には下院の傍聴席におそらくは活動家の黒人たちが姿を見せ、可決された修正第13条の条文はある一人の黒人女性によって読まれることになる。しかし、彼らはいずれも解放された黒人であって、今なおこの国に残っているという黒人奴隷は、映画中に一人たりとも姿を見せないのである。リンカーン家の幼い末子が好奇心たっぷりに眺める、奴隷売買の動かぬ証拠としての写真の扱いに見られるとおり、ここで奴隷制の暗黒時代は、実質的には初めから過去に追いやられているといってよい。では、このリンカーンによって代表される者の姿は、映画の現在時には存在しないのだろうか。
 下院で修正案が可決される瞬間、宙に吊られたその結果は、それだけがリンカーンを独裁者から辛くも隔てているところの物理的な距離を介して、ホワイトハウスで息子と遊ぶ大統領のもとに、どこから響くとも知れない鐘の音として届けられる。『未知との遭遇』(1977)の悪いパロディででもあるかのように、この世ならぬまばゆい光に包まれる大統領は、実際に暗殺されるまでもなく、すでにこの映画の物語世界から不気味に離脱しはじめているかのようだ。
 行く手の見えない舟で独り運ばれていくリンカーンがもし何者かを代表しているとすれば、それは彼にとっての未来の他者、すなわち、すでに公民権運動も経験した現代に生きるこのわれわれであろう。リンカーンの、しばしば大統領の分限を超えかねない危うい言動の数々も、現代の視点から振り返って見られることで正当化される。すでに登場の瞬間から、リンカーンが北軍兵士の言葉によって過去の偉大な言行を他者に語られる存在として位置づけられていたことは、この映画の時間性を規定するうえで決定的に重要だったに違いない。映画中で幾度もリンカーンが口にする「今」(now)の語は、まるでこの映画自身が「事後」の視点から語られていることを否認するためであるようにも思われる。リンカーンが凶弾に斃れてのち、この映画を締めくくる彼の最後の演説は、「すべての国民」に向けて、時空を超えて拡がっていく。
 「事後」の視点から顧みられるとき、消去されるのは起源の暴力にほかならない。リンカーンと異なる未来を思い描いていた「歴史の敗者」は、先見の明を欠いて既得権にしがみつくただの「抵抗勢力」と化し、リンカーンを委任独裁の典型的な事例と見なした『独裁』のカール・シュミットを紐解くまでもなく、憲法の存立を確保するという目的のためには憲法の一時的な停止さえもが正当化されてしまう。こうした難問への何らかの回答を、『ミュンヘン』を最後に作家としての生産的な葛藤をすっかり失ってしまったように見える今のスピルバーグに求めるのは、酷というものだろうか。ないものねだりを承知でそんなことを思わずにいられないのは、スピルバーグのすぐ傍らで、『ミスティック・リバー』(2003)から『父親たちの星条旗』(2006)を経て『J・エドガー』(2011)へと、クリント・イーストウッドによる起源の暴力の探究が恐ろしいほどの深化を遂げているからだ。

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